1/4 ウマ娘のトレーナーは、休日が不規則になりやすい。年末年始といえどもそれは例外ではなく、年が明けて早々に開催される中山金杯のために、トレセン学園は授業こそないもののほぼ普段通りに動いている。 今の自分のように年末年始も仕事をしている者にとって、カフェテリアなどが休まず営業してくれているのは僥倖だった。しかし、今仕事をしているのは我が担当──ミスターシービーのレースのためではない。彼女の始動戦は幾分先のことである。 「やってるなぁ」 にもかかわらず自分がここにいるのは、シービーが新年の書道パフォーマンスを務めるからであった。彼女が頑張っている中で家でこたつに入って年を越すという気にもなれず、こうして彼女が練習をしている間は仕事を片付けることにした。 しかし、窓の外で駆け回る彼女の姿は練習というにはあまりにも楽しそうで、ついつい手を止めて目で追ってしまう。華やかな衣装を身に纏い、友人と連れ立って真っ白な雪を蹴立てながら走る姿は、人里離れた野山に遊ぶ美しい獣のようだった。 「もうちょっと頑張るか」 何もかも楽しみに変えてしまう彼女は、トレーニングのときもこんなふうに屈託なく笑いながら駆けてゆく。それを思い出すと、気怠い書類仕事にも少し張りが出てきた気がした。 「…ん?…」 気がつくと、トレーナー室は窓から差す西日で赤く染まっていた。仕事を一段落させて少し仮眠を取ったつもりだったが、思いのほか寝入ってしまったらしい。 「おはよう。仕事は進んだ?」 「ん…ごめんな。寝ちゃってた。 でも、結構捗ったよ」 寝顔を覗き込むように隣に座るシービーの柔らかな笑顔も、同じように茜色の衣を纏っている。その無垢な表情には、墨の跳ねた跡でさえ可愛らしい化粧に見えた。 「いいメイクだな」 「でしょ。今日はエースが頑張ってくれてさ。 やっぱりいいな。エースに追いかけてもらうと、どこまでも走っていける気がする。今日なんて、あのまま空に昇っていけそうだったよ」 からかうようにその頬を指さしても、彼女は気を悪くすることもなく、むしろ誇らしそうに今日の思い出を話してくれた。 「ああ。窓から見てたよ。すごかったな、ふたりとも。 なんか、エースが羨ましくなっちゃったな。俺もあんなふうにシービーを輝かせてみたいよ」 彼女の話を聞く度に、エースに少し憧れてしまう。彼女が一番好きなことに、一緒になって飛び込んでいけることに。 ふたりのレースを見ていると、その間だけは彼女を独り占めされているような気がして、少しだけ妬けてしまう。そんな大人げない感情を抱いてしまうほどに、彼女たちは輝いていた。 だがそれを聞いた彼女は、頬を膨らませて拗ねたような顔をした。 「前にエースにも言ったけどさ。エースはエースで、アタシはアタシ。そして、きみはきみなんだよ。 エースはエースのままで、きみはきみのままで、アタシをずっと照らしてくれる。だからアタシは、きみたちのことを好きになったんだ」 そんな表情も、発する言葉も、全部好きだった。彼女の不満は最もだが、こんなに夢中にさせるから別の誰かに妬いてしまうんだと、きっと彼女は気づいていない。 「だから、きみはきみのままでいてよ。 アタシはちゃんと、きみのこと好きだから」 頬に触れた唇から、言葉に込められた熱が全部伝わってくる。 心が甘いものに変えられて、溶けてしまいそうだった。 ゆっくりと唇が離れる。何も言えずに恥じらうことしかできないこちらを見て、彼女の表情はしてやったりと言いたげな笑顔に変わった。 「アタシもきみも、自分のままでいる。誰かの真似なんてしない。そんな姿をお互いに好きでい続ける。 どうかな。悪くないと思うんだけど」 悪くない、どころじゃない。そうなったらどんなにいいかと、ずっと思っていた。 それを彼女も望んでくれていたら、こんなに嬉しいことはない、と。 「最高」 「ふふ。やった」 「手、冷たいな」 「ずっと雪の上でやってたからね。でも、楽しいから全然気にならなかったよ」 雪の上に書を、という思いつきを聞いて、どんどん自由に、型破りになっていく彼女たちが愉快で仕方ない。ついていく方は大変だろうが、いつの間にかついていくことも楽しくなっているというのは、散々自分が体験していることだ。 「はは、紙じゃ窮屈か?」 「うん。やっぱりアタシたちは、遠慮なく駆け回れるところが好きなんだ。 雪もいいね。目の前はまっさらで、走ったあとに道ができるんだ」 一本指で真っ直ぐに空を切りながらそう話す彼女は、どこまでも無邪気に笑っている。 「そっかそっか。よかった。 俺の頬は窮屈じゃなかった?」 心から安らいでいるせいで、差すなら今だ、と思ってしまった。 猫のように目を丸くしている彼女が面白くて、ついくすくすと笑いが漏れてしまう。どうして悪戯を見抜かれたのかもわかっていないその表情を見ると、いつも振り回されてばかりの彼女をやり込めているのだと実感して気分がいい。 きっとそのときの自分の顔もさっきの彼女と同じように、してやったり、と笑っていたのだろう。 「唇に黒いのがついてるよ」 愛を示してくれたお陰で悪戯に気づいたというのは彼女に申し訳ない気もするけれど、これ以上素敵な尻尾の出し方もないだろう、とも思った。 「きみもお揃いにしたかったんだ」 自分の頬の墨の跡を指差して、彼女は遠慮なく笑った。そんな実に可愛らしい、彼女らしい自白を聞いてしまえば、罪に問う気にもなれなかった。 「拭くもの取ってくるね」 「待って」 膝の上から降りて洗面台に向かおうとする彼女を、手を引いて引き止める。彼女は不思議そうに首を傾げているけれど、せっかく書いてくれたならまだやることがある。 「なんて書いたか当てたい」 彼女は一瞬だけ、少し恥ずかしそうに眉根を寄せた。けれど、その表情はすぐに満足そうな微笑みに入れ替わっていた。 「ふふ。 いいね。きみ、やっぱり遊びの天才だよ」 手を後ろに組んでこちらを見つめる彼女は、さっきの練習のときと同じくらい楽しそうに微笑んでいた。 「さすがにノーヒントじゃ無理だと思うから、まずひとつ教えるね。 書いたのは漢字一文字です」 彼女のことだ。飛ぶように自由闊達な字で、その時思ったことを思ったままに書くのだろう。 「うーん。『翔』とか。 今日の練習、そんな感じだったろ」 彼女の目が輝いて、口元がゆっくりと持ち上がる。それを見てもしや正解かと思ったが、どうもそう簡単にはいかないらしい。 「あは!そうだね。それも気持ちよさそうだ。 でも残念。書いたのはきみがくれたものだから」 却って思いつかなくなった。最近彼女に贈ったものといえばクリスマスにランプを買ったくらいで、それを今になって書くとは思えなかった。 「んー…だめだ、思いつかない。 ごめんな、自分から言っておいて」 「あははっ!いいよ。無茶したのはアタシの方だし。 きみがなんて答えるのか気になったから始めたけど、多分正解は出ないと思ってたから」 そう言われると、余計に何が書いてあるのか気になる。ヒントがあっても答えが出せないほど、珍しい字だったのだろうか。 「アタシの手にも一緒に書いたんだ」 彼女の左手が目の前に差し出される。その手の甲には、確かに墨で書いた文字があった。 「…木?」 その字は読むならば木とするしかなかったが、不自然な点がいくつもあった。手に文字を書くはずなら普通は指のある側を上にしそうなものだが、その木の文字は指と平行に書かれていた。形にしても全体的に縦に潰れているように見えて、達筆な彼女らしからぬ字、という感想は否めない。 「あは、そう見えるよね。 でも違うんだ」 訝るようなこちらの声音に答えるように、彼女はその手をそっと伸ばした。 「…!」 「ふふ。あったかい」 柔らかい指がゆったりと頬を撫でて、一気に顔に血が上るのがわかる。 触れられて、撫でられて、キスをされて。今日だけで頬が蕩けてしまうのではないかと思った。 「鏡を見てみて」 彼女の手が添えられて首を動かせなかったから、目だけを鏡に向けてみる。 彼女の手の字が不自然な形だった理由がわかった。もともと一つだった字が、上下に分かれた片割れだったからだ。 自分の頬と、彼女の手。ぴたりと合った「楽」という文字が、そこにあった。 「きみの作ってくれたトレーニングメニューを見たよ。アタシが楽しめるように、一緒に遊びながら鍛えられるようにしてくれたんだよね」 そんな大層なことはしていない。シービーと一緒に走れる彼女の友達が羨ましくて、ただ自分が見守るだけのメニューを組みたくなかっただけだ。 「俺が寂しかっただけだよ」 「それでも…ううん、だからいいんだよ。きみはアタシのために、いろんなことを考えてくれた。無理やりじゃなく、きみも楽しみながらね。 それがすごく嬉しくてさ。きみの寝顔を見たら、もう我慢できなくなっちゃった」 なのに、彼女はそんな自分のわがままも楽しみに変えてしまう。彼女と一緒にいると、ありきたりな時間がたちまち美しく色づいてゆく。 「ちょっと恥ずかしかったから、きみに見られる前に消しちゃおうと思ったんだけどさ。 それでも、やっぱり書いておきたかったんだ。忘れないように」 こっちが遊びの天才なら、彼女は言葉の魔術師だろう。 たった一文字で、心に魔法をかけてしまうのだから。 「きみと一緒にいると楽しい。 それはきみが、『楽しい』を作ってくれるからなんだって」 いつか、自分が言った言葉を、彼女がずっと大切に覚えていてくれたことがあった。大層な考えもなくただ思うままを口にしただけだったけれど、その言葉がずっと、彼女を支えていたのだと。 今の自分も彼女と同じだ。彼女が口にした想いは、きっといつまでも心の中を照らしてくれる。 「…でも、楽しいことを探すのが幸せだって教えてくれたのは、シービーだよ」 腕の中に飛び込んできたぬくもりが、冷えた体をどこまでも温めてくれるのと同じように。 「そっか。ふふ。 じゃあ、ふたりで探そうよ。今年も来年も、そのまた次の年も、ずっとさ」 「今はこのままくっついてようか。いっぱい動いたから、アタシも寝ちゃいたい気分」 大きく欠伸をした彼女を、膝の上から落とさないようにゆっくりと抱き寄せた。彼女の好きな力加減も、それを見つけてあげるとぴたりと頬を寄せて答えてくれることも、もう知っている。 「起きたら、また一緒に見つけようよ。楽しいこと」 彼女は楽しいことのために生きている。その中に自分を入れてくれていることが、何よりも嬉しかった。 気ままな彼女の旅路の連れ合いに、自分を選んでくれたことが。 「じゃあ、しばらく見つからなくていいかも」 「いじわる。ふふっ」 今年も来年も、そのまた次の年も。 彼女の隣にいれば、いつまでも幸せだと、心から思った。 1/25 ?開いた両脚の角度はほとんど180度だった。しかしシービーは苦しそうな素振りも見せず、むしろ寛いでいるように微笑みを崩さない。そのままぐっと腰を左に伸ばして、事も無げに指先を脚の指まで持っていく姿には、何度見ても感嘆せずにはいられなかった。 「流石。もしかして手首まで行けたりする?」 「ふふ。全然余裕だよ」 脚に胴体が付かんばかりに身体を曲げると、彼女は手首どころか、肘との中間地点まで足先につけてみせる。健康的で活動的な彼女のイメージに違わぬその柔軟さは、まさしく一種の肉体美であった。 トレーニング前後の柔軟体操は怪我を予防するために欠かせないものだが、彼女を見ていると身体の柔らかさと走りに相関関係がはっきりとあることを実感する。自分の知っているウマ娘の誰よりも、彼女の身体は軽やかに曲がっていたのだった。 ただ柔らかいだけではなく、実に楽しそうに身体を動かす彼女を見ていると、自分も何かしたいと浮き立つ気持ちに駆られる。だが、戯れに立ったまま腰を曲げてみると、床どころか爪先に指をつける前に腰とふくらはぎが危険信号を発し始めた。 「はは…やっぱりシービーはすごいな。俺なんて全然だめだ」 その情けない姿は彼女にしっかり見られていて、言い訳のように発した言葉がどこか虚しい。だが、彼女は軽蔑した様子も失望した様子もなく、むしろ面白そうにこちらを見つめていた。 「あははっ!伸びしろはいっぱいあるってことじゃない?」 「ほんとにな。自分の身体がシービーみたいに伸びるなんて信じられないけど」 彼女からすればこれほど身体の硬い人間がいるのかと、却って好奇心をそそられるのかもしれない。もっとやってみて、と目で促されて暫し不恰好な柔軟体操を続けてみるが、自分の手はどうやっても脚に届かないのだった。 さっきの彼女と同じように脚を開いて片側に身体を曲げてみても、脚の開きも手の位置も彼女の半分にも満たない。まるで思う通りにならない身体に溜息をひとつ吐くと、中途半端に開いた脚の間に笑う彼女が滑り込んできた。 「付き合うよ。なんか面白そう」 彼女のトレーニングはついさっき終わっている。クールダウンには丁度いいから、トレーナーとして反対する理由はない。 「じゃあ、お願いしようかな。曲がらなすぎてびっくりしないでくれよ」 「うん。 いいね。アタシがきみのトレーニング見るって、なんか新鮮だな」 気を取り直して、今度は脚を開いたまま前屈をしてみることにした。 「ふふふっ。 ほら、頑張れ」 「うん…あ痛たたっ」 背中を押す彼女の手つきは優しいが、残念ながらこちらの身体の硬さはその気遣いを上回っていた。 天性のしなやかさを持つ彼女の身体を知っているだけに、我ながら呆れが出る。彼女の半分も腰を曲げないうちに、もう股関節は限界を迎えていた。何度か繰り返し押してもらったが、手の届く位置は変わらないままだ。 「うーん…あ」 彼女がくすりと微笑む。 「きみって、ご褒美があると頑張れるタイプ?」 「ん?まあ、そうかな」 唐突にそう訊かれた。確かに自分への褒美を用意して、仕事へのモチベーションを高めることはしばしばやっている。その褒美にあれこれこだわるようになったのは、彼女と色々なところへ出かけるようになったせいでもあるけれど。 「それがどうかしたか?」 「押してだめなら引いてみようかなって」 それを知ってか知らずか、彼女はこちらの顔を覗き込んで、いっそう楽しそうに微笑んでいる。 その言葉の意図を図る暇もなく、そのまま開いた脚の間に座り込んだ彼女は、目の前でゆっくりと両手を広げてみせた。 「おいで」 心臓の鼓動が、ひとつ跳ね上がったような気がした。 さっきまで痛みですぐに腰を引いてしまっていたのも忘れて、必死になって指先を前に伸ばす。もちろん腰と股は悲鳴を上げるが、それを上回る幸せが目の前に待っているのだから、止まる理由にはならない。 こうやって彼女に愛をねだられたときに、待たせたことなどなかったのだから。 じりじりと、身体が前に出ていく。トレーニングを終えた彼女の体温が、徐々に感じられるようになってくる。 こちらの顔がようやく彼女の胴に少し触れたときに、彼女の腕が優しく背中を抱いてくれた。 「よくできました。 ふふふっ。痛くないの?」 「…痛いよ。 でも、それよりも嬉しいから忘れちゃった」 さっきまでの苦しさを忘れたように、腕の中の彼女を抱き返す。身体の痛みより、抱きしめてくれた彼女に応えられないほうが辛いから。 せっかく恰好をつけたのに、くしゃくしゃと頭を撫でられて頬が緩んでしまう。でも、やっと腕の中に収まった彼女の温もりが、痛みを忘れさせてくれたのは紛れもない事実なのだ。 顔を上げて、ゆっくりと彼女を見つめる。 本当に不思議だ。抱き合うなんて何度もしてきたことのはずなのに。彼女の自由な思いつきはいつだって、彼女を好きになった幸せを思い出させてくれる。 「なぁ」 「ん?」 でも、それだけじゃ足りない。 彼女と愛し合うときはいつだってそうだ。 今のままでも充分幸せだけれど、できればもう少し先まで行ってみたいと欲張ってしまう。 「どこまでいったらキスしてくれる?」 無謀な欲張りと笑われても致し方なかろう。さっきまでは腰を曲げるのにも四苦八苦していたというのに。 「あはははっ!大きく出たね」 だが、彼女がこんなにも素敵な褒美を用意して待っていてくれているのに、欲を出さないのはそれこそ笑い者だろう。 彼女の微笑みがいっそう深くなったのを見て、また嬉しさと恋しさが募る。 「じゃあ、ここまで来てよ。 あんまり待たせないでね。さみしいからさ」 床に寝転んで首筋を曝け出す美味しそうなご馳走を、冷めないうちにどうやって食べてやろうかとばかり考えていた。 その次の日に、腰と股が激痛に苛まれたことは言うまでもない。 だが、唇にそっと指を当ててみると、その痛みに少しだけ甘い思い出が混じるような気がするのだった。 2/15 ?さく、さくと小気味よい音が鳴る度に、安心とうれしさで息をつく。彼女がもう片方の手にチョコを持って、それを一緒に口の中に入れたときの笑顔が、自分の試みの成功を告げてくれた。 「そんな顔しなくてもいいのに。アタシは見たときから美味しいって思ってたよ?」 「作るほうは緊張するんだよ。でも、よかった」 塩味と食感にこだわって焼いたチーズクッキーは、大量のチョコを貰った今日の彼女の舌に合ってくれたようだ。 手作りの料理を振る舞うのは何度目かもう数え切れないが、それでも出す瞬間は緊張するし、美味しいと言ってもらえればひどく嬉しい。いい加減慣れてもよさそうなものだが、いつまでもこういう気持ちになるのは彼女を想っている証と思えば、そう悪い気もしない。 それにしても、彼女の女たらしぶりには年々磨きがかかっているように思える。貰ったチョコだけで数日は腹を満たせるのではと思うほどだが、彼女は律儀に一人で食べているし、無理をしている素振りもない。実際、山とあったチョコは綺麗に片付き、クッキーもあと一枚を残すのみとなっていた。 だが、残り一枚のクッキーに手をつける素振りが見えない。彼女の胃袋といえど流石に限界かと思い包み紙を出そうとしたが、上げた腰を彼女の手が制止した。 「まだしまわないでいいよ。あえて残してるだけだから」 「え?なんで…」 「食べたいチョコがまだあるんだ。せっかくだから、これと一緒がいいな」 彼女はひどく愉快そうに微笑みながら、こちらを見ていた。何もかもお見通しだよと言わんばかりに。 「…じゃあ、目を閉じて」 始めはそんな気などなかったのに。彼女のために焼いたクッキーとは違って、気づけば作ってしまっていた。 かつて彼女に言った言葉を反芻する。他人事だと思っていたのに、結局は自分も、"それ"から逃れることはできないのだと噛み締めながら。 「…じゃあ、目を閉じて」 さっきまでとは打って変わって、少し目を伏せて恥ずかしそうに口にする彼の姿はひどく可愛らしかった。少し意地悪かなと思うけれど、いちばん欲しかったものを今まで待っていたのだから、このくらいのおまけはあってもいいだろう。 「いいよ」 目を閉じるとその分だけ他の感覚が鋭敏になって、何が起きているかを想像してしまう。 台所へと駆けていく足音。冷蔵庫を開く音。そして、掌に乗せられる冷たい感触。 「…ふふっ」 瞼を開いたとき、思わず笑みが漏れてしまった。 見たかった景色が、そのまま目の前にあったのだから。 ひとくちで食べられる小さなサイズだが、千代紙のような包みや丁寧にかけられたリボンは目に楽しい。いつもそっとそばにいてくれてアタシを楽しませてくれる、彼らしいチョコレートだった。 「物好きだな。あんなに食べたのにまだ欲しいなんて」 「きみのは別腹だもん。 きみこそ、なんで作ってくれたの?」 「…前に言ったじゃん。シービーを諦めるのは難しいんだって」 彼のくれたそんな贈り物も、少し悔しそうな彼の言い方も、何もかもがうれしかった。 「シービー。俺、君のことが…」 だからこそ、沈黙に耐えられなくなったように彼が口にしかけた言葉の先を、今は聞きたくなかった。 「ふふっ。 いいよ。無理に言わなくても」 アタシはもうさみしくないから。きみの心の温度は、ちゃんとこの手の中にあるもの。 「きみの気持ちはちゃんとここにあるから。 言葉にするのは、きみが本当に伝えたいときにして」 だから、ゆっくり考えていいよ。 アタシは待ってるから。きみのくれたチョコの甘さを、ゆっくり味わいながら。 ぱくりと一口で飲み込むと、抹茶の香ばしい苦味とチョコの甘みがよく混ざる。きっとこれも、他にたくさんチョコをもらうことを考えて作ったのだろう。爽やかな後味の中に彼の気遣いを感じられるような気がして、美味しさ以上に嬉しくなった。 「ん… いいね。優しい甘さで好きだよ」 口とお腹はすっかり満足した。 だから、あとは心を満たしてもらおう。 「あのチョコ、食べてほしかった? それとも、あのまま持っててほしかった?」 「そりゃ、食べてほしいから作って…」 途中で言うのを止めた彼を見て、ひどく嬉しくなった。全部を口にしなくても、アタシの気持ちは伝わっているのだと。 「うん。知ってる。でもちょっと寂しいな。 食べたらなくなっちゃうんだもん」 もしかしたらきみも同じ気持ちだったのかもしれないと思うと、また微笑みが止まらなくなった。 アタシだけ変になるなんて、不公平だもん。きみだって同じくらい、アタシを想っておかしくなってくれていないと嫌だ。 「やっぱり、チョコの重さに気持ちの重さを感じたりはできないけどさ」 チョコを渡すのが自由なら、そこに込められた気持ちに応えるかどうか決めるのも自由だ。 でも、きみには諦めないでいてほしい。アタシのことを好きでいてほしい。 「何か残したいって気持ちは、ちょっとわかるようになったから。 きみのせいだよ?」 その錘が少し重ければいいのになんて、思うようになってしまったんだから。 チョコは甘くて美味しいけれど、舌の上で溶けると少し切ない。 きみがアタシのことを、諦めないでいてくれた証だから。 「だから、きみは持っててよ」 アタシの気持ちも、きみに預けておくから。 甘くて苦い香りのする、一輪の花が咲いている。チョコの包み紙で作ったその花を、彼の胸に挿した。 「ありがとう。チョコ、美味しかったよ」 アタシの気持ちを、少しでも彼の気持ちの近くに置いておきたかったから。 部屋を出て夜風に当たっても、つい口元が上がってしまう。 「…ふふふ」 花は散るから美しいのだと、わかっているつもりだったのに。 あの花は枯れることも散ることもないのだと思うと、なんだかひどく嬉しくなってしまった。 きみの胸の奥に、あの香りがずっと残っていたらいいな。 きみに抱きしめてもらったときに、いつでもこの日を思い出せるように。 3/1 予定を立てないことが常のアタシにとって、どんなふうに過ごすか一番定まっていないのは朝のひとときだった。夜明け前の冷たい空気を吸って走りたいときもあれば、温かい寝床の中で日が高くなるまで丸くなっていたい日もある。 今日のアタシは後者の気分だ。時計の針はもう少しで夜が明けることを示していたけれど、体はもう少し眠りについていたいと言っている。 「どこ行くの」 「…ごはん作んなきゃ」 だから、そう思わせていた一因である隣の温もりが腕の中から抜け出ようとしているのが気に入らなくて、彼を呼び止めた。 「お腹すいたの?」 「…ううん」 「じゃあ、まだ寝てようよ。アタシはごはんよりベッドの気分だな」 アタシと違って彼はしっかりしているから、休みの日にも早起きをして、朝食を作ることを忘れない。眠い目を擦って、或いは散歩で気持ちいい汗をかいてリビングに入ると、できたてのいい匂いと一緒に彼の笑顔が出迎えてくれるというのは中々に魅力的だ。 けれど、今のアタシは温かいごはんより、彼の温もりがほしかったのだ。この幸せな微睡みは、彼と一緒に味わっていたい。 彼はまだ決心がつきかねているらしい。台所に行くのは止められたけれど、布団の中に戻る気配もなく、ベッドの端に腰掛けたままだ。 「だめだよ、油断したら」 そんな彼に聞こえないような小さな声で囁いた。眠い頭でも、悪戯心は忘れていないのだから。 「えいっ」 「…!」 後ろを向いた彼の寝間着を捲って、背中を出させる。冬の朝の冷たい空気が直に入ってびくりと仰け反る姿が愉快で、ついくすくすと笑みが漏れた。 「寒いでしょ。 おいで?」 「…悪い子だな。ほんとに」 大きな息をひとつ吐いて、彼はもぞもぞと布団の中に潜り込んでくる。 振り向いてこちらをじとりと睨む、拗ねた瞳がひどく愛おしかった。 十数分も経たないうちに、彼はまたすうすうと寝息を立て始めた。捲った寝間着を戻す間もなく眠りに落ちた姿を見ると、その眠気をこらえてアタシのためにごはんを作ろうとしてくれていたことが嬉しくて仕方なくなる。 「やっぱり眠かったんじゃん」 その想いのままに彼を抱きしめると、アタシのところに戻ってきてくれたまっさらな背中が目の前にあった。その背中を越えて眠る彼の横顔を見ていると、愛らしいと思うのと同じくらいにちょっかいをかけたくなってしまう。 「ふふ。 …ん」 まっさらな白い雪に最初に足跡をつけて、これはアタシのものだとはしゃいでいた子供の頃を思い出す。だが、この雪はひどく温かくて、柔らかい。 ずっと口をつけていたいと思えるほどに。 唇を離せば、赤い跡が残っている。