C₁₂H₂₂O₁₁、この世で最も人を殺した毒薬の名だ。砂糖という名の甘味料。甘く、身体にしみこむそれは菓子作りなどで用いられる。  基本的に危険性はさほど高くない、即効性のある毒薬に比べれば危険度など語るべくもなく、しかしそれを摂取しすぎれば破滅は免れない。人を依存させ、時には堕落させるこの世で最も甘い死。  自らの身体を蝕んでいることを理解できる。理解して離れられない。その甘さを味わってしまえば逃れようなどない。  ――俺は死ぬ、きっと。  どうして俺はあの味を知ってしまった。知るべくもなかった味を知ってしまった罰なのだ。  女の甘さ、女の味、女の――。  そのすべてを知ってしまえば己を律することなど不可能だ。  男は思う。物理的な死、ではない。それは魂の死、手放すものを何もかも捨て依存する軸を失うあり方が壊れる。  そうなることを望んでしまった。  ならば自分には何が残る?  甘き死だ。どれだけ拒否しても拒めない。 〇  高校の喧騒は煩わしい、教室の中で1人埋没しながら目をつぶる。友人らしい友人が現実に存在しない少年にとって授業間の休憩は煩わしい、昼休憩ともなれば特に。60分、それが自由という名の罰の時間だ。こんなことをしている暇は本当はない、今すぐ帰ってデジタルワールドに向かいたいと思っている。  本来なら高校などさぼってしまってもよかった、親も咎めないだろう。優秀な兄に比べて愚鈍な弟は目に入らないらしくとっくに見放していた。それはまだ兄が普通に生活していた時からだから筋金入りだ。本当ならぐれてもしょうがない、今自らがここにいるのはどのような理屈の上でも兄の存在のおかげだった。だからわざわざ授業を受けに高校へ通っているのは兄への義理だ、自らの手を引き光ある道へ引き連れてくれてたのは紛れもなく兄のおかげである以上その行為を汚すわけにはいかなかった。  少年にはやるべきことがある、社会的にそれは許されざることでありながら抑えることが出来ない。その衝動は復讐と称した。それが少年を貫く根幹でそのために生きていると言っても過言ではない。  愛憎を抱く兄をこん睡させた仇を探している。デジモンイレイザーなどという気取った名を名乗り暗躍する誰かを見つけ出さなければならない。 もうどれだけ探したかもわからない、だが草の根をかけて探し出さなければならない。それが義憤などではないどこまでいっても身勝手な欲望の果てであろうとも復讐はなされなければならない。  スマートフォンを取り出す、時計は休憩に入ってまだ10分経ったばかりだ、食事はすでにとった、菓子パンを1つ、エネルギー補給さえできればいいからそれだけでよかった。まだ50分も精神の拷問は続くらしい、こういったときに限って眠気は来ない。 「三上さん、いるー?」  苛立ちが募りかけたその時に誰かが名を呼んだ、人違いかと思った。近しい誰かのいない自分にわざわざ自由時間を使って話かけに来る者、用事のある者などいない。宿題などの提出物を出しているからクラスの委員長とも接点はなく時折教師からたまに連絡が来ることもあるがその時は直接くる、わざわざ生徒を介することなどない。  人違いかと思った、しかしクラスに三上という苗字は自分1人しか存在しない以上行くしかなかった。もしかしたら本当に間違いで恥をかくかもしれないがそれならそれでいいと思った。いまさらここで失うようなものもない、せいぜい思っている以上に自意識過剰な奴とでも認識刺されて終わりだろう。  席を立ち教室の入り口に足を向けた、自分なんかに用事という奇特な人物の顔を見てやろうとやけくそな尊大さを思いながら。 「こんにちは、竜馬君」  あ、と、空気が漏れる間抜けな声を出した。見知った顔だ。 「……大森さん…………」 「ほのかでいいよ」  鈴がなるような、などという形容詞を思い出した、落ち着いているのに高い声が耳に響く。 