カンラークタウン 真新しい舗装路の両側に、真新しい建物がまばらに並んでいる。イザベルには見覚えのない、しかし意匠には見覚えのある建物。時刻は朝8時を回った所だ。身体中にポケットのついた丈夫そうな服を着た人びとがあちこちを行き交い、内燃機関や埋設熱源から吹きだした余剰蒸気の靄の中、資材や人を満載した車両が浮島のように移動していた。 石材料をはつった粉末が風の中で香った。同時にラム肉の串焼きやチャイの香りをイザベルは感じ取る。外院で過ごした日々、外出を許された週末の楽しみのひとつだった。イザベルは幼かった頃を追憶することは殆どなかった──自分がなぜ外院に保護されたのかも含め──が、この香りはそれを強烈に呼び起こした。故郷。キャンプに逃れた同胞達は、ここにカンラークをもう一度築こうとしている。 王都警察、ギャン・スブツグの依頼──カンラークタウンで暗躍する人身売買組織の摘発──を受けたイザベルとヘルマリィは、夜が明けるとカンラークタウンを訪れた。手がかりはギャンに提供されたリストしかない今、まず足を運ぶことが重要であると考えたからだ。それは、イザベルの賞金稼ぎの経験による考えだったが、貴族階級のヘルマリィも同意した。まず人を知ること。それができれば、データはひとりでに語り出す。 寺院や商店の大きな建物が並ぶ通りから、根茎のように伸びる狭い路地に入った。路地の石畳は、大通りの路面や建物の建設で出た端材が几帳面な配列ではめ込まれていた。色や光沢は劣るが、実用的だ。洗剤の香り、子ども達の声。 「おい!イザベルじゃないか!」 振り返ると、よく日に焼けた男が大きな手を振っていた。もう片方の手には、工具とおそらく弁当の入った大きな鞄を下げている。 「生きていたか」 イザベルの肩を強く叩いた。その一撃には懐かしい親しみが混じっていた。 「ええ、しばらく。町が元気で安心した」 「見違えただろう?」男は誇らしげに辺りを見回す。 「驚いた。ここまで立派な町並になるなんて」イザベルの心からの感想だった。 「ご先祖はゼロからカンラークをつくりあげた。俺たちもその役目を与えられた。光栄なことだ。それに、 シュティアイセ女王陛下が俺たちに仕事をくださる。カンラーキアンの技術をかわれて、王都の再整備計画が動いてるんだ。もちろん、特需なのはわかっている。俺たちは今のうちに生活の基盤を確保する。それまでは大忙しさ。前はローガンの旦那にもよく手伝ってもらったんだがなあ…」 ヘルマリィはその会話を黙って聞いていたが、彼の快活な会話の底に沈黙のようなものが沈んでいるのを聞き取っていた。焼け跡の灰はすでに掃き清められた。しかしその匂いは、まだこの町の人びとの脳裏にこびりついている。今の何倍もの同胞、そして信仰の拠り所が消えてから、経過した時間はあまりにも短い。つばの広い純白のハット越しに周囲を見渡し、耳を澄ませた。裸足で走る子ども達、それを叱る母親。行商人の呼び声。聖句の詠唱。 イザベルの穏やかな表情を、ヘルマリィは初めて見た。きっと、かなり古くからの知り合いなのだろう。だが同時に、イザベルの白い首筋を大粒の汗が滑り落ちて行くのが目に入った。本題に入る頃合いだ。 「聖騎士イザベルとわたくしは、ある目的があってこちらへおうかがいしました。教えてください」 声のトーン、目線、表情、手の仕草、ヘルマリィは外交官の技術を使った。魔族に滅ぼされた生き残りの町に赴くため、香水は主張の緩やかな植物系の素材を選んでいた。白色の強いファンデーションを使い、青灰色の肌を目立たなくしていた。 吸い込まれそうな容貌の女性から、哀願するような瞳と、鈴のように軽やかな声をかけられ、男はたじろいだ。聖騎士はその間を見逃さなかった。 「人が消えていると聞いた…私たちは王都警察と動いている」 男は口をつぐみ、タバコを探すように胸元を探った。 「わからないんだ。近所の若いのも何人かいなくなった。割りの良い仕事がみつかった、サカエトルで働けるって喜んでたのにな」 「お気の毒に…」 「こんな時代だ。みんなこの特需に浮かれてるが、それを食い物にしようと企む連中も出てくるだろう。