人の顔が不自然に大きく視えたり、地に足を着いているのに宙を浮いているような気分になったり。  歩いているのに遠ざかっているように感じられたり、視える人の色がカメレオンみたいに変化したり。  俺の幼少期には、そういう奇妙な感覚があった。  訴えても理解されず、自分だけがおかしいのかと思って泣いたりもしたが、後から調べてみればそういう症状は実例があるらしい。  何かが特別というようなことはなく、また、それも一過性で直ぐに終わる思い出でしかなかったのだ。  もう一つ、幼き日の自分には奇妙な記憶があった。  視える世界がヘンになった時、決まって「歪まない女性」がそこに居た。  その女性はいつもニコニコ笑っていたけど、こちらに話しかけてくるようなこともなく、ただ俺を見つめていた。 ──綺麗だった。それは鮮明に覚えている。多分……これが初恋。  これも成長過程で視ることはなくなったけど、あれは一体なんだったのだろうか?  イマジナリーフレンド……という可能性は高い。  そうだとすれば、なんとも空想の世界に入り込みやすい子供だったといえる。  でも、何故だかそちらの方は本当に居たような気がしてならなかった。  今でも。  時は経ち、大人になった今になって、困ったことに前者が再発してしまった。  視界や感覚がおかしいのを話せば、周囲のみんなは通院することを勧めてくれた。  勿論、自分も素直にそれに従った。  医者曰く、幼少期ではないのに起こるそれは何かしらの疾患の可能性があるという。  困ったな、単位はスムーズに取りたい。  いや、そうやって思い詰めたからストレスで……等と考えながら床に就き、ふとある可能性に思い至ってしまった。  あの女性に、また会えるかもしれない。  いや、あれとそれとで因果関係があるなんて誰が証明できるのか。  思い直して瞳を閉じる。  今日は寝よう、睡眠が健康への近道だ。  心を鎮めて意識を落とそうとする中で聞こえたのは、猫の鳴き声だった。  翌朝。  平日なのに遅起きをするのは久しぶりな気がする。  いや、正確には怠くて二度寝だったかな……。  小学生の頃に風邪をひいた時を思い出す朝だった。  あの頃と違うのは、起こしてくれたり、面倒を見てくれる家族と一緒に住んでいないこと。  一抹の寂しさを覚えながらも布団から身体を起こそうとして……また伏せた。  もう起きたいのに、身体がそれを許してくれない。  昨日より酷い。  平衡感覚が狂ってしまっているらしく、まともに立ち上がることができなかった。  はぁ、はぁ、はぁ、と息を乱して慣れない感覚に喘ぐ。  這ってでも肉体的な健康は維持しなくては。  そう思い、うつ伏せでもぞもぞ芋虫みたいに動いていると、また猫の鳴き声がした。 「にゃあ、にゃあ、にゃあ。お困りかい?」 「君は……」  そんな中で、部屋に見慣れない影が一つ。  俺を見下ろしニヤついたその顔。  間違いない、あの歪まない女性だ。  そして今確信した。  理由は分からないけど、彼女は俺が今遊んでいるカードゲームのキャラにそっくりなのだ。  かつて自分の前に現れた時のほうが昔だったというのに。  そもそも彼女は喋ることができたのかという驚きもありつつも、心細い今、イマジナリーだろうがなんだろうが、人の顔を見られるのは嬉しかった。 「ちぇしゃきゃっと……」 「正解!名前は最近知ってくれたんだよね。久しぶり。元気にしてた?」 「元気じゃなくて、今こんな感じで……」 「可哀想に。あの頃よりも酷い有様だねぇ」  座り込んだ彼女が手を差し伸べてくれたので、手に取って立ち上がることができた。  肩を借りてとりあえず椅子に座ると、彼女もテーブルの対面に座った。  このテーブルも歪んで見えて、気持ちが悪い。 ……待て。なんで彼女は俺に触れられるんだ。  実体がある……彼女は実在する……? 「大きくなったね……とは言わないよ。ずっと見てたからね」 「えっ……」 「どこから話したものかな……。一言で言えば、私はカードの精霊だし、君は霊障みたいなものに悩まされていると思うといいかな」 「……?」  わからない。  いきなりそんなことを言われても、何もかもが。  やっぱり幻覚なのかな……? 「えーっとさ、もしもカードが自我を持っていたら……みたいな創作物ってあるよね?」 「それは……うん」 「それが実際にあると思ってくれればいいよ」 「えぇー…………」 「で、私としては困っている坊やを眺めるのが心配だったから、子供の頃から見守ってあげたりしてたんだ」 「今まで起こったことの説明」という観点だけなら、幻覚の言うことにしては筋は通ってはいる。  