「ほのかさん……じ高校だったんだ……」 「うん、そうみたいだね~」  緩く、ふわりと浮くような、綿菓子、甘い声、聴くたびに溶けて染み込む声。 「最近気づいてね、せっかくなら挨拶しなきゃな~って思ったので!」 「そ…ありがとう…」  ぶっきらぼうな声しか出ない自分をわけもなく恥ずかしく思った、こういう時に返すべき言葉を持ちえない。それがデジタルワールドでしばらく旅をした戦友であれどこちらで共通する話題を持たない以上言葉が短くなるのは当然だった。 「え、何々……三上君と大森さん知り合いなの……?」  やけに喰いつくように女子の1人が割って入ってくる。確かにはたから見ればありえない組み合わせだ。  大森ほのか、デジタルワールドに入り込んだあるいは迷い込んだ少女、偶発的なものだったらしく彷徨っているところを見ていられなく現実に戻る手助けをした相手、包容力のある女子、趣味は食べることとそれに伴い料理、クラスでは冗談めかしてお母さんなどと呼ばれるような存在。総じて普通ならば竜馬と接点は持ちえない。デジタルワールドの事を知らなければ気になってもしょうがないかもしれない。 「この前ねぇ……不良から助けてくれたんだぁ」  ほのかがこともなげに言う。正しく言うのならば不良(デジモン)だが、そもそも任意されていない世界のことを言うわけにもいかないからそれが最も穏当だろう表現だ。  周囲がざわつく。 「え……大森さんに絡むとか……ってか今時不良なんているの……?」 「でも大森さんが嘘つくわけないからやっぱいるんじゃね……?」 「嘘だろ……令和だぜ?まだカツアゲするバカとかいるの?」  喧騒だった教室はより騒がしくなる。騒然と言い換えなければならない。しかしほのかは意に介さず、 「この前はありがとうねぇ」  言いながら笑みを作った。 「う、うん」  またぶっきらぼうになってしまった、仕方がない、返す言葉を持ちえないのだから。そんな今の自分の顔を見てほのかは笑った、どうにも面白い顔になっていたらしい。くす、と1つ、それから顔を笑みにして、 「これからよろしくね」  そんなことを言う。 「え……?」  今確かにこれから、と言ったことを聞いた。つまりはまだ何かあるということなのだろうか、めまいがする。気づけば人づきあいが苦手になっていた自分にこれからなどというものがあるのか。そもこれからがあったとしてどうすればよいというのか。 「あ、そろそろ行かないとだから、またね」  ほのかがくると背中を向けて言った。何か言葉をかける前にその背中が遠のいていく。  後には残り香、甘い香り。 〇  小学生くらいの時の夏休みに自由研究にと両親が科学系の博物館に連れて行ってくれた、見るものはあったが趣味の範疇外だったから両親に少し悪いとは思いつつも退屈な時間が大半だった。  そんな中で数少ない興味をひかれたのが体験コーナーで黒曜石のナイフを作るというものだ。前置きの説明で原始時代にはそれを武器や生活の道具として使っていて肉を捌く包丁などにも使われたとあったはずだ。ほのかは料理を作るも食べるのも好きで古代の訪朝とはどのようなものかと興味を惹かれ両親にコーナーへの参加をせがんだ。子供だけでは危ないからか、お父さんお母さんと一緒にと書いてあったからだ。  目を保護するためのゴーグルと間違っても口に入らないようにマスクを着けて、肌に刺さらないように手袋を、しっかりと安全を確保してイベントは始まった。父と一緒に黒曜石を砕くための大きな石を振るった。砕ける音ともに黒曜石は小さく、鋭くなっていった。傷つけば傷つくほどに鋭さは増していく。黒曜石という石が持っていた形容しにくい何か、あるいは可能性とでもいうべきものがそぎ落とされて刃と変わっていく。