3/22 コスモスとスイートピーは、片想い同士でした。 コスモスはスイートピーの可憐な花のかたちが大好きでした。美しさを見せびらかすように花々の間を飛んで蜜を吸いにくる蝶も、スイートピーの前ではどこか恥ずかしそうにしていたものです。 スイートピーはコスモスの力強く咲ける凛々しさに、どうしようもないほど惹かれていました。寒さの混じる秋風に吹かれても、野山を埋め尽くすばかりに咲き誇るコスモスの姿を見ていると、スイートピーは冬を乗り越える勇気をもらえるような気がしました。 けれど、ふたりはずっと片想い同士のままでした。コスモスは秋の花で、スイートピーは春の花だったからです。 誰だって、好きなひとの前ではいちばん綺麗な姿でいたいものです。ふたりはどれだけお互いの咲く姿に見惚れても、そのときまだ蕾でしかない自分が恥ずかしくて、陰から見ていることしかできないのでした。 そうやって想いを打ち明けられないまま、季節だけが過ぎていきました。このまま時が経ってしまえば、ふたりは枯れてゆくばかりです。恋という花は咲くことはないでしょう。 ふたりは同じことを考えていました。 「お花屋さん、お花屋さん」 コスモスとスイートピーが話しかけたのは街の花屋でした。 「どうかわたしを摘みとって、あなたのお店においてください。 わたしがいちばん綺麗なときに、わたしの時間を止めてください」 花屋は違う花が、春と秋に同じことを言うのを不思議に思いました。 (ははあ、きっとこの子たちは恋をしたんだな) 花屋はそれに気がつきましたが、何も言わずにコスモスとスイートピーを、いちばん綺麗に咲く季節に摘みとって、店の前に置いてやりました。 花屋はいつでも、恋するひとの味方だったからです。 隣に並んだコスモスとスイートピーは、いつまでも見つめあっていました。大好きなひとの隣にいても、胸を張れる姿でいることがうれしくて仕方なかったのです。 見栄っ張りだけれど気のいい蝶も、花びらを優しく撫でてくれる野の風もここにはありません。誰かの手を借りなければ動けないふたりは、こんなに愛し合っているのにキスの味さえ知らなかったのです。それでも、ふたりはただそばにいるだけで幸せでした。 けれど、その時間は長くは続きませんでした。 コスモスを見初めたのは、図書館通いの内気な少女でした。片想いの相手に愛を伝える勇気がほしいと言う彼女に、花屋はコスモスを売ってあげました。 いかないで、というスイートピーの声を聞いても、花屋は悲しそうに首を振るだけでした。花屋はいつでも恋するひとの味方だったからです。 ひとりになったスイートピーも、すぐに買われてゆきました。それはあの少女の片想いの相手の、眼鏡をかけた図書館の司書でした。 お互いの顔を見るだけで照れて言葉が出なくなるふたりは、コスモスとスイートピーを部屋に飾って、お互いに見立てて話しかけていました。そんなふたりを、コスモスもスイートピーも見捨てられませんでした。 ふたりを見るたびに、コスモスとスイートピーは恋をしていたあの日のことを思い出したからです。 葉が萎れても、花びらが色褪せても、コスモスとスイートピーはふたりのそばにいました。 そうしてまたいくつかの季節が過ぎて、ふたりはついに想いを伝え合いました。 「わたし、花屋でコスモスを買ったわ。あなたのことだと思って好きって話しかけると、少し色が綺麗になる気がするの」 「ぼくも同じ店で、スイートピーを買ったよ。 今日のために好きって言う練習をしていたんだ」 ふたりの部屋の片隅で、コスモスとスイートピーの最後のひとひらが、はらはらと落ちてゆきました。 こんな悲しい恋の話はもう止しましょう。 ひとつの恋が実るたびに、どこかで別の恋が枯れてしまう。恋することに疲れると、こんなことばかり考えてしまうのです。 本を読む彼女の声は実に柔らかで心地よく、本を閉じた後にも、穏やかな春の日差しにその名残が浮かんでいるようにさえ思えた。ただひとつ、読み聞かせる相手がいないのが玉に瑕だが、彼女はひとりになったからこそ声を出して読んでみようと思ったのだから、是非もない。 その優しい声を買われて読み聞かせを頼まれ、図書室でなんとなく目についた本を借りて読んでみたが、その結末は彼女を少しだけ憂鬱にさせた。 