初雪に残した足跡のように、当分は消えないだろう。 もう一箇所、今度はもっと大胆に吸い付いた。吸い付く度に彼をぎゅっと抱きしめると、ちゅ、ちゅという音と一緒に悩ましげに身体が震えるのがわかる。 「…まだ、起きてたい?」 その答が否であることも、それを今は彼の口から聞けないこともわかっていた。微睡みの中にいるまま、寝返りを打った彼がアタシを抱き返してくれたから、それで十分だった。 寝間着の下の背中を抱きしめたまま、彼の温度とひとつになるように目を閉じる。 眠りに落ちたままでも、胸の奥から伝わる鼓動はしっかりと早まるのが、なんだかひどくうれしかった。 台所に立つ彼が、時々困ったように後ろを見るのが目に留まる。遅めの朝食を楽しみにしてさっきから彼の料理する姿を眺めているのだが、彼はどうにも先程から落ち着かない様子だった。 半分は心配で、もう半分は面白がって声をかけてみる。 「どうしたの?」 「…背中、なんかちくちくするんだけど」 そう口にする彼の表情と声は憮然としていて、何かしただろう、と暗に問われているようだった。 前科はいくらでもあるし、実際今回の犯人もアタシだ。だが、何かあれば真っ先に疑われるいたずらっ子の気分になるのも面白い気がして、知らないふりのまま一応の反論を試みてみる。 「虫に刺されたのかな」 「今は冬だけど」 わざと舌を出すと、照れたように鼻を鳴らす仕草が癖になる。もう言い逃れはできないが、それが少し嬉しいような気もしている。 本当は少し気づいてほしかったのだ。いたずらは見つけて驚いてもらわなければ、やりがいがないのだから。 「ふふふっ、そうだね。 虫に刺されるくらいならアタシが先に刺しちゃうもん」 今度は開き直って、さらに煽るように口にする。彼にいたずらをするもうひとつの理由は、どんな仕返しをしてくれるか楽しみだからだ。 彼は難しい顔をしてこちらを睨んでいる。罰を与える方が追い詰められて、罰を受ける方がその罰を楽しみにしているとは何たる理不尽だろう。 「だから、きみもいたずらしてよ」 アタシが誘って、きみが追いかける。いつも通りの楽しい時間だと、そのときはひどく余裕ぶっていた。 きみが時に予想を超えてくることを、すっかり忘れたまま。 どんなことをしてくれるのかと、両手を広げて待っていた。 「ん…!」 たくさんからかって、その分たくさん愛してもらおうと思っていたのに。次の瞬間、アタシの口はひどく情けない悲鳴を上げていた。 アタシの予想をずっと上回る強さで、彼の手がアタシを抱きしめている。少し荒い吐息が耳を伝って、聴覚と触覚の両方を支配していく。 あっという間に服が捲られて、彼の手が背中に触れた。今朝、アタシが彼にしたのと同じように。 アタシは随分驚いたが、彼も自分の大胆さに驚いているように見えた。少し恥ずかしそうな声が、頭の上から降ってくる。 「シービーだってしただろ。 …おかえし」 いつもと違う少しぶっきらぼうな言い方と、そう言っておきながら安心させるようにもう片方の手で頭を撫でてくれる優しさが、ひどく心に沁みる。 なのに、彼の左手はアタシの肌をなぞって、肩甲骨の輪郭を確かめるようにそっと触れてくる。触れ方は確かに優しいのに、あと少しずらせば取り返しのつかない場所に触れられているという事実が否応なしに感じられる。 「…そうだね。 じゃあ、しょうがないよね」 もっと、とねだりたい気持ちと同じくらい、これ以上我慢したらどうなってしまうのだろうという期待が、胸を焦がしていた。 「あ…!」 彼の胸に身体を預けると、指がゆったりと背中を撫で始める。腕の中に閉じ込められて身体に触れられると、何かいけないことをしているという実感がひどく強くなる。 背中から心臓をまさぐられているみたいに、胸の鼓動が一気にうるさくなる。それが少し怖いけど、それ以上に心地よくて、もっと彼に縋り付いてしまう。 「…!」 愛される度に唇が寂しくなるけれど、いくら差し出しても彼は吸ってくれない。気づかないのではなくてあえてそうしないのだということは、次に彼が始めたことですぐに理解した。 蕩け始めた背中に、彼が指を立てた。 肌を圧された感触が、ゼリーか何かを指で突いたようにアタシの身体の中に響く。それに耐えるアタシを気遣うようにゆっくりと、けれど確かな手つきで、指先が背中を走ってゆく。 彼のおかげで敏感になってしまった背中は、髪の毛一本ほどの僅かな動きでも感じ取ってしまう。だから、その指先が何をしているのか、アタシにははっきりわかった。 「…ふふふっ」 「…動くなって」 「やだ。きみが悪いんだよ」 どうしよう。もう、きみの前でしゃっきりしていられないかもしれない。 恥ずかしくて、けれどそれよりもずっとうれしくて、笑顔以外の表情が浮かべられない。 いてもたってもいられなくなった両手が、彼の背中に着地する。背中越しでもいいから、彼の鼓動を感じたかった。 なりふり構わないアタシをからかうように、彼はくすりと笑って呟いた。 「何度も言ってるじゃん」 「アタシだって何回も言ってるけど。きみは飽きちゃうのかな」 あっという間に拗ねたような表情に変わった、彼の顔をじっと見つめる。これだから彼にいじわるをするのは止められないのだ。 どんなにいじめても、拗ねたままでも、アタシに愛を囁いてくれるのは変わらないから。 「…そんなわけないだろ」 「アタシだってそうだよ。 きみが伝えてくれたら、何度だってうれしいもん」 手を変えて、品を変えて。 アタシの心に響く伝え方を、何度でも考えてくれること。伝え方がどんなに変わったって、同じ気持ちでいてくれること。 そのぜんぶが、愛おしくてたまらない。 砂に書いた愛が消えても、海はその言葉を覚えている。 そうでなければ、波の音があんなに美しいわけがない。 「だからさ。また考えてよ。 また、伝えてよ。何度だって、アタシは覚えてるから」 だから、アタシも忘れない。背中の砂浜に、心の浅瀬に、きみが書いてくれた言葉を。 むしろ、足りないくらいだ。こんなに心を満たしてくれたんだから、もっと身体にもくれないとさみしい。 「それに、こっちはまだもらってないよ」 頬に添えた手から親指だけを伸ばして、ゆっくり彼の唇をなぞる。 アタシは背中にキスをしたんだから。 きみの唇も、アタシにくれなきゃいやだ。 あんなに恥ずかしがっていたのに、重ねた唇はいつもよりずっと情熱的だった。きみもキスしたくてしょうがなかったんだ、と思うと、さっきまでのもどかしさがゆっくりと埋められていくのがわかる。 大丈夫だよ。きみと同じくらい、アタシだってどきどきしてるから。胸の奥はもう、どろどろに蕩けてしまっているから。 だから、きみも溶かしてあげる。躊躇う気持ちも、遠慮もぜんぶ蕩かして、今一番したいことに正直になれるようにしてあげる。 自由になった唇で、さっき彼が紡いでくれた言葉を繰り返す。 唇の贈り物は、唇で返さないと。 「あいしてる」 3/15 素敵な夢を見た。 ふと目を開けると、アタシのトレーナーが一頭のいるかに変わっていたのだ。 いるかが名乗るはずはないのだけれど、そのいるかはきみなんだと、なぜかはっきりわかった。ゆっくり浜辺を歩くアタシにつかず離れずついてきてくれる姿が、そう確信させたのかもしれない。 そんな健気な姿を見ていると、いろいろな所に行ったけれど、海の上を散歩したことはなかったな、と思ってしまうのは仕方ないことだろう。 そして、きみの行く場所についていったこともなかったな、と。 「海の上には、なにがあるんだろうね。 きみ、知ってる?」 きゅう、と元気のいい鳴き声は、アタシのために楽しいことを考えてくれるときのきみの声にそっくりだった。 どんな姿であっても、きみをきみでいられなくすることはできないらしい。任せてくれ、と言いたげなその響きに、アタシはいつものように心躍らせていたのだから。 きみはアタシを背中に乗せて、青い海をどこまでも泳いでいった。きらきらと光る水面をかき分けてゆく度にアタシが子供みたいにはしゃぐと、どこか苦笑するように優しく鳴いていっそう力強く泳いでみせるのが、とても素敵だった。 船か何かでただ海を渡るだけでは、きっとこんなにわくわくしないだろう。この景色が綺麗なのは、きみの背中から見ているからだ。 アタシがきみを背負って走ったとき、きみもこんな気持ちだったんだろうか。そう思うと、ひどくうれしかった。 それからはもう、はしゃぎっ放しだった。きみと泳ぎで競争したり、鼻先に乗せてもらって大ジャンプしたり。思いつく限りの楽しいことを、たくさんした。 でも、何といっても最高だったのは、きみと一緒に海の底に潜っていったときだった。 珊瑚の森でかくれんぼをしたあとは、腕をいっぱいに広げてイソギンチャクの花畑に飛び込む。きらめく水面に向かって指を伸ばすと、蝶の代わりにクマノミが止まった。 指先をくすぐられて笑い出したアタシを、きみのひれが優しく撫でてくれた。 天国はどこにあるの、と聞かれたら、今のアタシは迷うことなく、空の上ではなく海の下を指差すだろう。そこにはいるかの姿をした天使がいて、アタシをどこまでも喜ばせてくれるのだと。 きみに連れられて夕焼けの海まで来たときに、アタシの胸の奥にすっとひとつの言葉が思い浮かんだ。 きみの丸い瞳は、あの夕焼け空と同じ茜色にきらめいている。どんな姿になってもその瞳は、アタシの生きる姿に夢を見てくれた。 そんなきみに言いたいことなんて、ひとつしかなかった。 「好きだよ」 ゆっくりそう囁いて、きみをぎゅっと抱きしめた。たとえ姿は変わっていても、いつも愛を告げたときのように、きっと少し恥ずかしそうに伝え返してくれると思っていたから。 でも、きみはぽかんとしている。何を言われたのかまるでわからない、という感じだ。 きみは何かを訴えるように、きゅうきゅう、と可愛らしい声で鳴いた。でも、きみが何を言いたいのか、アタシにはわからない。 心にぽっかり空いた穴が埋められずに、すう、と風が吹いたような気がする。 別のことにも、アタシは気づいてしまった。アタシがどんなにきみを抱きしめても、きみの小さなひれは、アタシを抱き返してくれるには足りないのだ。 きみは相変わらず、きゅう、きゅうとさみしそうに鳴いている。もしかするといるかの言葉で、アタシが好きだと言ってくれているのかもしれない。 その懸命な姿を見ていればいるほど、アタシの胸に空いた穴が大きくなっていく。 ああ、困ったな。アタシもきみも、こんなに愛し合っているのに。 そのための当たり前の言葉さえ、こんなにも伝わらないなんて。 部屋はまだ夜の闇の中だった。 スピーカーから、波の音が聞こえている。あんな夢を見たのは、きっとそのせいだろう。 隣りにいるきみはもちろん人間の姿をしていて、アタシが今までどんな夢を見ていたかなんて知らないまま、穏やかな寝息を立てている。 その顔を見て安心するのと同時に、アタシの胸の奥には実に理不尽な不満が沸き起こった。アタシをひとりにして、こんなに気持ちよさそうに寝ているなんて。 「ふふっ」 夢の中に忘れ物をしてきてしまった。取りに戻るためにもう一度眠りに落ちる気もない。あの夢をもう一度見たとしても、きっともっと多くのものを置いてきてしまうだろうから。 だから、現実のきみに埋め合わせてもらおう。 こんなにさみしいのは、きみを愛しすぎたせいなんだから。 眠る背中に手を伸ばしながら、彼の胸に耳を当てた。 潮の音色が聞こえないかな、なんて思いながら。 「ん…?」 彼はすぐに目を覚ました。寝ている間にアタシが悪戯をしたことも一度や二度ではなかったからだろうが、その律儀さがなんだかおかしくて思わずほくそ笑んでしまう。 「…どうした?」 まだ眠気の残る声で尋ねられる。起きるといきなり服の下に手が入っていて、背中を指で撫でられているのだから、訊きたくもなるだろう。 「背びれが生えてないか確かめてたんだ」 ぽかんとするきみの顔を見ると、いっそう笑みが止まらなくなる。あとでちゃんと説明してあげないととは思うが、今はこんなじゃれ合いを少しでも楽しんでいたかった。 本当は、ただきみに触れていたかっただけ。でも、それに少しでも楽しい言い訳がつくなら、それでいいじゃないか。 きみを愛する理由なんて、いくらあっても困らないもの。 しばらくして目が覚めてきた彼に、アタシは夢の話をした。 「じゃあ、プールに行かないとな。いるかの俺はどうか知らないけど、こっちの俺は全然泳げないし」 「いいね。その時は付き合ってあげる。 いつか一緒に泳ごうよ。本物の海でさ」 彼と一緒に青い海を征服しに行くのは、きっとひどく楽しいだろう。だが、今アタシの心を掴んで離さないのはもっと別の楽しみなのだ。 だってまだ、きみと話し足りないんだもん。 青い海を自由に泳ぐきみは、確かにとても素敵だけれど。 「ね」 「ん?」 「好きだよ」 きみの愛の言葉を聞けないのは、やっぱりさみしくて仕方ない。 「…ん」 少しうつむいて、頬を赤く染めて。 いつも通りのきみだ。アタシの言葉を宝石みたいにいつまでも大切にしてくれる、きみのままだ。 「伝わってる?」 「…もちろん」 そんなきみが、アタシの告白を聞き逃すなんてありえない。あたりまえのことだった。 「そうだね。 でも、それが嬉しいな」 けれど、きみのあたりまえが何よりも、アタシの心を満たしてくれることだって、いつまでも変わらないのだ。 腕の中に閉じ込めて、きみがここにいることを全身で感じる。しばらくそうしていると、きみの手が優しく頭を撫でてくれた。 一房の髪まで愛でてくれるようなきみの手つきが、ひどく嬉しい。でも、いちばんほしいものはそうじゃないんだ。 きっときみだって、それはわかっているんだろう。だからアタシも、催促なんてしない。 誕生日の朝の気分に似ている。楽しいことが起きるとわかっていて、それがどんなふうにアタシの目の前に現れてくれるのだろうと待ちながら一日を過ごすのは、もらったプレゼントと同じくらいに素敵なことだ。 そんな、もどかしいけど幸せな時間。きみの愛を待ちながら、目を閉じてそのかたちに想いを馳せるひとときは、そういうものだった。 きみの手が頭を抱き寄せる。切ない吐息が、耳元を優しくくすぐる。 今ならきっと、どんなに小さな愛のささやきでも聞き取れるだろう。 そう、思っていたのに。 「きゅう」 夢の中に置き忘れたはずのいるかの声が、頭の中を満たした。 夢のことを思い出して、さみしくなって顔を上げる。でも、いじけて出そうになったいじわる、という言葉は、喉の奥に帰っていった。 きみの唇が、優しく出迎えてくれたから。 「俺も好きだよ。 シービーのこと、大好き」 ああ、今日はきみに一本取られたな。 「…ふふっ」 あんなに繰り返した言葉の味が、こんなに新鮮になるなんて。 もっともっと、味わいたくなってしまうじゃないか。 行かないでよ、アタシのいるかさん。 もう少しだけ、揺蕩っていようよ。 きみのことが、大好きだから。 3/29 ?シービーが帰ってこない。 時計の針はもう10時を回っているのだが、夕方に少し出てくると言ったまま戻らずに時間が経った。 とはいえ彼女が気まぐれなのはいつものことで、帰りが遅くなったり思いもかけない寄り道をするのはむしろ日常と言えた。出会ったばかりのころからしてそうだったのだから、成人を迎えている今の彼女に対して、今更そのような些末なことであれこれ気を揉むことはない。 だから、今自分が抱いている感情は心配などという立派なものではなく、ただ単に好いた相手が自分を放って何処かに行ってしまったのが寂しい、という子供じみた感傷だった。 がちゃり、という玄関の開く音は、幾重にも扉を経ているはずなのにはっきりと聞こえた。自分がウマ娘なら、きっとその両耳は鋭敏に動いたことだろう。 思わず駆け出しそうになるが、一方的に待たされた立場で素直に駆け寄るのもなんだか悔しくて、玄関に辿り着くときには努めて落ち着いた歩調を保った。 「ただいまー♪」 だが、いつも以上に陽気な声の彼女は、そんなことは知らないと言わんばかりに微笑みながらしなだれかかってきた。 とろりと蕩けた瞳に、赤く染まった頬。いつも通りの外の風の匂いに、ほんのりと甘い酒の香りが混じっていた。 「呑んできたのか?」 「うん。はじめはちょっと散歩するだけのつもりだったんだけど、久しぶりにシリウスに会ってさ。 いきなり誘った仕返しかな。けっこう呑まされちゃった」 そう言いながらも彼女の話しぶりは上機嫌そのもので、きっと最後はむしろ彼女が呑ませる側だったのだろうな、となんとなく想像した。 そんなことを考えている間にも、靴を脱いだ彼女はすっかり自分ひとりで立つ気さえなくして、肩に寄りかかる重みがどんどん増してゆく。 「そんなに呑んだのか?立てそうか」 「あははっ。大丈夫だよ。 こうしてるときみは優しくしてくれるって、知ってるだけだから」 「…」 いつも通りの快活さに、いつもよりずっと輪をかけた悪戯っぽさと甘えたがりが混ざり合う。 酔った彼女は、ひとことで言えば危険なほど可愛らしい獣だった。 決まりごとにとらわれずにやりたいことを思いつくままに行動に移すという性格は、そのままどころかむしろ強くなって。 「汗かいちゃった」 「…脱ぐなら脱衣所でやってくれよ」 けれど、思わせぶりに微笑みながら目の前で服を脱いで肌を見せるなどということは、平生の彼女からは考えもつかない。言えば何でも受け入れてしまいそうな今の彼女の、現役のころと変わらない引き締まった腰と腹がたくし上げたシャツから覗いているというのは、見た目以上に目に毒だった。 「そうだね。シャワーも浴びたいし。 …一緒に入る?」 けらけらと笑っていたかと思えば、深く落ち着いた表情と声音で、本気になったようにそう口にしてくる、その仕草も。 覗き込むように彼女の顔が近づいてくると、どれだけ誤魔化しても心の中を直接見透かされてしまっているような気分になる。 「…からかうんじゃない」 絞り出すように投げかけたその言葉に、彼女は何も言わずに微笑んだまま、脱衣所にスキップしていった。 あの誘いが冗談なのか本気なのか、結局わからないまま。 「ふふふっ」 シャワーから上がったばかりの彼女は、ほんのりと温かくいい匂いがした。その匂いをつけたいのかこちらの匂いを嗅ぎたいのかは知らないが、その熱を分け合うように胸板に頭をすりすりと擦り付けて甘えてくるのは相変わらず目にも身体にも毒だった。 いつも彼女の佇まいはどこか猫を思わせるものがあるが、今日は些かマタタビが強すぎたのかもしれない。 「あんまり悪戯するとおやつ抜きだぞ」 「にゃーん」 頭を撫でつけて猫を叱るようにからかい返してみても、彼女は嬉しそうに鳴きながら返すばかりでちっとも動じてくれない。 結局、いつまでたってもどんな姿になっても、自分は彼女に敵わないのだ。それを悔しいと思うと同時にほんの少しだけ嬉しくなるのが、なんだか不思議だった。 「きみはお酒、好き?」 唐突にそう聞かれた。 元々は好きでも嫌いでもなかったが、最近は目に楽しい酒や変わり種の酒を随分呑んでいる気がする。 どうしてそうなったかと言えば、彼女の冒険に付き合うようになったからだが。 「…昔はそんなに興味なかったんだけどな。 意外と好きかも。今は」 それを聞いた彼女が、胸に埋めていた顔をゆっくりと上げた。 新しい悪戯を思いついたときの、悩ましくも可愛らしい顔だった。 「アタシも好きだよ。 きみのこと、すごく可愛く見えるから」 柔らかい感触が、下から唇にそっと触れて、離れる。彼女の熱が唇から伝わって、頬と胸がどうしようもなく熱った。 「…呑みすぎ」 「うん。 だから、いいよ。きみもお酒のせいにして」 確かに、魔法の飲み物かもしれない。大胆に甘えたくなっても、どれだけ愛しても、酒の悪戯にしていいなら。 今日だけは、彼女に酔って、好きなだけ溺れてみようかな。 トレーナーが帰ってこない。 アタシと違って、彼は出かけるときにきちんと行き先と帰る時間を言う。そういうわけで、彼がトレーナー同士の飲み会に行っているのも知っていた。 だから、今のアタシの頭を占めているのは心配なんかじゃなくて、彼にかまってほしいというわがままだったのだ。 そんなアタシが玄関の鍵の開く音を聞き逃すはずもなく、彼が居間に入ってくるより先に、アタシは彼を出迎えに駆け出していた。 「ただいま…」 頬を少し赤らめた彼は、今の姿を恥じらうように、蕩けた瞳にニヒルな笑みを浮かべていた。 「おつかれ。けっこう呑んだね」 「うん…ちょっと張り切りすぎたかも」 彼の言う通り、少し呑みすぎているのだろう。身体を支えるためとはいえ、アタシが彼を抱きしめても、照れるどころか素直に身を預けてくるのだから。 ああ、困ったな。酔った相手を手籠めにする趣味なんてないのに。 「…シービー」 「ん?」 「ありがとう… …大好き」 素直な今のきみが、ひどく可愛く思えて仕方ない。 「…ふふ。 うん。知ってる」 どんな姿になっても、その言葉だけは必ず伝えてくれるきみに、今すぐ応えてあげたくなる。 「わかってるよ、ちゃんと」 だってアタシも、酔うとそのことばっかり考えてしまうんだもの。 この間アタシが酔って帰ってきたとき、アタシと違ってきみは随分優しく振る舞ってくれたよね。 確かに、あのときはいつもじゃ考えられないくらい大胆なことも言った。 でも、全部本気だったんだよ。 いつもよりずっと、きみのことが愛おしく思えて仕方なかったんだ。 アタシに気を遣ってくれるきみの優しさは痛いくらい伝わってきたし、それはそれでうれしかった。 でも、アタシはきみみたいないい子じゃない。きみが優しさを忘れてしまうくらい、きみに愛されてみたいって思うこともあるんだよ。 それに、ちょっと迂闊なんじゃないかな。 「ん…! …ん…」 ちょっと酔っただけで、いきなりキスされてもこんなに簡単に受け入れちゃうなんて。 送り狼は自分になんて目もくれないって、きみは思っているんでしょう。 でも、きみのことが大好物な狼は、きみの家の中にいるんだよ。 「お風呂沸かしてあるからさ。一緒に入ろっか。 背中流してあげるから」 おいしく食べてあげないと、わからないのかな。 きみはこんなに、素敵なひとなんだってことが。 4/19 ?自分のよりもずっと細い両手の指が、そっと頬に添えられる。その指に導かれるように前を向くと、彼女はゆっくりと、満足げに微笑んだ。 言葉を交わさなくても、指先にほんのりと込められた力がそっと囁いている。 「きみがほしい」と。 「…!」 そのときが来たのだ、と思うと、心臓が口から飛び出そうになるくらいに早鐘を打つ。彼女はきっと、それをわかっているのだろう。だからこんなに近づいてくるのだ。 唇を塞げば、そんな心配はしなくていいから。 長く綺麗に伸びた睫毛が、ほんのりと香る爽やかな風の匂いが、感覚を塗りつぶしてゆく。たったひとつのものにしか、目が行かないようにしてゆく。 瑞々しい桃色の、彼女の唇を待つことしか、自分にはできない── 「…!! …またこの夢か」 心臓の鼓動が自分で聞こえるほどまだ早い。大抵の夢は目が覚めてゆくにつれて記憶が薄れてゆくものだが、そのイメージは頭がすっきりしてくるほど却って鮮明になってゆく。 それは夢の中で散々自分を弄んだ彼女──ミスターシービーが、あどけない寝顔で隣に眠っているからだった。 夢の記憶が消えないのは彼女が隣にいるせいだ、といったが、正確には逆だ。こんな夢を見るのは、彼女がいつの間にか寝床に潜り込んできているからなのだ。 担当として彼女に連れ添ってから、季節が過ぎるのが随分早く感じられるようになった。自由な風のような生き様に惹かれるのにそう時間はかからず、何度目かの春に想いを告げて、幸いなことに彼女も喜んで受け入れてくれた。 そういうわけで晴れて恋人同士になり、幸せの絶頂と洒落込めればよかったのだが、二つほど新しい悩みが持ち上がってしまったのだ。 告白を期にして、自分と彼女はお互いの家で代わる代わる過ごすようになった。とはいえ今までも頻繁にお互いの家に入り浸って半ば同棲のような関係になっていたから、問題はそのことではない。 明らかに変わったのは、彼女が時折このようにして寝床に入ってくることだった。きちんとした服を着ている今日などはまだいい方で、ある時は寝間着代わりのラフなタンクトップ姿を起き抜けに披露してきたものだから、随分と肝を潰した。 最近はその回数が増えている気がして、どうしてそうするのかを聞いてみたことがある。 『アタシ、朝散歩に行くの好きなんだよね。 でも、最近は朝の空気を吸うときみの顔が見たくなるんだ』 彼女に言わせれば、そう思わせるこっちが悪いということになるらしい。奔放に見えて他人の自由も尊重する彼女がこんなことを言ってくれるのは、決して悪い気はしないが。 もうひとつの悩みは、そんな悩ましい誘惑を無自覚にしてくる彼女に、恋人としてどう接したらいいかを掴みかねていることだった。 好きな相手にこんなことをされて、想いが募らないはずがない。正直なところ、欲望に任せて彼女と愛し合いたいと思ったことは何度もあった。 