タコパ 「ねーぇニコルちゃん、イヴの夜って予定とかある?誰かとデートとか」  藪から棒に、藤間桜はそんなことを言い出した。  ようやく上がってきた舞台の台本チェックの手を止めて、顔を上げる。勢いでずれかけた眼鏡を人差し指で押し上げて、向かいで頬杖をつく彼女に白い視線を送った。 「……逆に聞くけど、あるとでも思ってるの?」  あったらそれこそ大問題だ。昨今どこで誰が見ているかわからない。ましてやクリスマスイヴなんぞに異性と密会などという場面を目撃された日には、アイドルとして致命的な痛手を被ることになるだろう。痛手どころか、それはアイドル生命を断つ蠱惑的な甘い毒だ。いっときの気の迷いで偶像として、ことによっては逆恨みやらなんやらで生命そのものすら絶たれかねないそんなものにうつつを抜かしている暇は私にはない。  そしてそれは誰もが同じようで、世のアイドルたちは揃いも揃ってクリスマスの時期はイベントを打ったりライブを開催したり配信をしたりとアリバイ工作に忙しい。ファンの目の前にいるのなら少なくともその時間だけはどこの馬の骨ともつかぬ輩と二人っきりではないのだから、火元の管理は徹底的に、だ。火のないところに煙は立たない。 「てっきりそらちゃんあたりと過ごすのかなって思ったんだけど、予定はないんだね、よかった」 「……」  イヴの夜、デート、という響きの連続で、そういった詮索をされたのかと身構えたけれど、どうやら勘違いも甚だしかったらしい。私の浮かべた渋い顔も予想済みだったのか、藤間桜はにんまりと唇を三日月みたいにゆがませた。  ふだんから恋バナに花を咲かせる夢見る乙女のような言動ばかりが目立つけれど、藤間桜という女は意外なほど現実を俯瞰できているようで、その事実がなぜだか無性に腹立たしかった。 「なぁにその顔。……もしかして、変なこと考えてた?いや~ん」 「さっさと要件を言って」  どでかいため息とともに頭痛を覚えて書き物用の眼鏡を外して眉間を軽く揉む。空いた右手で手持ち無沙汰気味にペンをくるくると回した。こっちだって暇ではないし、クリスマスの三日後には私たちだってライブが控えているのだから、何か用事があるならとっとと言ってほしいのだけれど。 「んっとね、みかみちゃんが京都からこっちに遊びに来るからそのタイミングで先輩メンバーで集まろっかなって話が出てるの。卒業した子たちも来るし、ニコルちゃんもどうかなって」 「ふぅん」  夏にあんなに感動的に卒業していったというのに、半年も経たないうちにまた顔を合わせることになろうとは。  RAINのグループ会話からもいっこうに抜ける気配がないし、マイペースな神木みかみらしくてそれはそれでいいのだけれど、業務連絡すらも筒抜けというのはどうなのだろう。聞いた話によればユニット看板公演のセットリスト会議にまで茶々を入れてきているなんて噂もあった。実は少しの間だけの休業で、そのうちふらりと戻ってきそうな気配すらある。 「滝川さんは来るの?」 「それがさー、みうちゃんにはフラれちゃってさ」  一瞬どきりと心臓が鳴った気がした。イヴの夜の誘いを断るということは、つまりはそういうことだ。  そんな素振りなんてひとつも感じられなかったけれど、もしかしたら滝川みうは私が思うよりもずっとススんでいるのかもしれないという妄想に、思わず顔をしかめてしまう。 「麗華ちゃんも来るよって言ったら、やめとくってさ。それに、クリスマスは家族と過ごしたいって」 「あぁ、そういうこと」  合点がいってほぅ、と小さく息をつく。  滝川みうはなぜだか佐藤麗華とは会いたがらない。  いや、会いたくはあるのだけれど会わないようにしている、という言い方のほうが正確だろうか。  会いたいなら会えばいいのにと問うたことはあったけれど、「会いたいけど、会ってしまったら甘えて弱くなっちゃいそうだから会わない」、と返事が返ってきたことがあった。「偶然街でばったり、みたいなときはしょうがないけど」、と付け加えた時のはにかんだ表情が忘れられない。