首元に一匹の蚊が止まっていた。
トレーナーさんは温泉に来るまでに体力を消耗した様子で、浴衣姿で敷き布団に寝転がり体を休めている。そんなその人の寝顔を眺めていると、トレーナーさんの首元、鎖骨の上に一匹の蚊が止まっているのに気がついた。
はっと目を見開いて平手打ちをしそうになり、思い留まる。トレーナーさんのお休みを邪魔したくない。けれども、このままではトレーナーさんの血が吸われて痒みに悩まされることに。
あわあわとどうすることも出来ずただ蚊を睨むだけの私は、なんて弱い存在なのだろう。そうこうしているうちに蚊はトレーナーさんの首筋に針を突き刺し、血を吸い始めた。
蚊の肚がぶくぶくと膨れ上がっている。トレーナーさんの血が透けて真っ赤に見える肚を見て、私は怒りよりも嫉妬を覚えていた。真っ赤なまんまるのお腹はまるで先日保健室でいただいたピンクの錠剤のよう。
やがて異変に気がつく。蚊の肚は錠剤のサイズをゆうに超えて、一目で危険だとわかるほどに膨れていた。


きっと筋肉がこわばり針が抜けなくなったのか、それとも針が折れてしまったのか。蚊は困惑したように針を抜くことを試みているが一向に抜けない。そうしてる間にも肚がトレーナーさんの血でパンパンに膨らみ続けている。
ぷつん、と小さな音がして、ついに蚊の肚が破けてしまった。どろどろと溜まっていた血が外に流れ始める。流血に乗って針が抜けた蚊は、よろよろと飛び立っていった。
私のトレーナーさんの血を、私が叩けないのをいいことにあろうことか眼の前で吸った憎い蚊だったけれども、今はただかわいそうと思うばかりだった。あの蚊はきっと、もう長く生きられない。どこかで餓死するのだろう。
アメニティのアルコールティッシュを使ってトレーナーさんの首元を染める血溜まりを拭き取る。しかし拭き取ったそばから血が滲み出てきてしまう。
絆創膏か何か止血しないと。そう思っていたのに、出血から目が離せない。私はトレーナーさんを跨いで膝で立ち、両手を床について顔を出血場所に近づける。血の匂いが鼻を突いた。
ああ、なんてはしたないのでしょう。私は血溜まりに恐る恐る舌を伸ばしていました。


舌に触れる血の味は、汗の味と混ざって苦くしょっぱかった。しかし後を引くその味に私は二度、三度と舌を伸ばす。かつての私ならこんな欲望だけの行動はあの子のせいに出来たのに。
獣のような姿勢でトレーナーさんに覆いかぶさり、雛鳥が餌を貪るように浅ましく血を舐めているのは、紛れもなく私だった。
舐めれば舐めるほど体が火照り渇望感が癒えない。汗が吹き出て呼吸が乱れる。毎夜トレーナーさんを想い切なさを慰めている時のように、内臓がぴくぴくと痙攣し始めた。
二分は経ったでしょうか。舐める端から染み出していた血も、いつしか止まっていた。当初の目的は達成したというのに、私はおあずけを食らったペットのように頭を抱えていた。
立ち上がり、すっかり水分を吸って重たくなったシルクの布切れを投げ捨てる。ああ、ごめんなさい…トレーナーさん。
「スティル…」
あの人が寝言で私の名を呼んだ。それがトドメだった。



翌日、そこには元気なトレーナーの姿があった。旅館の朝食を既に3杯おかわりをして食べている。一方のスティルインラブは肌艶こそいいものの、どこか所作がぎこちない。
トレーナーは温泉での療養のおかげだと思い笑顔であるし、スティルは何がなんだかといった表情である。スティルは知る由もないが、この時二人の体に変化が生じていた。
トレーナーの血液を、遺伝子を取り込んだスティルは体が変質を始め、"こちら側"を生きるものとして繋ぎ止められていた。
一方のトレーナーもスティルの血液を体内に取り込んだせいか、はたまた主たるスティルが変質したからか、スティルに繋ぎ止められていた。
混ざり合う血の絆というべきそれは二人をこちら側へと定着させているが、当人たちは知ることはないだろう。
帰りのバスが着くと、行きとは逆に溌剌としたトレーナーがスティルの手を取って介助すると、歩き方がぎこちないスティルは手を繋いだことにはにかみながらバスへと乗車した。
バスの窓から外を眺めるトレーナーにスティルが頭を預けて甘えると、二人は花畑を眺めながらバスの揺れに身を任せていた。