けれど、どれだけ超然としているように見えても、彼女は自分の教え子なのだ。守る立場の自分が明け透けに欲望をぶつけて、彼女を傷つけるようなことは絶対にしたくない。 『恋をするってどういうことなのかは、まだよくわかんないけどさ。 でも、きみに好きって言ってもらうのは、なんだかすごくしっくりくるんだ』 想いを告げたときに少し不安そうに、けれど微笑みながらそう返してくれたことを、ずっと覚えている。 汚れなど教えたくないほど美しいのに、汚したくなってしまうくらい魅惑的な顔もしてくるのが彼女なのだ。今だってこちらが身体を起こすと、重しをのせるように太腿を枕代わりにしてくる。 こんなことを無自覚にしてくるのに、欲望を剥き出しにして触れてしまえば取り返しがつかないことも同じくらいに実感する。 『見つめ合って、好きって言って… アタシにはまだ想像できないな。あんなふうにしたいって思えるひとができるって』 彼女がいつか、そんなことを言っていたのを思い出す。そんな彼女に恋を教えるのが自分であることが嬉しいのと同時に、ひどく苦しい。 「ん…」 膝の上の彼女が寝返りを打った。横を向いていた顔が真っ直ぐ上になって、自然とよく見えるようになる。 美化も誇張もされていない。夢の中と全く同じ、美しい顔立ちが横たわっていた。 その真ん中には柔らかそうな唇が、鮮やかに咲いている。寝息を立てる度にほんの少しだけ開く様が、こちらを誘っているように見えて仕方がなかった。 触れるのは無論御法度だが、もっと近くで見るくらいはいいだろう。元より潜り込んできたのはあちらからなのだから。そう思って手を伸ばしたのだが、彼女が少し顔を傾けたせいで、その柔らかな頬が向こうからこちらの手に収まった。 「っ…!」 思いも寄らないぬくもりと滑らかな感触が掌をじわじわと侵食して、左手が凍りついたように動かなくなる。彼女の顔に近づけたこちらの顔といいこれは不味いと思う反面、心の奥底ではその美しさに見惚れてしまって、手を引くのが遅れてしまった。 気づけば真ん丸な碧色の瞳が、笑いながらこちらを見つめていた。 「おはよう」 「…おはよう。起きてたのか?」 彼女の頬に手を添えたまま、ぎこちない朝の挨拶を交わす。もはや言い訳のしようもなく、自らの顔に触れている手に少しだけ目を向けた彼女が何を言うのかを、戦々恐々としながら待つ他に術はなかった。 「ううん?今起きたの」 だが、彼女はそれを咎めることなく、むしろ愉快そうにいっそうその笑みを深めたのだった。 いきなり膝の上から跳ね起きるものだから、顔同士がぶつかりそうになって少しひやりとする。その拍子に彼女が纏う風の匂いもより強く感じられて、ついさっきまで外に出ていたのだなとわかる。 「で、今日はどうして…散歩か」 「うん。帰りにいいものもらってきたんだ」 上機嫌そのものな彼女の表情からするに、よほどいいものだったのだろう。起き抜けに頬を触れられても機嫌を損ねなかったのもそのせいだったのかもしれない。 「当ててみてよ」 だが、その贈り物は少々彼女の機嫌を取りすぎたらしい。ひどく悪戯っぽい笑みで腕を広げて待っている姿を見れば、できることはひとつしかなかった。 彼女の腕の中にそっと入ると、合図のように彼女の腕が背中に巻きついた。それを確かめたあとにこちらもゆったりと彼女を抱き返して、匂いを嗅ぐ。 「パンか?でも、こんな時間に空いてる店なんてあったかな」 得意気に笑う彼女の息遣いが、耳をくすぐった。 「開店前だったんだけどさ。焼き上がったばっかりのをくれたんだ。 熱くて落としそうになっちゃったけど、すごくふわふわでいい匂いだったんだよ」 表情は見えないが、きっとさぞ自信たっぷりに微笑んでいることだろう。褒めてやるように頭を撫でると、ふふんと小さく鼻を鳴らしたのが聞こえて、こちらもどうしようもなく頬が緩む。 「じゃあ、早く食べないとな。冷めないうちに。 フレンチトーストとかどうだ?」 「いいね。味付けはアタシもしたいな」 こちらに合わせるように彼女も身体を起こしたが、腕が離れる様子は全くない。起きるのはいいが気が済むまでこのままでいさせろということのようだ。 もう彼女のぬくもりが身体の一部のようになってしまっていて、離れられそうにない。 内心で溜め息をつく。今日は自分が頑張らなければいけない日だというのに、朝からもう彼女に振り回されっ放しだ。 なのにそのことを幸せと思ってしまっているのが、少しだけ悔しかった。 「これください」 彼女の視線の先にあったレディースキャップを、先に手に取って渡す。 今日の彼女はストリートファッションの気分らしい。ラフなシャツとジーンズ姿に目についたアクセサリーを雑駁に盛っていく様子は、洗練された美しさとは違った趣がある。 「いいの?アタシ買うよ」 「いいんだよ。俺から言い出したんだから」 出かけようとこちらから言い出したのは、彼女にとって相当意外だったらしい。一瞬だけ目を丸くしたあとに、じゃあ今日は街に出ようか、と笑ったときの顔が、今でも脳裏に過る。 服装を整えずにシャツとジーンズだけで家を出たことも、今にしてみれば彼女の新しい楽しみ方だったのだろうと得心する。自分と彼女のふたりで、「今日のミスターシービー」を完成させていくことが、いつの間にか楽しくなっていた。 つばの奥から覗く瞳が、からかうように笑っている。 「今日のきみ、なんか優しいね」 「いつもは優しくなかったか?」 意趣返しのように口にすると、彼女はいっそう愉快そうに笑った。 「ふふ。 そうじゃないけどさ、アタシを喜ばせようって思ってる気がする」 一生かかっても、彼女に隠し事はできそうにない。 「…それだけ、シービーのこと大事にしたいんだよ。 伝わってるかどうか、わかんないけど」 帽子を目深に被り直した彼女の瞳を、避けるのではなく追いかけてしまうのだから。 「伝わってるよ。 伝わってるから、もっとほしくなるんだ」 赤、青、藍色。 日が沈む時の空は、実にたくさんの色を湛えるのだと気づいたのは、彼女と一緒に旅に出るようになってからだった。 「何度も見てるのに飽きないんだよね。むしろ、なんだか安心するんだ。これからは星たちの時間なんだって」 夕暮れに染まる街が見たいと言った彼女に従って、街を見渡せる丘の上まで来た。初めはあまり気にかけていなかったのだが、旅をして家に戻るときによく通るようになるうち、その景色を気に入っていつしかそれを目当てに足を運ぶようになったという。 ここに来ると帰ってきた、って気分になるんだ、という彼女の言葉に実感が湧くのは、それだけ彼女と同じ景色を見てきたということなのだろう。 「そうだね。 でも、その前に少しだけ俺にも時間をくれるか」 彼女は何も言わなかったが、振り向いたその瞳がさっきよりも輝いて見えるのは、きっと気のせいではないと思う。 「ハッピーバースデー」 そう言ってプレゼントの小箱を渡したとき、彼女は一瞬目を丸くした。 「あ。 そうだね。今日、アタシ誕生日だった」 可笑しくて思わず笑い出してしまう。彼女を喜ばせようと意識していたこちらの気持ちには気づくのに、それがどうしてなのかという単純な答えは失念しているのだから。 「あはははっ。 もしかして、だから誘ってくれたの?」 彼女は気を悪くするでもなく、むしろ一緒になってけらけらと笑った。笑うのに忙しくて頷きだけで返したけれど、それを見た彼女が満足げに微笑むのを見て、もうからかうのは止そうと思った。 「アタシにとってはいつもと変わらない日なんだけどさ」 真剣で、けれど楽しそうにきらきらと光を湛える瞳。 夕焼け空よりもその色が好きだなんて、気障なことは言えないけれど。 「でも、いいね。 こうやって、自分以外にも自分を大事にしてくれるひとがいるって」 そんな彼女のことが何よりも大切に思えるのは、きっと一生変わらないだろうと思った。 彼女の細い指がゆっくりと伸びて、静かに優しく頬を撫でる。 「きみのほしいものは、なに?」 その手つきと甘い声音で、撫でられているのは頬ではなく、心の奥底なのではないかと錯覚する。 「今日はシービーの誕生日だろ」 「うん。だから教えて? アタシは今、いちばんそれがほしいな」 だから、仕方ないのだ。ずっと抑えていた心の声が、ほんの少しだけ漏れ出てしまったとしても。 ずっと、そのことばかり考えている。 俺のぜんぶを君にあげたい。代わりに君のぜんぶがほしいなんて、欲張りなことは言わないから。 今はただ、その唇がほしい。 彼を好きになって、アタシは随分変わった気がする。 「…!」 頬を赤らめた彼の指先がそっと唇に添えられて、アタシと彼のほしかったものが同じだったことに気づく。 それはすごくうれしいけれど、迷わないその手つきが、どこかちくりと引っかかった。 「…なんか慣れてる感じする」 でも、やっぱりアタシも変だ。こんなこと、思っても口に出さないのに。いつもなら簡単に呑み下せることが、きみといると全部表に出てしまう。 「…夢で見ただけだよ。 最近、その夢ばっかり見てる」 きみといると、どこまでもきみに甘えたくなって仕方なくなる。 「その夢、何回くらい見たのかな」 夢の中のアタシに、大人気なく嫉妬してしまうくらい。 他のひとがアタシをどう思っていようと、それは自由だって思ってたはずなのに。自分の心の声に従って生きると決めたとき、それはけじめとして守ろうと思っていたのに。 きみのことは、そう割り切れない。 「わかんないな。シービーと一緒に寝る度に見るから」 「どっちがかわいかった?夢のアタシと、今のアタシと」 「…変わらないよ。どっちも綺麗だ」 きみを困らせるのが楽しくて、いじわるな問いかけがやめられない。 夢に見るくらいなら、本物のアタシを見てよ、なんて、わがままなアタシが抑えられないんだ。 アタシの唇は詩を詠むこともできる。歌を唄うことだってできる。 でも、他の誰の唇にも触れたことはない。 「恋って理不尽だね。 夢の中のアタシにも、きみのこと渡したくないな」 その言葉がひどく甘い響きを持つようになったのは、きみを好きになってからだ。 アタシが変わっていく。きみの色がアタシに混ざっていく。 でも、混ざり合ったその新しい色が、ひどく素敵に思えて仕方ない。 この唇は、まだ誰にも触れたことはない。 だから、誰よりも素敵なキスにしてみたい。 きみのことが、大好きだから。 きみならそうしてくれるって、信じてるから。 優しく、けれどはっきりと、柔らかな感触が唇に触れる。 どんな味がするんだろうと思っていたけれど、なんの味もしなかった。でも、唇が離れていったあとに感じた仄かな寂しさとそれ以上のあたたかな気持ちは、きっと一生忘れないだろう。 「…ふふふっ」 離れていった唇の分を、抱きしめて埋め合わせたくなる。どこまでもきみらしい、優しくて、ちょっと切なくなるキスだった。 「笑うなよ」 「いいじゃん。うれしいんだもん」 はじめてはきみからがいいって、ずっと思ってたから。 いつの間にか茜色は山の端に薄れて、空は果てしない群青色に姿を変えていた。 銀河の向こう側まで続くその群青の中に、ひとつだけ白く瞬く光が見える。 「見て。一番星だよ」 淡く揺らめくその光が、よかったねと言ってくれていると思えてしまうほど、その時のアタシは浮かれ放題だったのだ。 何か言おうとした彼の唇を、今度はアタシが塞いだ。 恋をするということは、今日の空はアタシたちのためにあると思えることだ。 そんな贅沢を教えたきみには、責任を取ってもらわないと。 「…キスをする度に、空にひとつ星が灯るとしたら、きっと素敵だよね」 今はもう、何も言わなくていいよ。 いちばんほしかったものに、アタシもきみも夢中だから。 それから何回も、何十回もキスをした。 さみしかった時間を埋め合わせるように。 夜空に満天の星が灯るまで、ずっと。 「ふふふっ」 なんでもないのに、楽しくて笑ってしまう。なんでもないのに踊りだしたくなって、くるくるときみの周りで戯れてしまう。 「なんだよ」 それを嗜めるきみの口ぶりも、ひどく優しい。きっときみも同じくらいに浮かれているのだと思うと、それがもっとうれしくなる。 「きみはくっつきたくないの?」 なんの約束もしなくても、頼まなくても、気づけば自然と気持ちが同じ方を向いている。 「…くっついててくれるのか?」 「うん。 今は、ここがアタシの一番いたい場所」 きみが教えてくれたんだよ。 それがこんなにうれしいのは、きみのことが好きだからだって。 街の灯りはまだ遠く、開けた夜道の上には零れ落ちそうなくらいに星々が瞬いている。 「星、綺麗だね。 こんなにたくさん星が見えるなんて、久しぶりかも」 手を伸ばせばひとつくらい取れてしまうのではないかと思うほどだけれど、今日のアタシは欲張りなんだ。 これだけあっても、まだ足りない。 「でも、もうひとつほしいな」 唇を離して、空を見上げる。本当に手が届く近さに、新しい星がふたつ瞬いていた。 「アタシの一番星、みつけた」 夜空の光をぜんぶ集めた、アタシだけのお星さま。 今日の夜空は、アタシたちの「愛してる」でいっぱいだ。 5/4 「休みの日って、あんまり気にしたことないんだよね」 これが我が担当──ミスターシービーに、連休初日にゴールデンウィークについて尋ねたときの言であった。 「アタシはいつも好きなことして過ごしてるからさ。やりたいことを我慢する日とか、しなくていい日だとかって、あんまり考えたことないや」 時には休日も返上して熱心に働く人が聞けば許し難い発言かもしれないが、生憎こちらもそれほど真面目な人間ではない。彼女を担当してからというもの、仕事も遊びも人生の一部として彼女と一緒に楽しむという癖が彼女から感染ってしまったのだった。 「はは、ほんとに猫だな。気ままに生きるのが仕事なんてさ」 「ふふ。にゃーん」 だから読んでいる本越しにそんな彼女をからかうのも、お返しに頭突きをされて撫でろとねだられるのも、もう慣れっこになっている。朝の予定を気にしなくていいから、いつまでもこの時間に浸っていられるということが、今日が休みなのだということを告げていた。 「確かにな。猫って曜日とか休みとか、わかるもんなんだろうか」 憂鬱な月曜日も、それを吹き飛ばす休日も、元はと言えば人間の都合だ。猫も彼女も、そんなもので縛ることはできないということなのだろう。 だが、彼女は少し考え込むように首を傾げたあとに、納得したようににこりと微笑んだ。 「わかるよ。ちゃんと」 「じゃあ、どういう日?」 得意げなその顔を見ると、読書の手を止めてでも答えを聞きたくなってしまった。そんな余裕は彼女の気まぐれひとつで、あっさりと吹き飛んでしまうことも忘れて。 彼女の微笑みが俄に近くなる。気づけば耳元に顔が埋められて、ほんのりと甘い匂いと温かい吐息が感じられる。 「きみがずっとかまってくれる日」 抱きしめられてしっとりと紡がれたその言葉が、心臓をうるさいくらいに跳ね回らせた。 「…」 何も言い返せずに頭を撫でてやると、彼女は満足そうに喉を鳴らした。 かまってくれというなら、望み通りにしてやろう。休みの時間を全部使ってやってもいい。 猫はわがままだって、愛おしく思えるものなのだから。 「猫はひとりでも生きていけるかもしれないけどさ。 きみがいると、もっと楽しいって思ってるよ」 気ままな猫に愛されるのは、いつだって最高の幸せなのだから。 5/17 「ねぇ。 アタシのこと嫌いになってみてよ」 夜の街を歩いているときに唐突に彼女がそう言ったとき、間抜けな声が抑えられなかった。 「え?」 「だから、一度アタシを嫌いになってみてほしいんだ」 何か気分を害したのかと一瞬だけ危惧したが、楽しさと好奇心に溢れるあまり、遊びだというのに一周回って真剣に見える表情は、いつも通りの彼女のそれだった。しかし、相変わらず事情が呑み込めないこちらの様子を察したのか、彼女は遅まきながら何故そのようなことを言い出したのかを説明してくれた。 「なくしたと思ってたものが出てきたら、すごくうれしくなるじゃん。自分でも忘れたころだったら、なおさらさ」 「うん」 「だから、きみがアタシを嫌いだって言ったら、また好きになってくれたときに今よりもっとうれしいって思えるかもしれないでしょ」 わかるようなわからないような説明だった。だが、彼女はおもちゃを見つけた猫のように碧色の目を真ん丸に見開いている。 「だから、言ってみてよ。アタシのこと嫌い、って」 こうなってしまえば、彼女を止められるのは彼女自身だけだ。 彼女は椅子に腰掛けたまま身を乗り出して、こちらをじっと見つめていた。 こんなに目を楽しそうに爛々と輝かせて、「嫌い」と言われるのを待っている者など彼女以外にはいないだろうな、と内心で思うが、眉ひとつ動かしただけでもわかってしまう近さで、そんなことを顔に出せるはずもない。 「き…」 「き?」 言葉に詰まるこちらを面白がっているような素振りに少しむっとして、思い切ってすぱりと言ってしまおうかとも思う。だが、たとえ遊びでも自分の口から一番発するまいと思っていた言葉が出て、それを聞いたときに彼女がどんな顔をするのだろうかと考えると、胸の奥が氷を詰め込まれたように重苦しい。 自分はいつからこんなにも臆病になってしまったのだろうか。だが、今か今かと待っている彼女の前で、口からはみ出しかかった言葉を今更呑むこともできない。 「…木苺のケーキが最近美味しかった」 自分でもどうかと思うくらいの下手なごまかしを、彼女は遠慮なく笑い飛ばしたのだった。 「言えるわけないだろ。まったく…」 「あはは、ごめんごめん」 ソファの上でわざとらしくそっぽを向いてふて寝をすると、上から彼女の手が降ってくる。いつも頭を撫でるのは自分の役目だから、彼女の少し慣れない手つきが新鮮で心地よかった。 「わかってたくせに。言えないって」 だが、もう少しだけ拗ねてみせないとからかわれ損というものだ。笑いながらでも弁明する彼女など、そう見られるものではない。 「そういうんじゃないんだけどな。 きみのこと、もっと好きになってみたかっただけなんだけど」 だが、こういうことを平然と言えてしまうのも彼女なのだ。好きという気持ちのぶつけ合いでも、やはり自分はいつまでも負けっ放しなのだった。 素直になるのが悔しい以上に、恥ずかしくて何と返したらいいかわからない。彼女に続きを催促されても、顔を赤らめながら押し黙るしかなかった。 「ねぇ」 せっつく彼女の声に聞こえないふりをして、くしゃくしゃになった顔も見せないようにする。だが、彼女が次に発したひとことは思いがけないものだった。 「もしかして、ほんとに嫌いになっちゃった?」 さっきとは打って変わって、恐る恐るこちらの想いに触れるような不安そうな声音だった。 思わず笑みがこぼれる。いつもの彼女の気持ちがわかってしまったからだ。 好きなひとが自分のために振り回されてくれるのは、こんなにもうれしいことなのだと。 横たわった背中だけでは物足りなくて、そっぽを向いたきみの顔を覗こうとする。 困ったな。嫌いって言われるどころか、何も言われないだけで怖くなっちゃった。 「…ふふ」 それでもきみはちゃんと愛してくれてるってわかっただけで、こんなにうれしくなっちゃた。 何も言わなかったきみに不意打ちのようにいきなり抱きしめられて、その腕の中で猫みたいに丸くなる。いつもよりずっと早い心臓の鼓動を、きみから隠すみたいに。 「どうだ? いつもより感じられたか?愛されてるって」 さっきまであんなに拗ねていたのに、今はもうからかうように笑っているきみが、誰かさんに被って見える。 悪戯の報いだろうか。なら、甘んじて受けよう。 「そうだね。 だって、こんなに近くにあるんだから」 今、とっても幸せだから。心に開いた隙間が、ぴったり埋まった。 「言えないよ。 嘘でも出任せでも、シービーが嫌いなんて言えない」 縋るように呟くきみが愛おしくて、抱きしめる手が止められない。 アタシもきみも、同じ病気に罹っている。 「じゃあ、もう離れられないね。ずっと」 だってアタシが、きみの「嫌い」を盗んじゃったんだから。 なくした「嫌い」のかわりに、両手いっぱいの「好き」をあげる。 だから、アタシにもちょうだい。 きみがくれたものに飽きることなんて、ないから。 6/7 仕事からの解放。遅めの昼食。昼下がりの陽気。以上三つを足し合わせて自分の身体が導き出した答えは、果てしのない眠気だった。 平日いっぱい働いて休みの日にまずやることが惰眠を貪ることだというのは我ながら情けない気もするが、これだけ心地良い眠気を感じたのも久方ぶりだ。今思う存分眠ったなら、起きたときにはさぞ気持ちのいい目覚めを味わえるだろうと楽しみになってしまうくらいだった。 出不精な自分をいつも外へ連れ出してくれる担当も、どうやら今日は一人旅の気分らしい。外に出るようになると家にいる時間も楽しくなるというのは新鮮な発見だったが、それが今の昼寝を後押しするというのは皮肉な気がしないでもない。 ともかく眠気が凄まじく、家だというのに布団を被る手間すら惜しいほどだ。点けっぱなしのテレビの音が潮騒のように遠のいていくのを感じながら、意識があっさりと深い眠りの底に沈んでいった。 目が覚めて最初に感じたのは、膝の上の重みと暖かさだった。うっすらと瞼を開くと、外行きの服のままの我が担当──ミスターシービーの寝顔が、夕陽に照らされて膝の上に鎮座している。 「…はは」 唐突に旅に出た彼女が唐突に訪ねてくるのも、こうやって膝を枕代わりに貸してやるのも数え切れないほど繰り返してきた。だからこそ驚いて飛び退くなどということは考えもせず、眠る彼女の長く美しい睫毛が微かに上下するのを、まだ朧げな眼でゆったりと眺めることにしたのだった。 決して広くはないソファーの上に身体を器用に折って入り込んでくる姿といい、断りも入れずに我が物顔で膝の上を占拠する気ままさといい、彼女に前世があったなら、きっとそれは猫だったに違いない。同じことがあったら今度はひげでも描いてやろう。 マジックペンがないのを惜しみながら見えないひげが生えているだろう鼻先をゆっくり撫でてやると、彼女はくすぐったそうに鼻を鳴らした。わがままに甘えられるのがうれしくなってしまうのも、きっと彼女が猫だったからだろう。 寝起きのきみの、柔らかな話し方といつもより少し大胆な仕草が好きだ。だからこうして膝の上できみが起きるのを待っていたのだけれど、こうまでぴったりとほしかったものをくれると少し可笑しくなってしまう。 からかうように鼻先をくすぐられて、逃げても追いかけてくるなんて、きっといつものきみはしないだろうから。 「なんで来てくれたんだ?」 くすぐる手つきを落ち着けて、穏やかに尋ねてくるきみを見て、来てよかったと心から思った。優しく微笑むその顔は、アタシがここにいることを心の底から幸せだと思ってくれている証拠だ。 「寝言でアタシの名前を呼んでたから」 だから、アタシも来たんだ。きみはアタシを、アタシ以上に大事にしてくれる。一途すぎて、ちょっと笑ってしまうくらいに。 余裕たっぷりの彼の微笑みが、少し恥ずかしそうなじっとりとした目つきに変わる。ちょっといじわるかもしれないけれど、そんな表情をもっと見ていたいと思ってしまう。 きみの心がアタシの掌に収まってるんだって、わかるから。 「でも、うれしかったよ。 夢の中でもアタシのこと考えてくれてるんだって思ったら、同じ夢を見たくなっちゃった」 アタシはアタシのためにしか生きられない。 でも、きみがアタシの名前を呼んでくれると、アタシの心にあった隙間が、優しく埋まっていく気がする。 「アタシを呼ぶ声に応えるかどうかはアタシの自由だけどさ。 きみが呼んでくれるなら、応えてあげたいなって思ってるよ」 アタシはアタシのためにしか生きられない。だから、はっきりと言える。 こんな気持ちになれるのは、きみのことが好きだからなんだ、って。 6/14 彼の車には、カーナビがなかった。 父親が車を買い替える時に古いものを譲ってもらったらしい。20万キロを越した走行メーターが、この車の長い旅路を物語っているようだった。 そのおかげで、遠征で知らない街に来たときには、スマホを片手にアタシが道案内をするというのが半ば習慣になっていたのだった。 「ごめんな、オンボロで」 彼は申し訳なさそうに謝るのだが、アタシは彼の車に乗るのが好きだった。子供のころお父さんが乗っていた車の中もこんな感じで、アタシが標識をでたらめに読んでは、お父さんが笑っていたのを思い出すのだった。きっと子供の頃の彼も、アタシと同じようにこの助手席に座ったのだろう。 何より、彼の行く道をアタシが決められるというのが愉快で仕方なかった。 「ここ…花屋?」 「いいでしょ。店先の飾りがすごく素敵でさ。 まだ、時間あるよね」 アタシがわざと寄り道をすると、彼は初めに驚いて、そのあと諦めたようにくしゃりと笑うのだった。 「仕方ないな」 その日のレースで彼が耳飾りに挿してくれた花は、今も押し花にして大切にしまってある。 