それはライブ前後の挨拶で顔を合わせる一瞬ですら確認をとるほどで、なんとも強情で頑なだ。  そしてそれは佐藤麗華も同じようだった。きっとステージの上と関係者席という隔たりのない隔たりが、現在の彼女たちの距離感なのだろう。飲み込めはしないけれど理解はできる。 「じゃ、出席ってことでいい?」  顔も知らない会ったこともない大昔の聖人の誕生前夜。そんな恋人たちの逢瀬とは縁もゆかりも無い日にメンバーとの集合写真でもSNSにアップすればファンも、ファンですらない野次馬も余計な詮索はしないだろうからちょうどいい。きっと積もる話もあるだろうし。  そんな打算も含めて、藤間桜の最終確認に私は軽々しく頷いた。 ◆  イヴの夜、通しリハを早めに切り上げてそのまま藤間宅へと同伴で帰宅した。  別れる際の際まで西浦そらは行きたい行きたいと駄々をこねていたけれど、他の後輩たちの制止と主催者、藤間桜の「今日はOG会だからゴメンね〜チャオ〜」という一体どこの出身なのかわからない捨て台詞にとうとう折れて、ついにはレッスンルームの隅で膝を抱えはじめてしまった。  何に対抗心を燃やしたのかわからないけれど織原純佳や瀬良穂乃花が突発後輩会の開催を提案していたので後でどうなったかくらいは聞いてあげるとしよう。  慕ってくれているからか、なんだかんだで西浦そらには甘くなってしまう。選り好みはよろしくない。後輩には分け隔てなく接しないと。  で、タコ焼きパーティの材料を道すがらのスーパーで買い込み、大きく膨らんだ袋を抱えて二人して家路を急いだ。  両手の指に食い込むレジ袋の重みが、なんだか寮時代のお好み焼き会を思い出して柄にもなく懐かしさを覚えてしまう。そんなセンチメンタリズムを感じるような性格ではなかったと自覚していたから、少しだけ驚いた。  部屋に入り、キッチンスペースに食材を置いて部屋を見回す。 「想像してたより小綺麗だわ」 「忙しい合間を縫って掃除間に合わせたんだから褒めて〜」  いちいち答えるのも馬鹿らしいのでスルーして必要のあるものを冷蔵庫へと仕舞い込む。庫内にはそこそこ有名な洋菓子店のロゴが入った箱が鎮座しており、前もってケーキを買っておいたことが伺える。藤間桜は行き当たりばったりなように見えて意外とマメなのだなと少し感心したところで、来客を告げるチャイムが聞こえてきた。  ぱたぱたとスリッパを鳴らして藤間桜がちかちかと緑のランプが点滅する操作盤に駆け寄り、ボタンを押すとぱっとモニターが切り替わり、しきりに前髪をいじりながらインターホンの反応を待つ佐藤麗華の顔が大映しになる。 「麗華ちゃんいらっしゃ〜い、今開けるね」 『ウチもおるで〜』  画面外からひょこりと神木みかみが顔を覗かせた。  こちらからはカメラで玄関の様子を確認できるが、向こうにはモニターなどついていないので特に何もコメントは挟まずに藤間の解錠操作を眺めた。 「ニーちゃん久しぶりぃ、元気やった?」  ほどなくして二人が部屋まで上がってくる。  白とピンクを基調としたふわふわもこもこ暖かそうな出で立ちの神木は、冬毛をまとってまるまると膨らんだシマエナガを想起させた。  対する佐藤はシンプルな白のブラウスと濃いグレーのロングスカートに上着を羽織ったくらいの比較的ラフな恰好。人前に出るわけでなし、落ち着いたカラーコーディネートも相まって目立たないけれど好印象だ。 「久しぶりってほどでもないでしょう。ついこの前のライブにも来てくれてたじゃない」 「久しぶりは久しぶりやもん。みかみん三日会わざれば寂しくて死んでしまいますや」  なにそれ。神木みかみは相変わらず独特な言語センスをしている。 「私たちが一番乗りかと思ったらニコルはもう来てたのね」 「ライブ直前だからさっきまでゲネ。事務所からそのまま来たもの」  佐藤が身につけていたマフラーを預かり、部屋の隅に立っているポールに掛け、入れ替わりにハンガーを手渡す。 「それにしてもニコルが誘いに乗るなんて、なんだか意外」 「そうかしら」  私だって、頑なだった頃とは少しくらい変わったのだ。