Doro文 //2025-10-22 今年も気が狂ったように暑い夏が、なんとか終わった。 九月のお彼岸の頃からだろうか、気候が一気に秋めいてきたのは。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。 猛暑日が消え、真夏日も釣られるように無くなり、駅前からは狂騒のマーチが聞こえなくなった。 これで一安心と言いたい所だが、そう簡単には行かなかった。 あまりの暑さから急に涼しく、夜に至っては肌寒いぐらいの気温になったせいで、どうも体の調子が悪い。 所謂、季節の変わり目の体調不良、というやつになったようだ。 昔馴染みの友人は「そう言う時はスタミナが付く食べ物を食べて、リキをつけるんだ!」と言っていたのを思い出した。 ……と言うわけで、俺は「リキをつける為」近所の中華料理屋に向かっていた。 個人経営の中華屋で、今風に言うならば町中華というやつだろう。 中華料理の伝統を墨守するタイプの名店では無く、中華料理を大衆食として供する地域密着型の店だ。 絶品グルメというより、お財布に優しく、普段着の気持ちで訪れることが出来、腹一杯になれる店だ。 年季の入った赤い暖簾が見えてきた。 暖簾をくぐり、戸を開けて入店。店内は、昼時には少し早いせいか半分ほどしか席が埋まって居なかった。 良かった。気軽に入れる店なのに待たされるのは、なんとなく心理的なハードルが高くなってしまうからな……。 「空いてる席どうぞー」 店の主人の奥さんが接客担当。いつもと変わらない。 空いてるカウンター席に腰を下ろす。一番端っこだ。 女将さんがお冷を持ってくる。 「ご注文はーー」 「レバニラ定食! ご飯大盛りで」 やや食い気味にオーダーしてしまったが、女将さんもそんな客には慣れたもの。 伝票にササッとメニューを書いて、厨房に「レバニラ定食一丁!」と声をかける。 厨房からは「あいよ!」と初老のご主人の威勢のいい声が返ってくる。 こういう店で力とスタミナを補充するとなれば、やはりレバニラだろう。 いや、別の店でとんかつでも焼肉でもいいかもしれないけど、俺はレバニラなのだ。 カバンをカウンター下の棚に押し込み、お冷を一口飲む。普通に水道水なんだろうが、何故か店で飲むお冷は美味しい気がする。不思議だ。 店内はカウンター席はまだ空いていて、俺と逆の端にご老人が一人。 テーブル席に会社員らしき三人組、工事現場系らしき二人組、大学生らしき四人組。皆、男性だ。 そして店の奥座敷には――DOROが居た。いつもと違う異常事態だ。 おい、待て。何故お前がそこに居る。 店の奥にある2つ程の座敷席、その一つにDOROは、もちもちした腰をどっかりと落とし店内を見据えて居た。 薄紫の茫洋とした瞳は、店の中の全てを見ているようでもあり、何もかもを見ていないような超然としたものだった。 俺より早く入店したと思しきDOROは、座敷席を悠々と占領し、テーブルの上には瓶ビールとコップが置かれていた。 見なかったことにしよう。 奴と関わると大体の場合において、DOROの手により俺がひどい目にあう。ひどいですー、という幻聴が聞こえそうな程度には。 顔を背けるようにしてカウンターに向き直る。すると、 「レバニラ一丁上がり」 そんな声が聞こえてきた。 やけに早い。いや、早いことは良いことなのだが。 女将さんがお盆の上にレバニラを持って俺のそばまで来て、そのまま通り過ぎて行った。 なに? 女将さんの後ろ姿を反射的に追ってしまう。 女将さんはそのまま奥座敷に向かい、 「はい、レバニラ炒め」 DOROにレバニラ炒めを配膳した。 どうやら、DOROもレバニラ炒めを注文していたらしい。DOROは定食では無く、レバニラ炒め単品だ。 あいつも「リキを付けに」来たのか? まさかな。そもそもスタミナ切れとかとは無縁そうな奴だ。 「ごゆっくりどうぞ」 「ニャーン」 DOROは、もちっと頷き一声鳴きながら瓶ビールを女将さんに渡す。レバニラ炒めを肴にビールを楽しむつもりのようだ。 「瓶ビールもう一本ですね」 女将さんは空になった瓶ビールを下げ、すぐに新しいのをDOROの卓に置く。 DOROは、満足そうに頷くと、瓶ビールからコップに黄金色の液体を注ぐ。 卓上の割り箸を手に取り、ぱちん、と小気味の良い音を立てて割り箸を割る。 そして、熱々で湯気が立つレバニラ炒めを口に運ぶ。 「めっちゃ熱いです」 レバニラ炒めを食べ、嚥下すると、即座にビールを口に運ぶ。そして満足そうな顔をして、もう一口レバニラを食べ、ビールを飲む。 見ていて惚れ惚れするような、美味さが伝わってくる所作だった。 我知らず、ごくり、と唾を飲んでしまっている事に気づいた。 そして周りを見やれば、会社員のおじさん、現場系のおっちゃん、大学生の兄ちゃんたちも同じような状態となっていた。 