彼が車を買い替えたと知ったとき、なんだか少しさみしくなった。 「だいぶガタが来てたから。もう俺ひとりが乗るわけでもないし」 その言い分はよくわかるのだが、あの車がもうどこにもなくて、これからは綺麗だけれど慣れない席に座るのかなと思うと、せめて写真くらいは撮っておけばよかったかな、とほんのちょっとだけ後悔したりした。 新品の黒いレザーシートは、まだ誰にも座られていない匂いがした。彼よりも先にそこに腰掛けたときにはさっきの寂しさが和らいでいるのだから、我ながら現金な性質だなと笑ってしまう。 シートベルトをしめた直後、正面を向いたときにあることに気がついた。 「カーナビ、ないんだね」 運転席と助手席の間にあるはずの画面の代わりに、のっぺりとした樹脂のダッシュボードが続いている。ハンドルを握った彼にそう言うと、彼は少し恥ずかしそうに小さな声で呟いた。 「なくてもいいかな、って。 …シービーがナビしてくれるし」 そのときのアタシは、どんな顔をしていただろう。きっと見ている彼のほうが照れてしまうくらい、満面の笑みだったに違いない。 「…ふふ。いいんじゃない。 どこにでも連れてくよ」 最近のカーナビはとてもよくできているらしい。けれど、どんなカーナビでもわざと寄り道することはできないだろう。 その寄り道で、思い出を拾っていくことも。 「次、どっち曲がる?」 「右。あとはずーっとまっすぐでいいよ」 目の前の標識には、目的地の名前が左矢印とともに大きく書かれている。 「…わかった。右ね」 彼がハンドルをゆっくり切って右の道に入るまで、アタシも彼も何も言わなかった。それがなんだか可笑しくて、信号を越えてまっすぐ走り出したときに、彼もアタシも弾けたように笑い出してしまった。 「逆じゃん」 「そうだよ? きみもわかってたよね」 「わかってたけどさ」 ひとしきり笑いあって、ちょっぴりだけ疲れた声で彼が訊く。 「この先には何があるんだ?」 その瞳がひどく楽しそうに輝いていることが、ひどくうれしい。 「行ってみてのお楽しみ。 ね。だから飛ばして行こうよ」 アタシたちの旅路の果ては、まだまだ見えはしないけれど。 その途中で見る景色が楽しみで仕方ないのは、きっときみが隣にいるから。 次は、どこに寄ろうかな。 7/5 「でさ。シービーがいきなり海行こうって言い出したんだよ。それだけ言って走り出すもんだから追いかけたけど、なんかそのうちアタシも本気になっちゃってさ。結局海まで競走した」 「ははは。だから日焼けしてたのか。 悪いな、エース。シービーがいつも迷惑かけてさ」 「いいっていいって。あいつといると、そういう寄り道も楽しくなっちまうんだよな。あんたもそうだろ?」 廊下でばったり会ったシービーのトレーナーと、週末の彼女についての雑談でついつい話が弾んだ。あたしと彼の共通の知り合い──ミスターシービーは退屈という言葉にはまるで縁のない人間だから、彼女の隣にいるもの同士、その思いつきに振り回されるエピソードにはお互いに事欠かない。 そんな具合であたしと彼は立ち話を続けていたのだが、噂をすればなんとやらと言うべきか。廊下の向こう側からこちらに歩いてくるシービーを、彼の肩越しに見つけた。 「よう、シー…」 せっかくだから三人で昼食でも取ろうと声をかけようとしたのだが、彼女はにこりと微笑みながらそっと人差し指を唇に当てて、あたしを制止した。 当然、彼は後ろから来る彼女に気づいていない。彼女の笑みがこちらに近づいてくる度に深くなっていくのがわかって、あたしも笑うのをこらえるのが大変だった。 シービーは時折、こうやって自分のトレーナーに悪戯をする。初めのうちは慌ててくれていたのに、今はすんなりあしらうようになってかわいくない、とは彼女の言だが、そう語る表情は実に嬉しそうだった。 「おはよう」 彼女の声のする方に彼は振り向くのだが、そのとき彼女は既に彼の背中に回っている。困惑する彼の頬をつつきながら、彼女は実に楽しそうに彼の周りを旋回するのだった。 「こら」 だが、彼が彼女の頭に手を乗せて上から捕まえると、その悪戯も流石に続かなくなる。視線はこちらに向けたままで彼が頭を少し乱暴に撫でると、ようやく彼女もくすぐったそうにその手の中に収まった。 「何の話してたの?」 「シービーが悪戯ばっかりして困るって話だよ」 それでも、優しく叱られている間も彼女は彼に尻尾を絡ませて擽るのをやめない。むしろその度にお仕置きのように頭を強く撫でられるのを待っているかのようだった。 こういう戯れ合いを見るのはもう慣れっこだ。だが、当の彼女も彼もそれに飽きた様子はまるでなく、むしろこうして触れ合う時間が愛おしいと言うように笑っている。 自分以外の誰かに構っていると邪魔をしに来るあたり、悪戯好きの猫そのものだな、と思うと、あたしもつい笑みが溢れる。でもきっと、ただの猫は飼い主に抱きついて尻尾を絡めて甘えたりはしないだろうけれど。 ひどく大人びていると思うときがあるのに、子供のようにわがままだと思うときも同じくらいあるのが、彼女の不思議なところだ。そんなに好きなら素直に甘えればいいのにと思うが、悪戯をして構ってもらおうとするのは、間違いなく後者の現れだろう。 「遊ぶのもいいけど、そろそろ飯にしようぜ」 それを言うとこの猫はあたしにも飛びついてくるから、心に留めておくけれど。 まだあたしには、そういうひとは思い当たらないけれど。 笑う彼女を見ていると、恋をするというのも意外と楽しいのかな、なんて、寝る前にふと思ってしまったりもするのだった。 パソコンの資料と睨めっこしていると、膝の上に不意に重さとぬくもりを感じる。 どうやら、うちの猫がまた暇を持て余しているらしい。そして、顔を向けずに空いている左手だけを彼女へ遣るというのも、いつも通りのことだった。 いつもならにゃあ、というわざとらしい鳴き真似が帰ってくるところだ。だが、今日の彼女はふんと鼻を鳴らして、不満げな唸り声を上げるだけだった。 「どうした?」 「今日はなんだか冷たいなーって」 その言に反して、こちらはくすりと笑い出しそうになってしまう。膝の上ではきっと、彼女が頬を膨らませてわざとらしくむくれていることだろう。今日の彼女は拗ねてみたい気分なのだ。 ならば、こちらも彼女の演出する愛の脚本に乗ってやらなくては。 「なんでそう思う?」 「さっきも今も、片手しか使ってくれないじゃん。 昔はびっくりして全身で驚いてたのにさ。片手の分しか、アタシのこと好きじゃなくなっちゃったのかな」 愛が目減りした、というのが今日の彼女の言い分らしい。自分としては彼女を好きになるのが止められなくて困っているくらいなのだが、ならばそれらしい行動で示せ、ということなのだろう。 「片手の分だけで昔くらいあるってことだよ。 シービーこそどうなんだ」 そう言って逆に挑発してやる。彼女にからかわれっ放しだった昔とは違うのだ。 しかし、彼女は動じた様子もなくすっと身体を起こした。今度は膝の上に彼女の太腿が乗って、上半身だけでなく全体重がかかる。 膝の上に座った彼女と向かい合う。視界も、感覚も、彼女に占有されていく。 悔しいけれど、いつまで経っても彼女には敵わない。さっきまで余裕綽々と鼓動を刻んでいた心臓が、今はすっかり慌てて跳ね回っている。 「アタシはけちじゃないからさ。 いつもこのくらいしていいんだよ」 彼女のぬくもりが優しく絡みついて、心地良い重みが身体を包み込む。気づけば、彼女と同じように背中に手を回していた。 「いつもってわけにはいかないよ。 …したいけどさ」 「じゃあ、いつならいいの?」 催促するように、彼女の指先が背中を擽る。 「…今日の夜とか」 彼女はそれを聞いて漸く満足してくれたように、耳元でくすくすと微笑んだ。 「ふふ、そっか。 楽しみにしてるね」 そう言うが早いかさっきまでの触れ合いが嘘のように、膝の上からあっさりと彼女の温度が消える。上機嫌に尻尾を振るそのしなやかな動きはまさしく猫のそれで、名残惜しいのに捕まえられない。 とはいえ、彼女もこれで納得してくれたという安堵も確かにあったのだが、その予想は次の瞬間に裏切られた。膝を離れたときと同じくらいの素早さで、気づけば彼女の頬が左手をぴったりと下敷きにしている。 「今はこれで我慢してあげる」 満足そうに擦り付けられる頬の柔らかい感触が、作業に戻ろうとする意識の後ろ髪を引く。この猫は、お気に入りのおもちゃを当分離してくれそうにない。 脚をゆらゆら、尻尾をぱたぱた。待つ時間が少しでも楽しくなるように、気ままなビートを刻む。そんなマイペースなアタシが自分のベッドを我が物顔で占拠しているのを見て、風呂から上がった彼は少し訝しげな視線を向けた。 だが、こちらとしては約束したものを受け取りにきているだけなのだ。 「愛をもらいにきました」 今日の最後の楽しみ。昼間仕込んだ、とびきりのごちそうを。 風呂上がりの彼のぬくもりを背中に感じて、ほくそ笑んでしまうのを必死に隠した。でもすぐに彼の手がアタシの胴に回されて、こっちを向いてと伝えてくるものだから、結局はひどく綻んだ顔を彼に見られてしまうのだ。 けれど、そんなアタシを見た彼が頬を赤く染めてくれるのを見ると恥ずかしい以上にうれしくなるから、それはそれでいい。 少しだけの沈黙。でも、アタシは何もしない。きみの愛がほしくて、アタシはここまで来たんだから。 「…ふふ」 彼がアタシを抱きしめる手つきはさっきのアタシよりもきつくて、いつもの優しい姿との違いを感じて胸がときめく。 昼間みたいに慣れた手つきで相手をされるのも、それはそれで悪くはない。けれどやっぱりきみには、恥じらいながらも精一杯アタシを愛してくれる姿がよく似合う。 そんなきみが、自分から慣れないキスをしてくれる。 きっと、すごく上手なわけじゃない。でも、キスは愛情が伝わるのが一番だから。 そのことだけで、アタシはどこまでも満たされるのだ。 「…あんまり煽るといつもこうするぞ」 彼はいじけたように呟いた。パフォーマンスとはいえ、愛を疑われたのが相当堪えたのかもしれない。 でも、アタシは嬉しい。そのおかげで、きみがこんなに愛してくれたんだもん。 「いいよ?言ったじゃん。 でも、今度は眠くなっちゃったな」 毛布がゆったりとかかって、アタシたちのぬくもりを閉じ込めてくれる。ふたりだけの小さな家ができたみたいで、それもなんだかうれしかった。 眠気を覚え始めたアタシをあやすように背中を撫でながら、彼がふと呟いた。 「猫はこういうの苦手じゃないのか? 狭くて、ちょっと暑くて」 確かにここはそれほど広くない。温度も軽く汗をかくくらいだ。草原に脚を広げて眠るのと比べたら、開放感では全く及ばない。 でも、それがいいと思うときもある。少し脚を伸ばせば、きみの脚に触れられる。アタシよりちょっと低いきみの体温を感じながら、何も言わずに脚だけできみとじゃれ合ってみる。 それはここでしかできないことだ。 「気が変わったんだよ。猫は気まぐれだから。 今はここにいたいの」 それを聞いて、彼は安心したように笑った。 さっきより遠慮なく抱きしめてくれる彼の腕の中に、アタシが喜んで飛び込んでいったのは言うまでもない。 彼もきっと眠いのだろう。少し蕩けた声で、普段なら言わない抒情的な問いを優しく投げかけられると、ひとは誰でも詩人になれるのだなとうれしくなる。 「ほんとに愛したいのって、身体のどこでもないんだ。 どこをどうやって愛したら、心にいちばん近づけるんだろうな」 言葉。手。宝石。花。 きみの心を探したいときには、どれを使ったらいいんだろう。確かにそれはわからない。 でも、きみがアタシに触れるのが、アタシの心を探すためだとしたら。 自分でもありかを知らないアタシの心が、温かくなるのははっきりわかる。 自分でも思いがけないところに、心が隠れているかもしれない。あんまり恥ずかしいところにあったら嫌だなと思うが、きみになら全部をさらけ出してみたいとも思える。 「じゃあ、探してみてよ。 試す時間も、試してほしい場所も、いくらでもあるからさ」 愛するひとというのは、きっとそれを探しあえるひとのことなのだ。 だから、探して。見つけるまで、諦めないで。 きっとその中には、きみが育ててくれた愛が、宝石のように詰まっていることだろう。 8/10 ?目を開けると、少し古くさい壁紙で覆われた懐かしい天井が見える。今の自分には少し狭いベッドも、たまに帰るなら悪くない。 だが、胸の上にある重みは初めての体験であった。家では猫など飼っていなかったはずである。 「おはよ」 飼っていたのではなく、従いてきてしまったらしい。仰向けになった胸の上には、昨日と同じように微笑むシービーが、懐かしい我が家の景色の中で頬杖をついていた。 「家に猫なんていなかったんだけどなぁ」 「にゃん」 可愛らしくひと鳴きしては容赦なくのしかかってくる彼女が愛おしくて、胸の上に乗せた頭をくしゃくしゃと撫でた。 「ごはんなら母さんに言いなよ」 「迷惑じゃん。こんな朝早いのにさ」 「俺にはいっつも言ってくるくせに」 彼女を連れて実家に着いたのは昨日の夜だった。自分にとっては飽きるほど口にした味だが、彼女は我が家の食事がいたくお気に召したらしく、目をくりくりと輝かせながらおいしいと言う姿はすっかり母を虜にしてしまったのだった。 やはり血は争えない、ということだろうか。昨日だけであっさり一家総出で彼女のファンになってしまった我が家の他愛なさには、我ながら舌を巻く。 「散歩行こうよ」 「ん…いいよ。どこ行く?」 早いよ、という文句は出なかった。彼女と一緒に懐かしい朝の空気を吸えるなら、少しばかり早起きしてもいいと思えた。 「きみのおすすめの場所がいいな」 彼女が行き先をこちらに委ねるという小さな大事件も、いっそう心を弾ませた。 彼女の笑顔はきっと思い出の景色によく似合うだろう。どこが一番彼女に似合うかなと、頭の中の写真入れを引き出して彼女にぴったりの景色を探した。 夏の激しい日差しも、青々と茂る木の葉を通せば心地よく変わる。滝壺の近くまで行けば空気がはっきり冷えるのが感じられて、頬を抜けてゆく冷たい風が心地よかった。 彼女はもうすっかりここを自分の場所にしてしまったようで、歩いて熱った脚をうんと伸ばして清流に浸している。心地よさそうに足をばたつかせる度に、開いた足の指から水飛沫が舞う様がひどく爽やかだった。 「きみもやったら?気持ちいいよ」 「いや…うん、そうだな。 あー、沁みるな」 脚を濡らして拭くものはどうするのかと野暮な思考が一瞬頭を過ったが、今日は子供に戻ると決めたのだ。彼女に倣って膝下まで水に浸けると、川の流れと一緒に疲れも洗い流されてゆくような気がした。 「よく来てたの?」 「昔な。俺が小学生の頃は今ほど暑くなかったんだけど、それでも山道を歩いてこの滝が出てきたときは感動したっけ」 今日の彼女は、やけに思い出話を聞きたがる。確かにここは田舎で自然も多いが、いつも旅をしている彼女のほうがよほど美しいものを見ているのではないだろうか。 「ちょっと下のほうで川魚を見たことはあるけど、結局一匹も捕れなかったな。 まあ、そんな面白いことはないよ。普通の子供時代だったさ」 けれど彼女は少しからかうように微笑んで、続きを催促するように肩を寄せた。 「いいんだよ。アタシは楽しいし。 それに、アタシの知らないきみがいるのがちょっと悔しいんだ」 彼女の足の指が、そっと水をかきわけて足の甲をなぞった。 「きみのことは、ぜんぶ知ってたい。昔のきみもぜんぶ、アタシのものにしちゃいたいんだ」 木漏れ日にも負けない爽やかな笑顔で、こんなことをさらりと言ってのける。 「わがままかな。ふふ」 「いつもそうじゃん。 …シービーのせいだぞ。わがまま言われてうれしくなるなんて」 彼女を通すと、古びた思い出さえ輝いて見えるらしい。だからいつまでも、虜にされっ放しなのだ。 触れ合わせた脚を離すつもりになれなくて、お互いに何を言うでもなく指先でそっと触れ合っていた。 この脚が青い水の中で戯れる魚になってしまえばいいのにと、心から思っていた。 歩き疲れて家でたっぷりと眠って、久しぶりに夕飯の支度を手伝う。 時間が経つのが早い。気づけば、澄んだ夜空に満天の星が灯っていた。 見慣れたはずの星空がこんなに綺麗だったのだなと実感できるなら、都会の空にも少し感謝すべきかもしれない。 こんなに綺麗な星の下なら、掘り起こした思い出もきらきらと光っていることだろう。 「大きいね」 「うん。今なら小さく感じるかもなって思ったけど、やっぱり大きいな」 その大きな樫の木は、月明かりに優しく照らされて昔と同じように聳え立っていた。 自分は大きくなったが、木も大きくなったのかもしれない。この木には大きくいてほしかったから、思い出のままの姿でいてくれたことがひどく嬉しかった。 「ここはどんなところなの?」 木に凭れかかった彼女に近づくのが、少しだけ恥ずかしい。彼女を見ていると、子供だった自分が今も生きているのを実感するからだ。 「一番好きだった場所。 秘密の場所なんだ。誰にも教えてない」 きっとそれは彼女にもわかっている。だからその答えを、こんなにも笑って待っているのだろう。 「なんで?」 でも、いい。 しまい込んだままの思い出を、こんなにも愛してくれるのは、きっと彼女だけだから。 「…決めてたんだ。 いつか好きなひとができたら、そのひとにだけは教えてあげよう、って」 彼女は少し驚いたように目を丸くしたけれど、やがてどこか満足そうにもう一度笑った。優しく穏やかな月の光に照らすと、その頬が少し赤く見えた。 「まあ、結局そんなひとは見つからないまま大人になっちゃったんだけどさ。 …今になって連れてきたいひとができるなんて、思ってなかった」 他愛もない、過ぎ去った記憶。話すのも恥ずかしくなるような、恋も知らない幼い日の思い出。 そんなものに目を輝かせて、ほしいと言ってくれるひとがいるなんて、あのときは思いもしなかった。 彼女は何も言わなかった。ただ腕を広げて、その思い出に一緒に浸る瞬間をずっと待っていた。 「好きなひとができたらさ。 こんなふうにしたいって、思ってた?」 「…うん」 大切なひとができたら、その腕の中はどんな感触なんだろう。どんなに暖かくて、幸せな気持ちになるんだろう。 あのときは想うことしかできなかったけれど、今はそれがわかる。 ずっとここにいたい。でも、もっと感じていたい。 だから、こんなふうに唇を重ねたくなるんだ。 どんなにあなたのことが好きか、少しでも伝えたくて。 「ん…ん…」 幼いころに思い描いていたように、優しくそっと彼女の唇に触れる。いつもよりずっと短いキスだったけれど、心が温かいもので満たされてゆくのがわかった。 「…ありがとう。俺のこと好きって言ってくれて。 俺も、シービーのこと大好き」 飾りも衒いもない、ひどく簡単な愛の言葉。でも、今は何よりも素直に想いを伝えたかった。 大きな瞳に月の光を宿して、彼女はころころと笑っていた。 「ふふっ、ふふふふっ」 抱きしめた腕の中でくすぐったそうに転がられると、こちらまでつられて笑ってしまう。 「なんだよ」 そんな彼女が愛おしくて、どこにも行かないようにもっと強く腕の中に閉じ込めると、耳元でそっと優しい声が囁いた。 「きみの初恋、もらっちゃった」 君と出会うずっと前から、君のことが好きだった。 そんなことを言ったら、おかしいと笑うだろうか。 でも、もしも子供のころに戻れるのなら、手つかずのまましまい込んだ初恋も、ぜんぶ君にあげてしまいたい。 そのくらい、君が好きで仕方ない。 8/11 「お腹すいたなぁ」 彼女から食事をねだられることは珍しいことではない。思えば、彼女の家に初めて上がらせてもらったときもうどんを作った。 おかげで今となっては、彼女のちょっとした言い方や声音の違いで何が食べたいのかなんとなく察せるようになってしまった。 「…いいよ」 そして、さっきの悪戯を思いついたような少し蕩けた声のとき、彼女のほしいものは米やら肉やらといった普通の料理ではない。 「ありがと。ふふ」 いい加減慣れてもよさそうなものだが、これだけは何度やっても慣れない。彼女は上手なので痛みはそれほどでもないのだが、襟をくつろげて首筋を晒すのが未だに恥ずかしいのだ。 そんな恥じらいなど知らぬとばかりに、するりと懐に潜り込んでくる彼女がほんの少しだけ憎らしい。けれど彼女に抱きしめられて慈しむように頬ずりをされると、その柔らかくて温かい肢体と爽やかな風の匂いが、羞恥心を甘やかな胸の高鳴りに塗り替えてゆく。 「いただきます」 嬉しそうに呟く彼女の声とともに、ほんの少しの痛みと熱さが首筋を刺す。彼女は皮膚に軽く牙を引っかけたまま、血管を探し当てるのが上手いのだ。 「んっ…ん…」 『食事』を始めた彼女がゆったりとこちらに凭れかかってくる。首筋に埋まった頭を撫でてやると、嬉しそうに少し身体を揺らすのが可愛らしい。 血を啜る彼女の喉を鳴らす音が愛おしいと思えてしまうのは、それだけ毒されている証なのかもしれないな、と、甘い痛みの中で考えていた。 彼女が吸血鬼だと知ったのは、出会って一年くらい経ったある梅雨の日だった。 雨の日でも構わず、むしろ喜んで散歩に行く彼女だが、それが祟ってかその日は熱を出してしまったのだ。 家を訪ねたときは少し気怠げな声で出迎えられたものの、食欲もあり割合と元気に見えた。けれど、横になった彼女の息が苦しそうに上がり始めると途端に心配になった。 「…ごめんね」 「何も謝ることなんてないさ。俺にできることなら、なんでも言ってくれ」 彼女らしからぬ弱々しい声でそう呟かれると、胸が潰れそうになった。額の冷感シートを替えてやることくらいしかできない自分が、ひどく情けなく思えた。 「ん…」 ひとつ呻いて寝返りを打った彼女がこちらに顔を向けた。その表情は瞼を固く瞑ったひどく辛そうなもので、ついその近くに顔を寄せてしまう。 「シービー…」 思わず漏れ出た名前に、彼女が薄目を開いた。熱で焦点が曖昧な視線がそれでもこちらの顔を見ようとするのがいたたまれない。 何かを取りたいのか彼女は身体を起こしたが、長くは持たずに前へ倒れそうになる。思わず抱き留めて倒れることは防いだが、ひどく肝を潰した。 「何か飲むか?」 そう問うたが、首筋に顔を埋めた彼女は何も言わない。また眠ってしまったのかと思って身体をベッドに戻そうとしたが、その手は途中で止まった。 「…!」 一瞬だけ首筋にちくりと刺すような痛みが走った。その少し後に、今度は同じ場所から熱いものが流れ出ているような感覚に陥る。何かで首を傷つけたのかと思ってその場所に視線を向けたが、その答えはすぐに知れた。 首筋に傷をつけていたのは、他でもない彼女の歯だった。いや、牙と言ったほうがいいだろう。そして何よりも驚いたのは、彼女が喉を鳴らして、流れ出る血を美味しそうに飲んでいたことだった。 彼女が喉を鳴らす度に血の流れる感覚が走ること、そしてさっきまであれほど苦しそうだった彼女の息が、血を飲む度にみるみる安らいでいくことを見れば、答えはひとつだった。 彼女は吸血鬼なのだ。人の生き血を啜る、人外の存在。 普通ならどうやって振りほどくかとか、あるいは自分も同じ怪物になってしまわないかという心配をするものなのかもしれない。 だが、縋るようにこちらを抱きしめて、熱に浮かされた身体を預けてくる彼女を見ると、彼女が楽になるなら血でもなんでもあげてしまいたいという想いに駆られた。 気づけば、こくこくと血を飲む彼女の頭を撫でていた。甘える幼子のような姿がひどく愛おしく思えて、振り払うなど考えられなかった。 それに、吸血鬼になっても何になっても、彼女は自分の知る自由で素敵な彼女のままだということは、何故かまるで疑わなかった。 「ありがとう。すごく気分いいや。 ごめんね。びっくりしたでしょ」 数刻眠った後の彼女は、さっきまで熱を出してうなされていたのが嘘のようにいつも通りの元気を取り戻していた。だが、その爽やかな笑顔に時々覗く小さな牙が、今までは気づかなかったのにやけに目に付く。 「君は…吸血鬼だったのか」 「うん。 たまにいるんだ。ヒトにも、ウマ娘にもね」 彼女はどこか愉快そうに目を細めた。隠していたことを漸く打ち明けられたと言いたげなどこかほっとしたような笑顔だったが、自分がそんな彼女のことを怪しむきっかけになるようなことは今まで全くなかった。 「気づかなかったよ。だって…全然そういう感じじゃなかったろ。ニンニクはご飯作るときいつも多めにって言うし、十字架のネックレスもたまにしてるし…」 「あはははっ。そういうのは大抵迷信だよ。 本物の吸血鬼は、ほとんど皆と変わらないんだ。ニンニクや十字架だって平気だし、コウモリと仲良しなわけでもないし」 そう言いながらけらけらと笑う姿を見ていると、こちらもひどく安心する。あのとき思った通り、目の前にいるのは昨日までと何も変わらない、自由を愛する陽気なウマ娘だったからだ。 「あ、でも雨の日とか夜に出かけるのが好きなのは…」 「それはアタシだからかな」 おかげで少しふざける余裕もできてしまったのだけれど。 