「持ちますよ」
買い出しの際に、スーパーのサッカー台でそう言いながらフラッシュが手を差し出した。持つ、というのは当然、スポーツドリンクが入ったレジ袋のことだろう。
2Lのペットボトルが6本、およそ12kg。ヒトにも持てない重さではないが、これから学園に持って帰るには重労働なくらいの量である。
重い荷物は私が持って当然と言わんばかりに、平然とした声色で差し出された手、思いやりしかない態度。フラッシュはちょっとそういうところがある。
彼女は時折ぎょっとするほど冷淡に、ヒトとウマ娘の力の差を口にする。それは彼女にとって単なる事実の宣告でしかなく、そこに含みを持たせているわけじゃないことくらいはわかっている。けれども……。
スーパーからの帰路、二人並んでレジ袋を持つ。僕の持つレジ袋には、紙コップやお菓子などの軽いものばかり。ペットボトルで潰れないよう分けたのだが、今となっては何故重さを半々にしなかったのかと後悔するばかりだ。
幼い頃より女の子を助けてあげろと教え育てられた僕は未だ、誰が見ても美少女であるフラッシュに重いレジ袋を持たせることに気が乗らなかったのであった。



フラッシュの言うヒトとウマ娘の差は、生真面目な彼女由来でもあるし、ご両親由来でもあると思う。きっとおそらく、彼女は幼い頃よりヒトである父と、ウマ娘である母を見て育ったからだ。
それはウマ娘の居ない家庭で育った僕とは違って、ちょっとした日常でも母親が力仕事を担当することが多かったのだろう。家庭で培った常識というものは、案外他人と分かち合えないものだ。
自分の家庭では当たり前だと思っていたことが、他の家庭や地域の人間からすると珍しいものだった、なんて話は誰だって耳にしたことがあると思う。
だからきっと僕のこの、自分は軽い荷物を持ちフラッシュに重い荷物を持たせることへの心理的抵抗感は彼女にはピンと来ないだろう。
もし告げたとしても、『私は別にこのくらい負担ではないですよ？』と頭に疑問符を浮かべる彼女の様子は想像に難くない。彼女にとってはこの役割分担は、きっとただの常識で、何の意味も持ってないのだから。
意味というなら、男と女を意識している僕の方こそ、前時代的なのかもしれない。染み付いた古い価値観は、アップデートされなければならないのだろう。



トレーナー室に着いて荷物を片付けた後、一息入れようとインスタントコーヒーの瓶を手に取った時だ。最近妙に瓶の蓋が硬かったが、案の定である。どんなに力を入れても瓶の蓋はビクともしなかった。
苦戦する様子を見かねたフラッシュが代わりに瓶を開けると、「私が淹れますね」とそのまま持っていってしまった。たったこれだけのことで、自分のちっぽけさ、無力感を再確認するようで気が重い。
彼女にお礼を言うと、どっと襲ってきた疲労を肩から下ろすようにソファに座り込み、楽しそうに鼻歌を歌いながら二人分のマグカップに湯を注いでいるフラッシュの揺れる尻尾を眺める。
これからもきっと、こういうことはたくさんあるのかもしれない。その度にいちいち、仕方のないことを気に病んでもいられない。変わらなければならない。フラッシュはそのいい機会を僕にくれた。
ウマ娘にヒトが勝てるわけがない。いつかのフラッシュの言葉を思い出しながら、彼女からマグカップを受け取るとコーヒーを一口啜った。



計画通り、トレーナーさんが瓶を開けられなかった。でもすぐに私に頼らず、しばらく瓶の蓋と格闘していた。まだまだ修正が必要。
父も、母と交際していた頃はちょっとそういうところがあったそうで。夫婦円満の秘訣は、夫に頼り方を教えることだと母は言っていた。
母の努力のおかげで、結婚する頃には父はすっかり抵抗なく母に頼るようになり、二人はいつも仲良しだった。子供心に、結婚するならあんな夫婦になりたいと憧れた。
トレーナーさんも多分、父と似ている。まだウマ娘に頼ることに抵抗があって、現実との折り合いがつかず、それでも正しくあろうともがいている。だから、まだまだ修正が必要。
いつか訪れる二人の未来のことを想いながら、私はインスタントコーヒーの瓶の蓋を、トレーナーさんには開けられないよう硬く閉じた。