「ビール……」「いいな、俺も飲みてえ」「レバニラも美味そうだな」 店の中のDOROを除いた客は、満足げにレバニラを食いながらビールを飲んでいるDOROを羨ましげに見ていた。 やめろ、そんなに見るんじゃない! それはやつの罠だ! あいつは昼間からビールを飲むスパイスとしてお前たちを利用してるんだ!! 俺は心の中で絶叫するも、無論テレパシーなんぞ使えないので、状態改善には何の役も立たない。 もはや客たちはDOROの手の上で弄ばれているに等しかった。 そうするうちに、 「レバニラ定上がったよ!」 「はーい、ご飯は大盛りね」 店主と女将さんの阿吽の呼吸で、俺の前にもレバニラ炒めが運ばれてきた。 「いただきます」 手を合わせてそう言うと、俺はビールの幻影を振り払うように、レバニラ炒めに挑みかかった。 絶妙な火の通し加減のレバー、レバーの癖と合うように香気を放つニラ、そして全体にかかった甘辛いタレ。 これが渾然一体となり、口の中で美味さの主張に余念が無い。 そして飯をかっこむ。レバニラの美味さを受け止め、自分の美味さを増幅させた白米。飯が進む、止まらない。 結果から言えば、これがトドメと成ったらしいことに気づいたのは、その次の瞬間だった。 俺の勢いの良いレバニラの食べ方が、客たちの揺れる心に触れ、背中を押してしまったらしい。 「こっちにもレバニラ一つ! あとご飯おかわり!」 最初に陥落したのは、工事現場系のおっちゃんたちだった。 彼らは自分の頼んだ定食を既にほぼ食い終わっていたが、レバニラと米を追加で食うことにしたらしい。 「こっちもレバニラお願い! ……あとウーロン茶3つ!」 次の犠牲者は、会社員らしき人達だった。理性の最後の砦として、ビールではなくウーロン茶である。 「お姉ちゃん、わしにビール中瓶一本つけておくれ」 カウンターの端の老人は、そう言ってビールを頼むという爆弾を落とした。 おそらくレバニラをもう一皿食べる余裕はないが、ビールを飲まずに居られなかったんだろう。 わかる。わかるのだが……! 最後は当然のように大学生らしき若者たちが失陥した。 「すいません、レバニラ一つ! あとビールとグラスお願いします!」 くそっ、若者め! 昼間から飲んでるとろくな大人にならんぞ! 「あらあら、今日はレバニラの日なのねえ」 注文をまとめて取った女将さんが、どこか嬉しそうな困り顔でそう言った。 店内に突発的に巻き起こったレバニラブーム。謀らずしも俺は、DOROの共犯と成り果てて居た。 俺は事態から目を逸らし、自分の食事に専心する。 レバニラ、米。レバニラ、米。レバニラ、米。お冷。 濃い味が米で緩和され、お冷が気持ちよく喉を通過する。 旨い。リキが付きそうだ。 レバニラ定食と向き合っていると、店の奥からもちもちとした足音が聞こえてくる。 食べる手を少し休め、奥座敷を見ると、テーブルの上にはキレイに食べ終わったレバニラの皿と空になったと思しきビール瓶とコップがあった。 DOROは爪楊枝を咥えながら、伝票を手にレジスターへ向かう。 女将さんが、お会計の為にレジスターを操作する。 レジスターの高さはDOROの全高より大分高かったが、DOROは餅のように胴を伸ばして伝票を置いた。 もう、これぐらいでは驚かなくなった自分が悲しい。 「ニャーン」 DOROは会計皿に五千円札を一枚、もちりと置いた。 「五千円のお預かりね。お釣りは――」 女将さんがレジスターを操作してお釣りを出そうとしたが、DOROは首を横に振り、何故か俺の方を一度見てから、一声鳴いてから胴を縮めて店から出ていった。 被害無し。 これは快挙ではなかろうか? 店内で突発的にレバニラブームが来てしまったが、お店に大きな迷惑はかけていないはずだ。 やった、やったぞ! 心のなかでガッツポーズを取っていた。いや、ちょっとハミ出して、現実でも軽くガッツポーズ気味だった。 テンションとともに食欲が増進し、気がつけば大盛りご飯をお代わりしていた。 そうして、しばしレバニラ定食をガツガツと後顧の憂いなく、存分に堪能した。 「ごちそうさまでした……」 流石に食いすぎた。腹が苦しい。 だがその苦しさも心地よく感じる程の充実感。これが「リキを付ける」ってやつか! コップに残ったお冷を飲み干して、レジに向かう。 すると女将さんが、少し不思議そうな顔でこう告げた。 「お客さんのお代金はさっきの方からもう頂いてますよ」 ……さっきの客とはDOROのことか? あのDOROが俺の分の代金を……? わからない。何もわからない。ただ言えるのは、足元が揺らぐような不安感。 「ごちそうさまでした」 やや呆然とした口調で、俺は女将さんにそう言って店を出た。 一体あいつは、DOROは何を企んでいる……? 心の中で自問するも、答えは出そうになかった。 