ギルドの奴らは警戒してる。どんな仕事も受けて経験を積むべきだが、上手すぎる話には乗るなってな。"外れ"があるって」 「ギルド?」イザベルが訊く。 「労働者と依頼者を繋いでる場所だ。シュティアイセ女王陛下がおつくりになられた。求人にくる企業がいつも数百社は来ている。仕事はよりどりみどりさ」 男が通りの先を示す。パン屋の紙袋のように小綺麗な外院の住宅群の向こうに、ガラス張りのジオデシックドームが見えた。それはカンラーク聖堂の大パゴダに寄り添う、巨大な亀の甲羅のようだった。遠目にも内部に鉄で組まれた何層ものフロアと、端末を持った人々が絶え間なく行き来しているのが確認できる。 「夕方、うちに飯を食いに来ないか。婆さんが喜ぶよ。ラムのヨーグルト漬けが出てくるだろう」 「ありがたいが、この件を片付けてしまいたいんだ」 「そうか…昔から責任感の強いやつだったな。頑張れよ」 現場へ向かう男を、イザベル達は見送った。 「イザベル!!」 大通りへ曲がるところで男は振り返り、イザベルを呼んだ。 「──ありがとう」彼は真っ直ぐにイザベルを見た。 「俺たちがこうしていられるのは、あんた達のおかげだ」 違う。私はなにも出来なかった。 言葉は喉の中で乾いた熱になってしまい、出てこなかった。 「あの後、ボーリャックが消えて、あんたも居なくなった。あんたが今何を考えてるかはわかるよ。その腕の事もだ」 ヘルマリィがイザベルの背に柔らかく触れた。 「大丈夫だ。あんたは自分の人生を生きてくれ。俺たちはここでやっていける」 いつのまにかカンラークタウンの住人が集まっていた。皆、真剣な顔でイザベルを見ていた。午前の光が彼らの日に焼けた顔を優しく照らしていた。 王都警察庁への道中、イザベルはひと言も喋らなかった。そして唐突に、ヘルマリィに言った。 「生存者は必ず連れて帰ります」 「そうね」 二人の足音だけが、石畳の通りに小さく響いた。 ◆ サカエトルヒルトン 1階カフェ 翌朝 朝食を終えた後、ヘルマリィはイザベルがブレックファストティーに砂糖を入れるところを観察していた。ティースプーン6杯目が投下されるのを見届けた時、客人がやってきた。 伸縮素材のダークスーツを着た若い刑事。黒い"サタンスミス"スニーカーを履き、"ツミ"バックパックを背にしている風体は今時の学生と大差なかった。 「本物のヘルマリィだ──」思わず言葉が出てしまい慌てて取り繕う。 「光栄ね。あなたが、ギャン刑事がおっしゃっていた"そういうのが得意な新人"さん?」 「サトーです」 ヘルマリィに話しかけられてパプリカのように真っ赤になっているが、芯の通った声はさすが王都警察といったところか。 イザベルたちは、カンラークタウンでの聞き取り結果を報告した後、ギャンを通して王都警察に情報収集を依頼していた。リストに記載されているカンラーク難民がギルドで結んだ雇用契約記録。そのすべての時期と契約先について。 まかせてくれ、とギャンは快諾したのだった。 サトーはカフェテーブルの向かいに座ると、バックパックから端末デバイスを引っ張り出す。慣れた手つきで画面を展開し、何やら打ち込むとヘルマリィの近くにそれを寄越した。 「解析妖精を使役して11パターンのアルゴリズムを走らせました。サカエトル市内の民営・公営ギルド16件のデータベースから失踪者を照合し、雇用契約記録を抽出しました。一晩しかかけられなかったので、わかったのはこれだけです」 サトーは両の目頭を揉んで報告した。 「8,9000人分?すごいわね」ヘルマリィが眉を上げる。 「私が学生の時は、このボリュームのデータを集めるのに王立図書館に缶詰で3日もかかったわ」 「官製の妖精も使わずにお一人でされたのなら、その方がすごいです」 「私は無茶な依頼をしたのか?」イザベルが首を傾げる。 「いえ、いいんです。とにかくリストの86%について調査が完了し、イザベルさんに要望頂いたデータはリストの83%から抽出できました」 「素晴らしいわ」 「見てください」サトーが画面の端をさっとなぞると、折れ線グラフが現れた。