彼女が部屋の中に生けた物言わぬ友達にも、もしかすると片想いの相手がいたのかもしれない。自分はその恋を二つに割いて、その片割れを部屋に飾る魔女なのではなかろうか、という空想が、ほんの少しだけ彼女の心を過った。 隣にいられるなら、それだけで幸せというつつましい愛の形は、彼女にもひどく覚えのあるものだった。一篇の物語に心を遊ばせる趣味はない彼女がここまで心を乱されたのも、偏に自分のことを言われているような気がしたからだ。 だが、窓辺から差す夕陽は、彼女をすぐに現実に立ち戻らせた。そうまで想っているなら、この本を誰かに見せて、その気持ちを徒に知られるようなことは避けたい。もうすぐ会議を終えて帰ってくるであろう彼には、特に。 「ごめん、お待たせ。 誰か来てたのかな。声が聞こえたけど…」 「あ…!トレーナーさん…!」 もう少しだけ早くそれに気づいていれば、その願いは叶ったのだが。 「別に恥ずかしがらなくてもいいのに。途中からしか聞こえなかったけど、すごく上手だったよ」 「いえ、とんでもないです…お引き受けしましたが、まだまだ上手く読めなくて…もう少し精進が必要ですね」 皆が思わず感嘆の吐息を漏らすほど、可憐で慎ましやかな佇まいの、それ故に一歩引いてしまいがちな彼女──カレンブーケドールに対して、前を向いてもらおうと穏やかに寄り添うのが、彼の常だった。 その関係を理想のウマ娘とトレーナーの像として羨む者もいるくらいなのだが、優しすぎると言われるほど慎ましやかな彼女の在り方の裏に隠された想いに気づくものはそういない。 「読んでいい?」 「…はい」 そう言われたときの恥じらうような表情を見れば、その想いの名前は一目瞭然であるのだが。彼がこうして自分のことを気にかけてくれる度に、彼女が喜びの他に自分の想いを曝け出すような切なさを感じるようになったのは、つい最近のことだった。 「コスモスとスイートピーは、好きって言えたのかな。 一緒になっても恥ずかしくて、見つめ合ったままだんまりだったりしたかも」 「かも、しれませんね。他のお花もきっと見ていますから」 鏡写しのように、ふたりは恥ずかしそうに頬を指で掻いた。 「あはは、確かに。 …でも、幸せだったよね、きっと」 「…はい。そう思います。 ずっと、そばにいられたらよかったのに」 「…そうだね。 本当にそうだ」 朗読会を終えた後の彼女の心の中を、やりきったという安心感と、あのほんの少しの憂鬱が満たしていた。 報われない恋を自分の口で語るには、やはり彼女は若すぎたのかもしれない。実らなかった恋は、甘い過去ではなく現実になるのかもしれないのだから。 「おつかれ」 だが、そんな彼女の想いになど気づいていないように、子供のように少し悪戯っぽく笑う彼を見ると、やはり彼女の胸は少しだけうるさくなった。 「やっぱり上手だよ。みんな聞き入ってた」 慎ましやかな彼女の埋め合わせをするように、彼はいつも恥じらうことなく堂々と彼女を褒める。そんな彼に、彼女もいつしかただ恐縮するのではなく、恥ずかしそうに笑いながら応えるようになっていった。 「ありがとうございます。準備はしたけど、やっぱり緊張して…最後は、お花に励ましてもらいました」 胸に挿した一輪の花を勲章のように撫でながら微笑む彼女を今度はからかうように、彼はくすくすと喉を鳴らした。 「俺は絶対上手くいくって思ってたけど。あんなに練習してたし」 「…もう。持ち上げすぎですよ」 手振りを交えて少し大袈裟にそう口にする彼を、流石の彼女も恥ずかしそうに嗜める。だが、恥じらいを本当に隠したかったのは、むしろ彼の方であったかもしれない。 「そんなことないよ。ほんとに良かった。 …だから、プレゼントを持ってきたんだ」 神妙な面持ちで目を細めた彼が紙袋から取り出したのは、雪のように白い紙に包まれた、一束の花束だった。 彼女を驚かせたのは、その色彩だった。小柄な彼女の両手いっぱいに、溢れんばかりの赤と桃色が花を咲かせている。 花の盛りの野山を切り取ってきたかのような鮮やかさに、彼女は一瞬息を呑んだ。 