8/30 花を見るのが好きだった。 優しくて綺麗なものを見ていると、私も少しだけ綺麗になれるような気がした。決して目立たなくても、そんな私の隣にいてくれるひとの心を和ませることはできる、優しい花びらに。 そんな幸せを想うだけでも、幼い心は満たされていた。居もしない大切なひとの名前を呼びながら、その花びらを髪に挿して笑っていた、何も知らない無邪気な日々。 けれどそんな無垢な心が、今は恋しくて、苦しい。目の前には見渡す限りの花々が、涙が出るほど美しく咲き乱れているのに。 『スティルは、どんな花が好き?』 あのひとがそんな質問をしたのは、ちょうどこんな花盛りの季節だった。本能とどう付き合ったものか悪戦苦闘していた私を、あのひとはよく気晴らしに連れ出してくれたものだ。 花屋の店先に活けられた色とりどりのブーケに少しの間見惚れていた私に、あのひとは目敏く気づいてくれた。 『難しいですね…どの花の色も違ってどれも美しいから、なかなかひとつに決められなくて… けれど、あの中から選ぶなら…マーガレットでしょうか』 おずおずと答えた私に、トレーナーさんはゆっくりと頬を綻ばせた。 『お、いいね。俺もあの花好きなんだ。 真っ白なのもいいけど、あの店のみたいにちょっと薄桃色のやつとか、いくら見てても飽きなくて』 『…はい。私も、あの小さくてかわいらしい花びらを見ていると、つい時間を忘れてしまいます』 嘘だ。花々はどれも、私なんかが選ぶのなんておこがましいくらいに美しい。どれかひとつなんて、私ひとりでは決められないのだ。 でも、あなたがあのマーガレットの花を見るときに、ほんの少し目を細めて幸せそうに微笑んでいた横顔は、今でも忘れられない。 だからあの花を、私のいちばん好きな花にしよう。 私とあなたの想い出を、いちばん綺麗に彩ってくれたから。 私を探している若いトレーナーがいると風の噂で聞いたとき、心が引き裂かれそうになった。 私を探せるほどに身体が快復したことが、心から嬉しかった。でも、それと同時に確信した。あのひとにとって私に近づくことは、彼岸へと一歩一歩進んでゆくのと同じなのだと。 だから、やはり逢えない。逢ってはいけない。きっと今度こそ、私はあのひとを殺してしまう。 ──でも、それをわかっていても、あなたは私に逢いたいと願ってくれた。 夏が来る度に目眩がする。あなたの大きな優しい影は、もうそこにはいないから。 冬が来る度に指先が痛む。あの日手を取ってくれた、あなたのぬくもりが忘れられないから。 あなたは私に、たくさんの幸せをくれた。この血に濡れた両手に抱えきれないくらい、かけがえのない想い出を。 そんなあなたをなくして、やっと気づいた。私の世界には、あなたしかいなかったのだと。 あなたには逢えない。逢ってはいけない。でも、逢いたかった。伝えたかった。ただ、あなたの腕の中で泣きたかった。ありがとうも、ごめんなさいも、何も言えずにここまで来てしまったから。 ──あなたのことを、誰よりも愛していたから。 花を見るのが好きだ。でも、花は嫌いだ。 あのひとが隣にいて、綺麗だねと言って笑いあう、もう叶わない夢のことばかり思い出させるから。 でも、この胸の痛みだけは、なくしたくない。 ──あなたを愛している、たったひとつの証だから。 9/20 ある日の午後のことでした。 いつも通りに授業が終わり、昼食を頂いて、私は午後からのミーティングのためにトレーナーさんのお部屋に伺うところでした。待ち合わせの時間には三十分ほど早く、あまり早くお訪ねしてはご迷惑になるかとも考えましたが、お部屋の片付けやお掃除など、余った時間でできることはいくつもあると、自分を納得させることにしました。 少しでも長く、トレーナーさんと過ごしていられる口実を探していただけなのかもしれませんけれど。 「失礼いたします」 影の薄さ故に気づかれないままということも珍しくないのですが、ノックをしてそっと扉に手をかけます。