空を見上げると、夏の空とは少し違う、天高い秋の空が見えた。 「とりあえず、ビール買って帰るか……」 店では飲まなかったが、やはりビールを飲みたいという気分は消せなかった。 ――DOROが居る町田にも、秋が来ていた。 追記。 ビールを買うために酒屋に寄って会計をする時に気づいた。 財布から万札が一枚消えていることを。 「ちくしょう、ふざけやがって……」 //2025-09-05 台風が近づいている。 浸水被害の恐れ、土砂崩れや停電など様々な被害が起こり得る災害事象だと言うことはわかっている。 だが、どうしてか。俺は子供の頃から台風が来るとわくわくしてしまうのだ。 台風が来る前兆となる黒い雲と強い風、そして町に徐々に広がる緊迫感。 この日常が非日常感に切り替わっていくのが、好きなのかもしれない。 学生時代も文化祭は当日よりも、準備が好きなタイプだったからなあ、俺。 まあ、俺がこうして暢気に台風にわくわく出来るのも、台風が来ても大丈夫なように働いてくれる方々がいるからなのだが。 農家さんやライフライン、インフラ保守関連の人達には下げた頭が上がらない 一応、非常持ち出し袋はつい先日、9月1日の防災の日に場所と中身はチェックしてあるから、何かあっても大丈夫だ。 さて、現実逃避はこれぐらいにしておこう…。 俺の家には、台風以上に差し迫った問題が発生しているのだ。 窓外に向けていた視線を室内に戻す。 すると目に入ってきたのは台所でもちもちと、そして機敏に動いている存在が目に入った――DOROだ。 DOROは朝早くパンパンに膨らんだビニール袋を手にやってきた。 ビニール袋を台所に置くと、勝手知ったるとばかりにビニール袋から大量のじゃがいもと、ひき肉、玉ねぎを取り出して調理を始めた。 もちろん俺は許可を出していないし、家に入れるつもりも無かった。 だがDOROは御意見無用とばかりに勝手に鍵を空けて、台所を占拠したのだ。 こいつに合鍵を渡した覚えは無いし、それらしきものを持っている様子もない。何故だ。 DOROはじゃがいもを茹で、玉ねぎとひき肉を炒め、茹で上がったじゃがいもを潰して、そこに炒めた物を混ぜ込んで行く。 何を作っているかは、料理は独身男の嗜み程度でしか無い俺でもわかる。 DOROはコロッケを作ろうとしている。 しかもマッシュしたジャガイモは、大きなボウルを3つに山盛りになるという個人宅では大凡考えられない量だ。 見ている間にも、DOROはひき肉と玉ねぎを混ぜ込んだマッシュポテトを、小判型に成形していく。 ふむ。とてもそんな作業が出来なそうなもちもちとした手で、上手くやるものだ。 「ニャーン」 その様子を眺めていると、DOROが薄紫の瞳をこちらに向けて鳴いた。 どうやら手伝えということらしい。 そもそも『台風の日はコロッケ』というのは、元々某匿名掲示板で生じたネットミームらしい。 何故コロッケなのか、何故台風なのか。その二つを結びつける理由も由来も何も無いとのことだ。 だが、今や日本人の結構な範囲に独り歩きしたミームのみが影響を及ぼしている。 一種の認識災害なのではないだろうか。 などと、どうでも良いことをつらつらと頭の中で弄びながら、潰したジャガイモを小判型にしていく。 こういう作業の時は手が慣れてくると、思考とは関係なく手が動くのだから不思議なものだ。 出来上がった上げる前のコロッケは、クッキングシートの上に並べられ、それがいっぱいになると台所から運び出され食卓の上に置かれる。 狭いキッチンには置く場所が無いし、食卓のある居間はクーラーがかかっているから粗熱を冷ましやすい。一石二鳥というわけだ。 黙々と作業を勧めていくと、相手がDOROであっても連携というか作業の連帯感のようなものが生まれてくる。 小判型を作るのは、DOROの方が早い。だがクッキングシートを運び出し積み重ねるのは、俺の方が都合がいい。 シェフのDOROをスーシェフの俺がサポートするような構図だ。 「ニャーン」 ……何で俺はこの得体のしれない生き物と一緒にコロッケ作りをしているのだろうか。 やがて全てのマッシュポテトは、揚げる前のコロッケへと加工された。 コンロの前には、踏み台に乗ったDORO。コンロには、油がたっぷりと注がれたフライパン。 DOROはボウルに入った小麦粉、溶き卵、パン粉を素早く小判型のジャガイモに付けると、油の中に投入していく。 フライパンからは、軽快な油の音と香ばしい香りのハーモニー。 俺はというと、その光景をボケっと眺めている事は許されなかった。 俺は俺でまな板の上で大量の千切りキャベツを作っていた。 「ニャーン」 DOROが鳴くと同時に、油から聞こえる音が少し変わった。コロッケが揚がったのだろう。 皿――家にある食器のデカい皿から順に総動員令だ――に千切りキャベツを乗せ、DOROに渡す。 