コスモスとスイートピーは、片想い同士でした。 コスモスはスイートピーの可憐な花のかたちが大好きでした。美しさを見せびらかすように花々の間を飛んで蜜を吸いにくる蝶も、スイートピーの前ではどこか恥ずかしそうにしていたものです。 スイートピーはコスモスの力強く咲ける凛々しさに、どうしようもないほど惹かれていました。寒さの混じる秋風に吹かれても、野山を埋め尽くすばかりに咲き誇るコスモスの姿を見ていると、スイートピーは冬を乗り越える勇気をもらえるような気がしました。 けれど、ふたりはずっと片想い同士のままでした。コスモスは秋の花で、スイートピーは春の花だったからです。 誰だって、好きなひとの前ではいちばん綺麗な姿でいたいものです。ふたりはどれだけお互いの咲く姿に見惚れても、そのときまだ蕾でしかない自分が恥ずかしくて、陰から見ていることしかできないのでした。 そうやって想いを打ち明けられないまま、季節だけが過ぎていきました。このまま時が経ってしまえば、ふたりは枯れてゆくばかりです。恋という花は咲くことはないでしょう。 ふたりは同じことを考えていました。 「お花屋さん、お花屋さん」 コスモスとスイートピーが話しかけたのは街の花屋でした。 「どうかわたしを摘みとって、あなたのお店においてください。 わたしがいちばん綺麗なときに、わたしの時間を止めてください」 花屋は違う花が、春と秋に同じことを言うのを不思議に思いました。 (ははあ、きっとこの子たちは恋をしたんだな) 花屋はそれに気がつきましたが、何も言わずにコスモスとスイートピーを、いちばん綺麗に咲く季節に摘みとって、店の前に置いてやりました。 花屋はいつでも、恋するひとの味方だったからです。 隣に並んだコスモスとスイートピーは、いつまでも見つめあっていました。大好きなひとの隣にいても、胸を張れる姿でいることがうれしくて仕方なかったのです。 見栄っ張りだけれど気のいい蝶も、花びらを優しく撫でてくれる野の風もここにはありません。誰かの手を借りなければ動けないふたりは、こんなに愛し合っているのにキスの味さえ知らなかったのです。それでも、ふたりはただそばにいるだけで幸せでした。 けれど、その時間は長くは続きませんでした。 コスモスを見初めたのは、図書館通いの内気な少女でした。片想いの相手に愛を伝える勇気がほしいと言う彼女に、花屋はコスモスを売ってあげました。 いかないで、というスイートピーの声を聞いても、花屋は悲しそうに首を振るだけでした。花屋はいつでも恋するひとの味方だったからです。 ひとりになったスイートピーも、すぐに買われてゆきました。それはあの少女の片想いの相手の、眼鏡をかけた図書館の司書でした。 お互いの顔を見るだけで照れて言葉が出なくなるふたりは、コスモスとスイートピーを部屋に飾って、お互いに見立てて話しかけていました。そんなふたりを、コスモスもスイートピーも見捨てられませんでした。 ふたりを見るたびに、コスモスとスイートピーは恋をしていたあの日のことを思い出したからです。 葉が萎れても、花びらが色褪せても、コスモスとスイートピーはふたりのそばにいました。 そうしてまたいくつかの季節が過ぎて、ふたりはついに想いを伝え合いました。 「わたし、花屋でコスモスを買ったわ。あなたのことだと思って好きって話しかけると、少し色が綺麗になる気がするの」 「ぼくも同じ店で、スイートピーを買ったよ。 今日のために好きって言う練習をしていたんだ」 ふたりの部屋の片隅で、コスモスとスイートピーの最後のひとひらが、はらはらと落ちてゆきました。 こんな悲しい恋の話はもう止しましょう。 ひとつの恋が実るたびに、どこかで別の恋が枯れてしまう。恋することに疲れると、こんなことばかり考えてしまうのです。 本を読む彼女の声は実に柔らかで心地よく、本を閉じた後にも、穏やかな春の日差しにその名残が浮かんでいるようにさえ思えた。ただひとつ、読み聞かせる相手がいないのが玉に瑕だが、彼女はひとりになったからこそ声を出して読んでみようと思ったのだから、是非もない。 その優しい声を買われて読み聞かせを頼まれ、図書室でなんとなく目についた本を借りて読んでみたが、その結末は彼女を少しだけ憂鬱にさせた。 彼女が部屋の中に生けた物言わぬ友達にも、もしかすると片想いの相手がいたのかもしれない。自分はその恋を二つに割いて、その片割れを部屋に飾る魔女なのではなかろうか、という空想が、ほんの少しだけ彼女の心を過った。 