「痕」 ーーーーーーーーーー パソコンにタブレット、モバイルMIDIキーボードと…ノート。 土曜日の午後、作業に必要なものをひととおりまとめ、私は玄関先に立っていた。 「では行ってまいりますわ。もう…毎回そんな顔しないでくださいまし。終わったらすぐ帰りますから」 「……うん。気をつけて行ってらっしゃい。早く帰ってきてね?」 全身で“不安”を表現するその姿は、まるで母親とはぐれそうになっている仔犬のよう。初音は私の弱点をよく分かっていて…無自覚なのであればより恐ろしい。 私は後ろ髪を引かれるような思いのまま、彼女に見送られつつマンションを後にした。 煮詰まった時や気分が乗らない時は、こうして出掛けて外で作業をする。場所は専ら池袋駅前のカラオケノ館。混んでいる時はその近場の適当なカラオケボックスで。事務所の空き部屋やワーキングルームなどはしっくりこなかった。そもそも静かな場所で誰にも邪魔されず作業に集中したいというわけでもない…気がする。 カラオケボックスという空間と、あの雰囲気が好きだった。誰もが自由に平等に、歌って踊って“音楽”を楽しめる場所。それだけではなく、リモコン端末に“Ave Mujica”の曲の履歴がずらりと並んでいたり、隣の部屋から“Air”が聞こえてきたり。作曲や台本の執筆に対するモチベーションも自ずと上がろうというものだ。 いくら仕事といえども、自分たちが創り上げた音楽が世の誰かに楽しんでもらえていると実感できるのは、やはり嬉しい。 ── それにしても……私はなぜ、毎度わざわざ電車に乗って、池袋まで足を運んでいるのかしら? 〜 各駅停車に揺られること数分。池袋駅で降り、目的地に向かって歩く。もう目の前に店舗の入り口が…というところで、キャメルのダッフルコートに身を包んだ小柄な人影がこちらに向かって来るのが見えた。 「あら。睦?」 「…祥、ひとり?荷物いっぱい」 「ちょっとお仕事を…作曲の方が煮詰まってしまって。睦の方こそどうしましたの?ギターなんて背負って」 「RiNGで練習してた。楽奈と愛音と…途中からお茶会になっちゃったけど」 「まあ。ふふっ…でも楽しかったのでしょう?」 「うん。祥はこれから?」 「ええまあ。そちらの…カラオケボックスに篭るつもりですわ」 睦がわずかに目を丸くする。 ああこれは「どうしてそんな場所で?」とでも訊かれるかな、と私は身構えて── 「…私も行きたい」 ──直後耳に届いたのは、街の雑音に紛れて細砂がこぼれ落ちるかのような…そんな睦のひと言だった。 「え…?」 「わたしもいっしょに…さきのお仕事の邪魔、しないから」 睦はそのまま縋るような視線を寄越したのち、目を伏せて俯いてしまった。その様子はまるで何かに戸惑っているようにも見える。 悩みでも抱えているのか、相談ごとでもあるのか…なんであれ無下にはしたくない。 「では一緒に行きましょう?ソロパートの作曲がまだですから、睦がいればきっと助かりますわ」 〜 「会員証は…はい、ありがとうございます。何時間のご利用ですか?」 「フリータイム、2人。ドリンクバーで」 「あっあの、むつ…」 「かしこまりました。フリータイムは最長で19時までのご利用となりますが、よろしいですか?」 「はい」 「お部屋は208号室になります。ごゆっくりどうぞ」 「……」 建物の前までは私が手を引いていたのに、睦は店内に入った途端すいっとカウンターに進んで受付を済ませてしまった。 入店したのは15時。帰りの時間も考えて、せいぜい2〜3時間のワンドリンクで出るつもりでいたのだけれど。 彼女は荷物の多い私に代わって、カウンター横の什器で2人分のホットレモンを汲んで部屋まで運んでくれた。こうして2人だけでこの店に来たのは“あの日”以来。いや…あの睦は“モーティス”だったのだろうか?心の中の整理は未だつかず、散らかったままだ。こうして振り返るたび、なにか大事なことを幾つもやり残してきてしまったかのような…そんな後悔にも似た気持ちに苛まれる。 私のこの心の靄が晴れる日は、果たして訪れるのだろうか。 〜 「入りの4小節からここまで、あとはここからの8小節ですわね。ここは初華との掛け合い、ここはユニゾンですわ」 「本当に…私が考えていいの?」 「ええもちろん。今置いてあるコード進行はある程度無視して頂いて構いませんわ。…立希が楽奈さんとこんな具合で曲作りをしていると話していたから、わたくしも試してみたくなって」 「そういえば…楽奈もそんなこと、言ってた」 入室してからしばらくの間は、睦と相談しながら作曲作業を進めていった。ソロパートは演者本人と目の前でやり取りをしながら行うのが最も効率的だ。睦がギターを持っていたのも幸いして、譜面の空白部分はどんどん埋められてゆく。オーディオIFもあればもっと楽だったかしら──そんなことを考えながら採譜と入力を進めていると、それを静かに眺めていた睦がぽつりと呟くように尋ねてきた。 