勿論、これらが非現実的であることは認めざるを得ない。  だが、既に非現実的な事象が発生しているのだから、俺はそれを受け止める他ない気がしていた。 「つまり私は、幻覚じゃなくてちゃんと実在しているってこと」 「ふむふむ」 「それでもって、霊障のほうはまぁ……君がカードに込められた背景とか設定みたいなのを受けやすいってところかな?」 「ごめん、そっちはわからない……」  カードの背景?  つまりこいつがM∀LICECheshire Catそのものなことに何か意味があるんだろうか。  M∀LICEの背景……だとすると……。 「UNDERGROUNDと何か関係が……?」 「おっ、筋がいいね。簡潔に言うとキミはその中にいるような感覚に陥りやすくなってて、それで色んなところがおかしくなっちゃうんだ。UNDERGROUNDは常人に耐えられるようなものではないから、これでもマシなほうだろうね」 「……なんとかならないのかな……?」 「はっきり言うけど、わからないね」 「…………」 「まぁ、坊やは一回治しているからね。今回も希望がないわけじゃニャいさ。ボクはUNDERGROUNDの知識でキミを補佐する為に来たってワケ」 「そう……か……」  悲観的にならないように励ましをくれているのは分かるが、それでも現状を苦々しく思うのは止められなかった。  その後は朝食を終えて一応薬を飲み、ふらつきながら休学届の出し方なんかを調べて過ごした。  一人ではまともに文字も書けないのは歯がゆい。  でも、添えてもらった手が暖かかったのは、少しだけ心が安らいだ。  人間じゃないけど、一人じゃなかったから。  翌日。  なんと喜ばしいことに、フラフラは治っていた。  これなら休学はしなくても大丈夫かもしれない。  ただ、狂おしいほどに、今日は交感神経が強くなっている気がしてならなかった。  とにかく落ち着かない。  つまりその……言ってしまえば今度は異様にムラムラしていたのだ。 「おはよーう。……分かるよ。盛りのついた動物みたいな気分なんだろう?そんなに目を血走らせちゃってさぁ。視線がお熱いよ?」 「……っ!」 「『人間の悪意』が渦巻いているのがUNDERGROUND。その中には性欲だって当然含まれてるワケ」 「はぁ……はぁ……」 「さて、苦しそうなキミに朗報だ。ボク達は割とそれに晒されてきたから慣れっこだ。そして、ここに動物クンの獣性だって受け止めてあげる気概の雌猫が一匹……わかるね?」 「あああああっ!!!」 ──その日は何もかもを忘れて、ひたすら彼女を貪った。  それから一週間くらいは、そんな感じ。  毎日毎日、奇妙な症状が代わる代わる俺を蝕んだ。  今日はフラフラもムラムラもない。  でも、怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて仕方がない。  昨日あんなことをしたから彼女に嫌われてるかもしれない違うそんなことはないそれは思い上がりだ彼女のほうから身体を差し出してくれたんだおこがましいだろう。  いやこれは言い訳だこんな人間の俺だからこうやって苦しむ罰を受けたんだ罰を罰を罰を罰を罰を罰を罰を与えてくれるならむしろそれは赦しの機会なんだ。 「あ……ああ……あああああ……!」  涙を浮かべることしかできない涙とは過剰なストレスを緩和しようと溢れ出て来るものであるこんなに泣きじゃくってたら子供みたいで情けないんだ。 「うっ……ぐ……ひぐ……」 「今日は一段と酷いね……。大丈夫、大丈夫」 「ひぅ……うぇぇぇ……」 「よしよし」  少しだけ少しだけ落ち着いたかな。  彼女が泣き喚く俺の頭を撫でながら優しく語り掛けてくれている。  そんな些細なことも今の俺には嬉しすぎるくらい嬉しくて嬉しくてたまらない。  呼吸が落ち着いてきた。  空気が肺を出入りしてくれる感覚がある。  あれ、急に眠い。  やっぱりこれじゃ子供だな、あの頃みたいだ。  まぁ……いいか……。 「寝ちゃったかな?ボク、自分でも認めるくらい捻くれ者で意地悪なんだよ、本当は。……だっていうのに、毎日毎日こんなに求められたらさ……。いや、やっぱりボクは意地悪かな。こんなことで喜んだりして」  彼女が……何か言ってる……。  けど……薄れていく意識の中でそれを咀嚼するのが難しい……。 「嗚呼……キミにはボクしかいないって思ったりしてるのかな」  そうだ……俺にはキャットしか居ない……他に……誰も……。 「きっとそうだよね。ふふっ……」 「UNDERGROUNDって、なんて素敵なんだろうね♡」