水平線の上に一定の間隔で鋭い針が並んでいる。 「失踪者たちの最後の雇用契約記録を日付順にソートしました。縦軸はその件数です」 「0件の日が一定期間続いた後で、20件前後の日がやってくる」イザベルは独り言のように応じる。 「ギルドでは雇用契約は毎日行われていますから、もし失踪と雇用契約が無関係だったらこんな形にはならないはずです。そしてこの結果に契約企業の情報をオーバーレイすると…」 グラフの大地に立っている針から、枝葉が伸びるように無数の注釈が現れる。注釈の中に企業名が記されているが、同じ針から伸びている企業はすべて同じだった。そして、それぞれの針からはすべて異なる企業が伸びていた。 「これらの企業は、契約が行われた後、3日以内に廃業の届け出がなされています」 沈黙。ヘルマリィがサトーを見つめ、口の端をほんの少しだけ動かして微笑んで見せる。イザベルが、それが義務であるかのように言った。 「奴らのフロント企業だ」 サカエトル2区 午前10時 大家が出入口のドアを開けると、無人の部屋の香りが鼻をついた。道路に面した南側の壁一面に窓が設けられていたが、向かい側の建物との距離が近く、日当たりは悪い。さらに象牙色のベネチアンブラインドが下げてあるために、夜明け前のような暗さだった。サカエトル2区は再開発計画区域に属している。この地区の建物は古く、小さく、密集していた。その景色は、疲れ切った人びとが狭い部屋の中に詰め込まれているように見えた。窓から入ってくる音も、カンラークタウンと違ってよそよそしさがあった。 サトーの分析から、イザベルたちが追跡している組織は、ギルドの求人システムを利用して人を集めている事がわかった。彼らは、定期的に窓口の企業を変え、痕跡を目立たないようにしていた。おそらく、今もどこかのギルドに紛れ込んでいるのだろう。 被害者をこれ以上増やさないためには、王都警察を通して全ギルドの業務を停止する方法もあるが、現実的では無かった。カンラーキアンたちの生活に大きな影響が出るばかりか、彼らにこちらの意図が知られる。摘発は困難になるだろう。無数にある登録企業から現行のフロント企業を探し出さなければならない。 手がかりを探して、イザベルたちは記録上確認できた最後のフロント企業のあった部屋を訪れていた。 そこは9階建ての雑居ビルの3階だった。作り付けの什器や家具は残されていたが、当然、帳簿の類いは一切なかった。足がつく資料は、持ち去ったか処分したのだろう。 しかし何かがあるはずだ。 通りに面した窓を背に、デスクと椅子が置かれている。部屋内の配置から考えて、おそらくここにそれなりの地位の者が座っていた。イザベルは椅子からの情景を想像した。職を求める同胞達の姿。ここに座っていた人間は、彼らを食人種へ売り渡した──。 不愉快な感覚を抑え、床に目を伏せる。カーペットが目に入る。毛足の長い、そこそこ高級なタイプ。汚れていた。椅子を退き、跪いて確認する。黄土色の土だ。座っていた者の靴に付いていたのだ。 その時、王都警察の刑事達がやってきた。ひとりはサトー。サカエトル警察庁への報告を終えての合流だった。もうひとりは、ダブルのスーツを完璧に着こなした長身の男だった。鳶色の瞳は、オオカミか猛禽類を思わせた。 彼は部屋に入るなり、その中心に立った。四周をぐるりと見渡したかと思えば、目を閉じ、ゆっくりと深呼吸し、しばらく瞑想するように立ち尽くす。右手の中で、その瞳と同じ色のコインがクルクルと回っていた。 「時間が経ちすぎている」 彼の言葉を聞いたサトーがため息をつく。 「それに、この部屋には短期間にあまりにも多くの人間がいたようだ。これでは個人が残したマナは雨の中で流した涙のようにかき消えてしまう」 「魔術」ヘルマリィが彼の能力に気付いた。「あなた、マナが視えるのね」 「そうだ。──失礼した、クェスプだ。だが今回は力になれそうにない」 「何か、当該人物だけが長く触れていた物が残されていれば良かったのよね」 二人のやり取りを見ていたイザベルはカーペットを示した。 