?磁器の器が軽くぶつかり合う小気味よい音とコーヒーの芳しい香りが、データの中に沈んでいた意識を現実に引き戻した。 「そろそろ一息入れてはいかがでしょう。集中するのはよいことですが、あまり長く続けているとお体に障りますよ」 「あ…ありがとう。ごめんね、もうちょっとで終わるから」 振り向けば、ドリームジャーニーがほんの少し嗜めるような視線が眼鏡の奥から覗いていた。時刻はとうに夜の8時を回り、夜間練習のための照明さえ落ちた窓の外はもうすっかり真っ暗になっている。 作業に熱中するあまり時間を忘れていたが、手を止めた途端に身体が疲れを思い出したように重怠い。淹れたてのコーヒーの新鮮な苦味とコクが、湧き上がりはじめた眠気によく効いた。 「ジャーニーはやっぱり淹れるの上手だね。美味しい」 「ふふ、ありがとうございます。豆が良いからでしょうね。 おかわりもありますよ。身体に毒にならない程度にお召し上がりください」 仕事が忙しくなると、ジャーニーはトレーナー室に残ってこんなふうにコーヒーや茶菓子を出してくれる。練習が終わった後はできるだけ休んでほしいのだが、そう伝えてもこれも休息になりますから、と穏やかに微笑まれて、そこで話が終わってしまうのだった。 私も彼女の忠告を無視して、休憩を入れずに作業を続けることがしばしばあるから、あまり人のことは言えないのだけれど。お互いのために早く終わらせなければいけなくなって仕事の能率自体は上がったのが、せめてもの救いかもしれない。 とはいえ、無駄とは分かっているがこのことは繰り返しておかなければならない立場ではある。 「本当に、疲れたなら帰って大丈夫だよ?あとは私だけで大丈夫だし」 しかし、いつものように私が好きでやっていることですから、という返事が来るものと思っていた耳には、意外な言葉が飛び込んできた。 「ありがとうございます。この通り休んでいますから、おかまいなく」 振り向くと、いつの間にか毛布に包まったジャーニーが肘掛けを枕にしてソファーに横になっている。 自分で休んでくれと言った以上、後ろで寝転がっている彼女を制止する理由はまったくない。しかし、自分が彼女に抱いているイメージからは少し想像できなかった行動ではあった。 たとえ許しがあったとしても、彼女は他人の前で隙を晒すような行動はしないに違いないと、何となく思い込んでいたのだ。 だからといって何故と問い質すのもおかしいし、殊更警戒するようなことでもない。無理はさせたくなかったが、正直なところ彼女がそばにいて話相手になってくれるのは、心の底から嬉しかったのだ。 「寒くない?」 「大丈夫ですよ。トレーナーさんこそ」 眠り込んでしまわないように空調はあえて低めの温度にしているのだが、鮮やかなダマスク柄の毛布にくるまった彼女は、確かに随分暖かそうだった。 一段落したら毛布の触り心地を試させてほしいとか、丸まっている姿が可愛らしくてつい目で追ってしまうとか、色々な雑念も浮かんでくるのが少し困り物だが。 仕事が全て片付いた頃には、カップの底に僅かに残ったコーヒーはすっかり冷えていた。部屋にはただ、規則正しい微かな息の音だけが聞こえている。 思えば、彼女が眠っているところを見たのは初めてかもしれない。眠り込んでもよさそうなものなのに、激しい練習の後でも遠征の帰りの車でも、彼女は私に気を遣って一睡もせずに細々とした雑用をこなしてくれるのだ。 冷めないようにポットに入れてくれていたコーヒーは、まだ温かい。決して気難しい性格ではないが、誰の前でも底を見せない彼女がこうして寝顔を見せてくれるのはそれだけ信頼してもらっている証かもしれないと思うと、コーヒーと一緒に胸の奥が温かくなる気がした。 