隣にいられるなら、それだけで幸せというつつましい愛の形は、彼女にもひどく覚えのあるものだった。一篇の物語に心を遊ばせる趣味はない彼女がここまで心を乱されたのも、偏に自分のことを言われているような気がしたからだ。 だが、窓辺から差す夕陽は、彼女をすぐに現実に立ち戻らせた。そうまで想っているなら、この本を誰かに見せて、その気持ちを徒に知られるようなことは避けたい。もうすぐ会議を終えて帰ってくるであろう彼には、特に。 「ごめん、お待たせ。 誰か来てたのかな。声が聞こえたけど…」 「あ…!トレーナーさん…!」 もう少しだけ早くそれに気づいていれば、その願いは叶ったのだが。 「別に恥ずかしがらなくてもいいのに。途中からしか聞こえなかったけど、すごく上手だったよ」 「いえ、とんでもないです…お引き受けしましたが、まだまだ上手く読めなくて…もう少し精進が必要ですね」 皆が思わず感嘆の吐息を漏らすほど、可憐で慎ましやかな佇まいの、それ故に一歩引いてしまいがちな彼女──カレンブーケドールに対して、前を向いてもらおうと穏やかに寄り添うのが、彼の常だった。 その関係を理想のウマ娘とトレーナーの像として羨む者もいるくらいなのだが、優しすぎると言われるほど慎ましやかな彼女の在り方の裏に隠された想いに気づくものはそういない。 「読んでいい?」 「…はい」 そう言われたときの恥じらうような表情を見れば、その想いの名前は一目瞭然であるのだが。彼がこうして自分のことを気にかけてくれる度に、彼女が喜びの他に自分の想いを曝け出すような切なさを感じるようになったのは、つい最近のことだった。 「コスモスとスイートピーは、好きって言えたのかな。 一緒になっても恥ずかしくて、見つめ合ったままだんまりだったりしたかも」 「かも、しれませんね。他のお花もきっと見ていますから」 鏡写しのように、ふたりは恥ずかしそうに頬を指で掻いた。 「あはは、確かに。 …でも、幸せだったよね、きっと」 「…はい。そう思います。 ずっと、そばにいられたらよかったのに」 「…そうだね。 本当にそうだ」 朗読会を終えた後の彼女の心の中を、やりきったという安心感と、あのほんの少しの憂鬱が満たしていた。 報われない恋を自分の口で語るには、やはり彼女は若すぎたのかもしれない。実らなかった恋は、甘い過去ではなく現実になるのかもしれないのだから。 「おつかれ」 だが、そんな彼女の想いになど気づいていないように、子供のように少し悪戯っぽく笑う彼を見ると、やはり彼女の胸は少しだけうるさくなった。 「やっぱり上手だよ。みんな聞き入ってた」 慎ましやかな彼女の埋め合わせをするように、彼はいつも恥じらうことなく堂々と彼女を褒める。そんな彼に、彼女もいつしかただ恐縮するのではなく、恥ずかしそうに笑いながら応えるようになっていった。 「ありがとうございます。準備はしたけど、やっぱり緊張して…最後は、お花に励ましてもらいました」 胸に挿した一輪の花を勲章のように撫でながら微笑む彼女を今度はからかうように、彼はくすくすと喉を鳴らした。 「俺は絶対上手くいくって思ってたけど。あんなに練習してたし」 「…もう。持ち上げすぎですよ」 手振りを交えて少し大袈裟にそう口にする彼を、流石の彼女も恥ずかしそうに嗜める。だが、恥じらいを本当に隠したかったのは、むしろ彼の方であったかもしれない。 「そんなことないよ。ほんとに良かった。 …だから、プレゼントを持ってきたんだ」 神妙な面持ちで目を細めた彼が紙袋から取り出したのは、雪のように白い紙に包まれた、一束の花束だった。 彼女を驚かせたのは、その色彩だった。小柄な彼女の両手いっぱいに、溢れんばかりの赤と桃色が花を咲かせている。 花の盛りの野山を切り取ってきたかのような鮮やかさに、彼女は一瞬息を呑んだ。 「これって…」 だが、本当の野にはありえない光景が広がっていることにも、彼女はすぐに気づいた。 小さな太陽のように、淡く色づいた花びらをめいっぱいに広げて咲く桃色。飛び立とうとする蝶の羽をそのまま茎に連ねたような、艶やかなシルエットの赤色。 コスモスと、スイートピー。花束の真ん中に寄り添い合って咲くふたりを、野の草花たちが祝福するように彩っていた。 彼女に手渡された花束は、今摘んできたばかりのような瑞々しいものだった。適切に手入れをすれば、きっと長持ちすることだろう。