それが良い傾向なのかどうかはさておいて。  キッチンへと目を向けると藤間と神木が楽しげにタコと、タコではないものを切り刻んでいる。……いったいこれから何を食べさせられるんだろう。  スーパーでは私には薄力粉などの基本的な材料しか買い出しを言い渡されなかった。  中に入れる具材……本来ならばタコのみであるはずのそれが、あろうことか合流した藤間の手にはまるまると膨らんだレジ袋が二つもぶら下げられていたのだ。何をそんなに買ったのかと聞いても答えてはくれなかったし、ちゃんと食べられるものが中に入っていることを祈るばかりだ。 「桜、お手洗い借りるわね」 「うん、この部屋出て二つ目の左のドアね」  荷物を置いた佐藤が腰を下ろすこともなく席を立つ。神木は手ぶらで、勝手知ったものですぐにエプロンを付けてキッチンへと行ってしまったし昨夜は泊まりだったのだろうことが見て取れた。  話し相手がいなくなって手持ち無沙汰気味にポケットからスマホを取り出そうとしたとき、またも部屋にチャイムが鳴り響く。 「あー、ごめんニコルちゃん出てくれるー?今手が離せなーい」 「さーちゃん刃物使っとる時によそ見せんといて!」  キッチンからの声にふたたび視線を向けると、藤間はなにやら大きくて硬いらしい材料を神木に固定してもらいながら包丁を入れているところだった。  ……おそらく南瓜かなにかだろう。そうであってほしい。祈るようにしながら壁に埋まった操作盤の前に立った。 「使い方わかるー?」  さっきの操作を後ろから見ていたのでなんとなくは。見様見真似で応答、と書かれたボタンを押下すると問題なくモニターが点灯した。 「……開けるわね、入って」 『その声はニコるんだね。やっほー、来たよ』  モニターに映し出されたのは果たして、見違えるほどに背が伸びて大人びた体つきに成長した戸田ジュンだった。何度かライブを見に来てくれていたから驚きはない。  私が驚き、戸惑い、思わず言葉を失いかけた理由は、戸田の隣に立った白いトレーナーにミリタリージャケットを羽織った少女、東條悠希の姿をみとめたからだ。 ◆  材料の準備が整い、出席者六名がテーブルを囲んだけれど、その真ん中にはまだホットプレートは登壇していなかった。 「お待たせ〜焼き上がったと思ったら各自でひっくり返してね」  ダイニングキッチンから半分ほど焼けたそれを藤間がプレートごと運び込んできて、ようやくタコパの開催と相成った。 「や〜、口にいれるまで何が入っとるかわからんからどきどきするわぁ。材料切るの手伝ったから何があるかわかっとるし、余計に」 「桜、あんまり変なものとか入れてないでしょうね」  ちりちりと、煙だか湯気だかわからない白いもやを上げながら、刻み紅生姜が混ざった生地に火が通っていくのをまじまじと見つめた。 「第一陣は半分くらいタコ入れたよ」 「ってことは半分はタコじゃないってことじゃん。コワぁ……」 「あたしはけっこう楽しみかも!たとえば何入れたの?」  家主の横暴な所業にドン引きする東條のとなりでは、戸田が何が楽しいのかうきうきと体を上下に揺らしている。身体は年相応に大きくなりはしたものの、中身は相変わらず子供っぽさが見え隠れしていた。 「えーと、キムチとかお餅とか……あ、ジュンちゃんのためにエリンギも入れたよ」 「うわぁ、もはやデジタルタトゥーだよそんなん。一生擦られ続けるやつじゃん」 「ちゃんとバターでソテーしたから生焼けってことはないと思うから安心してね」  手が込みすぎていて、ネタに全力すぎる。  苦虫を噛み潰したように顔をしかめる戸田の様子に思わず吹き出しそうになって顔を背けた。バラエティ番組でも今でもしっかりとネタにされていて、その出来事がいかに衝撃的だったが伺えた。  焼き上がったうちのひとつを皿に盛り、箸でつまんだ佐藤の動向を全員が息を呑んで見守る。 「……あなたたちも食べなさいよ。