「この土はどうだ」 クェスプはニヤリと笑った。 「魅惑的だ」 クェスプが跪く。彼の右手の中に収まっている二枚のコーラル金貨は、彼が部屋にやってきてからずっと等速度で回転していたが、それが凍り付くように静止した。クェスプは目を半ば閉じ、僅かに首を傾げる。 「記録しろ」サトーが端末の上で指を踊らせる。 「道路だ。道路沿いに古い建物がある。工場だな。廃墟と言っていい。大型のバンがやってきて、人が降りてくる。30~40人。廃墟に入っていく── これを見ているのは…ああ、こいつだ。ここに座っていたやつ。ストライプのスーツ、左手の甲に幾何学的な図形のタトゥーがある。サカエトル系指定暴力団が入れるものだ」 王都警察─サカエトル警察庁─は、サカエトル城の北側に広がる官庁街の一角にあった。1世紀以上前に建設されたコンクリートの庁舎は柱や梁は現代的な建物よりも図太く、建物というよりは地形だ。丈夫なであるのはともかく、近代的な改修に対応する余白がなく、壁や天井のあちこちを無数のケーブルやダクトが這い回っていた。 特捜部はその3階にある。柱のグリッド6区画で構成されたオフィスにデスクが並ぶ。その半分を執務中の刑事たちが埋めていた。残りの刑事達はサカエトル市街を猟犬のように彷徨っているのだろう。イザベルたちはそうしたオフィスを横目に、突き当たりの一室へ入った。 部屋は、床上から梁下まで強化ガラスでオフィスと区画されている。他の3面は純白の金属パネルで仕上げられていた。中央に艶のない漆黒の巨大なテーブルが置かれ、隅に簡易エスプレッソマシンが置かれている。ドアを閉めると、オフィスの賑やかさが消え、換気ファンのハム音だけが残った。 ギャンが待っていた。この部屋の椅子は、オフィスに置いてあるものよりもいくらか上等だ。ギャンはその背もたれを存分に活用してくつろいでいる。 「クェスプの報告は聞いている。さっそく本題に入ろうか。その機械のコーヒーは自由に使ってくれ。まあまあ美味い」 そう言っている間に、サトーがマシンを操作した。マシンは何かを思い出したように騒々しく音を立て、蒸気を噴き出す。 「わかっていると思うが、“マナの証言”は手がかりにしかならない」とクェスプ。肘をついた左手の人差し指と中指で、薄い唇の下を支えている。 「事実ではあるが、どのように因果関係を読み取るかは別だ」 「もう廃業したフロント企業の情報ですよね。検出された場所ももう使われていないのでは」サトーはコーヒーカップをヘルマリィの手元に置いてから発言する。ヘルマリィは微笑み、サトーは目をそらす。 「まだ使われているはずだ」イザベルは言った。手元の黒い液体を少しすすり、すぐに置いた。 「いくら窓口を変えても、オンケーンの領域へアクセスするルートは限られるからだ。まして、この取引には大勢の人間を人目に付かずに集約し移送するポイントが必要だ」 「動機であると同時に絞り込む要素にもなる」そう言うギャンは楽しそうだ。「サトー」 サトーが端末を操作するとガラスの仕切りが漆黒の黒曜石に染まり、純白に輝く曲線が這い回る。すぐにウァリトヒロイ王国の領土全域を形作った。ひときわ目立つ輝点は王都サカエトルの位置。さらに、ランダムに8つの点が輝いていた。 「検出された環境に合致する場所をプロットしました」 「どうだサトー。やつらは遠回りすると思うか?」ギャンが新人に考察を促す。 「しないでしょうね。どんな手段を使うにせよ、目撃されるリスクは増大するし…なによりこの手の連中は移送のコストを最低限に切り詰めるでしょう」 「上出来だ。迂回はなしだ。魔族国境近傍」とギャン。 輝点は三つに減った。 ヘルマリィが立上り、そのうちのひとつを示し、「ここね」と断言する。 そこは山岳地帯のふもとだった。ウァリトヒロイと魔族領域の間に横たわる天然の要害。ウァリトヒロイ最高峰を含む巨大な岩塊群が、両種族の進出を阻んでいる。 「正直いちばん可能性が低いと思っていたが、なぜだ?レディ=ヘルマリィ」クェスプが穏やかな声で問う。 「可能性が低いと思った理由を聞かせて」 「ここを超えるには空を飛ぶしか無い。