海の囁き、釜山の風 朝日が甘川洞の斜面に立ち並ぶカラフルな家々を照らし始めた頃、キム・ミンジュは通学路の細い階段を下りていた。海に向かって立ち並ぶ家々が作る迷路のような路地は、彼女が幼い頃から慣れ親しんだ道だった。坂を下りながら、ミンジュは深呼吸をした。釜山の朝の空気には、いつも塩気を含んだどこか懐かしい香りがあった。 「ミンジュ!待って!」 振り返ると、幼なじみのジウが急いで階段を駆け下りてきた。彼女の制服のリボンは結び直したばかりのようにきちんとしており、ミンジュは思わず自分のセーラー服の襟元を整えた。 「おはよう、ジウ」 「今日の放課後、南浦洞に行かない?新しいカフェができたんだって」 「ごめん、今日は海雲台でハルモニ(祖母)の手伝いがあるの」 ジウは少し残念そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。 「じゃあ、また今度ね」 二人は一緒に甘川文化村の階段を下り続けた。かつてはただの貧しい漁村だったこの場所は、今では「釜山のマチュピチュ」と呼ばれ、カラフルな壁画が描かれた家々が観光客を集めている。しかし、朝のこの時間は観光客もまばらで、地元の人々の日常が流れていた。 エゴマの葉の香ばしい匂いが漂ってくる。道端では、ハルモニ(おばあさん)たちが朝からキムチや漬物の準備をしている。彼女たちの手には、何十年もの経験が刻まれていた。ミンジュの祖母もかつてはここでキムチを売っていた。しかし今は、海雲台ビーチの近くで小さな屋台を出し、観光客相手に海鮮パジョン(海鮮チヂミ)を売っている。 「おはようございます」 ミンジュは知っている年配の方々に丁寧に挨拶をした。彼女の礼儀正しさは、この街で育った証だった。 学校への道中、ミンジュはいつも釜山港を見下ろす場所で立ち止まる。巨大なコンテナ船が行き交う港は、韓国第一の貿易港として絶え間なく動いていた。青い海と鮮やかな色のコンテナの組み合わせは、どこか絵画的な美しさを持っていた。 「いつか、あの船に乗って遠くに行ってみたい」 心の中でつぶやいたが、すぐに打ち消した。彼女の両親は彼女に大きな期待を寄せていた。釜山大学に進学し、安定した仕事に就くこと。それが「正しい道」だと。 学校に着くと、教室はすでに生徒たちでにぎわっていた。窓からは釜山の街並みが見える。古い町並みと近代的な高層ビルが共存する不思議な景観だ。ミンジュはその対比が好きだった。彼女の作文ノートには、そんな釜山の二面性について書かれた詩が詰まっていた。 放課後、ミンジュは約束通り海雲台ビーチに向かった。地下鉄に乗り、窓の外に広がる釜山の街並みを眺めながら、彼女は今日の国語の授業で出された課題について考えていた。「あなたの街の物語」というテーマのエッセイだ。 「釜山の物語...」 頭の中で言葉が巡り始める。この街には語るべき物語が無数にあった。海の物語、戦争の物語、そして再生の物語。 海雲台に着くと、4月だというのに多くの人でにぎわっていた。韓国各地から、そして海外からの観光客たちだ。ミンジュは人混みの中を抜け、祖母の屋台に向かった。 「ミンジュ、来てくれたのね。今日は特に忙しいの」 祖母のチェ・スンジャは、海鮮パジョンを器用にひっくり返しながら言った。鉄板の上では、ニラとイカが入った生地がジュッと音を立てて焼けていた。その香ばしい匂いに誘われるように、観光客が次々と屋台の前に立ち止まる。 「何を手伝えばいい?」 「まずはお客さんたちにこれを配って」 祖母は海鮮パジョンを小さく切り分け、爪楊枝を刺した試食品を準備した。ミンジュがそれを持って観光客に勧めると、多くの人が美味しそうに頬張り、すぐに注文をした。 「ハルモニのパジョンは特別なの?みんなすぐに買ってくれるね」 「秘密は海水よ」 祖母は小さく微笑んだ。彼女は生地を混ぜる時、少量の海水を加えるのだという。それが、釜山の海の味を閉じ込めるのだと。 「でも、それだけじゃないわ。本当の秘密は...」 祖母は言葉を切った。遠くから、釜山港に入る船のホーンが聞こえてきた。 「本当の秘密は何?」ミンジュは興味深そうに尋ねた。 「愛よ。この街への愛、海への愛、そしてこの料理を食べる人への愛」 祖母の言葉は単純だが、何かミンジュの心に響くものがあった。 夕暮れ時、屋台の仕事が一段落すると、ミンジュは祖母に言った。 「少し歩いてくるね」 「気をつけて。日が暮れる前に戻っておいで」 ミンジュは海雲台ビーチの砂浜を歩いた。4月の風はまだ少し冷たかったが、心地よかった。遠くには広安大橋の姿が見え、夕日に照らされて輝いている。この橋は夜になるとLEDライトで彩られ、海の上で光のショーを繰り広げる。 砂浜には、若いカップルや家族連れが思い思いの時間を過ごしていた。彼女は少し離れた岩場に腰掛け、スマートフォンを取り出した。カメラを起動し、沈みゆく夕日と橋の風景を撮影する。そして、文芸部のSNSグループに投稿した。 「海雲台の夕暮れ。この街の物語は、光と影のコントラストのように」 すると、すぐにコメントが入った。文芸部の顧問、パク先生からだ。 