「これって…」 だが、本当の野にはありえない光景が広がっていることにも、彼女はすぐに気づいた。 小さな太陽のように、淡く色づいた花びらをめいっぱいに広げて咲く桃色。飛び立とうとする蝶の羽をそのまま茎に連ねたような、艶やかなシルエットの赤色。 コスモスと、スイートピー。花束の真ん中に寄り添い合って咲くふたりを、野の草花たちが祝福するように彩っていた。 彼女に手渡された花束は、今摘んできたばかりのような瑞々しいものだった。適切に手入れをすれば、きっと長持ちすることだろう。花の扱いに日頃から、慣れている者ならば。 「ブーケならふたりを、ずっと一緒にいさせてあげられるんじゃないかと思って」 「…!」 物語は、彼女が美しく語り聞かせてくれた。ならば彼女には、別の結末を用意してやってもいいだろう。 いつまでも一緒に咲き続けられる、ささやかな奇跡を。 「はい…! きっと何度季節が巡っても、ふたりを離ればなれになんて、させません」 控えめな性格の彼女が、感情を言葉や仕草にはっきりと表すことは珍しい。そんな彼女がゆったりと嬉しそうに尻尾を揺らしている姿は、ずっと見ていても飽きないものだった。 「…トレーナーさんのほしいものは、なんですか? こんなに素敵なものをいただいて…だから、何かお返しをさせてください」 それでも真っ先に自分への恩返しを口にするあたり、どこまで行っても彼女は彼女なのだと、彼は得心した。 そんな彼女の果てしなく深い優しさを、彼はどこまでも愛していた。 「…ブーケがG1を勝つところとか、見てみたいな」 「…!」 だからこそ、そんな彼女が夢の舞台に立ち、栄光を掴むことを、誰よりも望んでいた。 競走者としては優しすぎると、彼女を評する声もあった。あらゆる距離で好走し、既にG1を獲ったライバルたちに先着することもしばしばでありながら最後には一着に手が届かないのは何故なのかという理由は、トレーナーである彼も薄々勘づいていた。 決して手を抜いているという訳では無い。だが、最後の直線で競り合うときに、彼女はどうしても相手を負かしたときのことを考えてしまうのだ。 「ブーケはすごく優しくて、皆も、俺も、ブーケのそういうところがすごく好きなんだ。ブーケとずっと一緒にいて、心からそう思うよ。 無理に変われって言っても上手く行かないなって思うし、そうしたくないなって思ってる」 それが彼女の潜在能力に無意識のうちにブレーキをかけていることは、彼も承知していた。だが、そんな彼女に甘さを捨てて鬼になれと言えば全て解決するとは思えなかった。 何よりも、彼女が皆に愛される理由であるその優しさを消してしまうことは、彼女を彼女でなくしてしまうに等しいと、半ば確信していた。 レースが終わったとき、彼女はいつも申し訳なさそうな顔をする。それはただ勝利に手が届かなかったが故ではなく、競い合う者としては欠陥とさえ言える自分の性格に罪悪感を覚えていたからなのだと、彼は漸く気づいた。 彼女の優しさを想って、彼は決断した。 「…そんなブーケが勝ったら、みんな喜ぶよ。俺も、ファンの皆も、同じレースを走ったウマ娘だって、喜んでくれるかもしれない。 だから、大丈夫。ブーケが勝ってふしあわせになるひとなんて、誰もいないから」 彼女が彼女のままで、栄光に手が届くようにしてみせる、と。 誰よりも優しい彼女が報われてほしいと、世界中の誰よりも強く願っているから。 彼女は何も言わないまま、暫く俯いていた。 だが、やがて顔を上げた彼女の瞳は、今までとは違う強い輝きに満ちていた。 「…スイートピーは、秋にも咲けると思いますか? コスモスみたいに大切なひとの隣で、綺麗に咲けるって、信じてくれますか?」 自分のために走ることは、どうしてもできそうにない。燦然と輝く個性の塊の同期と自分を見比べて、彼女が身に沁みて感じた結論だった。 けれど、誰かのためなら走れるかもしれない。桜にも負けないくらい美しく、樫の木のように力強く、咲き誇れるかもしれない。 「…うん。 初めて見たときから、ずっとそう思ってる」 芽吹き始めた若葉の頃から、きっと綺麗に咲くと信じてくれた誰かが、そばにいてくれたのなら。 壁に飾られた色とりどりの花束が、月明かりを吸って柔らかな彩りを纏っている。