それにどこかもの寂しさを感じてしまっていた。  三上竜馬と出会いデジタルワールドを旅しているときに、そんなことを思い出したのは竜馬は思い出にある黒曜石と重なって見えたからだろう。  旅の身の上は聞いた、ほのかには想像もつかない困難の道を歩いている。間近でその有様を見た。復讐をなすためだけに傷つき最適化されていく。心の中にあるべきものを砕き捨てて鋭利な刃となっていく。  その姿を見て悲しいと思った。きわめて傲慢な考え方だとほのかは理解している。他者の生き方に何かを言えるほど立派な生き方をしていない、人間の生き方に差異はあれど恵まれている側にいることを理解している人間が抱いていい思いではないと、だが、もしもと、もしもこの竜馬という少年が本懐を終えた後、消えてしまいそうな気がした。  かつて黒曜石は必需品だったらしい、それが時代とともに鉄器に消えていった。後は歴史において1要素としてのみ名前が残るか目につかないところで活用されているくらいでしかない。ならば多く作られたはずの黒曜石の道具たちはどこに行った、発掘品として展示されている程度の量がすべてではないだろう。  きっと、きっと消えた、地面の中に埋もれているのか、あるいは砕けて粉々になったか。  竜馬が黒曜石と重なる。砕けて砕けて鋭利な刃となって、最後には消えていく。  そう思えば、手を伸ばしたくなった。傷つき砕けた心のままに消えていくなんてあまりにも寂しい、触れたいと願った、その心の奥底にあるものに。今なお何かのために砕き続けているその心を拾いたいと思った。  せめて自分の存在が、硬くて脆く、鋭く柔らかな、そんな心を包んであげられるのであればきっとそれはよいことだ。 〇  なぜ、という思考だけが今めぐっている。放課後竜馬はほのかの家に向かうこととなった。食事のためである。菓子パンが1個というのを聞きつけたほのかによって強引に。情報の流出先は自身の愛棒からだった、トリケラモンがほのかのパートナーであるドリモゲモン(太め)を経由して伝わったらしい。最初は当然断った、そのようなことをしている場合ではない。  しかし、押し切られた。 『竜馬君の事情は知ってるよ、でもそれならなおさらちゃんと食べないとだめだよ~?男子高校生の推奨摂取カロリーに対して昼が菓子パン1個は流石に……それにね栄養成分も足りてないねぇ……炭水化物と脂質に偏りすぎてタンパク質とビタミンが不足気味だしこういうバランスが乱れると大事な時に踏ん張り切れないよ?』  ごもっともな指摘だった。だがそれはある程度意図してだ、イレイザーを探すのにかける時間と食事を作る時間、どちらに時間をかけるべきかと考えて前者に振っている。  だから本来は無視してでもデジタルワールドに向かうべきだ。しかし竜馬は破綻者ではない、不愛想であることくらいはわかるが 人からの善意を無視できるほどでもない。  スーパーによりいくつか買い物をしてから大森宅に向かう。一軒家だった、ごく普通の。もう建ててからそれなりの時間がたっているのは塗装のはげや駐車スペースへ乱雑におかれた荷物の山で分かる。  簡易的な門を抜けて扉を開く、家に入るとリビングに促される、小奇麗に片付けられた部屋には大きめのテーブル、テレビ、小物を入れるカラーボックス、生活用品が並んでいた。  そこには匂いがあった、生活の匂い。自らの家を思い出す、生活感の消え失せた我が家、死んだ家とはああいうものかもしれない、生活スペースはある、寝床がリビングが、あるいはほかに必要な空間が存在しようともそこに生活が存在しない。生きていない。  テーブルの内1席に座るように言われ素直に椅子へ腰を下ろした、テレビがつけられるとニュースが流れる。ニュースは物騒な内容だった、どこかで殺人が、世界情勢は悪く戦争がどうの、と。  