花の扱いに日頃から、慣れている者ならば。 「ブーケならふたりを、ずっと一緒にいさせてあげられるんじゃないかと思って」 「…!」 物語は、彼女が美しく語り聞かせてくれた。ならば彼女には、別の結末を用意してやってもいいだろう。 いつまでも一緒に咲き続けられる、ささやかな奇跡を。 「はい…! きっと何度季節が巡っても、ふたりを離ればなれになんて、させません」 控えめな性格の彼女が、感情を言葉や仕草にはっきりと表すことは珍しい。そんな彼女がゆったりと嬉しそうに尻尾を揺らしている姿は、ずっと見ていても飽きないものだった。 「…トレーナーさんのほしいものは、なんですか? こんなに素敵なものをいただいて…だから、何かお返しをさせてください」 それでも真っ先に自分への恩返しを口にするあたり、どこまで行っても彼女は彼女なのだと、彼は得心した。 そんな彼女の果てしなく深い優しさを、彼はどこまでも愛していた。 「…ブーケがG1を勝つところとか、見てみたいな」 「…!」 だからこそ、そんな彼女が夢の舞台に立ち、栄光を掴むことを、誰よりも望んでいた。 競走者としては優しすぎると、彼女を評する声もあった。あらゆる距離で好走し、既にG1を獲ったライバルたちに先着することもしばしばでありながら最後には一着に手が届かないのは何故なのかという理由は、トレーナーである彼も薄々勘づいていた。 決して手を抜いているという訳では無い。だが、最後の直線で競り合うときに、彼女はどうしても相手を負かしたときのことを考えてしまうのだ。 「ブーケはすごく優しくて、皆も、俺も、ブーケのそういうところがすごく好きなんだ。ブーケとずっと一緒にいて、心からそう思うよ。 無理に変われって言っても上手く行かないなって思うし、そうしたくないなって思ってる」 それが彼女の潜在能力に無意識のうちにブレーキをかけていることは、彼も承知していた。だが、そんな彼女に甘さを捨てて鬼になれと言えば全て解決するとは思えなかった。 何よりも、彼女が皆に愛される理由であるその優しさを消してしまうことは、彼女を彼女でなくしてしまうに等しいと、半ば確信していた。 レースが終わったとき、彼女はいつも申し訳なさそうな顔をする。それはただ勝利に手が届かなかったが故ではなく、競い合う者としては欠陥とさえ言える自分の性格に罪悪感を覚えていたからなのだと、彼は漸く気づいた。 彼女の優しさを想って、彼は決断した。 「…そんなブーケが勝ったら、みんな喜ぶよ。俺も、ファンの皆も、同じレースを走ったウマ娘だって、喜んでくれるかもしれない。 だから、大丈夫。ブーケが勝ってふしあわせになるひとなんて、誰もいないから」 彼女が彼女のままで、栄光に手が届くようにしてみせる、と。 誰よりも優しい彼女が報われてほしいと、世界中の誰よりも強く願っているから。 彼女は何も言わないまま、暫く俯いていた。 だが、やがて顔を上げた彼女の瞳は、今までとは違う強い輝きに満ちていた。 「…スイートピーは、秋にも咲けると思いますか? コスモスみたいに大切なひとの隣で、綺麗に咲けるって、信じてくれますか?」 自分のために走ることは、どうしてもできそうにない。燦然と輝く個性の塊の同期と自分を見比べて、彼女が身に沁みて感じた結論だった。 けれど、誰かのためなら走れるかもしれない。桜にも負けないくらい美しく、樫の木のように力強く、咲き誇れるかもしれない。 「…うん。 初めて見たときから、ずっとそう思ってる」 芽吹き始めた若葉の頃から、きっと綺麗に咲くと信じてくれた誰かが、そばにいてくれたのなら。 壁に飾られた色とりどりの花束が、月明かりを吸って柔らかな彩りを纏っている。彼女はその一番いい場所に、コスモスとスイートピーの花束を丁寧に懸けた。 だが、そこからコスモスの花を一輪だけ取って、いちばん大切にしているうさぎのぬいぐるみの耳にそっと結わえることは、忘れなかった。 彼がくれた言葉も、想いも、全部が胸の奥を優しく温めてくれている。でも、大切なひとを思うと胸の奥が切なくなることもあるのだと知ってしまったのも、間違いなく彼のせいなのだ。 「…ずっと、そばにいてください。 わたしの、コスモスさん」 ぬいぐるみに顔を埋めたそのひとことは誰にも聞こえないくらいの小さな声だったが、それでも彼女の頬は焼けてしまうくらいに熱くなった。 優しい彼女のたったひとつのわがままを、丸く満ちた月だけがそっと聞いていた。