DOROは揚がったコロッケを皿に山盛りにしていく。 揚げ物とキャベツで皿の色が見えない! コロッケが7分に、キャベツが3分! コロッケが7分にキャベツが3分だ! どう考えてもDOROと俺では食べきれない量の気がするが、そうする間にもDOROは手際良くコロッケを揚げていく。 食卓の上のクッキングシートが減るのと引き換えに、コロッケと千切りキャベツが乗った皿が増えていく。 やがてクッキングシートが食卓から消え、食卓には山盛りのコロッケ皿が限界の量まで並べられた。 コロッケを揚げ終わったDOROは火を落とすと、何故か玄関に向かって行った。 ……どういうことだ? あのDOROがコロッケを作るだけ作って終わり、などと言うことは絶対に有り得ない。 そしてその疑問はすぐに解決されることとなる。 DOROが玄関ドアを空ける。外は既に結構な強さで雨が振り始めていた。 「ニャーン!」 DOROがいつもより通る声で鳴いた。 するとどこからともなく、一人、二人と次々にずぶ濡れのDOROが現れた。 こいつ、仲間を呼びやがった…! 俺は慌ててタンスからタオルを取り出して玄関まで運ぶ。 「お前らDOROの仲間のDOROだな?」 我ながら何を言っているんだという内容だが、ずぶ濡れのDOROたちは頷いて鳴く。 「ニャーン」 「だったらそのタオルを貸してやるから、そのまま風呂に行け。ずぶ濡れで家の中を歩くんじゃない!」 もちもちと仕草で野良DOROたちは頷くと、浴室にぎゅうぎゅうと詰め込まれるように入っていった。 「ニャ~ン」 最初から家に居たDOROの鳴き声がすぐ側で聞こえ、振り向くと口に何かを突っ込まれた。 それはサクサクとしていて、それでいてホクホクとしていて、温かく美味かった。出来立てのコロッケだ。 若干、口内と舌を火傷した気がするが、その甲斐はあるぐらいには美味いコロッケだった。 その後、風呂から上がったDOROたちと俺とDOROはコロッケパーティーを開催することになった。 ――町田の台風の一日はこうして過ぎていった。 //2025-08-15 俺は、泥のような眠りに落ちていた。 夏はあまり好きではないが、夏の夜はそれなりに好きなのだ。 日中の蒸し暑さ、酷暑に比べ、空調が効いた部屋で睡眠を貪るのは、ちょっとした贅沢な気分を味わえる。 しかし、寝入っていた俺の意識に、何かの音が聞こえてきた。 何かが定期的に、一定のリズムを以て軋む音。 眠気に抗えない魅力を感じたが、普段耳にしない音に嫌な予感がして、眠気で朧気な意識を奮い起こして目を醒ます。 そうして、目を醒ました俺の眼に映り込んだのは、俺のPCデスクの椅子がくるくると、結構な勢いで回っている光景だった。 そして、その回転を為しているのは、座面に座ったもちもちとしたモノ――DOROだ。 一体何なんだ。寝起きで頭が上手く働かない。 ベランダへ続くサッシから見える外の様子は、闇に沈んでいる。 夜明けの早い夏ですら、まだ外が明るくなっていないということは、おそらく四時ぐらいだろう。 眠気と意味のわからなさで、上手く頭の回らない俺を他所に、DOROはこちらを気にすることも無く、軽快に椅子を回していた。 PCのモニタには、動画サイトが映っている。 どうやら、料理系の配信者か動画作成者の動画を見ているようだ。 そもそも何故こいつは、平然と俺の部屋に居るのだろう。 寝る前に戸締まりは、確認したはずだ。 つまり就寝前には、DOROはこの家には居なかった。 だが、そんな自衛策など何の問題も無いように、DOROは我が物顔でPCを使っていた。 ……まあ、これまでにもそんな事があったものだから、自分のアカウントを使われるのも嫌なので、DORO用に作ったPCアカウントをきちんと使っているようではあったが。だが、アカウントを作ってやった事は別にDOROに無断侵入を許したわけではないのだが。 眠気で、まだ胡乱とした思考能力でそれを眺める俺。 DOROは椅子をくるくる回しながら、いつも通りの何も考えていないような、あるいは遠くを見ているような表情で、動画を視聴している。 動画を見るなら、回らない方がよくないか……? そんなあたり前のことを思った。 寝床から立ち上がり、DOROに話しかける。 「それじゃよく見えないだろ」 手を伸ばして、回る椅子を手で掴んで止めようとした次の瞬間。 もちもちとした手が、回転の勢いをつけた速度で俺の手をはたいた。 大して力も入って無さそうなDOROの手の動きは、俺の体勢耐性を崩して尻もちをつかせる程には強かった。 「ニャーン」 DOROは感情のない鳴き声を、こちらに放ってきた。 どうやら勝手に止めるなという抗議らしい。 「マジで何なんだよ…」 床に座り込んだまま、俺は頭を抱える。 すると、不意に椅子の回転音が止まった。 