日が沈んだばかりの西の空に、徐に望遠鏡を向ける。地平線のぎりぎり、北斗七星のすぐ隣を向いたところでレンズから目を離して、星空を見上げた。 夜空で天体を探すのは、知らない街に旅をするのと似ている。目の前の景色と地図を交互に睨んで、進んだ道の先に目印の建物があれば少し安心するように、星空を見るときもまず道しるべを探すことから始める。 しかし最近の望遠鏡には、ありがたいことに赤道儀に自動追尾機能が付いている。だから、星図のデータをコンピューターから読み込めば、本当はこんなことをしなくても望遠鏡が勝手に目当ての天体を見つけてくれるのだ。 だが、自分の勘で街をぶらくつのがどこか楽しいように、自分の目で星を追いかけるのはやはり楽しい。だからふたりで星を見るときは、自動追尾を切るようにしている。 「あれ、そうじゃないか?あの白い星」 「そうね。あれがコル・カロリ」 「よし。じゃあ、もう近くまで来てるのかな。 なんかわくわくしてきちゃったな。前にアヤベが見せてくれた彗星は、すごく綺麗だったから」 星をさがすという寄り道も楽しいと、私に教えたのはあなただから。 肉眼でも見えるほど明るい彗星が、近く地球に接近すると知ったとき、いちばん初めに彼に声をかけた。 「今度の週末、天体写真を撮りに行くわ。 …一緒に来る?」 誘いの文句も、もう躊躇わずに言えるようになったことを実感して、少しずつ自分が変わっていることに気づいた。前までは断られるのが怖くてなかなか言い出せなかったのに、今は逆に彼以外には話したくないとさえ思っている。 この星は、彼と見たい。 「うん。行く。 今度は何を見るの?」 「学校新聞に写真を載せようと思って。今回は彗星」 声の調子や言い回しを努めて崩さないように、ごく当たり前に目的を伝えた。 私にとって、彗星は特別な星だ。あなたにとってもそれは同じなのだと確かめて安心する賢しさも私の中に生まれているのだと分かって、ついため息が出そうになった。 「本当?やった」 晩御飯に好物が出るとわかった子供のようなあなたの笑顔に、私はどうしようもなく弱いらしい。 ああ、悔しい。 あなたと一緒にいると、私がどんどん私ではなくなっていく。今までだったらこんなこと、思いついても口になんか出さないのに。 「…ずるいもの、あなただけ」 「えっ、何が」 あなたはいつでも私を想っているのに、私にはそれができない。 そんな不釣り合いさに目を瞑れなくなったのは、貴方が私を変えてしまったからだ。 「…携帯の待ち受け。 これだけ言えばわかるでしょう」 何度星空を眺めても、彼は初めて星を見た子供のように目を輝かせて喜ぶ。そんな姿に私も乗せられて、彼をもっと笑顔にしたいと思うようになった。 それが嵩じて、あるときこんな提案をしたことがあった。 『使ったことはないけど、これ、天体写真用のカメラ。 …何を撮りたいか、あなたが決めて。初めてだから、あまり難しいものは撮れないかもしれないけど』 彼の見ている世界を、私も一緒に見たくて、残しておきたくて言い出したことだった。 彼は暫く思案するように黙っていたが、やがて少し照れくさそうに口を開いた。 『天の川と、夏の大三角って撮れるかな』 写真を撮る直前にベガがいちばん綺麗に写るようにしてほしいと言われたとき、暗い夜で本当によかったと思った。 そのときの私がどんな顔をしていたか想像するだけで、どうしようもなく頬が熱る。 以来、手持ち無沙汰なときに携帯を取り出して、どこか満足そうに画面を見つめるあなたの姿がやけに目につくようになった。 けれど、私と同じ名を持つ青く輝く星を見返して、夜空をつくるように目を閉じるあなたを見ていると、なんだか無性に悔しい。 私だって、あなたの想い出を持っていたい。夜の闇の中に好きなひとを思い描くようになったのは、あなただけではないのだから。 出かけたときに一緒に撮った写真を見返すのは、まだ恥ずかしくてできないけれど。 どんな形でもいいから、あなたに想いを馳せることはやめたくない。 そんなわがままな私がいてもいいのだと、許してしまったのはあなたなのだから。 初めて会ったとき、ほうき星のようなひとだと思った。 呼んでもいないのにいきなり現れて、静かな夜空を賑やかに変えてゆく。 あなたに出会わなければ、知らなかったことがたくさんあった。流れ星のない空が、静かだけどどこか寂しいように。 ──本当に、あなたのせいよ。 隣り合って夜空を眺めていると、星の海を一緒に歩いているみたいだなんて、思ってしまうようになったのは。 淡い緑色の光を放ちながら、光の尾を長くたなびかせる彗星をレンズに収めたとき、思わず私は頭を上げて、あなたの顔と見比べてしまった。 「…本当に、あなたそっくりね」 「ほんと?なんか照れるな」 「普段はぼんやりしてるくせに、いきなり現れて、静かな夜空を騒がせるところとか」 普段はちっとも見えないのに、さみしいときには誰よりも眩しく輝いて、私の心を照らしてくれるところとか。 「…でも、好きよ。 私に、幸せを教えてくれた光だもの」 果てしない夜の闇の中に放り出されて、ひとりで泣いていたこともあった。ずっと誰かの幸せと引き換えに生きてきた自分が、どうしようもなく許せなかったこともあった。 それでも、そんな私でも、そばにいたいと言ってくれたのはあなただから。 だから私も少しずつ、自分を好きになろうと思えたから。 星空にたなびく尾まで綺麗に撮れたとき、不思議な気持ちが湧き起こった。 「綺麗だな。本当に」 「…ええ。 でも、これは載せないから」 これはもう誰にも見せたくない。あなたのほかには、誰にも。 ──好きなものはひとりじめしたくなると、教えてくれたのもあなただもの。 目を瞑ればいつも、星の光を思い出すように。 「…だから、覚えていて。想い出にして。 私も、忘れないから。ずっと」 ──あなたの心の真ん中で、ずっと光っていたいから。