彼女はその一番いい場所に、コスモスとスイートピーの花束を丁寧に懸けた。 だが、そこからコスモスの花を一輪だけ取って、いちばん大切にしているうさぎのぬいぐるみの耳にそっと結わえることは、忘れなかった。 彼がくれた言葉も、想いも、全部が胸の奥を優しく温めてくれている。でも、大切なひとを思うと胸の奥が切なくなることもあるのだと知ってしまったのも、間違いなく彼のせいなのだ。 「…ずっと、そばにいてください。 わたしの、コスモスさん」 ぬいぐるみに顔を埋めたそのひとことは誰にも聞こえないくらいの小さな声だったが、それでも彼女の頬は焼けてしまうくらいに熱くなった。 優しい彼女のたったひとつのわがままを、丸く満ちた月だけがそっと聞いていた。 3/29 3月。トレーナーにとっては春のG1戦線が本格化する大切な時期であると同時に、卒業する生徒や独立して新入生を迎えようとする新人トレーナーとの別れの時期でもある。 ついこの間まで見習いだったトレーナーが一人前になっていくというのは誰にとっても嬉しいものだ。そういうわけで祝いのために飲み会が開かれるというのもまた、この時期のお決まりの光景だった。流石に生徒を呼ぶわけにはいかないが。 そういう集まりでは大抵、既に担当のいるトレーナーはどうやって今の担当と出会ったのかという思い出話をさせられるものだ。その中でも自分が今の担当と出会った経緯は何故かやけに人気で、毎度毎度話せとせっつかれる。おかげですっかり語り慣れてしまった。 「話してやれよ。みんなお前とあの子の馴れ初めが好きなんだって」 酔った同僚の茶化す声は聞かなかったことにしたが。 その子の印象は、端的に言えば「優しすぎるほどに優しい」というものだった。自分も疲れているだろうに、練習が終われば他の子のために真っ先にタオルを取ってくるし、トレーニングルームの掃除やグラウンドの片付けをするときは、いつも最後まで残って使ったものを綺麗に整える。当時、新人として新入生の集団基礎練習を担当していた自分の目には、同年代のウマ娘が沢山いる環境だからか彼女の行動はいっそう印象に残った。 童話の中から出てきたような佇まいにはこの年頃の子供ならあってよいはずの俗な面がまるで感じられなくて、感心する以上に少し心配になった。それも手伝って、何かあると最後まで残ってくれる彼女とは、必然的に話す機会も多くなっていった。 「ごめんな、いつも手伝ってもらって。大変じゃないか?」 「ありがとうございます。でも、お掃除はけっこう好きなんです。掃除をしてると、心の中も整理できるような気がして。 それに、お礼ならトレーナーさんにたくさん言っていただいていますから」 励ますつもりがこんなふうに、逆に元気をもらうこともしばしばだったけれど。 ある日、トレーナー室の片隅で彼女は難しい顔をしていた。 いつも静かに微笑んでいる彼女がこんな表情を見せるのはひどく珍しく、また心配にもなって、思わず声をかけた。 「何かあったか?」 「あ、トレーナーさん…」 こういうとき、出会ったばかりの頃は遠慮がちになんでもないんです、と返すのが常であった彼女だったが、今日はほんの少しだけ逡巡した後にゆっくりと口を開いてくれた。 「授業で宿題が出て、ちょっと…悩んでいるんです」 試験勉強が過去の思い出になって久しいけれど、中学生の勉強ならなんとかなるかな、などと思いながら彼女の差し出してきた課題を見たが、その予想は大きく裏切られた。 そこに書かれていたのは英語でも数式でもなく、簡略化された服の型だったのだ。 「…どういう課題なんだ?これって」 「家庭科の授業で出た宿題なんです。自分の勝負服をデザインしてみよう、って…」 一般的な中学・高校相当の授業こそあるが、やはりそこはトレセン学園といったところだろうか。無論プロのデザイナーが作る本物には遠く及ばないだろうが、勝負服はレースを走るウマ娘の憧れだ。それを題材にすれば、平凡な裁縫の課題であっても熱の入り方が違うのは想像に難くなかった。 「いいじゃないか、トレセンらしくて」 「はい。みんな、楽しそうに描いていました。 でも…どうしても思いつかないんです。