顔を上げると、DOROはPCデスクの上にあった、マグカップに入った飲み物――確認していないが、確実に俺の家の冷蔵庫のものだろう――を飲んでいた。 PCモニタの中では、料理動画が終わっていた。 DOROは、もちもちとしながらも器用な動きで、キーボードとマウスを操作して次の料理動画を再生している。 そう言えばこいつ、何故か調理能力は高かったな……。 そんな事を思っている間にもDOROは、いまいち感情の読みづらい薄紫の瞳を画面に向けたまま、椅子の回転を再開させていた。 料理動画でDOROが料理をマスターしたら、それは俺も食えるのだろうか。それともいつも通り見せつけられるだけで、俺は食べられないのか。 眠気は、いつの間にか吹き飛んでいた。 床に座り込む俺と、椅子に座って回転をするDORO。 そして窓の外の景色は白み始めていた。 ――DOROと過ごす、町田の夏の一日が始まる。 後日談。 DOROがあの日見ていた料理は、DOROが作ってくれてご相伴に預かることは出来た。 味は美味かった。 ただ、材料の鮮度が悪かったようで、俺はそこから三日間腹痛と下痢に悩む事となった。 同じ料理を食っていたはずのDOROは、至って健康だった。 //2025-08-02 今年の夏も暑い。 猛暑どころか酷暑と言えるレベルだ。年々暑くなっている気がする。 当然汗もかく。外から帰ってきたばかりの俺は、汗でTシャツが背中に張り付く不快感を解消するために、玄関を閉めると同時に風呂に入ることに決めた。 タンスからバスタオルを引っ張り出し、速やかに服を脱ぎ、浴室に入る。 シャワーだけで済ませてもいいが、暑い時こそ熱い湯船に入ると気持ちがいい。俺はそう思っている。 浴槽には昨夜入った湯が、冷めてそのままになっている筈だ。温んだ水風呂に入りながら、追い焚きをしよう。 風呂の追い焚きボタンを押す。電子音が鳴り、追い焚きが始まった事を告げる。 シャワーを頭から被り、手早くシャンプーとボディーソープで体を清める。 さあ、風呂だ。 風呂の蓋をあけると、もちもちしたモノが湯船に浮かんでいた……。 ――DOROだ。 帰ってきた時、玄関のドアは閉まっていた。鍵を持っているのは俺と大家さんと、万が一に備えて実家のみの筈だ。 だがDOROは「何か問題でも?」と言わん限りの堂々とした態度で、浴槽に浮かんでいた。 「もういいよ……。良くねえけど」 世の中は不条理で満ちていて、その権化のような存在がDOROなのだろう。 とりあえず俺はDOROを、湯船からどかそうとして手を伸ばす。 そこで、不思議な現象が起きた。 DOROは普段のもちもちとした手触りとは別に、少しぶよぶよとした手触りだった。水を吸った為だろう。 そこまではいい。 だが、DOROを水面から上げようとすると、水面が下がっていく。 それに反比例するようにDOROは重くなり、手の中で重量感を増して行く。 まさか、こいつは浴槽の水を何らかの手段で吸収し、操っている……? 馬鹿馬鹿しい考えだが、そうとしか思えない現象が起きていた。 初歩的な物理の話を考える。 常温、常圧下において、水1リットルは1kgの重量を持つ。 浴槽の湯量がどれぐらいあるかは計った事がないが、確か200リットルかそこらだという話を聞いたことがある。 まさか、こいつ……。 今やDOROは持ち上げるどころか、俺を引きずり込むような重量感で、下降していく水面と共に浴槽の水面に有り続けていた。 中腰の姿勢で支えきれるような重量を超えた重みを、DOROは発揮している。 俺は、諦めて手を離す。 どぷん、と水面に重いものが落ちる音を立てて、DOROが水面から一度水中に沈む。 そしてどのような作用が発揮されているかも不明だが、湯船の水位は再び初期状態へとゆっくりと戻っていった。 ぷかり、と水面にDOROが浮かんだ。 DOROは、その一連の作用の間もいつも通りの、どこか超然とした表情のままだった。見ようによっては、機嫌がいいようにも、つまらなそうにも思える常のDOROの表情が、そこにあった。 意味がわからない。 だが、分かることは、ある。 それはDOROが今は風呂から出るつもりが無いこと。そして、俺にはそれに対抗する手段が無いということだ。 「ニャーン」 水面でゆらゆらと揺れながら、DOROが鳴き声を発した。紫色の瞳が俺に向いている。 「全然わからねえけど、わかったよ。せめて俺も入れてくれ……」 俺の声は、不条理に負け完全に懇願する調子だった。 DOROは常の如く、何を考えているのか分かりづらい表情をしていたが、湯船の真ん中から少しだけ端へ音も無く滑って行った。 俺に許された浴槽のスペースは、膝を抱き体育座りをして、窮屈に体を折りたためばなんとかなるかもしれないと言った具合だった。 温まり始めた湯船に、足先から浸かる。 