せめてせーので一緒に」 「いやぁ、こういうんはリーダーが最初のほうがええかなって思て」 「そうそう、リーダーリーダー」 「元リーダーなんだけどなぁ……ええい、ままよ!」  神輿を担ぐ能天気集団(業腹だが私も含まれている)に煽られて、佐藤は意を決したようにもしかしたらタコ焼きではないかもしれないタコ焼きを頬張った。はふはふと口の中で転がしたあとに咀嚼し、味わう。 「ん〜〜〜……んん???なんだろコレ……あ、貝系?」  果たして、引き当てたのは茹でアサリ。想像したよりはるかにまともで、なんだったら拍子抜けだ。  佐藤が一番槍を務めたことでメンバーもそれぞれが焼き上がったものを口にし始める。 「キムチだ。シャキシャキの食感が不思議だけどなかなかいけるな」 「甘ぁ!?チョコだこれ!!あ、でも意外と……」 「お餅や〜。おいしいけど、なんか一味足らんなぁ」  私の分にはタコと似たような食感の具材が入っていた。弾力があり、なかなか噛み切れないが、噛めば噛むほどに魚介系のうま味が口の中に広がっていく。悔しいが美味しい。 「イカ、かしら」 「シーフードミックス入れたから多分正解」  そんな具合に、イヴの夜は更けていった。 ◆ 「なー桜、おさけのんでいい?」  点けたテレビから流れるクリスマス特番を眺めていると、一通り具材を試し終わって評判のよかったものを選抜して焼いていた藤間に、東條が話しかけるのが聞こえた。 「別にいいけど、そういえば用意してないなぁ」 「いいんなら買ってくるし。他に飲みたい人とかいる?」  言って東條はリビングを見回した。 「弱いから私は遠慮しておくわ。一口二口もらえたらいいや」 「ゆーちゃんお酒飲めるんや。オトナやなぁ。ウチはからっきしやし、すぐ赤くなってまうねん」  私も呑めはするけれど、浴びるほど飲みたいというわけでもなかったのでグラスに少し注いでくれたらそれでいいと伝えると、藤間が残りを受け持つということになり、東條はジャケットを羽織る。お菓子ばかり食べているくせに変なところで健康志向の戸田はいらないと答えた。 「つまみにスナック菓子かなんかも買ってくるけど適当でいい?」 「あたしキャベツ太郎食べたーい」  そう答える戸田はもはや起き上がることすら放棄して佐藤の膝に頭を乗せて寝転がりながら手をひらひらと振っていた。  気温は低かったが、風がないので体感ではそれほど寒さを感じなかった。冷えを感じないのに吐く息だけがやたらと白くて、なんだか妙な感じだ。 「えぇと、どっちだっけ」  マンションの玄関を出てから東條は周囲を見渡した。来るときにコンビニは見かけたような気がしたけれど、いかんせん土地勘がないので何とも言えない。 「マップ見てみるわ」  スマホを操作してアプリを開いて検索ボックスにコンビニと打ち込むと、候補のピンがいくつも表示される。一軒見かけたくらいだと思い込んでいたけれど、それはところ狭しと店を構えていたらしい。 「右ね」 「サンキュー、ニコル」  買い物を済ませ、レジ袋を一人ひとつづつぶら下げて頼りなげな蛍光灯が照らす夜道を歩いた。 「で、なんか用事?」  果たして、先に口を開いたのは東條だった。  そのまま見送ってもよかったというのに、私の口は勝手に動いてしまったのだ。「待って、私も行く」と。  大量の買い出しでもなしに、荷物持ちなんて必要もない。けれど、今を逃したらいけないと思ったから、頭で考えるよりも先に身体が動いていた。私らしくもない。  明確に言いたいことがあったわけではないし、そもそも東條が在籍していたときだってほとんど接点なんてなかった。ただのグループメンバー。それ以上でもそれ以下でもなく、当時の私はただ上だけを見て躍起になっていた。  質問に答えられずに眉を寄せていると、東條がジャケットのポケットをまさぐる。 「吸っていい?」  出てきた手には見慣れない機器と、紫色の小箱が握られていた。  少し面食らったのちに頷くと、そばの公園の入り口に備え付けられた車止めに体重を預けて、東條はパッケージから取り出したスティックを機器に差し込み、スイッチらしきボタンを押下する。  