その後は、彼女から吸血鬼の体質や風習について色々と教えてもらった。彼女の言う通り吸血鬼は普通の人間やウマ娘と大差ない体質で、普通に暮らす分には血を飲まなくても問題はないし、普通の食べ物が食べられないとか、流れる水や太陽の光が苦手という話も全部嘘なのだそうだ。まあ、いきなり海が見たいと言い出して、夏の日差しが燦々と照る中を楽しそうに走る彼女を見れば、そう考えるしかないだろうが。 「じゃあ、なんで血を飲むんだ?」 「すごく栄養のあるデザートみたいなものなんだよね。食べなくても死んじゃうことはないけど、怪我をしたときとか体調が悪いときに飲むと、すごく美味しいし治りが早いんだ」 では、なぜ血を飲むのか──吸う、という言い方だと蚊みたいに聞こえるから飲むと言うのだと、さっき彼女から教わったのだが──という根本的な問いに対する彼女の答えは、概ねそんな具合だった。吸血鬼にとっての血は、どうやら主食というより栄養価の高いサプリメントのようなものらしい。 彼女のことや吸血鬼のことについては大体わかった。だが、一番知りたいことを訊いていない。 「…吸血鬼に血を飲まれると自分も吸血鬼になる、っていうのは本当か?」 彼女の話によると普通の人間と吸血鬼はそう変わらないということだが、流石に知らぬ間に自分の身体が作り変わっているというのは、あまり気分のいいものではない。 けれど、そんな不安が声音に出てしまっているこちらの様子とはうらはらに、彼女は口元を少しだけくつろげた。 「半分は本当、かな」 「半分って?」 はぐらかすような言い方に余計不安が募るが、彼女の言い方はこちらを安心させるように穏やかなものだった。 「大丈夫だよ。さっきので吸血鬼になったりはしないから。 だから、これからもよろしくね」 意味深なその言葉を咎める前に、彼女はまたくすくすと笑いながら、さっきまで寝込んでいたとは思えない軽やかな足取りで台所へ駆けていった。 これからもよろしくね、と言った彼女の言葉の意味はすぐに知れた。それから彼女は、度々血を飲ませてほしいと頼んでくるようになったのだった。 言ってくるタイミングは彼女らしく気まぐれなのだが、レースに勝った後やデートの最中に頼まれることが多くて、ついつい許してしまいがちになる。 とはいえそう頻繁にねだってくるわけではなく、血を飲むといってもその量はさほど多くないので終わった後に貧血気味になるということもない。血を抜かれる方法から言っても、献血の方がよほど体調に悪いくらいである。 何より、血を飲み終わった後の彼女はいつにも増して可愛らしく見えるのだった。血を飲むときに自分の身体に何らかの変化が生じているのか、好物を口にした後だからそう見えるのかはわからないが、彼女のうっとりと蕩けたような瞳を独り占めできるのならば、血の数滴くらいは差し出してもよいと思えてしまう。 「迷惑かなとも思ったんだけどさ。やっぱり自分の気持ちに嘘は吐けないや。 きみの血を飲んだあとは、あったかくてぽかぽかするんだ」 彼女に触れられる度に、その言葉を思い出す。そんな彼女を突き放すなんて、初めからできるはずもなかったのかもしれない。 血を吸われたあとの感覚は、風呂に浸かった時に少し近い。身体を動かすのが少し億劫だけれど、ぽかぽかしてなんだか心地良い。 だから、仕方ないのだ。飲み終わったあとも抱きついたままの彼女にされるがまま、そのまま一緒に眠る体勢に入ってしまうのも。 「食べてすぐ寝ると牛になっちゃうぞ」 「ふふ。牛の吸血鬼ってちょっと面白いね」 血を飲んだ後の彼女は、少し酔ったようにご機嫌になる。飲む前のスキンシップを止めるどころか、もう離さないと言わんばかりに上に乗られるのだが、こちらも正直悪い気はしなくて、もう少しこうしていようと伝えるように頭を撫で続けるのがお決まりになっていた。あまりやりすぎると盛り上がった彼女に『おかわり』を要求されてしまうから、程々に留めておかなければいけないのだけれど。 お腹いっぱい、と言うように、彼女が満足げに息を吐く。脚の間に気に入ったものを挟んで、喉を鳴らしながら匂いをつけるようにすりすりと頬ずりをする姿は、吸血鬼というよりむしろ猫のそれだった。 「好きだなぁ。いつもやってるじゃん」 「こうすると血が美味しくなるんだよ」 いつもどきどきさせられっ放しだから仕返しにからかったつもりだったが、彼女は悪びれる様子もなく、あっさりとそう言ってのけた。 「ほんとか?」 「ほんとだよ。それだけじゃないけどね」 試してあげようかとでも言うようにさっきの噛み跡をぺろりと舐められては、信じるほかはない。 「じゃあ、他の理由は?」 噛まれこそしなかったが、気に入ったのか彼女はずっと首筋に顔を埋めたままだった。だから、こちらの問いに答える彼女のくぐもった声と吐息が、首筋に直に感じられた。 「アタシがそうしたいから」 反論のしようもない、実に彼女らしい理由だった。けれど、それが好きだというのはなんだか悔しくて、返事の代わりに彼女の頭を少し乱暴に抱き寄せた。 耳元の彼女の微笑みが、しょうがないなぁと言っているようだった。 掌に落ちてきそうなくらい、丸くて綺麗な月が出た夜のことだった。カーテンを閉めてしまうのが惜しくて、屋根に引っかかったように近くに感じられるその光を、他に何をするでもなく窓を開けたままずっと眺めていた。 その白い光が、唐突に欠けた。丸い月面に差し込まれた黒い三日月のような影は、何か愉快そうにぱたぱたと揺れていた。 「ちょっと不用心じゃない?こんな夜に窓を開けたまま寝るなんてさ。おなかを空かせた吸血鬼に食べられちゃうかもよ?」 影の方から声が聞こえてきたときには、その影はもう不敵な微笑みになって、窓敷居に腰かけていた。 彼女はそのままの姿勢で軽やかに跳躍した。どこかに重さを忘れてきたようにふわりとベッドに着地して、布団の中に滑り込んでくる姿を見ると、いよいよ猫だなと可笑しくなる。 そんな姿が恋しくて、ずっと待っていたのだけれど。 「…来ると思って開けてたって言ったら、信じる?」 待ち切れないと言うようにこちらをきつく抱きしめた彼女は、一瞬驚いたように目を丸くした。けれどもすぐにその顔が満足そうな微笑みに変わるのを見て、彼女も同じ気持ちでいてくれたのだと思うと、胸の奥の隙間がぴったりと埋まるような心地よさが溢れてくる。 「うん。 だって、きみとアタシの幸せのかたちは、きっと同じだもん」 開けた首元に、彼女はいつものように頬ずりをした。けれどそれで満足したかのようにじゃれてくるばかりで、それ以上は何もしないのが少しもどかしくなる。 「飲まないのか?」 上目遣いでこちらを見る彼女の顔が、からかうように綻ぶ。飲んでほしいの、とでも言っているようで、恥ずかしさで少し顔が火照った。 だが、次に彼女が発したひとことは、恥じらいをすっかり吹き飛ばしてしまうほど強烈なものだった。 「前にさ、血を飲まれただけじゃ吸血鬼にはならないって言ったでしょ。 教えてあげよっか。吸血鬼のなりかた」 唐突にそう告げられてどきりとしたが、心の底ではいつかこんな日が来るのではないかとも思っていた。 いつの間にか、こんな日を望むようになっていた。 きみを好きになったのはいつだろう。 初めてきみが家に来て、アタシにごはんを作ってくれたときだろうか。昔訪ねた思い出の場所を、くたくたになるまで一日中探してくれたときだろうか。それとも、ただ気ままに走るだけのアタシを、自分の夢というとびきりの宝物で飾ってくれたときだろうか。 きっとそのどれでもあって、どれでもない。誰にも合わせられないアタシの歩みに、このひとはぴったり寄り添ってくれるのだとわかったときに、いつの間にかきみがいなくなることが考えられなくなっていた。 「…どうすればいい?」 だから、きみがアタシの言葉を待っていたのだとわかると、どうしようもないくらいうれしくなる。 きみといて初めて見える景色を、きみもずっと見ていたいと思ってくれていたことが。 「アタシが血を飲むときに、好きって言えばいいよ」 この話をお母さんから初めて聞いたときに、初めに吸血鬼になったひとは恥ずかしくなかったのだろうかと、身も蓋もない感想を抱いたのを覚えている。そのときはそんなことをしてほしい相手ができるなんて想像もできなかったけれど、今ならその気持ちがわかる。 アタシの本性をさらけ出しているときに、きみが頭を撫でてくれるのがすごく好きだ。だからそんなときにきみに好きって言ってもらえたら、きっとおかしくなってしまうくらい幸せだろう。 「吸血鬼はね、好きなひとの血しか飲めないんだ。 そのひとと想いが通じ合ってるほど、血が美味しくなるんだよ」 どうして血を飲む前にあんなに触れていたのか種明かしをしてやると、きみの顔がみるみる赤くなる。それがとても楽しくて、もっともっと恥ずかしくなるようなことも喋ってしまうのだった。 「だからね、仲のいい恋人や夫婦を探すと、けっこう吸血鬼同士のカップルが見つかるんだよ。 お父さんとお母さんもそうなんだけどさ」 だから、もうわかるよね。 きみのことを考えると、それだけで一日が過ぎちゃうんだ。そうして気づいたら、きみの隣が恋しくなる。 「無理強いはしないよ。今こうしてきみといるのも、すごく楽しいし。 でも、もしきみがアタシと同じになって、アタシと一緒の時間を生きてくれるなら、アタシはすごく幸せ。 そのくらい、きみのことが好きだよ」 きみも同じくらい、アタシに酔っていてほしい。 アタシをこんなにわがままにしちゃったきみも、アタシのことだけ考えてしまうようにしてしまいたい。 気持ちを打ち明け終わったあと、彼はしばらく何も言わなかった。一度にいろいろと伝えすぎて飲み込めていないのかと心配になって彼の顔を見上げようとしたのだが、それは叶わなかった。 彼の手がアタシの頭を抱きしめて、美味しそうな首筋に押し当てたからだ。 「俺だって好きだよ。 気持ちの大きさなら負けないから。シービーにも」 今、アタシはどんな顔をしているんだろう。 きっとさっきのきみにも負けないくらい、頬を真っ赤にした恥ずかしい顔だ。 「…ずるいなぁ。 大事なときに、きみはいつもそうだよね」 いつもアタシの心の隙間を、思いもしないやり方でぴったり埋めてくる。その予想外が、どこまでも心地いい。 でも、いいもん。こんな顔は、きみに見せなくていいから。 きみのくれた「好き」を味わうことしか、今はもう考えられないから。 おいしい。おいしい。好き。好き。大好き。 腕の中で熱るきみの身体と、同じ気持ちの温度で溶け合っていく。 だから、もっと抱きしめて。 きみと同じになれたって、もっと感じたいから。 「…意外と何もないんだな」 「ね。言ったじゃん。普通のひととそんなに変わんないって。 でも、もうちゃんと変わってるよ」 拍子抜けしたような顔をしている彼に、牙に変わった犬歯をゆっくりとなぞって、もうアタシと同じ体になったんだと教えてあげる。 せっかく同じになったんだもん。この身体でしか味わえない楽しみを、教えてあげないと。 「ね。 お腹空かない?」 その問いに、彼はどきりとしたように目を見開いた。でもまだ、自分から踏み込む勇気は出ないらしい。 やっぱり、先輩のアタシが教えてあげないと。 「聞き方を変えようか。 アタシの血は、美味しいと思う?」 ゆっくりと、よく見せるように服の前のボタンを外して、首筋と胸元を晒していく。できるだけ美味しく見えるように。 いつも優しい彼が、怖いくらいに目をぎらつかせてアタシの肌を見つめているのが、不安だけれどそれ以上に楽しい。アタシを大事にしたいという優しさと、アタシがほしいという欲望の間で揺れているのだろうが、アタシはどっちも大好物なのだ。 「嫌?」 自分でもずるい聞き方だと思った。アタシも吸血鬼なんだから、好きなひとのそれにどれだけ焦がれているかなんて、わかりきったことなのに。 たとえヒトでなくなってしまったとしても、アタシを変わらずに大事にしてくれるのは、本当にきみらしくて好きだ。 でもアタシは欲張りだから、きみのぜんぶがほしい。 優しいだけじゃ足りない。剥き出しのきみがくれる気持ちに、心の底まで溺れてみたい。 「アタシはきみが好き。きみも、アタシのことを好きでいてくれてる。 それ以上に大事なことなんてあるのかな」 一回り大きな彼の身体に、包み込まれるように組み敷かれる。優しさと独占欲が混ぜこぜになった手つきが、余計にもどかしさを煽った。 「あ…あっ…! …ふふふっ」 もうどこにも行けないように抱きしめられて、首筋に一瞬だけ痛みが走る。 痛いのに、気持ちいい。血が出ていく代わりに、きみの想いが入っていくみたいだ。 このまま血の代わりに、きみの「好き」でいっぱいになるのも、いいかも。 口を離したときには、アタシもきみも全力で走ったあとみたいに汗をたくさんかいて、息が上がっていた。 本当に、全力で走り切ったあとみたいだ。疲れているのに、それがひどく心地いい。 「うれしいけど、ちょっとさみしいな。 血を飲むだけでこんなに伝わるなら、言葉を編む意味がなくなっちゃうかも」 贅沢な悩みだ。気持ちがぜんぶ通じ合うと、今度は心の浅瀬で遊ぶような言葉が恋しくなる。 「心配しなくてもいいんじゃないか」 でも、きみは楽しそうだ。これからアタシと生きる永い時間が素晴らしいものになると、ひとつも疑っていないみたいに。 「好きって言われたら、今でも嬉しいしさ。 シービーと話すことに、飽きることなんてないよ。きっと、これからも」 やっとわかった。 言葉は想いに着せるドレスだ。 どんなに美しくなっても、着飾る喜びがなくなることはない。 きみが仕立ててくれるその色が、アタシはどこまでも好きだったんだ。 「好き」という言葉の味は、どんな形で堪能してもちっとも飽きない。 血の温かさで、言葉の美しさで、アタシはずっとそれを追いかけてきた。その旅路の果てに、きみが待っていた。 そんなきみを見つけた夜に、もう一度「好き」を味わえるなんて。 運命があるとするなら、きっとこういうことなんだと思う。 「血はいっぱい飲んだのにね。 まだ、キスはしてなかったね」 「好きだよ。 大好き」 零れ落ちそうな月の出る夜に。 小さな愛が、ひとつ花をつけた。 9/14 ?ほんの少しだけ欠けた月が、空の天辺を折り返したところだった。 今日は十三夜。満月の少し前のこの月を、昔の人は十五夜の次に愛したという。それはきっと、あと少しで満ちる月を見ていると、明日が楽しみに思えてくるからだろう。 既に日付が変わったというのに、家の近くの公園のベンチに腰掛けたまま既に三十分が過ぎた。特に目的などはなく、ただ月を見ていたくていい場所を探しているうちにこんな時間になっていた。 昔は夜空に目を向けることなどなかった。どこまでいっても地上の住人である自分には、空の上がどんなに綺麗だろうとそれを気にする余裕がなかったのだ。 けれど今は、目に映るものがほんの少しいつもより綺麗なことが嬉しいと思える。誰にそんな趣味を伝染されたのかは、言うまでもないことだけれど。 しんと静まりかえった秋の夜の空気に、いつの間にか陽気な足音が響き渡っている。どこから来るのかと起き上がろうと思った時には、もうくすくすと微笑む彼女の声がきこえていた。 いつもながらやはり彼女の足は速い。ぴんと立った影の先で、青い星がきらきらと光っている。 待ち合わせなどしていなかったが、少しも驚かなかった。目の前に覆いかぶさったその影は、いつも突然自分の空にやってくるからだ。 「へんな月食だな」 「空ばっかり見てるのが悔しくてさ」 かわいらしい影の主が、にっこりと笑うのが見えた。 空を眺める人影がきみだとわかったとき、ひどくうれしくなってしまった。別に約束をしていたわけではないのにそこにいることが、アタシと同じように夜を歩きたくなったのだと教えてくれたからだ。 「もしかして、シービーも散歩?」 「ふふふふっ。ちょうどきみを誘おうって思ってたんだ。 やっぱりいい夜だよね、今日は」 レモンみたいにみずみずしく光る月を見ていると、そんな光に照らされたらあの景色はどう見えるのだろうとつい気になってしまう。きみも同じ気持ちだったんだと思うと、またきみが好きになった。 アタシが隣に立つと、きみもアタシと同じようにうれしそうに笑っている。 だから、いいよね。今よりもっといい景色で、それを見たいと思っても。 「丘の森の端に月がかかったら、きっと綺麗だよ」 きみの笑顔が、今度は少し困ったような苦笑に変わる。仕方ないなと受け入れてくれる優しさも感じるから、この顔も好きなのだけれど。 「でも、今から行っても多分間に合わないぞ。シービーは走ればいいかもしれないけど」 確かにきみには、無茶なことをたくさん言ってきたかもしれない。でも、アタシだってちゃんと考えてるんだ。 「うん。だから、乗って?」 アタシのほしいものを、ぜんぶ手に入れる方法くらい。 きみの顔が、今度は少し不安そうに顰められるのがわかる。嫌がってるんじゃなくて、心配してくれてるってことも。 「大丈夫か?」 「大丈夫だよ。 きみに鍛えられてるしね」 でも、アタシの提案を聞いた一瞬、きみの目がきらりと輝いていたことだって、アタシにはちゃんとわかっている。 「行こうよ。あの景色はきみと見たいんだ。 きみとじゃなきゃ、やだ」 そんなきみだから、アタシはどんどんわがままになっていく。楽しいことに遠慮なんてしない、ほんとのアタシになれる。そんなアタシをきみは好きでいてくれるって、信じてる。 森に着いた時には、ちょうど丘の杉の木に月がかかっているところだった。 「ぎりぎりだったな」 「でも間に合ったよ」 多少いつもより走りにくかったけれど、トレーニングの負荷と思えばさほど苦にはならない。それに、ただの無機質な重りときみを乗せるのとでは、重さは同じでも心の弾みが段違いだ。 「シービーが飛ばすからだろ」 「いいじゃん。楽しくなっちゃったんだもん」 おかげで自然と脚が動いて、きみにちょっとしたレースの気分を味わわせることになったかもしれない。でも、どんなに飛ばしても止めてと言わなかったのは、アタシと同じようにきみも楽しいと思ってくれた証拠だ。 アタシより先にきみが腰を下ろして寛ぐのは、少し珍しい。さっきあんなに渋っていたのが嘘みたいにこの景色を楽しんでいるきみを見ると、ちょっぴり意地悪な誇らしさが顔を覗かせる。 「風、気持ちいいな。地面も柔らかくてこのまま寝ちゃいそうだ。 来てよかったな」 「ね。言ったじゃん」 でも、本当のきみはアタシより意地悪だ。アタシの心にまっすぐ響く言葉を、普段はどこに隠し持っているんだろう。 「うん。綺麗だ。 シービーも、なんかいつもよりキラキラしてる」 夜はたくさんの幻想を懐に抱えてくれる。 世界にアタシたちしかいないと思い込むのも、夜の闇は許してくれる。そんな優しい静けさが、何度味わっても好きだ。 「やっぱり、夜はいいね。 いつもより世界が広く感じる」 夜が好きな理由はもうひとつある。きみがいつも恥ずかしがってしまい込んでいる詩人の心が、夜風に誘われて出てくるからだ。 「そうだな。 今だけ、世界がぜんぶ自分のものになったみたいな」 普段からもっときみの想像を聞きたいともどかしく思うこともあるが、今は今で悪くない。 こんな夜にだけ本当のきみに会えるというのも、素敵なことだと思うから。 いま、アタシときみは同じ世界を見ている。同じものを見つめて、同じ幸せをふたりで分かち合っている。 なら、きみの言う通りだ。世界はアタシときみのもの。 「じゃあ、半分こしようか。アタシときみで」 でも、やっぱりアタシときみは違う。きみはアタシよりずっと慎ましやかだ。 「そんなにいらないよ。全部シービーが持ってていい」 アタシと似てるところも、アタシと違うところも、アタシをわくわくさせるのには変わりないのだが。 手に入らないものを掌に乗せたつもりになって遊ぶのは、なんと楽しいことだろう。 そのおもちゃはうんと大きいのに、アタシときみにしか見えないのだから。 「きみは謙虚だね。 じゃあ、ちょっとだけあげる」 大きな大きな、果てしない世界。 でも、アタシがきみにあげる場所はもう決まっているんだ。 「ここ。 ここが、きみの場所」 アタシの隣の草原をぽんぽんと叩くと、きみが何よりも幸せそうに微笑んでくれたのが、ひどくうれしかった。 アタシの隣をきみにあげよう。 今はここにいて。遠くに行っちゃやだ。 美しいものを想うときは、きみに隣にいてほしい。 きみを抱きしめて、この世界をきみと見られるのがうれしいんだって伝えたいから。 アタシのあげた場所にゆっくり腰掛けたきみを見ていると、もう我慢できなくなってしまった。 「わ」 「ふふ。だめだよ、逃げたら。 きみの場所はここなんだから」 倒れるくらい勢いよく抱きついたアタシを受け止めて頭を撫でてもらうと、幸せってこういうことなんじゃないかと知ったようなことを言いたくなる。 「逃げないよ。逃げたくない」 髪を撫でる涼しい風が好きだ。小さくて聞き逃してしまう音も包みこんでくれる静けさが好きだ。 夜のぜんぶを、アタシは愛してる。 でも、それをきみの腕の中で味わうともっと美しく思えるってことは、きみに出会うまで知らなかったな。 「ね」 「ん?」 あの言葉がこの夜の中で何度も繰り返されてきた理由が、わかる気がした。 こんなにも綺麗なものをくれるひとがいるから、言わずにはいられないんだ。 「好きだよ。 きみのこと、大好き」 だから、何度でも同じ夜を明かそう。 その数だけ、きみを好きになるから。 ふたりで歩いて家に帰り着いたときには、すっかり日が昇っていた。 「あは。すっごい眠いや」 「俺も。今日が休みでよかったよ」 お互いにシャワーを浴びて汗を流すと、溜まっていた疲れがどっと染み出してくる。正直なところ、今すぐ布団に飛び込んで寝たくて仕方ない。 それはきっと彼女も同じなのだろうが。 「一応言っとくけど、俺のベッドだぞ」 「んー、だめ?」 ごろりとうつ伏せに寝転んで我が物顔で脚をばたつかせてみたり、先にシャワーを浴びてもこちらが上がるまで起きて待っていてくれたり、わがままなのだか律儀なのだかわからない。だが、その不敵な微笑みは既に答えを知っているが故のものだというのは、はっきりしていた。 「だめじゃない」 「言ったじゃん。 きみの居場所はここだよ」 自分の隣をぽんぽんと叩いて笑う彼女が、愛おしくて仕方ない。だからこっちも、嬉しくないふりはやめることにした。 ゆったりとベッドに身体を横たえると、どちらともなくお互いを抱きしめた。ほんのりと甘いシャンプーの匂いとほんの少し高い体温が、心地よい眠気を一気に加速させてゆく。 でも、寝てしまう前にこれだけは言わなくては。 「シービー」 「ん?」 「好きだよ。 大好き」 唐突に告げられて言葉が出ない彼女を置き去りにするように、瞼を閉じて睡魔に身を任せる。たまにはこうやって、彼女をからかって逃げおおせてみたかったのだ。 きっと彼女は、夢の中まで追いかけてくれるから。 9/15 伸びやかな歌声が、スタジオいっぱいに響いている。 踊りは別撮りと言われていたのに、歌っているだけでもうすっかり身体が動いてしまっているシービーの姿が可笑しくて、つい笑ってしまった。脚が勝手に弾むくらい楽しんでいるという証拠だから、それはそれでいいことなのだろうけれど。 「ふふ、いい声ですね。いつものライブよりも調子がよく聞こえます」 隣で収録を指揮する音響監督は、三冠を取る前から彼女のライブに携わってくれていた人であった。いち観客としてレースを観に来ていたときに、視線がピンときたとシービーから逆指名を受けたという中々愉快な経歴をお持ちの人なのだが、彼女の突飛な思いつきを楽しみながら演出に取り入れてくれる姿は、その勘の正しさを証明していると言えるだろう。 「そうですね、彼女も収録を楽しみにしていたみたいです。 …すみません、無理を言ってついてきてしまって」 「いえいえ、構いませんよ。彼女の魅力を引き出すなら、したいようにさせてあげるのが一番ですから」 スタジオまで彼女を送った後に、収録が終わるまで何をして過ごそうかと考えていたら、不思議そうな顔をした彼女がこちらの手をおもむろに握っていた。 『来ないの?』 言うまでもないことだろう、と顔に書いてあるようだった。結局そのまま彼女に手を引かれて、収録現場に開けてもらった席に少々肩身の狭い思いをしながら座っている。 周りにいる他のスタッフも前々から彼女と一緒に仕事をしてきた、気心の知れた仲と言ってもいい間柄である。それだけ彼女もこの収録に熱意を傾けているし、緊張もしているのかもしれない。 音楽の素人の自分にさえ、側にいてほしいと思うくらい。 彼女をイメージした曲を作りたいという話が舞い込んできたのは、半年ほど前のことだった。 彼女のファンはどことなく熱の入れ方が強いとは思っていたが、商業的な野心のためでも広報のためでもなく、ただ彼女にぴったりの曲を作ってみたいと作曲家から直々に伝えられたときには流石に驚かされた。 