朝、私が学校に来て一番初めにすることは、花瓶のお水を替えることです。トレーナーさんの机の上に活けてあるお花を、できるだけ綺麗に長く咲いていられるようにすることに、私は下手をすると練習と同じくらい心を砕いているかもしれません。 「いつもありがとう。今日も綺麗に咲いてるな」 「ふふふっ、ありがとうございます。きっとこの子も喜んでいると思います」 頑張った子供にそうするように指先で優しくお花を撫でるトレーナーさんを見ていると、自分のことのように嬉しくなります。自分の育てているお花が、最近はなんだか同じ道を一緒に走る仲間のように思えて来ました。 「…頑張ろうね。私も、頑張るから」 自分にできる最高の輝きで、あのひとの期待に応えたい。私とお花の気持ちがひとつになったような気がしました。 ある日、私がいつものように新しいお花を活けていると、トレーナーさんがこう言いました。 「これからは俺も、花を替えるの手伝うよ。 はじめはいろいろ聞いちゃうかもしれないけど、いいかな」 どうして、と聞くのを忘れてしまうほど嬉しいお話でした。もちろん私はすぐさま快諾して、お花のお手入れをトレーナーさんに教えることにしました。 初めは私が水揚げや切り戻しをして見せるところを、後からトレーナーさんが真似をしていました。けれどトレーナーさんは飲み込みが早くて、二週間もすれば基本的なお手入れは一人でできるようになっていました。 「これでどうかな」 「とてもお上手ですよ。始めて二週間しか経っていないなんて、見ているのに信じられないくらい」 自分が好きなものに同じくらい誰かが夢中になってくれるというのは、誰にとっても嬉しいものです。それが大切なひとなら、なおさら。 「ありがとう。一応、自分でも勉強したからな」 「…ふふっ。ありがとうございます。 でも、どうして急に手伝おうと思ってくださったのですか?」 そのとき、私の頭には初めに確かめられなかった疑問が改めて湧いてきました。いつもトレーナーさんは私の活けるお花を喜んでくださいますが、自分で花の手入れをしようと思うような、特にこれといったきっかけはなかったはずです。 「あー…あはは」 私が尋ねると、トレーナーさんは少し恥じらうように目を細めて、両手を揉み合わせました。その理由を言うためには心の準備が必要だから、そのための時間がほしいと言っているかのように。 「…ブーケはいつも綺麗に花を活けてくれるけど、その花がいちばん綺麗だなって思うのは、落ち込んでたりちょっと疲れたなって思ってるときなんだ」 でも、私はあなたの目を見ていたいのです。 私のお花を見て輝くあなたの目が、何よりも好きだから。 「でも、そういうときにブーケの花とか、花を選んでくれるブーケを見てると、本当に嬉しくなるんだよ。こんなときにも綺麗に咲いてくれて、そばにいてくれてありがとうって」 トレーナーさんには、不思議な才能があると思います。 私がほしいと思っていた言葉を、いちばんほしいときにくださるのです。時にそれは、私自身さえ気づいていなかった言葉だったりするのですけれど。 「…花も、それで人を元気にできるブーケも、本当にすごいなって思った。だからちょっとでもいいから、俺もそういう人間になりたくて。 ごめん、いい大人が恥ずかしいよな」 でも、そんなやさしい心を、トレーナーさんは大人になりきれていない証拠だと思っているのです。 だから、お水をあげないといけません。 「…そんなことありません。 私も、トレーナーさんが活けてくれるお花を見ていると、元気になれますから」 その心が枯れずに、少しでも長く咲いてくれるように。 それ以来、どちらが言い出すでもなく、一週間おきに代わりばんこに花を選んで活けるというのが決まりになっていました。 前までは活けたお花を替えるとき、前のお花が萎れているのを見るのが少し悲しかったのですが、今はむしろトレーナーさんがどんなお花を活けてくれるのか、次に私はどんなお花でそれに答えたらいいだろうかと考えていて、お花を替えるのが楽しみになりました。 「なんか、彼岸花に似てるな」 「ふふっ。おっしゃる通り彼岸花の仲間ですよ。ネリネといって、冬の間しか手に入らないんです」 活けたお花をトレーナーさんが見てくれる度に、私は思いました。 花びらに伝えたいことをのせて、秘密の文通をしているみたいだな、なんて。 「綺麗だな。花びらがきらきら光って、雪が降ってるみたい」 「…そうですね。でも、綺麗にお手入れすればとても日持ちするんですよ。本当の雪より、きっと長く。 だから、どうか楽しんでくださいね」 けれど、お花がお手紙になって、言葉にできなかったことも伝えてくれるというのは、なんと素敵なことでしょう。 