DOROに加え、俺も湯船に入ったことで、お湯があふれるかと思ったが、そんなことは無かった。 お湯は浴槽ギリギリの所で止まっていた。その代わり、DOROが心なしか膨らんだように思える。 マジでなんなんだよこいつ……。 一人暮らし用の家屋の風呂は、そう広いものでは無い。そして湯船もそれに準ずる。 今や、浴槽は膨らんだDOROでもちもちと圧迫され、俺はDOROと浴槽の間に挟まれていた。みつしりとした状態だ。 いつの間にかDOROは、お湯に浮かんだ横向きの姿勢から、湯船により掛かるような縦の姿勢になっていた。 体育座りスタイルの俺と、お湯と同化してくつろぐDOROの目があった。 「ニャーン」 いつも通りの声。何を言っているかはわからないが、何を意味するかはわかった。 狭いと言いたいのだろう。 それはこちらも同じだ。可能な限り手足を伸ばそうとするが、もちもちしたDOROの体に阻まれてろくに手足も伸ばせない。 今現在、お湯はぬるい。だが、現在進行系で湯温が上がって行くのが感じられる。追い焚きの効果が出てきたようだ。 そのまま数分。窮屈なら窮屈なりに、人間は適応できるらしい。 DOROという謎の生物との混浴だが、お湯の気持ちよさはいつもと変わらずであるのは、一つの救いであった。 その証拠にDOROも、いつもの小憎たらしい顔のままではあるが、気持ちよさそうに息を吐いていた。 十数分が経ち、白いもちもちに朱が差す。 湯温が上がったということはすなわち、湯船内の水と同化しているDOROが温められている事と同義のようであった。 「ニャァァァーン」 どこかおっさん臭い唸り声?吐息?をDOROは発していた。 それから数分立つと、DOROは満足したのか、浴槽の縁にもちもちとした手と足をかけ、湯船から出ていく。 DOROが退出するとともに、お湯の量はどんどんと減っていき、やがて俺の体の半分も浸かれないレベルの水位まで下がった。 「……」 なんとなくそうなる気はしていたが、目の当たりにすると理不尽さしかない。 浴室のタイルの上でDOROが身震いをすると、DOROの体からお湯が排出され、DOROは通常の大きさのもちもちとした体へと戻っていった。 そして浴室を出たDOROは、浴室の前にあった俺が使うためのバスタオルを、さも当然のように使って体を拭い、そのまま居間の方へと消えていった。 ……まあ、俺の家だ。少しばかり浴室から水でビシャビシャになるだろうが、タオルはまた取りに行けば良い。 水栓の蛇口を捻り、湯船にお湯を足しながら、俺は諦観せざるを得なかった。 十数分後、風呂から上がると、DOROは冷奴とビールで湯上がりをご機嫌に過ごしていた。 その出所は、当然俺の家の冷蔵庫だった。 ――町田の夏が、DOROという存在と共に過ぎていく。 //2025-07-31 帰り道。駅前商店街のスーパーに寄って、アイスと炭酸水とビールを買った。 駅前商店街は、何やらいつも以上に活気があった。 なんでも昼間に商店街をマーチが練り歩いていたと言う。 このクソ暑い中、奇特な人もいるものだ。 アイスが溶けないように家路を急ぐ。 家に着き、鍵を開け、ドアを開く。 すると家の中から、ひんやりとした空気が流れてきた。 クーラーを消し忘れていただろうか。 猛烈に嫌な予感を、敢えて常識的な予想で打ち消しながら家に上がる。 そして、果たして嫌な予感は当たってしまった。 居間にある俺のPCからは『双頭の鷲の下に』が流れ、クーラーは全開で稼働していた。 そして、居間の中央にはそれの下手人のもちもちとしたヤツが居た。 ――DOROだ。 DOROは居間の真ん中で、短い手足をもちもちと、しかして機敏に動かしながら金属棒を振り回していた。 メリハリの付いた動きでDOROが動くと、前足を右に左に旋回する金属棒、おそらくマーチングバトンが動き回る。 器用なものだ。屋内だと言うのに壁にも天井にも、バトンはぶつかること無く動き回る。 そう、壁にも天井にもぶつかってはいない。だが、そのバトンの旋回半径にあるものは、ことごとく壁際までふっ飛ばされていた。 居間は、まるで室内で台風か竜巻でも発生したかのようなありさまとなっていた。 「マジふざけんなよ…」 足から力が抜け、床に膝を付く。鞄とスーパーの買い物袋が床に落ちる。 だが、そんな俺など意に介さずDOROは、ピンク色の髪を揺らし、もちもちとした体をバトンと共に回し続けていた。 鍵はかかっていた。PCは俺しかログインが出来ない。バトンなんて俺の家にはなかった。壁際にはクッションや生活雑貨などが山と積もっている。 その何もかもが、DOROという存在にとっては何の障壁足り得ぬ事だけが事実だった。 脳が理解を拒む。 『双頭の鷲の下に』が曲の終わりを迎えた。 バトンが空を切る音がそれと共に止まり、DOROも動きを止めた。 