しかし、何より驚いたのはそれに対するシービーの反応だった。二つ返事で承諾したかと思えば、作曲や作詞にあたってどのような点に配慮すればよいかという相談には、一切の注文をつけなかったのである。 『好きに書いてよ。こんなことしたらアタシがどう思うかとか、気にしなくていいからさ。 みんなが見てるアタシを、ありのまま教えてほしいな』 他人からどう思われていようとそれに自分が応えることはないし、逆に誰かが自分をどう思うのかを縛りつけることもしたくないと、いつか彼女は言っていた。 今も彼女はその哲学に従っただけなのかもしれないとも思ったが、彼らに任す、と言ったときの彼女の瞳には、他人の思惑に付き合っているだけでは生まれない楽しげな表情が宿っていた。 『それもあるけどさ。他の人からアタシがどう見えてるのか、最近ちょっと楽しくなってきたんだよね。 アタシが好きなものを、アタシが持ってない言葉で教えてくれるかもしれないじゃん』 作り手である以前にその曲を誰よりも自分が楽しみにしていると言いたげな微笑みが、嬉しいと同時に少しだけ妬けてくる。 『なんか、いいな。うらやましい』 『ん?なにが?』 『シービーの心にぴったりはまるものを、他の誰かが持ってるんだって思ったらさ。 俺もそういうの、できるだけ見つけてあげたいんだけど』 だから、自分がそうありたいのにと偽りなく述べたのだが、彼女は少し目を丸くしたかと思うと、すぐに頬杖をついて可笑しそうに目を細めた。 『…ふふ』 それが背伸びする子供を慈しむような視線にも見えて、少しだけむっとする。 『なんだよ。なんか変なこと言ったか? …いいだろ。ちょっとくらい格好つけたって』 『あははっ。そういうことじゃないんだけどさ。 …なんでもないよ。ふふふっ』 そう言いながらもしばらくこちらを見つめては、どこか満足そうにしている彼女の笑顔の謎は、終ぞ解けることはなかった。 「少し休憩にしましょう。収録はとても順調だから」 「はーい」 監督のよく通る声は、彼女の付けているスピーカー越しにもよく聞こえるらしい。カチューシャ型をしたウマ娘専用のそれを取って、すたすたと控室に戻っていった。 次はダンスを撮ることになる。彼女のことだから、あれほど気分が乗ればすぐにでもダンスも撮りたいと言い出すかと思ったが、やはりそれなりに体力を使ったのかもしれない。 しかし、そんな推測は慌てて飛んできたスタッフの顔を見るとあっさり消し飛んだ。 「すみません監督、トレーナーさん、少しお話が…」 次に撮るダンスのために、彼女のメイクをしていたはずのスタイリストが、幾分焦った面持ちでこちらに来る。シービーは彼女に随分懐いていて、お互いにくだけた言葉で話しながら戯れる姿は、いつも仕事仲間というより歳の離れた姉妹に見えるのだった。 それだけ仲のいい相手といるなら、シービーも退屈しないと思ったのだが。 「シービーが出て行った?」 彼女はいつでも、我々の予想を軽く飛び越してゆくのだった。 それはシービーに軽食を取らせながら、彼女が髪のセットをしていたときのことだったそうだ。あの人にセットしてもらうと気持ちよくて寝ちゃいそうになるんだよね、と話していた通りに、その間は始終機嫌がよかったのだという。 メイクの間も彼女は例の曲を口ずさんでいたのだが、あるとき突然歌うのをやめた。 『どうしたの?』 『…風って、どこから生まれるんだろう』 彼女はすっと立ち上がって、何の迷いもなく軽やかにこう言ってのけた。 『行きたいところができたんだ。ちょっと行ってくるね』 当然彼女は制止したが、その気になったシービーを止められる者は誰もいないというのは、ここにいる全員が知っていることだった。 せめて行き先を教えるように頼んだ彼女に、シービーはこう返したという。 『ごめんね。教えたくてもできないんだ。だってまだどこか決まってないから。 でも、大丈夫だよ。わかるひとならいるからさ』 「…いつもすみません、うちの担当がご迷惑をおかけして…」 「いえいえ、我々も承知でお呼びしていますから。むしろ曲を喜んでくれているようでよかったです」 曲が良すぎたあまりに、彼女の好奇心にまで火をつけてしまったらしい。やけに嬉しそうな彼女を見ていて何かあるかもとは思ったが、まさか収録中にスタジオを抜け出すとは思わなかった。 ただ、彼女が収録にやる気をなくしたわけではないことは幸いだった。むしろ想いをもっと歌に乗せられる場所を見つけるために、どこかに行ったのだろう。 頭を抱えはしたが、ほんの少しだけ嬉しかった。漸く自分にできることが見つかったからだ。 「ちょっと行ってきます」 「どこにいるかわかるんですか?」 猫を探す時は、猫の気持ちになって考えなくてはならない。あの気紛れな猫のことなら、誰にも負けないという自信がある。 「なんとなくですが。 合流したらすぐお伝えします」 さて、今日の風はどこに吹いているのだろうか。旅に出るときの彼女がそうするように風を感じて目を閉じると、不思議と心が落ち着くのだった。 今日の風は潮の匂いがする。色がついているなら青だろうか。 うちの猫は、こんな風が耳の間を吹き抜けてゆくのが好きなのだ。 「やっぱり、ここにいた」 「ふふ。 やっぱり、きみは見つけちゃうんだね」 艷やかな長い髪を潮風の手に委ねて、彼女は微笑んでいた。 「随分走ったな」 レースを終えたあとと同じくらい、彼女はびっしょりと汗をかいていた。タオルを持ってきてよかったと思ったが、それでも拭き切れるか少し不安になるくらいだった。 けれど彼女の表情は、流れる汗が煌めく宝石に見えるくらい、晴れやかに微笑んでいた。 「みんな怒ってた?」 「いや。笑ってたよ」 皮肉でもなんでもなく、自分も含めたあの現場の人間は、彼女のわがままに付き合うのが好きだからそこにいる。申し訳なさそうにくしゃりと笑う彼女の顔も、もうすっかり見慣れた。 「そっか。 ごめんね。迷惑だろうなって思ったけど、やっぱり心は誤魔化せないからさ」 「退屈だった、わけじゃないよな」 自動販売機で水を買って戻ると、海に向かいあったベンチに腰掛けて手を振る彼女が見える。受け取ったペットボトルの半分を一気に飲み干した豪快さとは裏腹に、その語り口はひどく穏やかだった。 「うん。すごく楽しかったよ。 あの曲、すごく好き。アタシが大事にしてることが全部詰まってる」 旅には二種類ある。今いる場所から逃げるための旅と、ここではないどこかを目指すための旅。 そして、彼女の旅は常に後者だった。どこに向かおうとしているのかは、ときに彼女自身にさえわからないけれど、その足取りはいつも希望に満ちている。 「だからこそ、自由を歌うにはあのスタジオはちょっと狭すぎるんだ」 その希望を追いかける目が、こちらを迷わずに見据えていた。アタシの心はここにあると、はっきり告げるように。 「『風になりたい』なら、ここじゃないと」 「アタシ、歌うの大好き。歌っている間は、何にだってなれるもん。 風になって、かもめになって、この広い海をどこまでも渡っていくんだ。 世界の涯てまで、どこまでも」 夢見るような語り口を聞いていると、澄み渡った空に彼女の歌声がどこまでも響いていく様を想像して、ひどく楽しくなってしまった。その声が海の向こうまで届いて、浜辺に遊ぶ誰かの心に沁み渡るかもしれない。 「そうだったらいいな。シービーの歌を聞いてると、もっとたくさんの人に届いたらいいのにって思うから。 自分の世界を持ってる人の歌は、特別なんだよ」 くすくすと笑う彼女の姿を見て、恥ずかしいことを口にしているなと悟る。肩に凭れかかった重みが、もっと話したいと教えてくれるから、やめようとは思えないけれど。 寄せられた頭をゆっくりと撫でていると、美しい思い出が零れ落ちてくる。本当に彼女は、いくら触れ合っていても飽きさせてくれない。 「子供のころ、風が吹いてくる方にずっと走っていったことがあってさ。どこかに風のふるさとがあって、季節が変わっていく度に風が旅立っていくんだって思ってた。 結局途中で疲れて、帰っちゃったんだけどね」 彼女は自分の世界で生きている。だから突拍子もないことを平然とやってのけるのだが、一度その世界を覗いてしまえば、もう目が離せない。 「あの曲を聴いてたら、ひさしぶりに思い出してさ。今度こそきっと、風のふるさとを見つけられるんじゃないかって思ったら、もう止まれなくなっちゃった。 そうやって風を追いかけて走っていったら、海に着いたんだ」 すっくと立ち上がった彼女の瞳が、一心にこちらを見つめている。 その光の中に、夢が躍っている。 「だから、ここがいい。 アタシの世界が好きって歌うなら、ここじゃないとやだ」 それを叶えるためなら、なんだってしてあげたい。 心から、そう思った。 「言うと思ったよ。もう準備してもらってる」 こちらの返事を聞いた途端、さっきまでの凛々しい笑顔が拍子抜けしたように緩むのがひどく可笑しい。きっと彼女は無理な願いを叶えるためにこけつまろびつする姿を想像していたのだろうが、こちらにも意地というものがある。 彼女の隣に立っていた時間が、無駄ではなかったと証明したいから。 「そうなの?」 「うん。スタッフさんもすごいよな。予定になかったのに、すぐ屋外撮影用の機材を用意してくれてさ。 あとはシービーを見つければいいだけにしてくれた」 さっきまで彼女がそうしていたように、目を逸らさずまっすぐに彼女を見つめる。 「歌うのが好きって言ってたけどさ。俺は歌ってるシービーを見るのが好きだよ。 歌声に夢をのせてるシービーを、ずっと見てたい」 ありのままに想いを伝えてくれた彼女に、ありのままの想いで応えたい。だから、レースに向かうときと同じように、背中を押すように彼女の勝負服を手渡した。 彼女が自由を歌うなら、これは絶対に必要だろうから。 彼女はしばらく何も言わなかった。けれど、勝負服を受け取ったときの表情は、どんな楽しいレースができるのかな、と呟くときと同じ晴れやかな笑顔だった。 彼女は掴みどころがない。長く一緒にいても、たまにこうやって先を読めなくなることもある。 でも、本気の気持ちをぶつければ、どこまでも彼女らしく軽やかに応えてくれる。それだけは初めからわかっていた。 「ふふふっ。きみも、みんなも、こんなに一生懸命になってくれるんだ。 じゃあ、あとはアタシが応えるだけだね」 そんな眩しい笑顔のまま走り出していきそうに思えたが、彼女は逆にこちらに近づくと、内緒話をするように耳元にそっと唇を寄せてきた。だが、吐息さえ感じられそうな距離よりもどこか申し訳なさそうに話す彼女の声に、心が囚われた。 「たまにね、自分でもどうしたいのかわからなくなるときがあるんだ。心が弾んで仕方ないのに、どうすればその心を満たせるのか思いつかない」 本当の自由がどこにあるかは、彼女にもわからないのかもしれない。けれど大抵のひとがわからないままで諦めるそれを、彼女は諦められない。 だから不器用に、少しずつでも、彼女は探し続ける。 「そういうときでも、アタシは走り出しちゃうんだ。 でも、きみはいつでも目を離さないでいてくれるよね。アタシのほしかったものを、きみはもってきてくれる」 そんな姿を見ていたい。いつまでも、支えてあげたい。 夢が、そこで走り続けているから。 「きみが見つけてくれるって信じてるから、走り出せるんだよ。 もっともっと、アタシがアタシでいられる気がする」 いつでも彼女は、風の中に何かを探している。 それは一瞬の光だったり、自由の答えだったりする。もしかしたら、自分自身の正体かもしれない。 一緒に探そう。君が見つけるものは、きっといつまでも心の真ん中で光り続ける。 「ありがとう。 アタシを見つけてくれて」 自由を歌に乗せて、彼女が駆け出してゆく。まっさらなターフに飛び込んでゆく彼女を見送るときにも、きっと同じことを考えていた。 さあ、行っておいで。 風が待ってるよ。 「陸と海だったら、どっちになりたい?」 「ははっ、なんだそりゃ」 収録を全て終えた頃には、もうすっかり日が傾いていた。歩いて帰りたいという彼女に付き合って浜辺の道をさすらっていると、唐突にそんなことを訊かれた。 「いいから。教えてよ」 どう答えたものかと戸惑っていたが、彼女は待ってくれないらしい。困るこちらの様子を楽しむように、整った顔立ちが鼻先が触れそうなくらいに近づいてくる。 口ごもるわけにもいかず、思ったままを正直に話した。 「…海がいいな」 彼女から近づいてきたおかげで、答えを聞いた瞬間に目をゆったりと細めて満足そうに笑う表情が隅々まで堪能できる。収録が想像以上に楽しかったからか、こんな具合に彼女は終始上機嫌だった。 「いいね。アタシも海がいいな。 やっぱり、波の音が好きだから?」 「シービーに踏まれたくないから」 顔を近づけたまま、今度はぷくりとわざとらしく頬が膨らむ。 「いじわる」 「地面があったらどこでも走る誰かさんが悪い」 今日は散々彼女に振り回されたのだ。少しくらいはやり返しても罰は当たるまい。 けれど、海に憧れているのは本当だった。否、海と風という言葉が、今日から特別になった。 「大きな大きな海になって、シービーの声をずっと聞いてたい」 本当に海の向こうにも聞こえるのではないかと思うほど、今日の彼女の歌声は美しく澄んでいた。あの声が、言葉が潮騒のように、今も心の中で鳴っている。 一度、アイデアに詰まったといって作詞家から相談を受けたことがあった。レースやインタビューで見るシービーの姿だけで歌詞を埋めてよいものか、という問いに対して、どう答えたものかと少し頭を捻った。 確かにそれだけが彼女のすべてではない。自分しか知らない彼女の一面というものもあるだろう。 だが、それを歌うことが彼女の望みなのだろうか。ふたりきりでいるときの姿も、走っているときの姿も、彼女に問えばみんなアタシだよ、と答えるに違いない。 彼女は自分を偽っているわけではないし、本当の自分を知ってほしいと思っているわけでもない。ただありのまま、そこに在るだけなのだ。 『シービーは、あまり自分のことをそのまま歌いたがらないかもしれないですね』 彼女がしたいことは、心の内を饒舌に語ることではない気がする。彼女そのものではなく、彼女が好きなことや大切にしたいことが、あの伸びやかな声には似合うのではなかろうか。 『わかりました。では、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか。 シービーさんがレースの前によくしていることはありますか?』 『風を感じるのが好きなんです。耳と尻尾を立てて、その日の風の匂いを嗅ぎ分けるのが。 シービーにとって、きっと風は自由を運んでくるものなんだと思います』 自分がしたのは、クレジットに入るのも憚られるようなささやかな助言だけだ。それに知っていてもらおうなんて、高望みする気はない。 彼女のために紡いだ言葉が、彼女の心の中で生き続けていてくれるのなら、他に望むことなどないのだから。 「不思議だね。歌ってるときに、なんだかきみと話してるみたいな気がしたんだ。 きみが海になりたいって、思ってくれてたからかな」 どんなに隠したって、彼女にはわかってしまうのかもしれないけれど。 海になりたい。 心から笑いたいときでも、悲しくて涙がこぼれ落ちてしまうときでも、海は優しく受け止めてくれる。 そういうものになりたかった。 「ふふ。でも、いいね。 アタシが歌いたいと思ったら、きみはいつでも受け止めてくれるんだ」 弾む伴奏は波の音。歌声は潮風に溶けて、世界の涯てまで旅を続ける。 「歌いに行くね。 だから、聞いててよ。いちばん近くでさ」 そんな彼女の夢を抱く、大きな大きな海になりたい。 アタシは今、海を見ている。 目の前の砂浜の向こうにではない。海になりたいと言ったきみの瞳の中に、やさしい波が立つのが見えるのだ。 だから、アタシの海に話してみることにした。 どれだけアタシが、きみの優しさに惹かれているのかを。 「黄昏にきみの瞳の青を飛ぶ 沖のかもめの翼恋しき」 ゆっくりと頬に手を添えて、きみの瞳を覗き込む。 ああ、やっぱり青い。 きみがアタシにくれた、夢の色だ。 「綺麗。 あの海と同じ色だよ」 やっと見つけた、アタシの海。 風のふるさと。帰ってきたいって、心から思える場所。 だから、翼がほしい。きみの心に、いつでも飛んでいける翼がほしい。 「…本当?」 きみはアタシの海になりたいって言ってくれた。ありのままのアタシを、いつだって受け止めるって言ってくれた。 「ほんとだよ。 だから、かもめになりたい。かもめになって、きみの中をずっと飛んでたい」 自分が誰かってことは、自分に訊いてもわからない。だから、他の誰かに訊いたってわかるはずがない。 ずっと、そう思ってた。 「アタシはアタシが好き。だから、アタシのことはアタシだけがわかってればいいって、ずっと思ってた。 …でも、きみが見てるアタシのことも好きだよ。 そんなふうにアタシを見てくれる、きみの瞳が好き」 でも、例えアタシが何もかも置いてきてしまっても、きみは見つけてくれる気がする。走り続けているアタシを、綺麗だって言ってくれる。 アタシはミスターシービー。でも、そう胸を張って言えるのは、きみがアタシを好きになってくれたから。 そんなきみが、大好き。 アタシだけの海に、今日もひとすじの風が吹く。 夢をやさしく運んでくれる、澄んだ色の風だった。 10/12 ?ある朝、隣にいたはずの彼女の姿が忽然と消えて、一枚の落ち葉に変わっていた。 そう言うと何やら哀愁を呼び起こすような気もするが、彼女──ミスターシービーにとって、雲隠れは習性のようなものである。朝起きるといなくなっているというのは、彼女にとって珍しくも何ともない。 今日は少し詩的に消えてみたかったのだろう。眠い目を擦りながら机の上の落ち葉を拾い上げると、裏に何か書かれていた。 『秋を探しにいきます』 笑う口元を赤い葉で隠して、机に寄りかかる彼女の姿が目に浮かぶようである。そしてこの一文の後ろに、きみはアタシを探してみてよ、という目に見えない言葉が書き添えられているのも。 「…ふぅ」 こういうことは今までも度々あった。気まぐれに旅に出る彼女は、何も言わないで出ていくくせに見つけてもらいたがるのだ。なんとも理不尽な話だと思うが、見つけられたときの彼女の上機嫌な微笑みを見ると結局また探そうという気になってしまうのだから、自分の容易さにも困ってしまう。 近頃は秋になったといっても日中はまだ暖かく、この辺りの紅葉や銀杏はまだ青い。とすると、ウマ娘の体力を以てしても自力で辿り着ける紅葉を見られる場所というのは限られてくる。 「行くかぁ」 場所の当たりは大体ついた。だが、いざ出かけようと腰を上げたとき、ひとつの疑問が頭を過った。 彼女を見つけに行くのは確かに楽しい。けれど、いつも自分が見つける側というのは不公平ではないか。 かくれんぼは隠れる側がいちばん楽しい。だからこそ彼女は実に楽しそうに隠れては見つけられるわけだが、たまにはそんな彼女を出し抜いてみたいと思っても罰は当たるまい。 そう思うと、不思議な高揚感が生まれてきた。子供の頃に悪戯を思いついたときは、いつもこんな感覚を味わっていたと思う。 ただ見つけるだけでは面白くない。どうせ会いにゆくなら、彼女の期待を楽しく裏切ってやるのも一興だ。 そう思うが早いか、車を出して家を出た。だが、向かった場所は彼女がいると思われる場所とは真逆の方向だった。 彼女を引っ掛けるために、それなりの準備が必要だったからだ。 一面の赤の中で、恋しさに任せてぷらぷらと脚を揺らす。 「まだかなぁ」 彼がアタシの置き手紙に気づいて、場所の当たりをつけたなら、もう着いてもいい頃だ。尤も彼とは何の約束もしていないし、約束がなくてもアタシを見つけてくれるのが嬉しくてこんなことをしているのだが、何も言わないで出てきた以上、彼がここに来てくれるという保証はどこにもない。 それでも何も言わないのは、来てくれるかな、という一抹の不安が、彼の顔を見た途端に喜びと安心に変わる瞬間が楽しくて仕方ないからだ。彼にしてみれば無茶振りもいいところなのはわかっているが、もうすっかりそれが癖になってしまっている。 そよぐ風の中に涼しさを感じるようになると、夏の蒸し暑さに飽きていたこともあって、アタシはすぐに秋が恋しくなってしまった。そうしてアタシの心は、散歩中に見かけた赤く色づく山にすっかり囚われていたのだった。 山道を上るにつれて目の前の景色が赤と橙に染め上げられていく様は、そんなアタシの望みをぴったりと叶えてくれた。湖の澄んだ水面にその色彩がもうひとつ浮かんでいるのを見た時は、本当に来てよかったと心から思った。 だが困ったことに、いくらでも浸っていられそうなくらい美しい景色だったせいで、だからこそ早く彼と一緒に見たいという欲望もいっそう強くなってしまったのだった。 何か別のことをして気を紛らわせたいところだが、生憎ここを離れることはできない。彼を待つためにここにいるのだから、それをしてしまっては本末転倒だということくらいアタシにもわかっている。 「きみのせいだよ。アタシのこと、早く見つけてくれないからさ」 彼にしてみれば、まったく理不尽この上ない文句だろう。 でもそのくらいアタシの期待にいつも応えてくれる彼が悪いと、彼に甘えるのもやめられないのだった。 湖を横に見ながら、アタシはその縁に沿って歩いていた。汗が乾いて冷え始めた体を温めたかったこともあるが、何よりも湖の反対側から煙のようなものが上がっているのが見えたからだ。森に隠れていて気づかなかったが、どうやら対岸にはキャンプ場があったらしい。 湖畔の風に当たりながら焚き火で沸かしたコーヒーを飲むというのは、確かになかなか悪くなさそうだ。 対岸に着くと、煙の他にもうひとつアタシを惹きつけるものが現れた。 煙の上がっている方向から、何ともいい匂いが漂ってくるのだ。紅葉を見るのが楽しみで歩いている最中は気にならなかったが、思えばアタシは朝から何も口に入れていないのだった。 対岸の森を抜けると、草を低く刈った広場があった。端には小さな水汲み場があって、思った通りここはキャンプ場だとわかった。 決して大きくはなく閑散としているが、秋の静けさには却ってそれが相応しいだろう。一目見ただけで、アタシはここが気に入ってしまった。 そして匂いの正体も同時にわかった。広場の端に男の人がひとり、こちらに背を向けて熱心に焚き火をつついている。いい匂いの正体は、彼が焚き火で作っている焼き芋なのだった。 焚き火を見ている彼の隣には誰もいなかったが、誰も腰掛けていないキャンプ用の折り畳み椅子がひとつあった。 連れは薪を拾いにでも行っているのだろうか。けれど私の心は、すっかり目の前にある焼き芋に向いてしまっていた。 『中等部の子かな。おいも栗ごはーん、って歌ってるの聞いちゃったんだよね。 今度作ってよ。食べた分だけちゃんと走るからさ』 ちょうど昨日、寝る前に彼とそんな話をしたばかりなのを思い出してしまった。行儀が悪いのは重々承知しているが、アタシの思考は完全に、どうやったらあの焼き芋を分けてもらえるだろうか、ということに費やされていた。 「美味しそうだね」 声をかけると、彼は驚いたようにぴくりと体を震わせた。知らない相手にいきなり後ろから話しかけられたのだから、当然かもしれないが。 「アタシ、おにぎり持ってきてるんだ。ちょっと焼き目をつけたら美味しくなると思う。 だからもしよかったら、きみの焼き芋と交換しない?」 なるべく彼の気を悪くしないように、明るくそう伝えた。彼がどんな人柄なのかまるで知らないが、他に誰もいないこの場所を同じように選んでいるのだから、何か通じ合うものがあるかもしれないと、どこか淡い期待を抱きながら。 だがその期待は間もなく、その何倍もの驚きで塗りつぶされることになった。 「そんなのなくてもあげるよ。 シービーのために焼いてるんだから」 振り向いた彼の微笑みは、アタシが今までずっと待ち望んでいたものだった。 きみはいつでも期待に応えてくれると言ったけれど、あれは嘘だ。 きみは時々、アタシの予想も期待も気持ちよく飛び越してくれるから。 「ん、いいね。ちょうどよく焼けてる」 ゆったりと腰掛けて焼き立ての芋を頬張ると、疲れた体が思わず喜びの溜め息をもらす。そんなアタシを見る彼の笑顔は、どこか誇らしげだった。 「どういたしまして。火をつけるのにちょっと手間取ったけど、意外と上手く焼けたな」 慣れない彼の努力は、実に甘くて美味しかった。舌にも心にもよく沁みる、アタシのいちばん好きな味だ。 「でも芋一本でシービーが獲れるなら、いくらでも焼いちゃうかも」 「ひどいなぁ。ひとを動物みたいにさ」 彼の思惑通り見事に誘い出されてしまったわけだが、動物扱いには異議を唱えておきたい。 人でなかったら、きみの笑顔をこんなに好きになんてなっていない。 「赤いね、きみの手」 「ああ…このへんはやっぱり寒いな」 風に吹かれたきみの手が、秋を運んできたように思える。 