私とあなたにしか見えない、秘密の文字で書かれた手紙。 今日の便箋は、どんな色で咲いてくれるでしょう。 ある日、花瓶に新しい花が植わっていました。 「グラジオラス、ですか?」 「うん。ちょっと新しい花に挑戦してみようと思って」 一年中手に入るので決して珍しい花ではないのですが、その姿は殊更に私の目を引きました。 剣のように真っ直ぐ伸びたしなやかな茎についたたくさんの花は、まだ全て蕾のままだったのです。 「うまく育てると、切り花でも蕾を大きく咲かせられるって聞いてさ」 薄桃色の花びらがほんの少しだけ覗いている下の方の蕾を撫でながら、トレーナーさんはそっと呟きました。 それを見て、気づいたのです。このひとがお花に向けるまなざしが好きなのは、同じようにやさしい目で、私のことを見つめてくれるからなのだと。 トレーナーさんの瞳が、私を真っ直ぐ見つめています。 春の陽だまりのような、大丈夫だよ、と言ってくれているようなそのまなざしを、いつまでも浴びていたいと思ってしまう私は、わがままでしょうか。 「…今、ブーケが頑張ってくれてること、ちゃんとわかってるから。それでも結果が出なくて、申し訳ないって思ってることも。 俺のほうこそごめんな。ブーケが頑張ってるのに、それに応えてあげられなくて」 やっぱり、トレーナーさんは不思議なひとです。 どうしてこんなにも、私に向き合ってくれるのでしょうか。 「だから、俺も頑張る。ちゃんと綺麗に咲かせるから。 あんまり自分を責めないでくれ。ブーケには優しい笑顔が一番似合うよ」 あなたという太陽に、いつまでも照らされていたい。 あなたがいつまでも照らしていたいと思うほど、綺麗に咲いた花になって。 レースの本番前はいつも少し緊張するのですが、今日はずっと落ち着いています。 「今日はなんか調子よさそうだな」 「はい。だって、トレーナーさんが約束を守ってくださいましたから」 控室の鏡の前には、大輪の花を鈴なりにしたグラジオラスが、今が盛りと咲き誇っていました。 花は想いを運ぶものと、いつかトレーナーさんに話したことを思い出します。 その想いの種が、こんなにも大きな花をつけて咲いていることが嬉しくて仕方なくて、緊張を忘れてしまいました。 「小さな蕾でも心を込めて育てれば、いつか大きな花をつけられるって、トレーナーさんが教えてくれたんです。 だから、今度は私が約束を守ります。トレーナーさんがしてくれたことは、全部無駄じゃなかったって」 私のために頑張ることは、まだ少し難しいけれど。 私をこんなにも信じてくれるあなたのためなら、きっと誰よりも眩しく咲けるでしょう。 私の名前を呼ぶ声が、遠鳴りのようにスタンドから聞こえてきます。 「行ってこなくていいのか?みんな待ってるよ」 トレーナーさんが私を促す声はとても穏やかで、それに従いたいのはやまやまなのですが、もし勝つことができたなら、ずっと前からそうしようと決めていたことがあるのです。 「はい。 でも、もう少しだけここにいたいんです」 こんなにもたくさんの人が、私が大輪の花をつけると信じてくれたことは、とてもうれしいです。 けれど今は、一番近くで誰よりも強く信じてくれたひとに、今の私を見せてあげたい。 あなたが大切に育ててくれたから、こんなにも綺麗に咲くことができました、と。 「…ありがとう。頑張ったな」 「…はい。トレーナーさんがいたから、頑張れました」 花を育てる私がお花の気持ちを代弁するのは、少し虫が良すぎるかもしれません。けれど真摯に育てれば、お花はその分だけ元気に育って、鮮やかに咲いて応えてくれると、私は信じています。 「本当に偉いな、ブーケは。何か欲しいものがあったら言ってくれよ。ブーケのこと褒めてあげないと気が済まない」 けれど、お花の気持ちを考えているうちに私はひとつ不思議に思いました。 「…では、ひとつだけ。 …手を、握っていただいてもいいですか」 ──お花も、恋をするのでしょうか。 「…うん。いいよ」 トレーナーさんは少し沈黙した後、私より大きな手をそっと差し出してくださいました。 あたたかくて、たくましい手。この手でいつも触れてもらえるお花が少し羨ましくなってしまうくらい、その感触は心地よかったのです。 お花が恋をするとしたら、好きになったひとには、どうやって愛を伝えたらよいのでしょう。 きっといちばん手間をかけて、愛情を込めて育ててくれたひとのそばで、いちばん綺麗に咲いている花は、恋をした花に違いありません。 ずっとずっとそのひとと、見つめあっていられるように。 あなたのてのひらの中で、そのぬくもりをたよりに咲いていたい。 私の心は、そんな一輪の花でした。