そこで初めてDOROは、こっちの存在に気づいたかのように俺の方を向いた。紫色の瞳は常の如く、どこに焦点があっているのか分かりづらい。 「ニャーン」 おかえり、と言うよりは、遅かったな、と言う響きが強い鳴き声が、耳朶を叩く。 何かもがどうでもよくなった。 居間の惨状から目を逸らし、買い物袋を持って台所へ向かう。 アイスを冷凍庫に、ビールと炭酸水を冷蔵庫に入れていると、今からは再び『双頭の鷲の下に』が流れ始め、バトンが空を切る音が再開した。 俺が居間に戻ると、DOROは飽きること無く、音楽に合わせ体を律動させ、バトンを器用に回している。 部屋の片付けをしなくては。 かろうじて脳に残った思考力が、そう告げている。 だが、DOROがバトントワリングをしている限り、それに着手することすら出来そうにない。 俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。 再度『双頭の鷲の下に』が終わり、DOROが動きを止める。 「片付けるからどいてくれ……」 弱々しく言う俺の声は、震え掠れていた。 DOROがこちらを向く。 「ニャーン」 振り向く動きでDOROがバトンを俺に向かって放ち、そこで俺の意識は暗転した。 再び俺が目を覚ましたのは、小一時間ぐらい経っての事だった。 悪い夢を見た。 そう思い込もうとした。 しかし、部屋の中の惨状は意識が途切れる前とほぼ変わっていなかった。 唯一違うところは、もちもちとした体からホカホカと湯気を上げ、タオルを首にかけたDOROが、クッションでくつろぎながらクーラーの冷風を堪能している事だった。 俺が意識を失っている間に、風呂を浴びたのだろう。DOROからはシャンプーとボディーソープの微かな香りが漂って来た。 DOROは、片手にアイス――ミカンの果肉がガツンと入った、夏に食うと最高にウマいアレ――もう片方の手にはビール。 アイスを咀嚼する涼やかな音。ビールを飲む爽やかな音。 家主であるはずの俺よりも、堂々たる姿だった。 こいつ、夏を満喫していやがる。 ――熱帯夜の町田の夜が更けていく。 //2025-07-29 暑い、あまりにも暑すぎる。 目的地まで辿り着く前に俺は暑さに屈服し、コンビニへと逃げ込んだ。 涼しい。店内の冷房の風が、地獄の責め苦のような外気温で火照った体を冷ましてくれる。 これぞ文明の利器。人類の勝利である。 体の中に篭った暑さを駆逐する為、俺はふらふらとコンビニの冷凍ケースへ近づく。 どのアイスを食べるべきか。 冷凍ケースの中にざっと目を通し、ふと視線をあげるともちもちしたそれと目があった。 DOROだ……。 DOROは冷凍ケースのガラスに貼り付いて、涼を取っていた。 流石にそれはどうなのだと思い、レジカウンターの方を見たが、男性店員はDOROの行為を特に気にせず暇そうな顔をしていた。 ……まあ、コンビニ側が問題としていないならば、俺がわざわざ何かをする必要はない。 俺は夏の定番、ガリガリ君ソーダ味を冷凍ケースから取り出し、レジへ向かう。 レジにガリガリ君ソーダ味を置いた刹那。 何故かそこにはハーゲンダッツ、アイスボックス、炭酸飲料が一緒に並べられていた。 こんな事をする奴は……。 「ニャーン」 足元を見ると、いつの間にかDOROがいた。 何故こいつの分まで、俺がアイスを買わねばならないのだ。 店員に別会計と言おうとした時には、既にバーコードは読み取られて居て代金に加算されていた。 合計685円。 「お支払いはどしますカ」 二十歳そこそこであろう外国人店員が問いを投げてくる。 会計のやり直しを頼もうと思ったが、外国人の店員に一から説明するのは、億劫だった。暑くて何もかもが面倒になっていた。一刻も早くガリガリ君を食いたい。 「交通系で」 スマホをかざし、会計を済ませる。 会計を済ませた時には既に、DOROはハーゲンダッツ、アイスボックス、炭酸飲料を器用に背中に乗せ、店内のイートインスペースへ、もちもちと歩み始めていた。 釈然としないものはあったが、俺もガリガリ君を手にイートインスペースへ向かった。 イートインスペースの椅子に器用に座ったDOROは、アイスボックスの封を開けると、もちもちとした腹肉の間からスキットルを取り出し、何やら透明な液体を注いで居た。そしてそこに炭酸飲料を注ぐ。 アイスボックスに入れたのは、恐らく何らかの蒸留酒だろう。 キンキンに冷えた簡易アイスカクテルをDOROは一息で飲み干していた。 そして先程の工程を繰り返し、二杯目を作る。 俺は暑さで泥のように感じる体を椅子に預け、ガリガリ君を開封し、一口食べた。 口の中に清涼感と共に冷たさが満ち、嚥下した喉から体の奥に向かって爽快感が滑り落ちた。 