「お疲れさま、ジャーニー」 目にかかっていた前髪を除けてやると、普段はレンズを通して見ていた彼女の瞼が目に入る。 ウマ娘は総じて整った容姿をしているが、彼女のそれは単なる美しさとは違う、危険な魅力を孕んでいるように思える。私より頭ひとつ分も小さいのに、穏やかに細められた瞼の奥にちらつく瞳の光は、一回り歳上の私よりもよほど濃密な人生を送ってきたのではないかと思うほど、吸い込まれそうな深みと静けさを湛えている。 本当はいつでも彼女の先に立って道を示してあげなくてはいけないのに、逆に支えてもらって情けない思いをしたのは、もう一度や二度のことではない。けれど、彼女の歳不相応な大人びた雰囲気を心地いいと思ってしまっているのもまた、偽らざる事実なのだった。 そんな彼女が常ならず瞳を閉じた表情に見惚れていると、ふと他愛もない悪戯心が過った。 「…お菓子をくれないと悪戯しちゃうよ」 当然、答えはない。彼女の手から魔法のようにお菓子が出てくることもない。 それを確かめると、机の上に置かれている彼女の眼鏡を取り上げて、眼鏡ケースに丁寧にしまった。それをそのままスラックスのポケットに入れて、正面から見えないようにした。 「…」 一瞬、息をするのを忘れていた。 彼女に悪戯をしてしまったという不安と高揚がない混ぜになって、心臓がひどくうるさい。彼女をどうやって誤魔化すか、どう種明かしをするかを考えなくてはいけないのだけれど、耳鳴りがして思考がうまくまとまらなかった。 「ん…」 彼女の低い声が、混乱した思考を一気に断ち切った。冷静に考えればただ目を覚ましただけの相手をじっと見つめるのはおかしいのだが、彼女がいつ気づいて何をするのかが気になって、つい眺めてしまう。 「おはようございます。申し訳ありません、すっかり眠ってしまいました」 「大丈夫大丈夫。もうちょっと寝ててもよかったのに」 ぎこちないこちらの声音とは対照的に、目覚めたばかりだというのに彼女の声はよく通った。だが、眼鏡を置いていた場所を探る手付きはいつまでも覚束ないままだ。 「…おや」 その言葉に、単に眼鏡がないことに気がついた以上の意味があるのではないかと思ってしまうのは、私の後ろめたさ故なのだろうか。彼女はひとことそう呟いたきり不機嫌になる様子も見せずに、穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見た。 「どうやら、眠っている間に眼鏡をなくしてしまったようです。この辺りに置いていたと思うのですが、トレーナーさんはご存知ありませんか」 「うーん。確かにそのへんにあったかもだけど、はっきりは覚えてないな」 「そうですか…申し訳ありませんが、もう少しこの部屋を開けておいていただけませんか。遅くまでトレーナーさんを残らせてしまうのは心苦しいのですが、放って帰るわけにもいきませんので」 「あ…大丈夫だよ、全然。っていうか、私も探すの手伝うから」 「…ありがとうございます。申し訳ありません、お疲れのところを」 彼女の対応があまりにも冷静だったものだから、ふざけて種明かしをして笑い話で済ませるという雰囲気ではなくなってしまった。 探すふりをしながら、それでもなんとか彼女に笑ってもらえる方法はないものかと考えていたのだが、そんな甘い考えも次の瞬間には頭から吹き飛んでいた。 彼女はソファーの肘掛けの下に屈んで、テーブルの近くの床を探していた。やはり視界が覚束ないのだろう。 頭の近くにあるテーブルの角に、彼女は気づいていないようだった。 「危ない!これ…」 思わず声が出た時には、もう遅かった。彼女は事も無げにテーブルの角を躱して、思わずポケットから出してしまった眼鏡をじっと見つめていた。 もはや言い逃れはできない。