ほどなくして点灯したランプの色が変わると、半分ほどはみ出したスティックを咥えてストローでドリンクを飲むみたいに息を大きく吸い込んだ。  天を仰いで細く長く吐く。冷え込みからくる息の白さとは別種のそれが、黒い夜闇に溶けていく。 「意外だった?」 「別に」  自分から飲酒を申し出るくらいだし、喫煙が常習化していても不思議には思わなかった。なにより「卒業」してから初めて姿を目の当たりにした時から、擦れたような、拗れたような、陰の雰囲気を纏っていた彼女ならそうであってもおかしくはないだろうと自然とレッテルを貼り付けてしまっていたからだ。 「吸う?」 「まさか」  アイドルの喫煙はご法度中のご法度だ。そういうコンセプトのグループならまだしも、清純派(と言い切るには泥臭すぎるきらいはあるにしても)で売っているうちにはそぐわないし、ファンも多くはそれを望んでいないだろう。  語気を強めて拒否を示すと何がおかしいのか東條は軽く笑ってまたスティックを咥えて毒を吸い込む。 「案外悪くないよ、これ。喫煙所で偉い人といっしょになってそこから仕事もらったこともあるし、友達もできたし」  だとしても世間体には釣り合っていないだろう。ふんと鼻を鳴らして拒むとそれ以上は踏み込んではこなかった。 「わたしさぁ、辞めて後悔してないよ」  「ボク」ではなく、東條は自分のことを「わたし」と称した。今年の初めの柊の言が脳裏をかすめる。在籍当時が仮面だったのか、それとも今がそうなのか、わからないけれど、なぜだか私は歯噛みして続く言葉を待った。 「言ったっけ。理由」 「発表されたこと以外は、何も」  当時から勘ぐることはしなかった。大事なことは続けるか、これっきり辞めるかのふたつにひとつだと思っていたからだ。その二択の間にある理由というものなど、言い訳や弁明でしかないと思っていたから、気にも留めていなかった。 「あの封筒が届いたときさ、地元の親友が大変だったんだよ。サッカーの」  そんな口調で東條は語りだした。 ◆  そいつとは幼馴染みでさ。ちっちゃい頃からずーっと一緒にサッカーやってたんだよ。  幼稚園から高校まで、ずーっと一緒。もはや腐れ縁ってやつ。  え?あー……うん、男の子。でも別に恋仲だったとかはなかったかな。中学の頃にそいつにもめでたく彼女ができたんだけど、その時も別にどうとも思わなかったし。でもすぐに別れてさ。その時は部活のみんなと大いに笑ってやったよ。  で、二人して……じゃないか。もう何人かいたサッカー部のみんなで地元のけっこう強いサッカー部がある高校受験してさ。残念だけど全員揃って合格ってわけにはいかなかったけどそいつとわたしは受かってさ。もちろん入学式のあとすぐにサッカー部に入部届出しに行ったよ。  でも女だからって最初はなかなか取り合ってもらえなかったなぁ。入部テストで先輩全員ってわけじゃないけど半分以上はコテンパンにのしてやってようやく入部させてもらえたんだけどね。すごいだろ。  ……前置きが長い?  ゴメンゴメン。ごめんて。  ま、そんな感じで薔薇色の高校生活が始まったわけ。けど、入部してすぐの新人戦でそいつ、脚をやっちゃってさ、もう選手生命が絶望的なくらいの大怪我。なんなら日常生活にすら支障が出るくらいの重傷。むしろよく出血多量で死ななかったなってくらいのやつ。骨って白いイメージがあるけど実際は黄色いんだってそのとき初めて知ったよ。  そんで一命はとりとめたんだけど、言ったように復帰は絶望的でさ。幼稚園からずーっとサッカーしかやってこなかったサッカー馬鹿だったから、医者にそう言われて最初は自暴自棄になって、そのあとすぐに抜け殻みたいに真っ白に燃え尽きちゃったんだよ。何を言うにも語尾に死にたいってつくくらい、カラッカラに干からびてた。  その時だったかなぁ。封筒が届いたのは。  サッカーを奪われたやつにわたしがサッカーすることで元気づけようなんてできやしないし、きっと見せびらかすみたいな当てつけにしかならないから、これだ、って思ったよ。