しかし、トレーナーさんのお返事はありませんでした。 扉に鍵はかかっておらず、音もなく簡単に開きました。しかし、いつも座っている窓側のデスクにトレーナーさんの姿はなく、机の上には今日のミーティングのために用意されたであろう資料が、きれいに整えられて置いてあるだけでした。 「お出かけしているのかしら」 待ち合わせは三十分後の約束ですから、無理もありません。戻ってこられるまで部屋のお掃除をしていようかと考えていたのですが、ふと部屋の奥にあるドアが開きっぱなしになっていることに気づきました。 見慣れないドアでした。いつもトレーナーさんとお話をしたり、お菓子をいただくのはこの部屋なので、その奥にさらに部屋があることには気づいていなかったのです。 勝手に入ってはいけないと思いながらも、脚はその扉の前へと進んでゆきました。なぜなら、ドアの隙間から中の様子が少し見えてしまったからです。 部屋の奥にあるベッドに、トレーナーさんが横になっていました。部屋の中には、規則正しい寝息だけがすうすうと響き渡っていました。 何かいけないものを見てしまったような気がして、初めは部屋を出ようかと思いました。でも、私の頭の中で確かに囁く声があるのです。 『愛しいひとの無防備な寝顔を、思う存分堪能したいでしょう?』と。 眠るトレーナーさんのお顔は、いつもの優しくも凛々しい姿とは違って、どこかあどけなく、可愛らしく映りました。いつもきちんと結ばれているネクタイは少し緩められて、開けられた襟のボタンの向こうには、美味しそうな首筋が覗いていました。 「…っ」 本能の声が大きくなっていきます。でも、トレーナーさんはただ眠っているだけ。きっと私のために、遅くまでお仕事を頑張っておられたのでしょう。そんな方の寝込みを襲って浅ましい欲望をぶつけたとわかったら、きっと失望されてしまいます。 だから、トレーナーさんの寝相を整えて何事もなかったかのように出ていけばよいと思ったのです。トレーナーさんは左腕を下敷きにして眠っていて、このままではきっと腕が痺れてしまうでしょう。頭の下に敷かれて、だらりと垂れた左手を取ったのも、それを身体の上に戻そうと思っただけでした。 けれど、トレーナーさんの掌に自分の掌を重ねたとき、眠ったままのトレーナーさんが私の手をそっと握ったのです。自分の手とは違うたくましくて大きな手の感触が、はっきりと感じられました。 「…」 もう我慢しなくていいのよ、と、頭の中で声が聞こえました。トレーナーさんを起こさないように、傷つけないようにすればいい。だからもう少しだけ、あなたを感じていたい。 下敷きになっていたトレーナーさんの左手をベッドの上に横たえて、耳に結んでいた赤いリボンをそっと解きました。それをまず、私の左手の薬指に蝶々結びにしました。 片手しか使えませんから少し時間がかかりましたが、程なくして片方の尾羽根が長い赤い蝶が、私の左手に止まりました。そして、そのリボンの長い端をそっと、トレーナーさんの薬指の下に通しました。 トレーナーさんを起こさないようにそっと指の甲でリボンの端を結わえ、小さな輪を作ります。あとはもう片方の端をその輪に巻きつけて、もうひとつの輪を作るだけというところです。 どうしても、夢みてしまいます。今は仮初めの赤い糸ですが、いつかあなたがそのもう一方の端を手繰り寄せて、私をいつまでもおそばに置いてくださる日が来ることを。 はしたない今の私は自分からトレーナーさんを求めてしまいましたが、そのときが来たらやはりトレーナーさんからありのままの気持ちを伝えていただきたいと、ひとりの女として願ってしまいます。いつも落ち着いた優しい声で私を導いてくださるトレーナーさんは、愛を囁くときにはいったいどんな声音を響かせるのでしょうか。 きっと、あのときと同じ。浅ましい欲望に呑まれながら走ることをやめない私を美しいと言ってくれた、真摯でありながらも情熱的な声で愛を伝えられたら、私は幸せで破裂してしまいます。 