何故貴女がそれを持っているのでしょう、と彼女がひとこと言えば、それでゲームセットだ。 「ありがとうございます。あの間に見つけてくださっていたのですね。しかもケースまで」 だが、微笑んだままの彼女が発した言葉は意外なものだった。それと同時に、最高潮に張りつめていた緊張の糸が急速に緩み始めた。 「え、ああ…うん」 仮に自分が眼鏡を持っていても、なくしたものを今さっき見つけたのだと言えば言い訳は通る。そんなことをジャーニーに言われて気づくのは間抜けとしか言い様がないが、私の間抜けさは自分の想像をずっと超えていた。 「ふふ。では、ひとつ伺ってもいいですか。確か私が眼鏡を外したとき、そのままテーブルに置いていたと思いますが。 ──どうやって眼鏡はケースに入ったのでしょうね」 「あ…」 自分の唯一の逃げ道を自分で断ち切ってしまったことにも、私は彼女に言われて初めて気づいたのだった。 「…いけない人だ」 そう言った彼女は、微笑んだままだった。確か『コバエ』を始末するときも、彼女はこんなふうに安堵したような笑みを浮かべていたな、なんて、縁起でもないことを思い出してしまう。 「ごめ…!」 許してもらえなくてもいいからせめて謝ろうと思ったのだが、彼女の親指が唇を塞いで、その先の言葉が出てこない。自分の唇の震えまでも感じられる静寂の中で、彼女の囁きだけが耳元で聞こえた。 ──こんな時だというのに、その音色があまりにも甘くて、もっとずっと浸っていたいと思ってしまった。 「では、私もあなたの大切なものを、ひとつお預かりすることにしましょう」 顔を近づけると、ぼやけていた視界が徐々に解像度を取り戻す。近づいて見た貴女の顔は、やはりどうしようもなく可愛らしかった。 貴女は私に、全てを与えてくれた。 時間も、機会も、口実も。私が想いをぶつけては、ただ貴女を怖がらせて壊してしまうのではないかという恐れも、貴女が綺麗に取り払ってくれた。 頬に手を添えて、ゆっくりとこちらを向かせたときの貴女の瞳が少し蕩けているのを見て、胸の高鳴りが抑えられなかった。 「お仕事は終わりましたか」 「う…うん」 「よろしい」 汚したくない、いつまでも守っていたいと、初めはただそう思っていた。それでも貴女は、月日とともに私と同じ匂いを纏って、私が保とうとしていた距離をいともたやすく埋めていった。 私の浅ましい欲望さえ、貴女はその太陽のような笑顔で受け止めてくれるのではないかと思うと、自分の気持ちを諦められなくなった。 「今日はここから出ないでください。 …あと、二時間ほどありますが」 ──貴女を誰にも渡したくない、なんて。 無邪気に目を丸くする貴女を見ていると、自分だけでは決して満たされない心の隙間が埋まってゆくのがわかる。貴女に尽くすのも立派な休息になると前に言ったけれど、それは決してその場を取り繕うための方便ではなかった。 貴女に、必要とされたい。そのためならなんでもできる。 「お菓子の方も、きちんと用意していただいているのでしょう?お茶を淹れますから、是非貴女も一息入れてください。 日付が変わるまで、ゆっくりと」 私のその言葉を聞いて貴女が楽しそうに微笑んでくれたとき、やはり想いを偽ることはできないのだなと実感する。 「…うん!最近見つけたケーキ屋さんがおいしくてさ、苺とチーズケーキがあるんだけど、どっちがいい?」 貴女との時間を手に入れるためならば、私は躊躇なく全てを差し出すだろう。 「しかし、驚きました。まさかトレーナーさんが悪戯も仕掛けてくださるとは」 「ごめんごめん。笑わせたかったのに、全然できてなかったね。 ジャーニーといるといつも子供っぽいところばっかり見せてて、なんか恥ずかしいな」 私には厄介な性質がある。自分の手垢で汚したくない純粋なものに、より強く惹かれてしまうのだ。 