私に合う勝負服はどんなものなんだろうって」 そう口にする彼女の表情は、思いつかなくて困っているというよりも、思いつかないことが申し訳ないと言いたげな、どこか悲しそうな表情だった。 「気楽に、どういう服を着てみたいか考えればいいと先生はおっしゃっていたのですけれど、着てみたい服というのが全く思い当たらないんです。 それに、もし私がG1レースに出られたとしても、どんな格好をすれば皆さんに喜んでいただけるのかもわからないんです。応援してくださるのなら精一杯応えたいけれど、お返しできるものなんて思いつかなくて…」 きっと他の生徒たちは、夢の舞台に立った自分を無邪気に想像して、胸を躍らせながらなりたい自分を思い思いに描くのだろう。けれど彼女は、そんなときでも自分の夢よりも誰かのことを考えてしまうのだ。 そんな彼女の憂いを帯びた表情が、ひどく健気で、どこか痛ましく映った。 彼女は決して向こう見ずだったり、軽はずみな行動をとるわけではない。 だからこそ、放っておけないのだ。彼女が誰かを気遣ってしまう分まで、彼女の代わりに彼女のことを大切にしてあげたいと、どうしようもなく思ってしまう。 「ブーケが好きなものを入れたらいいんだよ。それだけでみんな喜ぶ」 「え…!それで、いいんですか? 私の好きなものが、皆さんの好きなものとは限らないんじゃ…」 「いいんだよ。それに、人が一番綺麗に見えるときって、一番好きなものを身に付けて楽しんでるときなんじゃないかな」 そんな気持ちに背中を押されて、日頃では考えられないくらい大胆なことを言ってしまった。だがその甲斐あってか、彼女は漸く自分の思いを口にしてくれた。 「お花は、やっぱり好きです。もし走るときも一緒にいてくれたら、すごく嬉しいです」 「うん。じゃあ、花はどこかに入れよう。俺もいいと思う」 「あ…でも、花柄はちょっと派手すぎるかも…」 花をあしらうという方向性は決まったが、確かに彼女の言う通り、服をただ花柄にするのは彼女のイメージに合わないような気もした。一歩間違えれば年寄り臭い印象を与えかねないし、何より彼女には落ち着いた色合いの装いが似合うだろう。 「あ…じゃあ、どこかの裏地に入れるとか。走ったら服が広がって綺麗なんじゃないかな」 「…!なら、表はシンプルなデザインがいいかも…花束の包み紙みたいに落ち着いた色と形にしたら、花がもっと綺麗に見えるかもしれません。 ありがとうございます…何か、掴めたかも」 そう呟いて机に向かう彼女の表情は、さっきとは違う、真剣だがどこか明るいものだった。 白と黒のシックなドレスは、静かな雰囲気の彼女によく似合う。だが、それにスカートの裏の花柄が与える華やぎは、晴れの舞台に相応しいものだろう。 彼女が描き上げた勝負服は、可憐で清楚な彼女の佇まいをそのまま形にしたような可愛らしくも美しいデザインだった。 「すごいな、本当に綺麗だ。そのまま本当の勝負服にしてもいいんじゃないか?」 「ふふ…ありがとうございます。トレーナーさんのアドバイスのおかげですね」 褒めてもらえるのはありがたいが、それは違う。確かに自分はほんの少しアイデアを出したが、それも彼女の魅力あってのものだ。 「俺はただ、ブーケの気持ちの通りにすればいいって言っただけだよ。 だから、何も返せないだなんて思わないでくれよ。ブーケの好きなものは、こんなに綺麗なんだから」 だから少しだけ、彼女にも彼女自身のことを大切にしてほしい。彼女が誰かを幸せにしたいと願うように、彼女にも幸せになってほしい。 いつからか、そう願うようになっていた。 それから暫く経ったある日、夜遅くまで仕事をしていたときのこと。 トレーナー室の自分の机に、手のひらに乗るような小さな袋が置かれていた。 「あ…」 中にはいくつかのお菓子が入っていた。動物の形をあしらったクッキーや小さなリボンで留められたマカロンなど、入れていた袋共々自分には全く縁のないような、目にも楽しいかわいらしい品々たちだった。だが、それと同じくらいに目を引いたのは、その袋の傍らに一輪の花が置かれていたことだった。 ガラスの花瓶は香辛料か何かの空き瓶を再利用したものだろうが、奇を衒わないその形は机の上という日常の風景によく馴染む。