幸いサッカーしか興味ないってわけじゃなくてそいつも人並みにアイドルとか好きだったし、ホントもうこれしかないって思った。  そうやってわたしはアイドルとして国立を目指すことにしたわけ。  ……けど、コロナが流行ったじゃん。  よっしゃやるぞ!って息巻いてたのに思うように活動できなくなって、でも何かしたくて、いろんなことに手を出したっけなぁ。サッカーしか能がなかったわたしがどうにかして目立とうとして、タロットとか手相とか、へたくそだけどギターも弾いたし、脚本書いたり衣装プロデュースしたり。そう。わたしは何が何でも国立に行きたかった。全部そいつのため。だって生きていてほしかったから。  なのにさ、そいつ、とうとうリハビリ施設かどっかでもらっちゃってさ。うん、コロナ。  お笑いだよね。リハビリ施設なんてだいたいが病院と併設されてるわけで、生かすための施設で死ぬような病気もらうなんてさ。  今となっちゃ対処法もわかってきてインフルみたいな扱いだけど、当時はそりゃあ誰もが知ってる有名人だって命を落とすくらい怖い病気だったからさ、もう、終わりだって思ったよ。その上つぼみたちが卒業するってことになって、みかみまで陽性さんになっちゃって、もうわけわかんなくなって、その時ふと思っちゃったんだよね。  わたし、何やってるんだろうって。  勇気づけたいやつがもしかしたら死んじゃうかもしれなくて、勇気づけるために選んだ仕事も思うようにいかない。なーんにもなくなって、目の前が真っ暗になって、そう思ったら急に生きる気力すら沸かなくなって外に出るのも億劫になった。もういっそ殺してくれって思うようになった。自分で死ぬ勇気なんて持ち合わせてなかったから、誰でもいいからさっさと殺してくれって。  わかんなかったしわかりたくもなかったけど、そいつも怪我したときこんな気持ちだったんだなってそこでようやく理解したよ。やりたいことがやれないのってこんなにつらいんだって。  そう思ったら、壁から「指令」が出てた。  きっとわたしはあの時結局死ねはしなかったけど、幽霊になっちゃったんだ。 ◆  三本目のスティックを機器から引き抜いて、携帯灰皿に放り込んでから東條は言葉を切った。 「……その人は」 「ん?」  言うのが憚られたが、意を決して唇を引き結んで続ける。 「その人は、その後どうなったの」 「元気だよ。リハビリもやりきって、今は地元で小学生にサッカー教えてる。長時間のプレーは出来ないけど、フットサルくらいの時間ならフルで出れるくらい」  ほ、と息をついた。どうやら最悪の事態には至らなかったらしい。 「ほんと笑うしかないよ。そいつは完全じゃないにしても大好きなサッカーに今も携わってるのに、わたしは人生設計めちゃくちゃだ」  言って東條は乾いた笑いをこぼす。見ていられなくなって目を背けた。 「でも、別に恨んでたりとかそういうのはないかなぁ。わたしは好きだったサッカーとは距離を置いたけど、代わりに舞台っていう生きがいを見つけられたから」  顔を上げる。少し淋しげではあったけれど、薄青い蛍光灯の灯りに照らされたその表情はいくらか生気に満ちていたように見えた。  私にとってのアイドルがそうであるように、今の東條にとっては舞台女優と脚本家が生きる理由なのだろう。 「死にたかったけど、死ななくてよかったって今では思うよ」  スティックの小箱を開きかけて、東條は視線を虚空にさまよわせる。短時間に吸いすぎだとでも考えているのか。 「……どうして」  沈黙を破った私の言葉に彼女はなにもない中空から視線をこちらに向けた。 「どうして私に話したの。神木さんや柊さんにも話してないんでしょう」  聞いた話によれば、同期はおろか、他のメンバーにも辞めた理由までは打ち明けていないらしかった。  なぜ、私だったのだろう。 「……やっぱりボクにとってはみかみとつぼみだけは特別で、大好きだからさ、こんな暗い話して嫌な思いをしてほしくなかったから」  それならなおのこと打ち明けるべきだ。