『ずっとずっと、愛してるよ。 一緒に幸せになろう』 そのときが来たら、私は自分の弱さを恨むでしょう。あなたをいつまでも愛していますと伝えたいのに、うれしくてあなたの腕の中で泣くことしかできないのですから。 純白の花嫁衣装に、赤い口紅をひとすじ。 折り目正しくタキシードを身に纏ったあなたが息を呑んで、綺麗だよと笑ってくれたとき、驕りではなく私は世界一幸せな女だったでしょう。 『病めるときも健やかなるときも、お互いを助け、そのすべてを愛することを誓いますか?』 誓います。私の心も身体も、魂のひとしずくさえもあなたのもの。私のものになりたいと、あなたが言ってくれたように。 だから、やさしいキスをください。 この唇は、あなたのために赤く塗ったのですから。 私をトリプルティアラウマ娘に育て上げたあなたには、仕事の依頼が絶えることはありません。今日も地方のトレセンに講演とトレーニングをお願いされて、一週間ほど出張することになっています。 妻として、夫の栄達を喜ばないはずはありません。でも、やっと一緒になれたのにふたりの時間がとれないことをもどかしく思うことくらいは、許してくださいますでしょうか。 それでもあなたの良い妻でいたいから、あなたを見送るときは、努めて穏やかに送り出したいと思っております。 『いってらっしゃいませ。忘れ物はありませんか?』 『うん、大丈夫。でも、ちょっとだけそのままでいいかな』 でも、あなたは悪いひとです。私が必死で我慢しているのに、何の遠慮もなく愛してくださるのですから。 『トレーナーさん…!?』 『…ごめんね、急に。一週間会えないんだなって思ったら、ちょっとさみしくなっちゃって』 鞄を置いて大きな手で私を抱きしめてくれたトレーナーさんに、私も正直になってしまいます。 『…早く帰ってきてくださいね。 本当は、ずっと一緒にいたいの』 長旅の疲れを癒していただきたくて、ごはんもお風呂も頑張って用意しました。でも、帰ってきてそれよりも先に私を抱きしめてくれたことを何よりも喜んでしまうことは、許してくれますか? 『ただいま、スティル。 …会いたかったよ』 『…はい、トレーナーさん。 一週間がこんなに長いと思ったことはありません』 見送ったときとは違う情熱が籠もった腕に抱きしめられながら募る想いを吐き出しあっていると、あなたがどんなひとだったか、思い出さずにはいられません。 誰よりも私のことを想ってくれる、やさしいひと。でも、誰よりも私のことを貪欲に求めてくれる、愛おしいひと。 『ごはんも、お風呂もあります。 …でも今は、私を食べてくださいますか?』 返事は聞こえませんでしたが、これ以上望むことはありません。 重ねた唇が、何よりも雄弁に語ってくださいましたから。 私を誰よりも大切にしてくれるあなたが、私にだけ向けてくれる情熱の炎で、いつまでもこの身を灼かれていたい。きっとどれだけ熱くても、痛くても、私は幸せです。 最後の一結びを終える前にそんな想像に耽るあまり、私はすっかり目の前が見えなくなっていました。 「ん…」 トレーナーさんは、もう目を覚ましていたのです。 意識が完全に戻る前に、急いでトレーナーさんの指に巻いたリボンを引っ張りました。けれど、自分の薬指に巻いたリボンを解く時間はありませんでした。 「…スティル?ああ、もうそんな時間か。 ごめんな、だらしないところ見せちゃって」 「いえ、お気になさらないでください。私が早く来てしまったんです」 「スティル、それ…」 「…あ!」 後ろ手に回して隠した指のリボンが、ちょうどトレーナーさんの指に結ぼうとしていた長い端が尻尾のように伸びて、背中から覗いていました。 「あの、これは…」 もはや隠しようもありません。薬指に結わえたリボンを見せて、どう弁解したものかと必死に考えておりました。 けれど、あなたはどこまでも純粋な方でした。 「そのリボン、新しいやつだよね」 「…! はい、ついこの前買ったばかりです。