だから、離したくない。アタシは秋が好きだから。 「秋だね。 ちいさい秋、みつけた」 「…うん」 秋は美しい季節だ。でも、もうすぐ散ってしまう木の葉が最後のお洒落をする、少しさみしい季節だ。 きみの手のぬくもりが、恋しくなりはじめる季節だ。 「秋は好き?」 「好きでも嫌いでもなかったよ。 でも、最近好きになった」 ありがとう。アタシのこと、追いかけてくれて。 「アタシも秋、もっと好きになったよ。 きみが好きにさせてくれたから」 きみのくれた秋風は、なんだかとてもあたたかい。 10/19 ドアがゆっくり開く音が、夜の静けさに響く。顔を上げると、さっきまで眠っていたはずの同居人が立っていた。 「ごめんな。起こしちゃったか」 彼女──ミスターシービーが寝息を立てているのを確認して、なるべく静かにベッドを抜け出してきたつもりだった。だが、やはり隣で寝ていた者がいなくなるというのは、鋭敏なウマ娘の感覚を刺激せずにはいられないのだろう。 「いいよ。アタシもちょっと眠れなくてさ」 そんなときでも彼女は、椅子を片手にいつも通りに笑っている。起こして申し訳ないと思うと同時に、こんなときでも変わらない彼女の陽気さが疲れた身体に染み渡った。 「仕事?」 「ああ。どうしても急ぎでな」 急な仕事の連絡というのは誰しも気分のよいものではないが、それが好きなひとと過ごす休日の昼下がりともなれば、不愉快さが顔に出るのを抑えるのに随分苦労した。 しかし、仕事は仕事である。こなさなければ最終的に不利益を被るのが担当のシービーである以上、投げ出すという選択肢は存在しない。そう腹をくくると、同時に妙な意地が湧いてきた。彼女と語らう時間をできるだけ損ねずに、この仕事を片付けてしまおうというこだわりが生まれたのだ。 もうすぐ日付も変わろうかという夜更けにのそのそ寝床を抜け出して仕事にとりかかっていたのは、概ねそんな理由である。夜が明けぬ内に片付けて、何事も起こらなかったように彼女の隣に戻って朝を迎えるというのが理想だったのだが、彼女が起きてしまった時点でそれは叶わない。 「明日のきみのほうが、うまくやってくれるかもしれないよ。 ああ、でも──」 「明日の俺はもう先約済だろ」 とはいえ、明日に回すというのはもっと考えられないことだった。明日は彼女とちょっとした旅行をするつもりで、どこに行こうかと語らいながら彼女を寝かしつけたのだから。 「大丈夫だよ。絶対今日中に終わらせるから。 シービーこそ寝てていいんだぞ」 「ふふふっ。別に無理して起きてるわけじゃないよ。 ここにいたいから起きてきたんだ」 微笑みを崩さずにそう話す彼女は、椅子を隣に置いてすっかり座り込んでしまった。かと思えばいきなり頭を差し込んで、画面を遮ってみたりする。 「邪魔しにきたの。ふふっ」 「悪い子は撫でてやらないぞ」 楽しそうにしているのはいつも通りなのだが、普段の彼女はこちらがデスクワークをしていてもほとんど興味を示すことはなく、ふらりと抜け出して散歩に行っているということも珍しくない。トレーニングのスケジュールといった彼女と話し合って決めることならともかく、今回のような事務仕事は彼女が関わる余地がないのだから、こちらもそれが当然だと思っていた。 それだけに、わざわざ起き出して自分に関わりのない仕事を律儀に見守っているというのは、彼女にしては違和感のある振る舞いだった。 左手の中にすっぽりと納まって、大人しく撫でられている彼女は、対して構ってやれないこちらに飽きた様子もない。 「本当にどうしたんだ? 手伝ってもらえることもあんまりないし、退屈だろ」 「うん。きみの仕事を見たいわけじゃないよ」 あっけらかんと言い分を認められて、ますますわからなくなる。楽しいことにどこまでも正直な彼女が、退屈な行為に時間を割くことはないのはよくわかっていた。 「じゃあ、なんでわざわざ」 「…きみのそばにいたいっていうのは、理由にならないかな」 耳元で恥じらうように囁かれたその言葉が、心の中をゆっくりと満たしていくまでは。 隣に誰かがいなくて寂しいと、最後に思ったのはいつだろう。子供のころに一緒に寝てくれたお母さんがいなくなっていると、何か大事なものをなくしたような気がした。 目を覚まして隣に手を伸ばしてもきみに触れられなくて、アタシは迷わずベッドを抜け出していた。 自分でも可笑しくなってしまった。アタシはいつから、こんなに甘えん坊になってしまったんだろう。 「ずっと誰かと一緒にいるって、ちょっと息苦しいかなって思ってたんだけどさ。 きみの隣がこんなにぴったりはまるって、知らなかったんだ」 でも仕方ない。好きになってしまったんだから。 アタシの心が満足するまで、とことん付き合ってもらおう。 「だから、勝手にいなくならないでよ。 ここはアタシの場所だから」 アタシがわがままを言うと、彼はいつも困ったように笑う。わがままを言われることが楽しいと思えてしまうことに、自分でも呆れてしまっているみたいに。 「ずるいなぁ。シービーはいつも勝手にどこかに行っちゃうのにさ」 そんな彼のくしゃっと笑う仕草が、どうしようもなく好きだ。アタシがどうしようもないくらい自由に取り憑かれてるとわかった上で、それでも好きだと言ってくれている気がする。 自分でも不思議だ。こんなに誰かが恋しいのも、その誰かのそばにいれば、退屈なこともあんまり嫌じゃないのも。 「…じゃあ、ひとつだけ頼んでもいいか。 肩に頭を乗せていてほしいんだ。寄りかかってくれていい」 きみが笑ってくれるなら、なんでもいいかなって思えるのも。 「ふふ。 アタシが言うのもなんだけどさ、重たいだけじゃない?」 「いいよ。 シービーがここにいてくれるって、感じていたいんだ」 アタシがそばにいるだけで幸せって思ってくれるのが、こんなにもうれしいのも、本当に不思議だ。 無機質なはずのキーボードの音が、今はひどく心地いい。たまに手を止めて頭を撫でてくれると、もっともっとくっついていたくなる。 今度、お母さんに訊いてみようかな。 お父さんを好きになったときも、こんな気持ちだったのかな、って。 いつの間にか、彼の肩で眠ってしまったらしい。ぱたりとノートパソコンを閉じる音で目を覚ますと、結局最後まで彼を手伝うでもなく、ただ甘えていただけだったなと思わず苦笑してしまった。 「ありがとう、シービー」 アタシがまだ眠っていると思っているのか、彼は小さな声でそっと呟いた。 今すぐ抱きしめたいくらいだったけれど、その余韻に浸る間もなく、いきなり身体が浮き上がった。意外にも彼は力持ちで、アタシを横抱きにしてもふらつく様子は少しもなかった。 うれしいけれど、徹夜明けの身体には堪えるだろうとも思ったから、一応起きているということは彼に伝えることにした。 「歩けるよ」 彼は少し驚いたようだった。けれどその足はほんの少し立ち止まっただけで、アタシを抱く腕に籠る力は少しも弱まらなかった。 「いいんだよ。俺がこうしたいんだ」 少しむきになったように口にしたその言葉が、ひどくうれしかった。意地を張ってでもアタシを大切にしてくれるきみが、たまらなく愛おしかった。 「ふふっ。じゃあ、お願いしようかな。 きみの腕、気持ちいいから」 アタシが抱きついたのか、彼が抱きしめたのか、わからなかった。多分同時にそうしたのだと思う。 おかげで、二人して飛び込むようにベッドに転がることになった。二人分の体重でスプリングが深く沈んで、海の底に沈んでいくみたいだなんて思ってしまった。 「くすぐったい」 彼の腕の中で鼻先を動かしていると、頭上から優しい抗議が飛んできた。どうやら息が当たってこそばゆかったらしい。 「しっくりくる場所を探してるんだ。 でも、やっぱりここが一番いいな」 こうやって何回も抱き合って、ぴったり収まる場所も大体分かっている。思いも寄らない場所がフィットしたら面白いのにとも思うが、今よりいいところはそうそう見つけられない。 あったかくて、たくましくて、きみの匂いがする。 「きみをいちばん感じられるところだから」 きみの胸元が、アタシはいちばん好き。 「朝の散歩に行くときもさ。ここから出たくないなってたまに思っちゃうくらい居心地がいいんだ。 今度からきみも起きてよ。一緒に散歩行こ」 少し朝が弱い彼に半分寝ぼけたまま可愛らしく抱きつかれると、いくらいい朝でも少し決心が揺らぎそうになる。そういう日は散歩から帰ってきた後にそのことを思い出してしまって、いつもよりきみとくっついていたくなるんだ。 きみもそんなにさみしいなら、アタシと一緒に起きればいいのに。 「ほどほどの時間で頼むよ」 暖かくて気持ちよくて、瞼がどんどん重くなる。きみともっと話していたいけど、このままきみと一緒に眠りに落ちるのも捨てがたい。 「…明日はどこに行きたい?」 一緒にいればいるほど、もっとほしいと思ってしまう。微睡みをさまようきみの声に、寝ながらでも答えられたらいいのにな。 「北がいいな。できるだけ寒いところ」 だから、夢を見ることにしよう。きみと過ごす時間を、どんなふうに彩るかを考えながら。 「いっぱい歩くからさ。あっためてほしいな」 起きたらまた、きみがほしくなってしまうかもしれないけど。 11/22 玄関の鍵が開く音で目が覚めるというのは、初めての経験だった。 扉を開けた足音は軽快で迷いがない。この家の間取りをよく知っていると見えて、まずは居間へと駆け足で向かってゆく。そこで少し立ち止まったかと思うと、今度はまっすぐにこちらへ近づいてきた。 寝室のドアが開く。それに応じて起き上がろうとする前に、カーテンが勢いよく開いて朝の光が燦々と差し込んだ。 「おはよう、トレーナー」 朝日に照らされたシービーの笑顔は、爽やかな秋晴れがよく似合う美しさだった。 まだ、同棲はしていない。そういう関係ではないどころか付き合ってから随分経つのだが、まだ彼女は彼女の家に、自分も自分だけの家に住んでいる。両親への挨拶も住んでいるのに居室だけは別々なのは、お互いの家を気分で行き来するのが好きだからという、自分と彼女のわがままに過ぎない。 『どうせ一緒に住むことになるんだからさ。今は別々の場所にいることを楽しもうよ。アタシ、今の家好きだし』 そんな彼女の言葉に心から同意したのは、自分もすっかり彼女の自由さに染められているからだろうか。好きなものを雑多に散りばめた彼女の家は、彼女の宝箱の中に入ったような気分にさせてくれるから、こちらも無理に引き払わせる気はなかった。行く途中に美味しい店も見つけたから、そこに寄って戦利品を彼女と分け合う楽しみも残しておきたい。 何より、居を同じくしてしまえば今朝のような嬉しい奇襲は絶対に起き得ない。予定がないのに彼女が訪ねてくれたときの喜びも、こちらがいきなり行ったときの彼女の笑顔も、捨てるには実に惜しい。 「おはよう。なんかいいことあったか?」 弾けそうなくらいににこにこと笑っている彼女は、その勢いのままにベッドに飛び込んできた。 「起きたのがちょうど夜明け前だったんだ。外に出たら空気がすごく澄んでて、走りたくなっちゃった」 レースに勝ったときと同じくらいの上機嫌さで今日の朝が美しかったことを話してくれる彼女は、出会ったころから少しも変わっていない。それが嬉しくて、つい話の続きをせがむ子供のようになってしまった。 「本当だな。今日は雲も全然ないし、いつもより空が高く見える」 「うん。朝焼けに紅葉がよく映えて、ほんとに綺麗でさ。何もないのにうれしくなっちゃった」 昼を飛ばして朝と夕方だけにしたような秋の柔らかな日差しが、ひどく好きだ。 そんな朝日に照らされた彼女の顔がゆっくりと近づいてくると、まだ気怠げだった心臓が慌てて動きはじめるのがわかる。 「ほんとにいい朝だったんだ。だから、きみにも分けてあげたくて」 きっと、半分は嘘だ。いい朝だったから、その思い出はここで過ごして締めくくりたいという彼女自身の願望が、ここに来た理由なのだろう。 だが、それをわざわざ区別する必要があるのだろうか。誰のためであれ、彼女はここに来て自分と過ごしたいと望んでくれた。 それだけで、十分ではないか。 彼女に頬を寄せられると、少し甘い香りに外の風が混ざった彼女の匂いがする。だが、今日はそこに空きっ腹に響く匂いが混じっていた。 「なんかいい匂いするな」 「ふふふっ。お惣菜屋さんの前を通ったら、メンチカツとコロッケをくれたんだ。仕込みたてで熱々だよ」 坂の上にある惣菜屋のいつも元気なおかみさんは彼女のファンで、一人暮らしをしている彼女を気遣って色々なものを譲ってくれる。今度お礼をしなくてはと思うが、今はせっかく持たせてくれたお土産を熱いうちに味わうのが先決だろう。 「じゃあ、早く起きないとだめじゃないか?」 彼女は少し思案するように、大きくて丸い目をこちらから逸らした。散歩の途中に分かれ道に出くわすと、彼女はよくこういう顔をする。 ゆったりと口元が綻んで、どちらが楽しそうか決める瞬間を、自分はいつまでも楽しみにしているのだ。 「うん。 でも、まずはあっためてほしいな」 布団が捲り上げられて、彼女の身体がするりと入ってくる。肩に巻き付いた彼女の手に引っ張られるように、二人して毛布の中に身体が沈んだ。 「いいね。あったかい。きみの匂いもするし」 「シービーは冷たいな。やっぱり寒かったか?」 若いウマ娘なだけあって代謝がいいのか、彼女の身体は真冬でも冷え切ることはない。それがこれだけ冷たくなるのだから、よほど寒空の下を駆け回ってきたのだろう。だが、彼女はそれを苦にしている様子はなかった。 「うん。 だからその分だけあっためてよ」 抱きしめ合ういい理由になったでしょ、と言わんばかりの眩しい笑顔を、今だけでも腕の中に閉じ込めておける喜びを、実感せずにはいられなかった。 彼女の手がゆったりと背中を撫でてくれる。お返しのように風で少し乱れていた髪を手で梳くと、猫のように頬を擦り寄せて甘えてくるのが実に愛おしい。 「本当にいい朝だな」 愛するひとの抱擁で一日が始まるのは、なんと贅沢なことだろう。いつも見ているはずの彼女の笑顔が、いつにも増して可愛らしく見えた。 爽やかな朝が心地いいのは、これから来る一日が楽しいものになると予感させてくれるからだ。彼女と一緒なら、これから過ごす人生も、きっとずっと楽しくなると思わせてくれる。 だから自分は、こんなにも彼女のことが好きなのだ。 そう得心すると、どうしようもなく彼女を愛したくなった。いつもは彼女からしてくれるのだけれど、今日は特例だ。 こんなにいい朝を届けてくれた彼女を、変わらずに愛していると伝えたかった。 「シービー」 名前を呼んで目が合った瞬間に、彼女の唇にゆっくりと自分のそれを重ね合わせた。 「ん…!ん…」 初めは驚いたように目を見開いていたけれど、やがてゆっくりと睫毛が動いて、少し眠たそうなうっとりとした表情に変わる。あまり見過ぎると怒られるのだけど、こうしてキスをしている間に彼女を見つめているのが、自分はたまらなく好きだ。 細められた瞳の奥の柔らかな光を見ていると、いいよ、と言われている気がしてならない。 口を塞ぎ合っていても、言葉がなくても、目を見るだけでわかる。彼女に言わせれば、これがぴったりとはまっているということなのだろう。 彼女にもきっと、こっちの気持ちが見えているに違いない。今何を考えているかまで、全部伝わっていてほしいと思う。 ずっとこうしていたいと、口に出すのは少し恥ずかしいから。 「ん…ん… ふふふふっ」 唇を離すと、はしゃぐように脚をじたばたと動かす彼女がたまらなく愛おしい。興奮した猫にじゃれつかれるときのように、彼女の足の甲がぺちぺちと脛に当たる。 そんな彼女を大人しくさせるように少し強めに抱き寄せてやると、お返しのように脚が腰に絡みついた。 腕の中の身体はまだ少し冷えている。 おかみさんには申し訳ないが、あそこの惣菜は温め直してもおいしい。今はもう少し、この時間を続けていたいのだ。 彼女の若い体は、こうしていれば簡単に温かくなるのだろう。けれど温まるのは、もう少しゆっくりでいい。 まだ、彼女と愛し合っていたいから。 11/23 食事が終わった後の昼下がりには、眠気が容赦なく襲いかかってくる。いつもなら眠い目を擦って仕事をするところだが、幸い今日は休日である。 思う存分寝るというのもひとつの贅沢だというのは、何か少し年寄り臭くて寂しい気もするけれど、眠いものは眠いのだ。そうと決まれば寝ることを全力で楽しんでやろうと妙なやる気が出てきて、戸棚から普段は仕舞っている寝具を取り出した。 自分の背ほどもある抱き枕は、暫く使わずに棚の中に眠らせていた。何かを抱いているとよく眠れるのだが、よく家にやってくる彼女に子供っぽいと思われるのが少し恥ずかしくて出さずにおいていたのだ。 しかし、彼女は今日一人旅に出ている。午前中に旅先の写真が送られてきて思わず頬が綻んだが、出不精の自分は夢の中に旅に出るのが精一杯だ。 横になって脚の間に抱き枕を挟むと、あっという間に瞼が重くなる。目を閉じたのとほぼ同時に、意識を手放していた。 目を開けると、抜けるような青空が広がっている。四方は紅葉のカーテンに囲われ、地面には落ち葉が絨毯のように敷き詰められている。 正しく夢のように美しい景色だった。けれど何よりも手放したくないものは、抱き枕の代わりに腕の中に収まっている。 「シービー」 名前を呼ぶと、彼女は何も言わないまま楽しげに首を傾げた。 風のように軽やかにどこにでも行ける彼女の姿は、出会った時から目に焼き付いて離れない。けれど、どこにも留めておけずにすぐどこかに行ってしまうことに、少し寂しさを覚えてもいた。 その寂しさを紛らわすために枕を抱いて眠っていたら、本当に枕が彼女に変わってしまうとは。あまりにも都合がいい夢だが、夢ならばいくら堪能しても誰にも迷惑はかかるまい。 会いたかったと口にすることさえもどかしくて少し強く彼女を抱きしめると、彼女は上機嫌そうに少し息を漏らして、応えるように抱き返してくれた。 首筋に彼女の顔が埋まると、耳がちょうど口元に触れる。髪と同じ色の毛がうっすらと生えた耳が鼻先をくすぐると思わず笑いが漏れて、吐息が耳に当たった彼女もくすぐったそうに笑った。 本当に幸せな夢だ。普段は恥ずかしくて言えないようなことも、思わず口にしてしまうような。 「好きだよ」 声を吹き込むように耳元でそう言うと、彼女の頬がゆっくりと紅みを帯びるのがわかる。その頬よりもなお赤い唇に吸い寄せられるように近づくと、彼女はほんの少し驚いたように目を逸らした。 夢の中とはいえ、少し性急すぎただろうかと思って顔を引こうとした。だが、うなじに彼女の手が触れて、また彼女の顔の前に引き戻される。 その表情は、いつも愛し合うときに散々見てきた悪戯っぽい微笑みに変わっていた。 「ふふふっ。 いいよ。アタシも好き」 「ん…ん」 今まで何度もそうしてきたように、唇を重ねるときの彼女は夢の中でも柔らかな吐息を漏らす。いくら外にいるからと言っても、少し乾いた唇の感触まで再現するとは、随分と鮮明な夢だ。 そうして現実と何の遜色もない幸せに酔っていると、いつの間にか息が少し苦しくなっていた。こういうときにはいつも目配せで彼女にそのことを伝えて、唇を離すことにしている。 だが、首に回された彼女の手にはさっきよりもより強く力が籠もっている。肺の空気がなくなっていく感覚も、それでも柔らかくて温かい彼女の唇さえやけにリアルで、幸せ一色で染め上げられていた頭に困惑が混ざってゆく。 目で合図を送ろうと見た彼女の目つきには見覚えがある。悪戯が上手くいったときと同じ、きらきらと悪賢そうな光を帯びた目だった。 窒息しかけるくらいに吸い付いた彼女の唇がやっと離れると、可笑しくて仕方ないと言わんばかりの哄笑が響き渡った。 「あははははっ!いつまで夢だって思ってた?」 「…キスしてる途中。息が苦しくなって、やっとわかった」 目の前にいる彼女は、紛れもない本物だ。周りの景色も少し奥に入ったところだから気づかなかったが、彼女が気に入っている公園の雑木林の中だった。 彼女がいつの間にか帰ってきて、寝ていた自分を背負ってここまで連れてきたのだとわかると、くらくらと目眩がした。 ふと旅に出たくなるのと同じように、ふときみの顔を見たくなる時がある。でも、家に行ったらきみは幸せそうな顔で寝ていて、アタシが来たことに気づく様子もない。 それだけでも少し面白くないのに、きみは呑気にこんな寝言を呟く始末だ。 「…シービー…」 アタシの名前を呼んでおきながら、アタシの代わりにどこから出してきたのか知らないクッションを愛おしそうに抱き寄せるのを見ていると、なんだか無性に悔しくなった。 アタシの名前を呼ぶなら、ちゃんとアタシを愛してよ。 アタシはきみに会いたくてここにいるのに、きみはアタシを見ないで満足しちゃうなんて、嫌だ。 だから、きみをここまで連れてきた。アタシときみしか知らない場所で、きみにアタシだけを見ていてほしかった。 まさか夢を見ていると思って、あんなに大胆になるとは思っていなかったけれど。 「でもなんで、ここにいるんだ?旅に出てるんじゃなかったのか」 でも、まだきみは目覚めきっていないみたいだ。こうしている予定だ、なんてことはアタシには通じないことも、アタシは今いちばんしたいことしかしないということも、すっかり忘れてしまっているらしい。 それとも、アタシの口から言わせたいのだろうか。 「アタシに会いたかったんでしょ? アタシがきみに会いたいって思うのはだめなのかな」 きみが思っているより、アタシはきみが好きだってことを。 言わされてしまったのが悔しいから、アタシもきみをからかってやることにした。 「でも、ちょっとびっくりしちゃった。夢の中だと、きみってあんなに大胆になるんだね」 面目ないと言いたそうに、きみは目を逸らした。別に逸らさなくていいし、逸らさせるつもりなんてないけれど。 「ね。 もうしてくれないの?」 さっきのきみも、アタシは好きだから。 二度目のキスは、恥じらいと愛情を混ぜ合わせた甘酸っぱい味がした。 12/13 ?額に重みを感じて起きるのは、初めての経験だった。 これは一体なんなのだろう。押すと硬さはあるのだが、表面はすべすべで柔らかい。そして何より、生きているもののぬくもりが感じられる。 「…はは」 笑い声を抑えるのに少し苦労した。目を開けると、さっきまで額を押していたものの正体がわかったからだ。 額同士がくっつくくらいに近づいていても、シービーの寝顔は相変わらず綺麗だった。笑って起こしてしまうのは勿体ない。 坂を転げ落ちるように気温が下がり、短い秋が一気に冬のはじまりへと変わり始めたこのごろだったが、家を訪ねると未だに彼女は愛用のハンモックに身を横たえていた。 「だって、ハンモック好きなんだもん」 ちゃんと暖かくして寝なさいという忠告は、このひとことであっさりと封殺された。好きか嫌いかということが判断の基準に入っているときには、何を言おうと彼女の行動を変えることができないことはよく承知している。 「風邪引いちゃったら楽しくないだろ?」 とはいえ、近頃の朝晩の冷え込みの激しさを考えると、やはり彼女の寝方は心配になる。しかし彼女は全く動じる様子もなく、朗らかにこう答えた。 「大丈夫だよ。あったまる方法ならちゃんとあるから。 それよりさ、こないだ街外れによさそうなカフェがあったんだよね」 やけに自信ありげな表情の彼女は、楽しみにしていろと言わんばかりにそこで話を打ち切ってきたのだった。 「…なるほどね」 これが彼女の秘策というわけか。道理で内緒にしていたはずである。 なんともずるい手だ。俺がいないときはどうするんだと盛大に突っ込みたくなったが、それを言う気になれないのだから。 どんな形であろうとも、彼女がそばにいることを自分が拒めるはずがない。 「じゃあ、このくらいはいいよな」 進んでこちらの寝床に潜り込んできたのだ。ある程度こちらの好きにしても、文句は言わせない。 彼女を抱きしめたときの感触は、何度味わっても飽きが来ない。温かくて、柔らかくて、いい匂いがする。 何より、たとえ眠っていても律儀に抱きしめ返してくれることが、何よりも幸せだった。 長い睫毛が少しずつ持ち上がって、彼女の碧色の瞳にデスクライトの淡い橙色の光が混じる。どんな宝石にも勝る、柔らかく美しい色だった。 「おはよう」 まだ夜明けには遠いけれど、彼女におはようと言いたかった。おはようって綺麗な言葉なんだ、と言っていたときの、彼女の穏やかな笑顔を思い出すからだ。 彼女は何も言わなかったが、返事の代わりに整った鼻先をこちらの鼻にやわらかく突き合わせた。 笑うたびに漏れた息が唇に当たってこそばゆくて、また笑って息を漏らしてを繰り返す。その感触も、こんなふうに戯れ合っていることも、ひどく楽しかった。 お返しのように、今度はこちらから額を合わせてやる。ふざけて彼女の方からぐりぐりと押し付けてくる感触が心地いい。 「お昼は唐揚げにしようか」 彼女は額を合わせたまま、器用に目を丸くした。 