顔には出さなかったけれど、二人ともきっと片時だって東條のことを思わないことはなかっただろう。 「それに、ニコルならわたしの気持ちわかるんじゃないかな、って思ったし」  続く東條の言に、折れかけたときの情景が脳裏にフラッシュバックする。  確かにあのとき私も死を望んでいたから。  小さくため息をついていいかげん立ちっぱなしで疲れた脚を休めようと、ふたつ並んだ車止めに私も腰を下ろした。 「やっぱりもう一本だけ吸っていい?」 「好きにすれば」  許可を口にすると、東條はまた電子タバコを口に含ませる。  立ち位置が変わって風向きも変わり、東條の吐いた息が私の鼻にも届いてきた。  焦げたポップコーンのような厭な匂いとベリーのフレーバーが混ざった白が、私の鼻腔をかすめて黒に混ざっていく。  たまらず誤魔化すように空を見上げるとちらほらと白い粒が舞い落ちてくるのに気がつき、後輩たちがホワイトクリスマスになるかもしれないと湧き立っていたのを思い出した。 「今年はじめての雪だ」  そうだっただろうか。ニュースのお天気コーナーで初雪はとっくに観測したと聞いた記憶がある。けれど、それは機器での計測のことを指しているのだろうし、見えるのと見えないのでは大違いだ。  今まで見えなかった、見ようともしなかったことを知らされて、心の整理がなかなかつかなかった。  だって理由を知ったところで、彼女がグループを去った事実はいまさら覆らないのだから。  そんな詮無いことを思いながら、きっと積もらないであろう雪をしばらく眺めていた。 ◆ 「ただいまー……っぷぁ!?」  少し気だるげに言いながら東條がリビングの扉を開くやいなや、フローラルな香りの霧が吹きかけられる。  なにかと思えば、戸田ジュンがものすごい形相で消臭スプレーを手に仁王立ちをしていた。 「ゆーき、またタバコ吸ったでしょ。健康に悪いよ」 「い、いいだろ別に。電子だから健康被害は少ないし、匂いもすぐとれるって言ってるじゃん」 「お酒はともかく……いやお酒も飲み過ぎはよくないけど、タバコは百害あって一利もないんだから」 「い、一利くらいはあるし。タバコミュニケーションってやつ」  拗ねた子どものように唇をとがらせて弁明をする東條に戸田は表情を変えずに追い討ちのように消臭スプレーを吹きかけた。健康オタクの戸田に捕まったのが運の尽きだ。 「やめろー!健康なんかになりたくないー!!」  あのころ、当たり前のように目の前で繰り広げられていたやりとりが、なぜだかやけに眩しく感じられて、目を細める。細めた下まぶたから雫が落ちて、私はそこでようやくいつの間にか涙を流していたことに気がついた。 「わぁ!?ニコるんどうしたの!大丈夫?スプレー目に入ったりした?」  吃驚した戸田が心配そうに顔を覗き込むけれど、拭っても拭ってもあとからあとから流れて止まってくれやしない。 「ニーちゃん」 「ニコル」  神木と佐藤の言葉に顔を上げると、ふわりと優しく抱きしめられる。 「よしよし。ええ子やから、泣かんといて」  しゃくりをあげる私をあやすように背中をぽんぽんと叩かれて、思い知った。彼女たちはもう、いないのだ。  目の前にいるのに、こうして触れ合えているというのに、もういないのだ。あのころ手を伸ばしさえすれば当たり前に触れられたはずの彼女たちは、気づいたときにはもう手が届かなくなってしまった。すぐそこにいるのに、腕も掴めない幽霊だ。  それが今更になって無性に悲しくて、心に溜まった三年分の涙をただ流し続けた。  あぁ、この場に後輩たちと、あの子がいなくてよかった。こんな情けない姿、見せられるわけもないから。  そうやって、イヴの夜は更けていく。  顔も知らない会ったこともない大昔の聖人の誕生前夜。恋人たちがこぞって行為にいそしむ性の六時間。世のアイドルたちがせっせと稼働する掻き入れ時。そんなものよりも今日という日は私たちにとってはもっとずっと大切な日だ。  それまでばらばらだった私たちが、私たちになった一年でいちばん大切な記念日だ。 了