色合いがとても素敵で…」 「やっぱり。似合ってるなって思ってた」 ああ。私はこんなにも浅ましい女なのに。 あなたはそれでも、受け入れてくださるのですね。 「ありがとうございます…! あの…耳カバーも、新しくしようと思っているんです。 今度、どんな色が合うか、一緒に見ていただけませんか?」 「うん。いいよ。 …それと、街の方で美味しそうなケーキ屋があったんだ。もしよかったら、一緒に味見しに行きたいんだけど、いいかな」 いつも天使のように優しく包んでくださるのに、ときに悪魔のように悪戯っぽく私を誘惑する、いけないひと。 いつか赤いリボンの代わりに、誓いの指輪を嵌めてください。 あなたの手で、あなただけのものにしてください。 ──きっと一緒に、幸せになりましょうね。 10/11 「痛っ」 そう小さく呟いたトレーナーさんの声は、給湯室まではっきりと聞こえました。淹れていたお茶の湯呑みを置いて飛んでゆくと、左手の人差し指を抑えたトレーナーさんが苦い顔をしています。 「どうされましたか…?」 「あー…紙で切っちゃった。けっこう深いかも」 赤い雫が数滴、今飛び散ったとわかる鮮やかな飛沫を周りに描いて、真っ白な紙面に刻まれていました。 「まぁ…! 少し待っていてくださいね。絆創膏をお持ちします」 トレーナーさんが心配で、急いで救急箱を探しに行ったのは本当です。 けれどあの血が、あの方の体から滴ったばかりの温かい命の一部だと思うと、その赤さがやけに目についてしまって、私の内側で獰猛な声がどうしようもなく高まるのを隠すためには、他に仕方がありませんでした。 『無理に止めなくたっていいのに。あなたの魂の片割れなら、いくらでもこの口で啜ってあげる』 頭を振って、そんな声を必死で振り払います。今は貴方のために、ただ尽くすひとりの女でいたいのです。 救急箱は戸棚の奥にありました。随分と使われていなかったのか、棚の中は一緒に入っていた薬の臭いが充満していました。 ですが、救急箱を開いても肝心の絆創膏はありません。どうやら切らしたまま放っておかれていたようです。 普通なら、保健室なり教室なり絆創膏のありそうなところに行って、いただけるようにお願いするところでしょう。でも。 「申し訳ありません、絆創膏が見つからなくて… あまり長くそうしておくのも傷に障ります。今朝洗ったばかりですから、よろしければこちらを…」 あの方の前に、私は自分のハンカチを差し出していました。 ハンカチを手に持ったまま、私は黙っていました。是非使ってくださいと薦めることも、引き下がることもしませんでした。 最後の一線は、貴方に踏み越えてほしかったのです。たとえいけないとわかっていても、他の道があったとしても、貴方に私を、ワタシを求めてほしかったのです。 「…ごめんな。じゃあ、有難く使わせてもらうよ」 暫く悩むように黙っていた貴方が漸くその言葉を発してくれたとき、私は一体どんな顔をしていたのでしょう。温かい血の滴る肉を目の前にした獣のような、はしたない笑みを浮かべていたかもしれません。 でも、いいのです。そんなことは。 私の顔をもう一度見た貴方は、照れくさそうに小さな声で、ありがとう、と呟いてくださったのですから。 私が蒔いた種は思わぬ形で、しかし思ったよりずっと早く実ることになりました。 「この間はありがとう。ハンカチ、返すよ」 「そんな、お気になさらなくてもよろしいのに… これは…?二枚あります」 あの方から受け取ったのは、二枚のハンカチでした。ひとつは私がお貸ししたものに間違いありません。しかしもうひとつは見覚えのない、花と蔓を象った美しい柄のハンカチでした。 「ああ、それ…新しく買ったんだ。 貸してもらった方に血がついててさ。頑張って洗ったんだけど、取れてるかわかんなかったから。もし気になったら新しいほうを使って」 本当に、いけないひと。 貴方に尽くせることが何物にも代えられない喜びなのに、貴方は私の浅ましさにも、やさしい贈り物で応えてくださるのですね。 