「それだけ心を許していただいているのだと思っていますよ。迷惑に感じたことなど一度もありませんから、ご安心を」 だから、隠すための法を覚えた。愛するものに私の匂いが染み付かないように、自分の気持ちを自然に隠すためのやり方を。 「…大人になりたいのであれば、嘘のつき方をひとつお教えしましょうか」 けれど私の本性を知って、一度それを怖れてなお、私のそばにいたいと言ってくれるひとがいるなど、思いもしなかったのだ。 ──貴女の笑顔はいつまでも眩しいのに、そこに私の仕草が感染っているのを見て取ったとき、好きなものを自分の色で染める喜びを、私は初めて知った。 「嘘に本当のことを混ぜること、ですよ」 貴女の前で隙を晒すように眠り込んだのも、貴女のかわいらしい罠に引っかかったのも、全部嘘。 でも、貴女が大切で、誰にも渡したくないのは、本当。 貴女は、いつ気づいてくれるのだろうか。私の嘘に、いったい何と言ってくれるのだろうか。 学園から出た時、外は底冷えするような寒さだった。澄んだ夜の空気を吸うと、ひとりでに星空を見上げたくなる。 「いいね。そのランタン」 「ふふ、ありがとうございます。 遠征支援委員会でもハロウィンのイベントをしようという話になりまして。そのために用意したのですが、たまたま通りがかったアネゴからも旅情があると褒めていただきました」 彼女が手に持つランタンの淡い光は、周りを明るく照らすよりも陰をよく際立たせる。その灯りが心地よくて、本当にこの世ならざるものが誘われて来そうな気さえした。 そのランタンを左手に持ち替えたのを合図にするように、彼女は穏やかな声で呟きはじめた。 眩しい太陽の下よりも、暗闇の中で美しく光るものがある。 「今日はありがとうございました。お菓子の他にも、大変良いものを頂きましたね」 夜に溶けるような彼女の声は、それを聞くためなら朝が来なければいいのにと思ってしまうほどに心地いい。 「──貴女とだけの秘密というのは、存外に心が躍るものです」 橙色のやわらかな光に照らされた彼女の横顔が、いつにも増して大人びて、綺麗に見えて。 空いていた彼女の右手を、つい握ってしまった。 彼女が目を丸くしているのを見るのは、初めてのことかもしれない。そういう気の抜けた表情をするのは、いつも自分の役目だからだ。 「…寒いね」 「…ええ」 手は冷えていたけれど、身体はひどく熱っていた。 指先に辛うじて絡みついているだけの私の手を、彼女の指がゆっくりと握り返した。 「…疲れたら、言っていいからね。私もランタン持つから」 「ありがとうございます。けれど、暫くは大丈夫でしょう。 冷えた手も、温かくなっていますから」 美しい秋の夜に中てられたのだろう。彼女は今度の悪戯には何も言わず、ただずっと優しく手を握っていた。 彼女の教えてくれた嘘のつき方は、いつまでも身につく気がしない。 ──きっと私は何の言い訳も繕えずに、ただずっとこうしていたいと、ありのままに伝えてしまうから。 「…姉上?」 「ごめんねオル。起こしてしまったかな」 できるだけ静かにドアを開けたつもりだったが、彼女の鋭敏な耳には届いてしまったらしい。 「む、大事ない。しかし、随分遅い帰参であったな」 「ああ。少しトレーナーさんと話し込んでいてね。盛り上がっていたらいつの間にかこんな時間になってしまっていたんだ」 嘘は言っていない。けれど、何があったかを正直に言うには、あまりにも面映ゆい時間だった。 だが、やはり彼女の感覚を誤魔化すことは難しいようだ。 「…やはり外は冷えるか。右手をかばっているが」 「…うん。少し寒かったよ。 でも、大丈夫。冷たいからではないから」 頬が綻ばないようにするのが、今の私のせいいっぱいなのかもしれない。