「すごいね、なんでわかったの?」 やはりこの姿勢はいい。彼女の驚く顔も柔らかな吐息も、全て手に取るようにわかる。彼女に触れているという実感が、これ以上ないほどに持てる。 「おでこをくっつけてたから伝わってきちゃったんだよ」 本当は寝言を聞いただけなのだが。けれどこうしていると、本当にお互いの心をくっつけ合っているように思えた。 顔を近づけていると、彼女の瞳がほんの少しだけ蕩けるのもよくわかる。そこから吐き出されるひとことの感触は、いつもよりずっと味わい深かった。 「…じゃあ、今なんて考えてるのか当ててみてよ」 彼女も自分と同じように、こうしていることに安らぎとときめきを感じていてほしい。あの目を見ていると、それが夢ではないと思える。 「このままもうちょっと寝てたい」 自分の願いも多分に籠もったひとことだったが、彼女もそう思ってくれていると思っていた。だが、彼女の口元がゆっくりと持ち上がって、それを優しく否定するところも、この姿勢ではよく目に入るのだ。 「ぶぶー」 彼女に実に楽しそうに否定されて、こちらの願望はあっさりと妄想に成り下がってしまった。だが、それを惜しんでいる間はない。 次に目が合ったとき、彼女の瞳は心を融かすように、ひどく甘い熱を帯びていたからだ。 「きみって素敵だなって思ってた」 こうやって近くでじっと見ていると、きみの頬が赤くなるのがよくわかる。追い討ちをかけるように唇を触れ合わせると、瞳が切なそうに細められるのもいい。 慣れないカップルのように鼻先が当たってしまうが、それも一興だろう。触れ合えば触れ合うほど、きみのことがよくわかる。 「…わかってても言えないだろ。恥ずかしくて」 「言わなくてもいいよ。アタシもきみのこと、わかるから」 半分は本当で、半分は嘘だ。きみにはいつまでも気持ちを言葉にしてほしいし、アタシも言いたい。こなれたやり取りでアタシをときめかせてくれるきみも、なのに気持ちを伝えてと言えばいつまでも耳まで赤くして照れるきみも、アタシは大好きだ。 でも、きみのことはなんでもわかっていたい。きみの心の温度は、いつでもてのひらの中で感じていたいんだ。 「寒いから、このまま一緒にあったまってたい。 きみに、あたためてほしい」 拗ねたように唇を尖らせるきみが見える。 さっきの回答も、実は正解だったのだ。きみが好きというニュアンスが入っていなかったから、丸はつけてあげないけれど。 「…シービーのしたいことじゃん、それ」 後ろ半分で本音が漏れてしまった。けれど、これが間違いだとは思わない。 「きみは違うの?」 アタシのしたいことを、きみはいつでも一緒に、心から望んでくれるから。 外の空気は相変わらず冷たい。でも、それでいいと思った。 「…違くない」 その分だけ、きみがあたたかいってわかるから。 12/28 ?ある日の午後のことだった。 次のレースまでのトレーニングの方針についてシービーと相談をしていると、彼女の視線がある一点に注がれていることに気づいた。 「ん、どうした?」 「トレーナー、時計変えた?」 何も言わなくても気づいてくれた彼女の目敏さに、ついにやりとしてしまう。手首へと向いた視線の先には、確かに買ったばかりの新しい腕時計があった。 「お、よくわかったな。先週買ったばっかりなんだ」 彼女が菊花賞を勝ってから、ちょうど三年が経った。その後も彼女は主要なレースを勝ち続け、共に走ることを愛する友人たちと楽しく競い合っている。 一緒に立てた「ふたりで最高の景色を見る」という誓いを果たせているかと、契約してから事ある毎に自問していたが、今は漸くその約束に恥じない結果を出させてあげられていると、少し自信が持てるようになった。 もちろん、この結果は何よりも彼女の情熱の賜物であることは言うまでもない。けれど、自分の気持ちを決して偽らず、ために今まで指導する立場の人間と度々ぶつかってきたという彼女に、走るのが嫌になったと一度も言わせなかったことは、誇りに思ってよいのではないかと思う。 そんなふうに少し自信をつけるうちに、いわゆる自分へのご褒美というものがあってもよいのではないかと、ちょっとした欲望が首をもたげたのだった。ありがたいことにシービーがずっと活躍しているおかげで、給料も大した使い出がなく貯まる一方だった。そういうわけで、前から気になっていたデザインの腕時計を思い切って買ってみたのである。 突き詰めていけば天井知らずに値が上がるこれらの品物の界隈で言えばまだまだお子様の買い物なのだろうが、それでも躊躇いなく普段遣いできるほど安い代物でもなかった。当然、いつもの仕事に行くときに身につけるようなものではないのだが、買ってからも見れば見るほどそのデザインが気に入って、つい着けてきてしまった。 正直に言うと、気づいてほしいし自慢したかったのだ。特に、目の前にいる彼女には。 「珍しいね。きみがそういう贅沢してるところ、初めて見るかも」 「かもな。でも、前から憧れてたんだよ。親父もこのブランドの時計を持っててさ。子供の頃に見せてもらったのをずっと覚えてるんだ」 冷たく純一な銀色のケースには、青と黒のベゼルがよく映える。アメコミのヒーローの渾名で呼ばれていると聞いたことがあるが、それだけこの時計は愛着を持たれてきたのだろう。 シンプルで衒いのないデザインだが、それ故にスタイリッシュで、いつまでも見ていられる。この時計に見合う器量が自分にあるだろうかと、時々心配にはなるが。 見せつけるようにわざと手首を出して格好をつけると、彼女は楽しそうに笑ってくれた。滑稽に見えたのか本当に似合っていたのかは知らないが、できれば後者であってほしいところだ。 「おー。かっこいいよ」 「はは。ありがとう」 腕から時計を外すと、彼女は目をくりくりと見開いたまま不思議そうに首を傾げた。あれだけ愛着を持っていた時計をあっさり外してみせたのが不思議なのだろう。 「?」 「トイレのときに着けてくのはなんかな。防水加工はしてあるんだけど」 手洗いから戻ってくると、彼女は裏返した時計を不思議そうに見つめていた。その顔のままこちらを見つめられる 「この日付、どこかで見たことある気がするんだよね。でも思い出せなくてさ。 トレーナー、何か知らない?」 駆け抜けた後に残してきたものには興味がないのはいかにも彼女らしいが、 「なんだ、忘れちゃったのか」 この時計を選んだ理由を彼女に打ち明けるのは、少しだけ恥ずかしい。 でも、どれだけ自分が彼女を大切に思っているかは、どうしても伝えておきたかった。 「それ、その時計が作られた日付なんだけどさ。シービーが三冠を取った日と同じなんだ」 「ある程度高い時計だと、製造年月日を選ばせてくれるんだ。 …せっかくだから、俺の時間はやっぱりこの日から始めたくてさ」 彼女は時計の裏にその日付が刻まれているのを見ると、珍しくかつての日々に想いを馳せるように目を細めた。 「…アタシにとっては、あんまり特別な日じゃないんだ。スタンドいっぱいのお客さんがいるレース場でも、誰も見てない路地裏でも、気持ちよく全力で走れたなら、アタシにとっては同じようにいい日だから。 でも、こんなにきみが喜んでくれると、この日がアタシにとって大切な日だったんじゃないかって思える気がする」 彼女の笑顔はたくさん見てきたが、こんなふうに笑う姿は初めて見たかもしれない。昔を思い出して笑う彼女は、いつもよりもほんの少しだけ大人びて見えた。 「後ろは振り向かない主義なんだけどさ。こうやってきみが大事にしてくれるなら、たまには振り返るのも、悪くないかもね」 重ねた年月の分だけ、彼女は大きく、綺麗になっていく。それをいちばん近くで見ていられる幸せを想うと、彼女と出逢えてよかったと心から実感する。 この時計は、そんな時間を刻むために買ったのかもしれない。 「…シービーに買ってもらったようなもんだからな。 こうやってちょっと贅沢できるのも、あのときは嬉しかったなって思えるのも、シービーのおかげだよ」 そんなきみも素敵だ、と日の高いうちから言うには、まだ時間がかかるけれど。 彼女にあんなことを言ったからか、家に帰った後もなかなか腕時計を外す気になれなかった。昼間のやりとりで気をよくしてくれたのか、今日はきみの家に行ってもいい、とせっかく言ってくれたのだから、もう少し気の利いたもてなしを考えたほうがいいのだろうけど。 いつの間にか風呂から上がっていた彼女がひょこっと顔を近づけると、シャンプーの匂いが仄かに鼻をくすぐった。 「ずっと見てるね。そんなに好き?」 「ん?ああ。 ごめん、なんか子供みたいだな」 今の自分の姿を想像すると、買ってもらったばかりのおもちゃを食事時も手放さずに叱られる子供の仕草が重なって見えた。 好いた相手のために買った時計なのに当人よりも大事にしていると思われては敵わないから、少し名残惜しい感触を抱きながらも時計をテーブルに置こうとする。すると、彼女の視線もさっきまでの自分と同じように時計に吸い寄せられていることに気づいた。 「アタシにも少し貸してくれる?」 もちろん、と答えて差し出された右手に時計を置くと、彼女は腕時計を初めて見たとでも言うような、物珍しそうな眼差しをして指先で時計をつまみ上げた。 「普段は腕時計着けないんだけどね。目の前でそんなにうれしそうにいじられたら、ちょっと気になっちゃってさ」 よく動き回る彼女にとっては、汗をかいたときにベルトが肌に張り付く感触が耐え難いのだろう。それに時間に縛られることは、彼女が一番嫌いそうなことだった。 しかしファッションとしての時計は、彼女のすらりと伸びた手首によく似合うだろうなと思うと、少し惜しい気もするが。 「やっぱり大きいね。全然余っちゃう」 いくらベルトを締めても、男物の時計と彼女の細い手首には指一本が入るほどの隙間ができていた。ケースも彼女の手首から少しはみ出しているが、それが何か腕輪でも着けているように見えて少し可笑しかった。 「ふふふっ。ちょっと重たいけど、それがいいんでしょ?」 「まあな。着けてるって感じがするくらいが好きかも」 男の趣味は分からないと言わんばかりにくすくすと笑われるのも、それはそれで楽しい。笑ったままこちらに時計を差し出した彼女の手の下に、自分の手を出した。 だがこちらの手に乗るはずだった時計は、空中でぴたりと静止した。 「シービー?」 彼女の顔を見ると、この後どうするかと迷っているような神妙な表情をしている。だが、それも一瞬のことだった。 「…ふふ」 どうしたものかと思案していた彼女の表情が悪戯っぽい笑みに変わると、時計はもう一度浮き上がった。そしてそのまま、彼女の胸ポケットにすっぽりと収まってしまったのだった。 掌に時計が乗る代わりに、もっと柔らかくて温かいものが膝の上に乗っていた。 「預かっておくよ。 アタシが帰るときに返してあげる」 向かい合った彼女の瞳は、時計よりもっと面白い玩具を見つけたと言わんばかりに輝いていた。 時間を気にして楽しいことに没頭できないのが嫌だから、腕時計は着けたことがない。でも、誰かを待っているひとが時計を見るときの少し切なそうな眼差しは、ちょっと素敵だなと思うときがある。 だから、腕時計を着けるのは煩わしくても、時計を着けているひとを見るのは少し楽しい。きみが時計を買ったと聞いたときも、袖を少し捲って時間を気にする姿はどんなふうに見えるだろうかと、少しだけ楽しみにしていた。 でも、あんなにはしゃぐきみを見たのは初めてかもしれない。アタシが気ままに振る舞う分だけ落ち着いているきみが子供に戻ったように笑うのを見ると、すごく可笑しくて、ちょっぴりだけ悔しくなった。 「アタシ、時計は持たない主義なんだ。楽しいことをしてるときは、時間を忘れていたいからさ」 「アタシといた時間は、遅かった?それとも、早かったかな」 「…あっという間だったよ。目眩がするほどいろんなことがあったけど、全部楽しかった」 アタシと刻んだ時間を大切にしたくて時計を買ったと言われたとき、すごくうれしかった。 でも、あんまりきみが時計ばっかり見るから、少しだけ妬けてきちゃった。 「じゃあさ。 アタシといるときは、時計なんて見ないでよ」 きみの顔を見ていると、きみと過ごした時間の長さを実感する。 こういうことを言った時も、目を逸らさずにアタシを見つめてくれるようになった。 「…時間なんて気にしたくなくなるくらい、楽しませてくれるってことか?」 きみがくすりと笑って、当たり前のように腕の中にアタシを受け入れてくれるようになったのはいつからだっけ。 もう、忘れてしまった。数え切れないくらいこうしてきたから、きみと愛し合うのがずっと前から当たり前だったみたいに思える。 「それと同じくらい、きみもアタシのこと幸せにしてくれてるってことだよ」 時計はまだ返してあげない。 その代わり、アタシの気持ちを受け取ってよ。 アタシと過ごしている間は、時間なんて忘れてアタシのことだけ思っていてほしい。幸せだったなって振り返ったときに、こんなに時間が経っていたんだって驚いてほしい。 「きみの時間をちょうだい。 絶対、いいものにするからさ」 きみを抱きしめると、少し時間が早くなるような気がする。 アタシがその時間を、心から楽しんでいるからだろうか。それともきみの心臓が、ずっとどきどきしてるのが聞こえるからかな。 「とっくに渡してるよ。初めからシービーのための時間なんだけどな」 「ふふふっ。 全部くれるの?」 きっと、どっちも正しい。でももうひとつ、忘れてはいけないことがある。 「…うん。全部あげる。 だから、シービーの時間も少しだけ分けてくれよ」 アタシの時間と、きみの時間。 ふたつを綺麗に混ぜ合わせると、抱えきれないほどの幸せの味がする。 それをふたりで味わっていると、時が経つことなんてすぐに忘れてしまうんだ。 いつものように散歩をしていると、ふと彼の顔を見たくなった。彼の家に行く前に電話を一本入れると、ちょうど今は暇だから一緒に出かけないか、と言われた。 軽い足取りで彼の家の前まで行くと、コートを着た彼が玄関で待っているのに気づく。 もしかしたらあの時計を見ながら、まだ来ないかな、と待っている姿が見られるかもしれないと淡い期待をしていたのだが、その期待に反して彼の左手首に腕時計はなかった。 「あれ、あの時計は?」 そう問うと、彼は少し困ったように笑った。 「シービーといるときはつけないって約束だったろ?」 自分で言ったのに忘れちゃったのか、と言うような微笑みを見ていると、アタシも思わず笑ってしまう。 「…ふふ」 律儀で誠実なのは彼のいいところだ。でももう少し、遊びを覚えてくれたほうがアタシはうれしい。 「出かけるときはいいの。 アタシの見るきみは、素敵なひとでいてほしいからさ」 アタシがわがままを言ったときに、しょうがないなとくしゃりと笑って叶えてくれるきみの顔が大好きだ。 だから、もっと甘えてもいいかな。 きみに凭れるのは、とても気持ちいい。 左手に煌めく腕時計ときみの顔を見比べていると、口が勝手に動いていた。 「今日のきみ、かっこいいよ」 12/31 「おはよう」 どんな挨拶よりも爽やかなこの言葉を、最近までアタシはあまり言う機会がなかった。 入学と同時に始めた一人暮らしは気ままで気に入っているのだが、起きてすぐおはようを言う相手がいないのは寂しいことだ。 でも、今日は違う。朝日が射し込む部屋の片隅には、きみがまだ眠たそうに目を擦っている。 「ふふっ、いい朝だね」 「そうだな。おはよう、シービー」 少し蕩けた、けれど優しい笑顔できみがおはようと言ってくれたとき、今日もきっといい日になるという確信が、アタシの心に自然と浮かんできた。 レースが近いからしっかり話しておきたいと言ってきみをアタシの家に上げたけれど、本当はただこうして同じ朝を迎えたかっただけなのかもしれない。 アタシもきみもこれから家を出れば、たくさんの人におはよう、と言うのだろう。でも、今日のきみの最初のおはようは、アタシだけのものだ。 少し肌寒い季節だけれど、窓を開けて朝の空気をめいっぱい吸い込む。それと一緒にきみが焼いてくれる玉子焼きのいい匂いが鼻に入ってくると、今日はどんな楽しいことができるかな、と、新しい一日に向かってスキップがしたくなる。 おはよう。 お日さまの匂いがする、まっさらでみずみずしい言葉。 これから来る一日へ駆けてゆくための、真新しい希望の言葉。 これからきみと、何度この言葉を言い合えるのかな。 それを数えていると、アタシはそれが幸福の数え唄のような気がするのだった。 「いってらっしゃい」 コースに向かう背中に渡されるその言葉は、走る前の身体にひとときの安らぎを与えてくれる。 走ることはいつだって楽しい。だが、走り出す前まで楽しみになったのは、この言葉のおかげかもしれない。 「この間もエースと走ったんだろう?どうだった」 彼のいいところは、指導するときも上から教えるという雰囲気を出さないことだ。朝出かける前に少し他愛もない話をするようにレースのことを話す彼の在り方は、実にアタシの性に合う。 走ることは、息をするのと同じことだ。身構えも気負いもせず、ごく自然に始まって終わるのがいい。 「うん。久しぶりだったからびっくりしたよ。あんなに上手に逃げるようになってるなんて思ってなくて。 あとちょっとで届かなくなっちゃうかもって思った」 だから、危機感で追い立てられるように頑張る、というのは、どうにもアタシにはそぐわない。もっと速く走りたいと思わせてくれる相手がいるから、その背中を追いかけるように脚が動く。 そういうマイペースな頑張り方も肯定してくれるひとを見つけるのには、随分時間がかかったけれど。 彼女は強い。今日は追いつけないかもしれない。 でも、だからこそアタシの脚は、引き合うように強く駆け出してゆく。旅路の果てが遠ければ遠いほど、辿り着くまでの景色は彩りを増してゆくから。 アタシは幸せ者だ。 一緒に走ることが何よりも楽しい、かけがえのない友達がいる。 「勝ちたいな」 「うん。誰よりもアタシらしく走って、それで勝ちたい」 ──それに、アタシと同じ景色をいつまでも夢見てくれる、大切な相棒がいる。 アタシがアタシのままでいながら走ることを許してくれたきみのまなざしを見ていると、初めて自分の脚で大地を強く踏みしめた日のことを思い出すような気がする。 いってらっしゃい。 アタシときみが同じ夢を見ていると、確かめさせてくれる言葉。 アタシがアタシであることを、何よりも支えてくれる言葉。 きみと一緒に青い草原に駆け出すことはできないけれど、代わりにアタシはいつもこの言葉を持っていく。 きみの夢と一緒に走ってるんだって、いつでも思い出せるように。 走り終わった後に芝の上に寝転ぶと、大地が疲れた体をまるごと抱きとめてくれているような気分になれる。 「エースはさ、どんなときにありがとうって言う?」 さっきまで全力で競い合っていた友人は、こちらの何の脈絡もない質問にも真剣に応対してくれる。そんな彼女が隣に寝転んで目が合うと、うれしくなってつい笑みが溢れた。 「んー…やっぱり何かをもらったときじゃないか?形に残るものでも、残らないものでも。 物を贈ってもらったり、親切にしてもらったりとか」 実に真っ当な答えだ。面倒見がよく周りのひとからも信頼されている彼女は、ありがとうと言う機会も言われる機会も多いに違いない。 そういう彼女は、アタシが一番知りたいことにも答えてくれるのではないだろうか。 「…じゃあさ。ありがとうって言いたいなって、心の底から思ったことはある?」 心の奥のやわらかい部分に触れられたように彼女が黙って頷いたとき、彼女がアタシと同じことを考えているのだとわかった。 ありがとうという言葉は、時々ひとりでに出てくることがある。そういうときの「ありがとう」がどうして出てくるのか、アタシはずっと知りたかったのだ。 「アタシはさ、今がいちばん幸せだって感じてるときがそうだと思うんだ」 両手いっぱいに幸せが溢れて抱えきれないから、大切なひとと分かち合いたい。 そういうときに出る言葉が、ありがとうという言葉だと思う。 「ありがとう。エース」 「──ああ。あたしこそありがとう」 彼女が、何に、とは言わなかったのが嬉しかった。言いたくても言い尽くせないということが、きっと彼女には分かっているからだ。 大地を撫でる風が気持ちよくて、汗が引いたあともしばらく芝の上に寝転んでいた。 「わ。ふふふっ」 見上げていた夕焼け空が、急に一面真っ白に染め上げられる。額に被せられたタオルを持ち上げると、隣に座って愉快そうに笑う彼の顔が見えた。 「トレーナー」 「ん?」 「ありがとう。 そう言いたい気分なんだ」 答える代わりに何も言わずに頭を撫でてくれたきみの手の感触を、アタシはずっと忘れないだろう。 ありがとう。 大切なひとと幸せを分かち合う、あたたかな言葉。 冬の日に繋ぐ手のように、心の温度をじんわりと伝える言葉。 アタシの心は、今どのくらい温かいだろう。 ほんのりと赤いきみの頬を見ると、それがわかる気がした。 さよならという言葉は、アタシが知っているいちばん綺麗な言葉だ。それが人生の全てなのだと唄った詩人の心も、ほんの少しだけわかる気がする。 でも、そのほろ苦さと向き合うためには、アタシはきっとまだ幼すぎるのだ。だからアタシはさよならの代わりに、またねという言葉を使うようにしている。 「またね、エース」 「おう、また明日な」 大切なひととはきっとまた会えるという希望を、ほんの少し持っていたいのだ。口にすると切なくなる言葉は、アタシにはまだ使いこなせそうにない。 言葉を作った人間の身勝手なのかもしれないが、言葉はいつでも少しだけ希望を運ぶものであってほしい。 「またね、トレーナー」 「ああ。気をつけて帰るんだぞ」 葉が落ちた裸の梢はなんだか少しさみしい。それを見ていると、別れの思い出ばかり浮かんでくる。 いつかアタシも、さよならが似合う大人になるのだろうか。人生への達観と、それでも割り切れないほんの少しの寂しさという化粧は、大人にしか似合わない。 「…ふふっ」 でも、さよならが言えない今の子供の自分も、アタシは嫌いじゃない。 またねと言うことさえさえもどかしいひとができるのが、こんなに幸せだなんて知らなかったから。 帰り道を反対に駆けていく足取りは、さっきよりもずっと軽い。 一度決めたことをひっくり返すのは、どうしていつもこんなに楽しいんだろう。寄り道をしたはずなのに、初めからそうしているよりずっと、この道を選んでよかったと思える。 「こんばんは」 追いついたきみの大きな背中に、その言葉が吸い込まれていく。 アタシがわがままを言うと、きみはいつも困ったように優しく笑う。そんな笑顔がどうしようもなく好きだから、アタシはもっと悪い子になっちゃうんだよと、ぜんぶきみのせいにしたくなってしまう。 「さっき『またね』って言ったじゃん」 「うん。でも、また明日とは言ってないもん。いつまた会うかは、アタシが決めていいってことでしょ?」 背中に抱きついて甘えながら頭を撫でられていると、やっぱりアタシはまだ子供なのだなと実感する。 「今日はやっぱり、きみと一緒にいたいな」 でも、そんな子供の上目遣いで顔を赤らめるきみとアタシは、きっとお似合いだ。 寝室に入ってきたきみは、ちょっと困ったように笑っている。 当然だろう。今アタシが布団にくるまって堂々と寝転がっているのは、きみのベッドなのだから。 昨日はアタシの家で、今日はきみの家。 こうやってお互いの家を行き来するようになって随分と経つ。だから今のアタシに、来客用の布団があるとか、俺はソファーで寝るからとか、そういう言い訳は通じないこともわかっているはずだ。 きみと一緒にいたいって言ったよね。 アタシの欲しいものは、もう決まってるんだ。 観念したようにくすりと息を漏らして、捲り上げられた布団の隙間からきみが入ってくる。すかさずアタシは手を伸ばして、もう離さないようにがっちりときみを腕の中に捕まえる。 おやすみ。 アタシが知っている、いちばんやわらかくて優しい言葉。 またきみと一緒に過ごせますようにと、祈りを捧げるやすらぎの言葉。 「おやすみ、シービー」 それをきみと交わし合いながら一日が終わるのは、なんと幸せなことだろう。 きみの優しさで、心があたたかく満たされてゆく。アタシがいちばん好きな言葉も、一緒に添えて。 「…ここに来てくれて、一緒にいようって言ってくれてありがとう。 …大好き」 ──ああ、やっとだ。 やっといちばん欲しかった言葉を、きみが言ってくれた。 きみを抱きしめたまま胸に顔を埋めて、きみの匂いをめいっぱい吸い込む。 「おやすみ。 ありがとう。アタシも大好き」 幸せな言葉には、幸せな言葉で返さなくては。 地球の上には、いったいどれだけの言葉があるんだろう。 そのぜんぶを完璧に覚えるのは無理かもしれないけれど、ひとつだけ知りたい言葉がある。 世界中の「愛してる」を、ぜんぶきみと言い合ってみたい。 ──どれだけきみのことが好きか伝えるには、それでも少し足りないかもしれないけれど。