「ごめんね。どういうデザインが好きかよくわかんなくて、俺がいいって思うやつにしちゃったんだけど」 「…いいえ、とても素敵なハンカチですよ。 ありがとうございます。こういうものは持っていなかったのですけれど、今、好きになりました」 そんな貴方の優しさも、背伸びした私の言葉に頬を赤らめるいじらしさも、ぜんぶ私のもの。 そう思うと、私は世界一幸せな女だと心から感じるのです。 貴方にいただいたハンカチは、その日抱きかかえたまま眠ってしまうほど素晴らしい贈り物でした。けれど、あの日貴方が私にくださったものはそれだけではないと、貴方は気づいていらっしゃるのでしょうか。 「…いかがですか?お気に召していただけたでしょうか」 「ありがとう。 こんなにいいものもらっちゃって…ちゃんと着こなせるかな」 一枚のハンカチが二枚になって返ってきたことは、私にお返しをする理由を与えてくださいました。貴方はそのお返しに対するお返しを、律儀に考えてくださいます。 いつしか私たちは、お互いに似合うと思うものを贈り合う仲になっていました。 「そんなにご謙遜なさらないでください。 …貴方はご自分が思うより、ずっと素敵な方なのですから」 貴方への贈り物をネクタイと決めて、それを選んでいるとき、私は不思議な優越感のようなものに浸っていました。想い人のために普段遣いするものを選ぶというのは、恋人という段階さえ一足飛ばしにした行為のように思えたからです。 貴方が誰かの視線を集めている時は、普段なら身を焼かれるほどの嫉妬に駆られるものですが、私が選んだものを貴方が身に纏っているが故のことであれば、その嫉妬の味も甘露に変わるでしょう。 贈り物を選ぶときに、貴方のことだけを想う瞬間も、何物にも代え難い喜びです。貴方に似合うもの、素敵な貴方の魅力を少しでも引き立ててくれるものを選びたいですから。 ──でも、その片隅にほんの少し、赤い色をあしらったものを選んでしまうことは、許してくださいますか。 ネクタイをそっと貴方の首に巻いているとき、この時間がこれから何度も訪れることを願わずにはいられませんでした。 ──重ねた時間の分だけ、貴方の心も私の魂と同じ色で染まってくれればいいいのに。 次は何をくださるのだろう。次は何を差し上げたら、笑ってくれるだろう。 そんなことを考え続けているうちに月日は流れて、いつしか木枯らしの吹く季節がやってきました。 「乾燥してきたからかな。唇が切れちゃって」 私は本当に欲深い女です。ばつが悪そうに唇を舐めるあの方の姿を見て、はっきりと声が聞こえました。 『次はあれがほしい』と。 「あの…こちらを向いていただいてもよろしいですか? 私の使っているものでよければ、差し上げます」 「え、いいの? …じゃなくて、塗ってもらうのは」 「ふふ、大丈夫ですよ。買い置きはたくさんありますから。 それにこのリップクリーム、少し塗り方にコツがいるんです」 リップクリームを塗られている間、恥ずかしそうに目をぎゅっと閉じている貴方を見ていると、愛おしさと浅ましさが溢れ出して仕方ありません。 もし私が、この場で貴方の唇をいただきたいと思っても、貴方はされるがままに受け入れるしかないのですから。それは愛し合っていることを確かめた後にと決めていますから、そんなことはしませんけれど。 「…ありがとう。 お返しはどうしたらいいかな。ほら、買い置きがあるって言ってたし、女の子はこういうの自分で選びたいだろうし…」 だから今は、約束だけでいいのです。 貴方の唇を、その魂を、いつか私にください。 「…では、ひとつお願いを聞いていただけますか。 …口紅を、トレーナーさんに塗っていただきたくて」 ──私も、貴方のものになりたいのです。 口紅を塗るあの方の手つきは、少し戸惑いながらも優しく、確かなものでした。 どうか、できるだけ綺麗に、美味しそうに塗ってください。 ──この唇はもう、貴方のものなのですから。