故に濃密な対空結界がある。不法な越境を防ぐために行政府が設置したものと、軍事的な侵攻を迎え撃つために軍が設けたもの──こっちは数段ヤバいやつだ──。これらを人類と魔族両方が設置してる。通行しようものなら──」クェスプは左手の指をパチンと鳴らした。 「対空結界はその原理上、検出域を円錐状に展開するわ。コーンを地面に突き刺したみたいにね。だから、地表スレスレを飛ぶ物を視ることができない」 「理論上はな。だがオーニソプターはそんなところを飛べない」 「その通り。何十人も乗せて立体的に複雑な機動のできる強力なトルクは、今主流の“ハイムインダストリアル製のオーニソプターには”ないわ。でも、第Ⅱ世代のエゴブレインドライブを搭載した旧式ならどう?」 イザベルは議論を冷静に眺めながら、スティックシュガーを7本、コーヒーに投下した。 「EBD2タイプのオーニソプターは低速で燃費が悪い。今時あんなもので移動するのはよっぽどの物好きだ。だからこそか」ギャンは何かを理解した顔で言う。 「旧式の航続距離は800ユプシロン。無理な機動を繰り返せばそれ以下。オンケーン側での受け渡しを考慮すれば、人類側と同様の平坦な地形が最適」ヘルマリィは国境の外の一点を示す。500ユプシロン先に塩の島があった。 「あんたがたの脱出ルートというわけか」クェスプが頭をかく。 「そのひとつだった、とだけお伝えしましょう」 ウァリトヒロイ辺境域 非武装地帯まで250ユプシロン 午前0時30分 王都警察即応隊のオーニソプター2機が闇の中を突き進んでいた。イザベルは絵ハガキほどの大きさの窓から、外を見る。随伴のオーニソプターがすぐ横を飛んでいた。それは頭を切り落としたトンボそっくりだった。そして、家のように大きい。サカエトルの夜景は後方の地平線の向こうに消えてしまったが、照らされた雲が薄明のように見えている。一方、向かう先は闇だ。地上には一切の光が──狩人たちの野営の火でさえも──なかった。曇天が星空をも隠してしまっている。パイロットたちは蠅の頭部のようなものを被っており、サトーが言うには地面の熱を視て飛んでいるのだという。 船内には十数名の部隊員達と、ギャンがいた。サトーとクェスプはもう一機のオーニソプターに第2班とともに乗っているはずだ。 現場に同行させて欲しいと申し出たとき、意外にもギャンはあっさり許可した。 「好きにしろ」とだけ言い、理由も聞かれなかった。 イザベルは反対側の窓際に座っているギャンをのぞき見た。隧道で出会った時と同じように、彼の輪郭がサカエトルの残光を黒く切り抜いている。完全武装の部隊員たちに囲まれ、彼だけはいつものスーツ姿だった。紙煙草の赤い光点が彼の手元でゆらゆらと動いていたが、表情は読み取れなかった。口元が何かを囁いているように見えた。あれは祈りの言葉だ、とイザベルは思う。そこに何か大切なものを失った者だけがまとう空気を感じ、窓の外に視線を戻す。同類という言葉がよぎったが、それにも違和感があった。視線の先の闇の中に、ボーリャックを感じる。 私は── イザベルは思う。私はギャンとは違う。どう違う?死んでいった仲間達に祈りを捧げた事は?ある。だがそれ以上に私は復讐を求めている。まるで獣だ。聖騎士が聞いて呆れる。そもそも私はボーリャックを殺したいのだろうか。 雑踏の中で誰かと視線が合うように、ある考えがちらつく。彼と話がしたい。 それはすぐに意識の中に沈んでいき、代わりにあの日の記憶が覆い隠した。泥にまみれた地面。鮮血を噴きながら転がる自分の生白い右腕。オーニソプターの駆動音の中なら、絶叫しても誰も気に留めなかっただろう。しかしイザベルはそうする代わりに、凍えるように丸まり、自身をきつく抱きしめて震えが治まるのを待った。 検挙はあっけなく終わった。 2班に分かれた部隊は吸い込まれるように拠点の廃墟になだれ込み、関係者を拘束した。すべてが終わるまで、5分もかからなかった。 サトーがスーツの男を引きずり出してきた。なんと言う事のない、ただのチンピラだった。 「殺すなよ」 ギャンが声をかける。