即座に番組が切り替えられた、今度は何かバラエティ番組が映し出される、ゴールデン番組までのつなぎの面白いともつまらないとも言えない。  ほのかがキッチンに回り声をかけてきた、 「それじゃちょっと待っててね~……あ、そうだ、アレルギーとかある?」 「いや……特に」  そっか、という声とともに音が来る。火の音、包丁の音、飯が炊かれる音、食事を作っている音を聞いたのはいったいいつ以来だ、自分の家からは聞こえない音が響き続ける。  だんだんと力が抜けていくのを感じた。脳がここを自分の住みかと誤認している、わずかに残る昔、まだ純粋で家を安心できていた時代の記憶がそうさせている。今の自宅はただの寝床でしかない、戦いに向かう前の補給地点であり次の闘争のための準備地点、そんなところに安らぎなど安心など存在しえない。  何をバカな、と頭を振った。勝手に他人の家を住処なんて何を考えているのか。ほのかの言う通りかもしれない、乱れた食事バランスのせいで思考回路がおかしくなっている。それに寝不足の可能性もある、生活リズムを見直した方がいいかもしれない。  無言のままに20分程度が経ち、用意が終わったらしい。竜馬は立ち上がり、 「手伝うよ」 「そう?ありがとう、ならこっちのお皿並べてねぇ」  いくつかの品が乗った皿を見る、生姜焼きが山となっている。大森家は大きめのロース肉ではなく豚バラを炒める生姜焼きらしい。そこに付け合わせとしてポテトサラダ千切りのキャベツが乗っている。匂いを感じ取れば脳が反応する、脳が発する電気信号が胃を収縮させた、空腹を伝えるように音。わずかな笑みが聞こえた。 「お腹減ってたんだぁ……待たせちゃってごめんねぇ?」  その言葉に赤面。コントロールできない自分の身体が恨めしく思えたが、しかしほのかの言うことは事実だ。腹が減っている。普段行っている身体を動かす燃料の補給ではない、食欲以外をも満たす食事という行為。  皿を置く間にもほのかは動いていた、次々とテーブルの上が埋まる。白米が山盛りに大きめのお椀には豆腐とわかめの味噌汁が、竜馬が置いたおかずの皿のほかに漬物の入ったタッパーが置かれた。 「それじゃ食べよっか」  向かい合うように椅子に座った。 「いただきます」 「あ……いただき……ます」  ほのかの声に合わせて箸を持つ。ためらいが一瞬くる。食べてはいけないような気がした、自罰自戒あるいはもっと別の何かが口をつけさせないようにと箸の動きを鈍らせる。  不安そうな声を聴く。 「えっと…苦手なものあった?」  息を詰まらせた。贅沢な時間を過ごしていたようだった、誰かに手料理を作ってもらいご馳走までしてもらったというのに悩むなどと意識を明後日に飛ばしていた。  務めて平静を装って答える。 「その…緊張しただけ、女の子の家でご飯なんてありえないと思ってたから」  言い訳になりえていただろうか、内心を推し量られてなければいい。  思いながら食事に箸をつける。 「――」   箸を取り落としそうになる、硬直。 「え……だ、大丈夫……?」  大丈夫、と箸を伸ばした、どれもが暖かくおいしい。頬に涙が伝うのを感じた。涙を流しながら食らう。  今わかった、ためらいの理由が。  竜馬を構成する孤独は強さの根底でもある、親の無関心、愛憎抱く兄のこん睡、自ら集団より離れた。デジタルワールドで出会った奇特な縁もそれはなれ合いではない、戦いに際し背を合わせるという仲。唯一心を許せていたのはトリケラモンのみ。  認めなければならない、誰かに思われて振舞われた食事は思う以上に竜馬を砕く。暖かさ、あるいは愛情というもの、欲しかった、しかし目を背けていたもので今満たされている。  一口一口かみしめる。  これは毒だ、食べ続ければ弱くなる。  しかし抗うことはできない。毒は時に薬より人を癒す。