私のトレーナーさんは、とても頑張り屋さんなひとです。 いつも私のトレーニングメニューを組むために、遅くまで仕事をされています。仕事が長引いて家に帰らずに、仮眠室で夜を明かすこともあるようです。 私のために頑張ってくださるのはとても嬉しいのですが、ご自分の時間も全部そのために使っているのではないかと思うと、申し訳ない気もします。一度、少しお休みしてはいかがですか、と申し上げたこともありました。 「ありがとう。でも大丈夫だよ。 今、すごく仕事が楽しいんだ。自分がやりたかったことが本当にできてるって気がする」 屈託なく微笑むトレーナーさんに、私はもう何も言えませんでした。そう言ってもらえて、私も嬉しかったからです。 私にできることは、トレーナーさんが一生懸命考えてくれたメニューを精いっぱいこなすこと。あとは、少しでも疲れをとっていただけるように、仮眠室をお掃除しておくことくらいです。 ちょうど、かわいいピンクのマーガレットのお花が手に入りました。 ほんの少しだけでもいいから、このお花がトレーナーさんの心を和ませてくれますように。 私のトレーナーさんは、ちょっといじわるなひとです。 「おはよう。昨日はありがとうな。練習の後なのに掃除もしてくれたみたいで」 昨日も仮眠室で休憩を取りながら、遅くまでお仕事をされていたのでしょうか。私がお部屋を掃除しておいたことにも気づいていらっしゃいます。 ということは、枕元に活けておいたあのマーガレットにも気づいているはずです。自信を持って選んだので、少しでも気に入っていただけているとよいのですが。 「ふふ、どういたしまして。でも大丈夫です。お片付け、結構好きなんですよ。 それと、あのお花は──」 そう思って早速尋ねようとしたのですが、トレーナーさんはそれを遮るように、いきなりこんなことを言いました。 「あ、そうだ。 昨日、妖精が来たんだよ」 「妖精さん、ですか?」 唐突にそう言われて何と返せばよいのかわからず、トレーナーさんの言葉をそのまま繰り返してしまいました。 「うん。夜間練習してるウマ娘の間でちょっと話題になってるみたいなんだけど、夜に頑張って仕事や練習をしてると、いつの間にかお花を持ってきてくれる妖精がいるんだって。 ブーケなら知ってるかなって思ったんだけど」 素敵なお話ですが、私には心当たりがありません。頑張っているひとにお花を贈るのが、ちょっとした流行になっているのでしょうか。 「初めて聞きました。でも、素敵な妖精さんですね。 トレーナーさんは、妖精さんを見たことがあるんですか?」 トレーナーさんはちょっぴり自慢げに目を細めて、その妖精さんの話をしてくれました。 だから、すっかり油断していたのです。 「うん。俺は昨日見た。 でも、ちょっとびっくりしたよ。妖精も自分で活けた花を写真に撮るんだね。 あんなに綺麗に活けられたら、やっぱり妖精でもうれしくなっちゃうのかな」 そのときの私は、どんな顔をしていたのでしょう。鏡がないから確かめることはできないけれど、きっととても滑稽な表情だったに違いありません。 「…!」 私を見るトレーナーさんの口元は、とても楽しそうに悪戯っぽく釣り上がっていましたから。 昨日のマーガレットは綺麗になるという確信が活ける前からあったのですが、いざ活けてみると思った以上に凛と咲いていて、うれしくて思わず写真に撮ってしまったのです。 あんなところまで、全部見られていたなんて── 「…トレーナーさんのいじわる」 わざわざ妖精さんの作り話をしてまで、私をからかうなんて。もう、疲れていてもお茶を淹れてあげません。 私のトレーナーさんは、本当にずるいひとです。 こうやって私をからかった後に限って、私がいちばん言ってほしいことを口にしてくれるのですから。 「ごめんごめん。でも、最初は本当に妖精の仕業なんじゃないかって思ってたんだ。 あの花を見てると、それだけで元気になるからさ」 そういうときのトレーナーさんの顔は、さっきのいじわるな笑顔とは違う、少し目を細めた優しい微笑みになるのです。 ──私はこの顔がいちばん好きだということにも、気づいているのでしょうか。 「…本当、ですか」 「うん。いつも本当にありがとう。 だから、今日も楽しみに待ってていいかな」 あなたの微笑みを見るたびに、私はお花のことを考えています。 今日はどんな花が、その笑顔に似合うでしょうか。 私のトレーナーさんは、ちょっといじわるです。 でも、とても優しくて、素敵なひとです。 私のトレーナーさんは、少し不思議なひとです。 私が時々部屋に活けているお花を、トレーナーさんはいつも大事にしてくれます。