下着を着け、上衣に袖を通し、靴を履き、紅を引く。段階が一つずつ進むにつれて、 彼女の意識は日頃の、控えめで、大人しく、理知的な――端的に言えば地味な人格から、 液晶の中、紙面の上に躍る女傑たちのような開放的で活動的なものへと変化する。 そこにいるのは、平面の世界から飛び出した亡国の王女であったり、友好的な宇宙人その人で、 彼女が原典を読み込めば読み込むほど、巫女めいて“降ろす”人格の完成度は高まるのである。 針は一日の終わりの近さを示す九十度、既に窓の外にはちらちらと車の光の覗くばかり。 椅子の上で埃を被った、透明の帯封すら切っていない漫画の単行本、円盤入りの箱の山。 いつか読もう、見ようと思ってから――もう四、五年はああして放っておかれているだろうか? 隣の部屋の主が病に失せて、止まっていた時はここ数年でようやく動きだしはしたものの、 二人――いや三人で紡いだ幸せの織物は、ああして中途に放り出されている。 愛娘を授かるまでに、“降ろし”て何度も交わった記憶――それが蘇るのが恐ろしくて、 彼女は好きだった漫画の一頁すら、繰ってみるつもりにはなれないのだった。 それとは対照的に、よだれと食べかすでべちゃべちゃに汚れた幼児向けの絵本や玩具は、 両親の資質を受け継いで、しっかりと内向的に育った娘が、自ら選んでねだったものだ。 一体一体の表情や服装を見るたびに――そこに、自分との確かな血の繋がりを思う。 そういえば自分も子供の頃から、こういう格好のものが好きだったな、と。 ふと思う――昔取った杵柄で、その衣装を再現してあげたなら、どうだろうか、と。 現状から目を逸らす口実を得た彼女の手は、瞬くうちに親子一揃い分の衣装を拵えていた。 娘に着せて写真を撮り――自分でも着て、並んでもう一枚。電子の波にそれを乗せて―― いつか夫のいる向こう側に届いてくれないかと、叶わぬ夢を見る。 その一環に過ぎなかった――家の周りだけでなく、人の集まる催しに出ていったのも、 娘ともども、何十人もの囲いの中で作品の中の場面を再現する写真を撮られたのも。 普通の女の子が魔法の力で変身し、悪を挫く――そんなありきたりの筋でさえ、 こうして現実の側に再現されたとき、人々を熱狂させうるのだと、彼女はよく知っていた。 そして絶賛の言葉を受けるに従って、これを本当に褒めて欲しかったあの人のいないことが、 彼女の心にぎしぎしと、目に見えないひびを入れていく――身体が、薄ら寒くなる。 帰り道に、一人の男が親子に声をかけた――知らぬ名ではなかった。 写真を上げるようになった最初の頃からの知人、同好の士として信頼する相手だった。 女手一つで育児、仕事、趣味に精を出す彼女を、彼は尊敬するといった――自分は独身だからと。 衣装代に困るようなら援助する、との申し出を、初め彼女は断った。 けれど案外に押しの強い彼は、見返りも要求せず本名と住所、役職まで晒した上で、 あなたの作品愛と技術に惚れ込んだから、是非支援したいのだと言って聞かなかった。 翌日一桁増えた預金残高を見て、彼女が驚いたのも無理はない。 生活に余裕のできてからは――参加する催しもより大きく、衣装も緻密なものになった。 娘が何度かの参加のうちに恥ずかしがるようになって、彼女一人で出るようにはなったが。 環視され、撮影機越しに熱を帯びた視線を向けられるうち――肉体が、少しずつ火照りだす。 忘れていた、自分の女としての部分が――彼らの頭の中で、好き勝手に食い荒らされている。 そんなことを想像し始めると、僅かの不快感と、遥かに大きな興奮とが身体の中をうねり、 汗の粒となって――光を反射し、艶めかしくきらきらと光るのである。 その日も男は、解散した囲みの破片を泳ぐようにして彼女へと近づき、その出来栄えを褒めた。 彼の口ぶりには、努めて傲慢になるまいとの意思が見えたが――それでも、 自分のおかげでこれだけのものができた、との思い入れは十二分に表れていた。 そこには悪意はないのだ――同時に、こうして自分の支援する相手が他者に認められる、 それ以上のことを、彼が一切望んではいないということもまた、明白だった。 ――だからといって、こうして助けられておきながら、何もせぬということが許されようか? 内に籠もる熱。男たちの妄想の中で、好き勝手に弄ばれて卑猥な言葉を言わされていた自分。 登場人物になりきればなりきるほど――“こういう時”にどうすべきか、の答えがわかってくる。 世話になった相手に、自分のできる範囲で恩を返すのが、子供達の憧れとしての義務である。 熱に潤んだ瞳で、男の顔にじっと見上げながら――腕に抱きつき、胸を押しつけ―― 男は三度目にまた、彼女の本意を問うた――既に裸、湯浴みを済ませたにもかかわらず。 あくまで自分たちは支援者と被支援者の関係であること、また恋愛関係にもないこと、 彼女には、幼い頃からずっと操を立ててきた亡夫がいるということ――それを問われるたび、 すっかり役になりきった彼女は、個人としての夫への尽きせぬ愛を意識の埒外に避けて、 己の肉体に灯る欲のままに、夫以外の男の性器を咥えるのである。 これはお礼だから。お礼をしているのは“私”ではないから。誰も、見ていないから―― 舌の上に、夫のものとは違う味が広がる。ずっと年上の男の、こってりとした濃い臭い。 味覚と嗅覚が、彼女の中の雌の部分を加熱して――無意識に、魔法少女は指で股間を弄り回す。 それはちょうど、敗北し屈服させられた姿そのものであった――年齢を除くなら。 久しぶりに迎え入れる、雄のもの。夫と繰り返した、愛を確かめ合うための行為ではない、 お互いの性欲を発散するための、最も原始的な、雌雄の交わり。 だから彼女は、目の前の男をついぞ好いてはいない――何せこの魔法少女の好きなのは、 高身長で整った顔、文武両道の生徒会長様なのだから――こんな、禿げて腹の出た中年など。 腰を上下させると、元より無理に詰め込んでいた胸元の衣装が捲れ上がってしまって、 解放された乳房がゆさゆさと重たげに男の鼻先を躍る。先端の、ようやく色の抜けた乳首も。 それは独身――はおろか、童貞だった彼にはあまりに刺激の強すぎる光景で、 たちまちに、彼の精が一回り年下の経産婦の胎を満たす――無論、一度や二度ではない。 それから、二人が肌を重ねるのは、ほとんど毎回のことになった。 日常から解放されるための衣装替え――その後の“おまけ”。 やがて次第に比率は後者に傾き、何でもないような日にさえ、彼女は彼を呼び出した。 彼の好むような、扇情的な、身体の線の出るものを選んでみたり――夫が好きだった、 少し時代性の残る、宇宙服めいた意匠のついた流線型の全身服を着てみたり。 普段は、前髪を伸ばして他者からの視線を切らないとまともに人と話せないような彼女が、 こうして異装に身を包み、なりきっている間は――“本当の気持ち”を吐き出すことができる。 支援者の男に、検査薬の表示を見せたとき――彼女は、この“二人目”についても、 一人で育てる覚悟でいた――けれども男は彼女の想像に反して、その長女ごと、 面倒を見るつもりでいる、との答えを返した。それは望外の喜びをもたらすと同時に、 夫をいよいよ裏切った、との消えない刻印を彼女の胸に残す。 腹が膨れるにつれ――あの世で夫が呪ってはいないかと、不安が増していく。 弟の生まれる日を無邪気に喜ぶ娘の顔を見て――申し訳なさが募る。 そうして溜まった鬱憤は、また彼の上にて発散されるのだ――身重であっても変わらずに。 腹につられて引っ張られた布地に薄っすら透ける肌――そこに作り出される立体感は、 心ならずも彼女を“寝取って”しまった彼の罪悪感を麻痺させるに十分なだけの淫猥さだ。 臨月の妊婦に、子供向け作品の主人公の衣装を着せるという背徳の味は、 二人ともをも、すっかり魅了してしまっていた――何枚も、その写真を撮っては上げて。 事後に必ず付け直していた指輪も、付け直さなくなって久しい。 見るのを避けていた思い出の作品群も、今では平気で見返せるようになった。 そろそろ両親に、再婚しようと考えていることを話そうかと思っている―― 埃を被った彼との写真立てを、ぱたりと伏せて――紅を引く。