そして、そこに活けられた花の美しさもまた絶妙に引き立てられていた。 留まった蝶がそのまま花になってしまったような淡い桃色の花弁は、ドレスの裾のように美しく波打っている。思わず指先でそっと触れてみると、恥じらうようにそっと屈んだ花からほんのりと甘い香りが漂ってきた。 園芸に全く縁のなかった自分は、それが何という花なのかも知らなかった。だが、そんなことを知らなくても、その花が美しいことを理解するのには十分だった。 クッキーをひとくち齧ると、決して甘すぎない優しい味が、疲れた身体と頭にひどく沁みた。正直なところ残りの仕事は明日に回して帰ってしまおうかとも思っていたのだが、今は身体にも心にももうひと頑張りする力が戻っている気がする。 「終わらせて帰るか」 それにしても、いったい誰が置いてくれたのだろう。どの贈り物にも、贈り主の名は一切記されていなかった。 それからというもの、おおよそ一ヶ月に一度くらいの頻度で、自分の机にお菓子と花が人知れず置かれるようになった。夜遅く、あるいは朝早く、ふとトレーナー室に戻ってみると、いつの間にか机の上に贈り物があるのだ。 だが、依然として贈り主が誰なのかは分からなかった。面倒を見ている子の誰かだろうと思って全員に聞いてみたのだが、誰も心当たりはないと言う。 サンタクロースの正体を探ろうとして煙に巻かれる幼子のような気分だった。一目会ってお礼を言いたいという気持ちも虚しく、贈り物だけが積み上がっていった。 花を枯らしたくなくて、長持ちさせる方法を随分調べた。垢抜けない大の男が花鋏を買って、不器用な手つきで水切りをしている様はさぞかし滑稽だったろう。 それでも一月ごとに替わる色とりどりの花たちを綺麗なまま写真に収めると、季節の移ろいを閉じ込めているようで、自然と心が華やいだ。 ある日、ちょっとした用事で半日ほど席を外すことになった。幸い手続きが思っていたよりスムーズに進み、予定していた時間よりも一時間ほど早く学園に戻ることができた。 トレーナー室に帰り着いてドアを開くときは実に晴れ晴れとした気分で、その中で何が起きているかなど考えもしていなかったのだ。 「トレーナーさん…!なんで…」 薄桃色の小袋と、鮮やかな黄色の花を今まさに机の上に置こうとしていた彼女──カレンブーケドールがそこにいようとは、無論夢にも思わなかった。 「…君がずっと、持ってきてくれてたのか?なら、どうして…」 初めに贈り物をもらったとき、彼女にも心当たりがないか訊いた。というより、彼女が贈ってくれたのだろうと思っていた。 だが、彼女は黙って首を横に振るだけだった。そのあとは誰の仕業なのか見当もつかないまま、時間だけが過ぎていった。 「恥ずかしくて、言い出せなくて…でも、いつもトレーナーさんにはよくしていただいていますから。 …お礼をするのは、やめたくなかったんです。ごめんなさい」 彼女はひどく申し訳なさそうに俯いている。 そんな顔をさせたくなくて、面倒を見ていたはずなのだが。 「…謝らないでくれよ。俺こそ、ずっと気づかなくてごめん。 うれしかったよ。花もぜんぶ、家に持って帰って飾ってた」 落ち着かない心を抑えて、ずっと言いたかったことを漸く口にした。だが、彼女の表情は晴れることはなく、むしろ今にも泣き出しそうに歪んでいた。 「…私も、本当にうれしかったんです。あのとき声をかけてくれたことも、お花を大事にしてくれていたのも。 …だから…お別れも、言わないといけないのに、言い出せなくて…!」 何か言って慰めなくてはならないのに、言葉に詰まった。彼女の言っていることは、自分も無意識に後回しにしていたことだったからだ。だが、もうそれも無理だろう。今日の手続きもそのためのものだ。 先輩から、そろそろトレーナーとして独立してもいい頃だという話は少し前から来ていた。そうなれば、今の集団練習からは外れることになる。 彼女との関係も、そこで終わるのだ。 ずっと前から望んでいたことなのに、言い出す勇気が持てなかった。断られでもしたら、と思うと、怖くて言い出せなかったのだ。 でも、そのせいで彼女を悲しませてしまった。 「…今日、手続きをしてきたよ。来月から正式に担当を持てることになった」 「…!」 