それはとてもうれしいのですけれど、自分が活けた花をトレーナーさんが愛でているとなんだか少し気恥ずかしくて、声をかけられずにいつもこっそり見守ってしまうのです。 それにしても、トレーナーさんはささやかな一輪挿しであっても、活けられた花を本当に大切にしてくれます。贈った私が少し不思議に思ってしまうくらいです。 まるでお話でもしているように、マーガレットを見ては微笑んでみたり、優しく指で小突いてみたり。 まるで、好きなひとと一緒にいるみたい。 私と会うまで、お花にはあまり縁がなかったそうです。そんなひとがこれだけお花を愛でてくれるようになったのなら、花が好きな身としてはこれ以上にうれしいことはありません。 なのに、不思議です。お花が大好きで、お花が大事にされているとすごくうれしいのに。 初めて、お花に代わってほしいと思ってしまいました。 私のトレーナーさんは、とても真摯なひとです。 手をかけて育てた分だけ綺麗に咲いてくれるお花のように、私がなにかすると必ず応えてくれます。 「これは…」 「プレゼント。ブーケにはいっつも、世話になりっぱなしだからね。 …ほんとは俺が、ずっとブーケを支えてあげなきゃいけないんだけどさ。まだ、そこまでできそうにないから」 うれしいのですけれど、少し困ってしまいます。別に、お返しがほしいからトレーナーさんに優しくしているわけではないのに。こんなに真剣に、ありがとう、と言われると、どうしてもそれを期待してしまいます。 「いつもありがとう。 だから、せめてこのくらいは返させてくれ」 「私のほうこそ、ありがとうございます。 …今、開けてみてもいいですか」 「…いいよ」 お互いに照れくさくて、少しぎこちない話し方になってしまいました。思えば誰かへの贈り物の相談を受けたことは何度もありますが、自分が何かをいただくということはなかったかもしれません。 「…綺麗」 入っていたのは、小さな竹の花籠でした。ふっくらと丸い荒編みの籠に、しなやかに曲がった竹の持ち手が付いています。少し茶色がかった竹の風合いは渋さを感じさせるのに、形はなんだか可愛らしくて、見ていて飽きが来ません。 どれだけの手間をかけて、この花籠を選んでくれたのでしょうか。そう思うと、自然とトレーナーさんと目が合いました。 トレーナーさんのお顔をこんなに見ていたいと思ったのは、初めてです。少し恥ずかしそうに、けれども優しいまなざしで私を見つめ返してくれるのが、心地よくて仕方ありません。 「前にさ、あの花は妖精の仕業なんじゃないかって思ってたって言ったでしょ。 でも、ブーケが活けてくれてるんだって気づいたら、もっとうれしくなった」 そう言うとトレーナーさんは、心の準備をするように一拍の間を置きました。 ──それがなんだか、告白するときみたいだと思ってしまったのは、私が浮かれているからでしょうか。 「ブーケの活ける花、好きだよ。 …だからブーケには、いつまでもここにいたいって思ってほしい」 花瓶は花のお家だから、できるだけ住み心地がよさそうな、かわいい居場所を用意してあげたいと、前にトレーナーさんに話したことがあります。ここで咲いていたいと、思ってくれるような。 「…トレーナーの意地、なのかな。 ブーケがいちばん輝ける場所は、俺が作りたいんだ」 そのことを、覚えてくださっていたのでしょうか。 いつの間にか、このひとの隣にずっといたいと思うようになっていました。 私には、自分の夢や望みがあまりありません。誰かが笑っているところを見る方が好きなのです。そういう性格が、ここ一番での勝負で勝ちきれないという、ウマ娘としての致命的な弱点に繋がっているのかもしれません。 だから、初めてなんです。 「トレーナーさんの好きなお花を、教えてください。 一緒に選んで、一緒に活けてほしいんです」 誰にも譲りたくない、ほしいものができたのは。 自分の欲を出すことに慣れていないから、まだ少し怖いです。加減が分からずに、もしかしたらこのひとを傷つけてしまうのではないか、と。 けれどトレーナーさんは、私がそう思っていればいるほど、優しく微笑んでくれるのです。 「ふふ。 なんだか、嬉しそうですね」 「嬉しいよ。 ブーケがはじめて、自分のしたいことを言ってくれたんだから」 だからほんの少し、夢を見てしまいます。いつか私が本当にしたいことを言っても、あなたは優しく受け止めてくれる、と。 あなたの隣で、咲きたい。ずっとそばに置いておきたいと、思ってくれるくらいに。 私のトレーナーさんは、春風のようにやさしいひとです。 私に、恋を教えてくれたひとです。