「素晴らしい一枚ね、ミンジュ。その感性でエッセイも書けるといいわね」 ミンジュは微笑んだ。言葉にできない感情が心の中にあふれていた。 その週末、ミンジュは父と一緒に国際市場(クッチェシジャン)に向かった。海の幸を扱う家族の店の仕入れを手伝うためだ。 国際市場は釜山の心臓部とも言える場所で、韓国戦争後に形成された巨大な市場だ。狭い路地に無数の店が並び、食品から衣料品、雑貨まで、ありとあらゆるものが売られている。観光地化が進んでいるとはいえ、地元の人々の生活の場でもある。 「ミンジュ、こっちよ」 父が、魚介類を扱うエリアへと彼女を導いた。そこには新鮮な魚介類があふれ、威勢のいい掛け声が響いていた。 「アジュマ(おばさん)、今日のサバはどう?」 「最高よ!今朝獲れたての」 赤いエプロンを着けた女性が元気よく応えた。彼女の手には鋭い包丁があり、魚をさばく手つきは見事なものだった。 ミンジュは父が仕入れる様子を見ながら、この市場に集まる人々の表情を観察していた。多くの高齢者の顔には、つらい時代を生き抜いてきた痕跡が刻まれている。釜山は韓国戦争中、最後まで陥落しなかった都市であり、多くの避難民を受け入れてきた歴史がある。彼女の祖父母もその一人だった。 買い物を終え、父はミンジュを屋台街に連れて行った。小腹が空いたからと、オデン(さつま揚げの串)を二人分注文する。熱々のつゆに浸されたオデンは、肌寒い日に体を温めてくれた。 「お父さん、釜山のことを書くエッセイの宿題があるんだけど」 「ほう、どんなことを書くつもりだい?」 「まだ決めてないの。釜山って、たくさんの顔を持ってるから」 「そうだね。この街は何度も生まれ変わってきた。戦争で破壊され、そして再び立ち上がった。でも変わらないものもある」 父はオデンのつゆを一口飲み、続けた。 「それは海との結びつきだ。釜山の人々は常に海と共に生きてきた。喜びも悲しみも、すべて海が知っている」 父の言葉は詩的だった。普段は寡黙な父が、こんな風に語るのを聞いたのは初めてかもしれない。 「お父さん、それ素敵」 「おや、そんなに驚くことかい?」父は少し照れくさそうに笑った。「実は若い頃、俺も詩を書いていたんだ」 ミンジュは驚いて父を見た。彼女が文芸部に入ったのは偶然ではなかったのかもしれない。 日曜日、ミンジュは一人で太宗台(テジョンデ)に向かった。釜山の南端に位置する崖で、そこからは壮大な海の景色を望むことができる。エッセイを書くためのインスピレーションを求めて、彼女はバスに揺られた。 太宗台に着くと、灯台への道を歩き始めた。松の木々が風に揺れ、空気は潮の香りで満ちていた。このエリアは韓国でも指折りの美しい景勝地で、特に夕日の光景は息をのむほどだという。 灯台まで来ると、ミンジュはベンチに座り、ノートを広げた。 「釜山の物語」 そうタイトルを書き、海を見つめた。遠くには対馬海峡が広がり、晴れた日には日本の島々も見えるという。国と国の間に横たわるこの海は、長い歴史の証人だ。 ミンジュは書き始めた。 「私の街、釜山は海の街。喜びと悲しみと希望が入り混じる、多層的な物語の舞台。戦争の傷痕を抱えながらも再生し、伝統と現代が共存する場所。甘川洞のカラフルな家々、国際市場の活気、広安大橋の輝き、そして何よりも、どこにいても感じる海の存在。」 言葉が自然と流れ出してきた。彼女は釜山の様々な風景、音、匂い、そして人々の思いを文章に綴っていった。 書き終えると、すでに夕暮れが近づいていた。太陽が海に沈みゆく光景は、まるで絵画のようだった。ミンジュは深呼吸し、自分の街への愛情を感じた。 彼女のノートには、釜山という街が語る多彩な物語が書き留められていた。それは単なる学校の課題を超えて、彼女自身のアイデンティティの一部を表現するものとなっていた。 翌週の国語の授業で、ミンジュはクラスの前で自分のエッセイを読み上げた。 「私の街、釜山は語りかけてくる。潮風に乗って、古いものと新しいものの調和を。甘川洞の階段を下りる朝、国際市場の喧騒、海雲台の夕暮れ、すべてが釜山の声だ。そしてその声の根底には、常に海の囁きがある。」 読み終えると、教室は静まり返っていた。そして、パク先生が拍手を始めた。 「美しい文章ね、ミンジュ。あなたは街の詩人になれるわ」 ミンジュは恥ずかしさと誇らしさが入り混じる感情を抱きながら席に戻った。窓の外には、いつもの釜山の風景が広がっていた。海からの風が窓を通して教室に流れ込み、彼女の髪を優しく撫でた。 この街には、まだ語られていない無数の物語がある。そして彼女は、それらの物語を言葉にしていくのだと決めた。海の囁きと釜山の風が、今日も彼女に新しい物語を語りかけている。 「海の囁き、釜山の風」は韓国第二の都市、釜山を舞台にした物語です。この街の美しい景観、豊かな食文化、そして戦争と再生の歴史が生み出した独特の雰囲気を、高校生の視点から描きました。甘川文化村のカラフルな家々、活気あふれる国際市場、広安大橋の煌めき、そして海雲台ビーチの夕景など、釜山の多彩な魅力が皆様の旅心をくすぐれば幸いです。