まるで割れ物を運ぶ引っ越し業者に接するような調子だ。 「そいつのマナがいろいろ話したがってるからな」 クェスプもそう言って、ネクタイのディンプルを直した。 廃墟の2階に被害者が見つかったと知らせを聞き、イザベルは同行した。 汚れたベッドが並ぶ野戦病院のような空間に、疲れ切った人びとが詰め込まれていた。近くにいた女性がイザベルに気付く。信じられない、という顔。 「イザベル様──」 どよめきが同心円状に広がった。人びとが砂鉄のようにイザベルの元に集まり、跪いた。 イザベルは剣を胸の前に掲げ、唱えた。 「汝らに慈母神の慈悲と平穏があらんことを」 何年も施すことのなかった祝福。イザベルも跪き、女性の震える肩を抱いた。 「もう大丈夫。家に帰りましょう」 カンラークタウン 検挙から二日後 午後2時 メインストリートのヴィア・ノヴァは、復興カンラーク大聖堂のファサードに至る参道であり、その対面の延長に遠くサカエトル城を望む。歩行者のために広く設けられた通りには、多くの商店や料理店が並んでいる。それらの前にいくつも置かれたテーブルには、ランチの喧噪を避けた人びとがゆっくりと食事を楽しんでいた。 そのひとつに、ヘルマリィがいた。通りに面したオープンキッチンではラム肉のケバブが香ばしい香りを放っていた。鮮やかなグリーンのポロシャツを着た寡黙な主人が、焼き加減を見ながら的確に肉をそぎ落としている。 つばの広い帽子の下で、彼女はサングラスを少しだけ下げ、大通りの中をこちらに歩いてくるイザベルを見つけた。 「良い休暇が取れたようね」はす向かいに座ったイザベルに、ヘルマリィは言った。 「──昔の仲間に会いました」 「あら意外」 「前に仲違いをした相手です。前よりは冷静に接する事ができたと思います」 ヘルマリィは両腕でつくった頬杖にその優美な顎をのせ、満足げにイザベルを見た。 「まずはお祝いね」ヘルマリィが目配せすると、店の主人が出てきた。手に高価そうなシャンパンを持っている。 「あなたが同窓会へ行っている間に、わかった事があるわ」 山盛りケバブの祝宴も終わりかけた頃に、ヘルマリィは切り出した。 「王都警察はあの廃墟で、取り引きの記録を押収した。それともうひとつ。親戚のツテで、ある資料を入手したわ。方法は聞かないで欲しいのだけど」 ヘルマリィは、手元のヴィトンからフォルダーを取り出す。イザベルが受け取ると、言った。 「オンケーン側の記録よ。これはサトーに解析してもらった結果のレポート」 冒頭の概要に、ふたつの明細のスキャンが左右にレイアウトされていた。 「──数が合わない」 「始めは実務上のミスかと思ったけど──魔族の記録は適当な事があるから──、でも不整合の元を辿っていくと、あるロットにいきつくのよ」 そう言ってヘルマリィはページを示す。そこに記されていたのは、 「ボーリャック」 ヘルマリィは繊細なグラスを傾けて言う。 「こういう仮説はどう?ボーリャックは積み荷になる事で、魔界に"潜入"した」 「ボーリャックは裏切っていないと?」 「端的に言えばそう」 ヘルマリィはイザベルの目を見た。盲目的な憎悪の代わりに、迷いと手を繋いだ理性が見えた。イザベルはこの件でいくらか客観的になっている。そう確信して、ヘルマリィは切り出すことにしたのだった。 「そういった仮説は成り立ちます。しかし、もっと情報が必要です」 「そうね」ヘルマリィの微笑みを見て、イザベルは首を振りながら口元をほころばせる。 ふたりの前に、若い女性が無遠慮に座った。 「ここいいかしら?良い天気ね」 「ダメだ」イザベルは即座に剣に手を添える。 「宜しくてよ。ここのラム肉は格別なの。良ければシャンパンもご一緒します?」 「レディ!」強い調子でイザベルが抗議する。 「大丈夫よイザベル。ランチを楽しみましょ?」 女は屈託なく笑った。 「もしかして、ヘルマリィさん?え?本当?」 「周りには内緒にしておいてね」 「すごい、インスタ見てますよ。お綺麗ですね…。──ところで、私がハイバルなんだけど」 ヘルマリィとイザベルは凍り付いた。