「祥。また初華となにかあった?」 「えっ?いえ別に…ああなるほど」 なぜそんなことを訊いてきたのか、心当たりがあった。 ── 初音との同居が始まって間もない頃。 彼女と軽く言い合いになった日の夕方に、私は黙って家を出た。トートバッグに荷物を詰め、隙を見て逃げ出すように。 とはいえ一晩、しかも実家ではなく若葉邸に一泊したのみ。揉めた理由も瑣末なことで、初音が私の趣味に関して少々…わりと…だいぶん配慮を欠いた発言をしたという程度のこと。公私の多忙、月の巡り、環境の変化によるストレス──偶々積み重なったフラストレーションが、初音の失言を引鉄に暴発してしまったのかもしれない。 “若葉邸で一泊して明日帰る”という旨の書置きを律儀に残したにもかかわらず、初音は翌早朝、泣き腫らした顔をメイクで誤魔化しもせず若葉邸まで私を迎えに来た。可哀想なくらいに憔悴しきった彼女をタクシーに突っ込みながら、二度と同じ過ちは繰り返すまいと心に誓ったのをしっかりと覚えている。 睦は私がまたぞろ初音と口論になり、家出の末池袋を彷徨っていたのでは…と考えたのだろう。 「あの日以来、わたくしもストレスを溜めすぎないように工夫しているので大丈夫ですわ。たまに外でお仕事をするのも、わざわざ“ここ”を選ぶのも…無意識でしたけれど、そういう理由なのかもしれませんわね」 「初華と暮らしてると…ストレスになる?」 「そういうことではなくて…難しいですわね。誰と暮らしていても、程よい距離感というものが必要なのだと思いますわ。ひとりでのびのびと過ごす時間も」 「………」 「それに、やっぱりあの子にはわたくしがついていないとダメですわね。今までどうしていたのかと思うほど私生活が危なっかしいんですもの。朝は起こすまで寝ているし、服は散らかすし…暇さえあればコーヒーばかり淹れて。あれでお仕事はきちんとこなすのですから羨ましいですわ。甘え癖もあるし、あと金銭感覚も少し─」 「…お仕事、終わった?」 睦が珍しくこちらの話を遮るように口を開いた。表情には出ていないけれど、退屈になったのかもしれない。たしかに惚気と受けとられかねない内容だったし、睦にとっては至極どうでもいい話題だろう。 「ええ、これくらい進めば十分ですわ。あとは体裁だけ整えて…今晩中には皆にデータを送れそうね。ありがとう睦、とても助かりました」 「ん。じゃ、歌おう」 睦はギターをケースに仕舞うと、待ちかねたとばかりにリモコン端末をたぐり寄せて操作し始めた。 「ふふっ睦ったら。ひょっとして、今日はただ歌いたかっただけ?」 「……….ぅ…ん」 「そう。なら良かった」 「…?」 「あんな様子で“私も行きたい”なんて言うんですもの。何か悩みでもあるのかと思ってしまいますわ」 「………」 睦がマイクを握って静かに立ち上がった。 きっと歌詞も振り付けも完璧に暗記しているのだろう。液晶ディスプレイに流れるMVに背を向けて歌い始めた睦に拍手を贈り、私は束の間、この時を精一杯楽しむことにした。 「〽︎この世界中どこを見ても♪わたしはわたしだけ──」(※1) 〜 「〽︎エムルーズ フォルダー エムルーズ ファルダ〜♪」(※2) 「さき…シブい。最高」 「あ〜楽しい!あらもうこんな時間?そろそろ帰らないと…睦、伝票取ってくださいな」 テーブルに置いたスマホの画面が光って表示された通知と時計が目に入る。もうすぐ18時…通知の内容おそらく、寂しがる初音がメッセージでも寄越した事を報せるものだろう。 「ぁ…え…もう?まだ…時間ある、のに」 「家で寂しがりの仔犬がお腹を空かせている頃ですから。…やっぱり初華からのメッセージだわ。ふふ…あの子ったら、今夜はパスタにすると言ったのにご飯を炊いてしまったのね」 いつもならもう帰っている時間になる。あまり遅くなると初音の方から迎えに来てしまうかもしれない。 睦と2人でカラオケボックスから出てくるところを目撃されるのは、なんとなく──あまり良くないような気がした。 「…………」 「睦…?どうしたの?」 「ぁ、わ…わたしも、お腹、空いた」 「それなら…駅中のお店でたい焼きでも食べて帰りましょうか。それくらいの時間はあると思いますわ」 「…うん」 歌い足りなかったのだろうか。 睦は少しの間リモコン端末を抱いたまま名残惜しそうにしていたが、やがて充電スタンドに端末を戻し── 「………」 「もう…貴女まで甘えん坊さんになってしまいましたの?」 「外、寒いから」 「……仕方ありませんわね、ほら」 確かに、きっと外は寒いだろう。 その温もりに懐かしさを覚えながら、私は両腕に少しだけ力を込めた。 ーーーーーーーーーー ※1 Pastel*Palettes:『るんっ♪てぃてぃー!』より引用 ※2 久保田早紀:『天界』より引用