DOROはというと、アイスカクテルの二杯目にはまだ手を伸ばさず、ハーゲンダッツの蓋を開けていた。 「なあ、一口くれよ」 そもそも俺が金を出したのだ。それを要求する権利ぐらいはある。当然だ。 DOROは、いつも通り何を考えているかわからない茫洋とした顔で俺を見た。 そしてハーゲンダッツの内蓋の役目をしているビニールを剥がすと、もちもちした手でそれを机の上に滑らせ、こちらに寄越してきた。 「……」 ガリガリ君をもう一口食べる。美味い。冷たい。 DOROは既にこちらを見ずに、スプーンでハーゲンダッツを食い始めていた。 ビニールを持ち上げ、ほんの僅かに付いたアイスを舐める。バニラの味がした。 DOROは数口ハーゲンダッツを食い、アイスボックスカクテルを飲み、グレープフルーツ氷を噛み砕いていた。 ガリガリ君の下部から手へ、溶けた氷菓の一部が垂れて来た。 行儀が悪いのは承知で、手に付いたガリガリ君の液体を舐める。汗の味と混じって甘じょっぱかった。 イートインスペースから眺める外は、猛暑による陽炎が立ち上り、あまりの暑さにセミすら鳴かない焦熱地獄だ。 ――町田の夏はまだまだ終わりそうにない。 ハーゲンダッツ ミニカップ バニラ. 325円(税込351円) 赤城 ガリガリ君ソーダ. 80円(税込86.40円) アイスボックス グレープフルーツ. 130円(税込140.40円) セブン ゆずれもんサイダー 500m 100円(税込108円) //2025-07-28 もち、もち…。 もちもちとした足音と蒸し暑さで目が醒めた。 目が覚めると俺の目の前には白。 「ニャーン」 DOROが俺の体の上に乗り、顔を前足で踏み、揉んでいた。 馬鹿な、昨夜は戸締まりをきちんとしたはずだ…。 だが、現実としてはDOROは当たり前のように俺の部屋に居た。 兎にも角にも暑い。 DOROを体の上からどけようと手を伸ばすと、こちらの手を避けるようにぬるりと体を動かして、自ら離れていった。 「ニャーン」 再びDOROが鳴く。 視線を動かすとDOROは食卓の傍に佇んでいた。 寝床から起き上がって見ると、食卓の上には白米、味噌汁、春菊のおひたし、冷奴が並んでいた。 ……作ったのか? これを、DOROが? 見た目に反して、小器用な奴だという事は知っていた。 朝起きて、食事が用意されているなどというのは久しぶりだった。 「……ありがとう」 礼を言って、寝汗をシャワーで流そうと、バスタオル片手に浴室へ向かう。 シャワーの水栓を捻り、温まる前から水を頭から浴びる。シャワーから出る水は、朝にも関わらず既に温んでいた。 シャワーの湯温が上がり、浴室内に湯気が立ち込める。 いつもならばシャワーを浴びた後、適当に朝食を作るのだが、今日はDOROが作ってくれた?朝食がある。 シャワーの湯温がさらに上がり、肌を刺すような刺激を感じる。 熱い。外気によって水道管の中の水が想像以上に熱せられていたのか? そんな事を思っている間にも、さらに湯温は上がり、もはや熱湯と化していた。 「あっちぃ!?」 慌てて水栓を閉める。給湯器が故障したのか? それともそれ以外の何か……? そこまで思いを巡らせた所で、天啓のように脳に閃きが走る――DOROだ。 もはやそれ以上シャワーを浴びる気にならず、浴室から出て、ヒリヒリする肌をタオルで拭う。 すると甘辛い良い匂いが部屋に立ち込めていた。 バスタオルを腰巻きにして食卓まで戻る。 いつの間に用意したのか。 食卓の上には鉄鍋と肉と野菜と卵、そしてビールが並んでいた。すき焼きだ。 DOROが見事なサシが入った肉を、割り下で焼き煮にし、溶き卵につけて食べる。 そして、すかさずビールで流し込む。 ……何かがおかしい。釈然としない気分のまま、半裸で食卓についた。 朝っぱらからすき焼き? ……まあ、美味そうではある。 箸を手にとって肉に手を伸ばそうとすると、もちもちした前足ではたかれた。 DOROは常変わらず、どこか遠くを見るような表情で俺を見ていた。 野菜、豆腐、しいたけ、そしてビール。 そのどれを手に取ろうとしても、DOROは一切の表情を変えず、俺の手を叩いて阻止した。 「ニャーン」 DOROは白米、味噌汁、おひたし、冷奴を顎で指し示した。 俺が食べるのはそちらということらしい。 しばし、部屋に沈黙が落ちた。 「……」 DOROはマイペースにすき焼き鍋に野菜を入れていく。 「……いただきます」 諦めて俺はDOROの作った朝食を食べる。 美味い、のだろう。少なくとも俺が作るよりは美味い。 だが、俺の眼前で甘辛い匂いと共に煮立っているすき焼きは、それよりさらに美味そうだった。 おひたしを食い、白米を口に運び、味噌汁をすする。冷奴を箸で切り分けて食べる。 炭酸ガスが抜ける音がして、DOROが二本目のビールを開けていた。 ――町田の夏の一日が始まる。