今だってそうだ。彼女はこんなにも自分のことを想ってくれていたのに。 彼女も同じ気持ちで、どこかで自然と言い出せる流れにならないかな、などと、なんとなく先送りにしていた。大人の自分が言わなければ駄目だったのに。 だって── 「…だから、俺の担当になってくれないか」 「…えっ」 彼女と一緒に夢を見たいと思ったのは、他でもない自分なのだから。 「…私で、いいんですか?」 「うん。君がいい」 「…ごめんなさい。私がこんな顔してるから、気を遣っていただいているんですよね。 でも、初めての担当なんですから、ちゃんと優秀な子を…」 「そんなことない。マイルでも、中距離でも長距離でも、どんな距離でもあんなに走れる子はそういないよ。 ちゃんと、トレーナーとして言ってる。嘘なんかじゃない」 「…本当に、本当の本当に、私がいいんですか? 私も、みんなみたいに輝けるって、思ってくれますか?」 目を潤ませて、彼女が問う。そんなことはわかりきっているのに。 そんな君だから、輝いてほしいんだ。 「優しくて頑張り屋な、ありのままの君のことが好きで応援したいって思う人は、絶対いるよ。 俺だってそうだよ。だから、君を選んだんだ」 彼女は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んで目尻を拭った。 そして今度ははっきりと、強いまなざしでこちらを見つめた。 「まだまだ、至らないところもあると思います。でも、頑張って期待に応えられるようになりますから。 それでもいいなら、これからも私と一緒に走ってくれますか」 差し出された小さな手を握り返したときのぬくもりは、今でも忘れられそうにない。 「うん。これからもよろしくな、ブーケ」 話し終えた後に余韻を味わうように沈黙されると、ひどく気まずい。話せと言ったのはそちらではないか。 その後に洪水のようにあれこれと訊かれるのも大変だ。相手が酔っ払いなら、なおさら。 「いいなー。うちの子にもそのくらい言ってたらもっと優しくしてくれたのかなー。最近すごい雑にあしらわれるんだよー…」 「ちゃんと幸せにしろよ??そこまで言わせたんだからさ?」 随分と含みのある言い方をされた。余計なお世話だ。 言われなくたって、彼女には絶対に栄冠を勝ち取らせてみせる。とうの昔にそう決めているのだから。 酔いを覚ましたくて、帰る前に一度トレーナー室に戻って顔を洗った。 今日も同じように、差し入れと新しい花が机の上に置かれていた。 思えば彼女の担当になってから、もう丸一年経ったのだ。それでもずっと、彼女はこうして尽くしてくれている。 「…やっぱり、なにかしないと駄目だよな」 思いついたまま行動に移さないのは、自分の悪い癖だ。 彼女の気持ちはそこにあるのだから。柄ではなかろうとなんだろうと、それに応えなくては。 明くる日のこと。 少し恥ずかしそうな面持ちでこちらに来た彼女を見て、何が言いたいのかは大体想像がついた。 「あの、これって…」 彼女の手の中には、小さな花瓶に活けられた薄桃色の薔薇が一輪あった。見返すとひどく面映ゆい気分になるが、花屋で一番いいものを選んできただけあって、しっかりと咲いている。 「やっぱり、ちゃんと口で言わないとだめだよな」 柄にもなく、贈るときの意味を調べもした。 ピンクの薔薇の花言葉のひとつは、感謝。 「いつもありがとう。こんなのじゃまだまだ、返しきれてないと思うけどさ。 それでも、やっぱり伝えたかったんだ。初めてもらったとき、すごくうれしかったから」 そしてもうひとつは、幸福。 彼女に出会えた奇跡を想うために、これ以上の花はないだろう。 「だから…これからも、一緒に頑張ろう。 今日はそれだけ言いたかったんだ。でも、なんか恥ずかしいな…改めて言うと」 結局最後に格好がつかないのは、あの頃からどうにも変わらないらしい。涙を拭う彼女に気の利いた言葉をかけられないのも、できれば直したかったのだが。 でも、悲しくて泣いていたあのときの彼女はもういない。 「はい…! ずっと、大事にします。この花も、トレーナーさんの気持ちも。 だから、どうかこれからも、私を見ていてくださいね。 私の、トレーナーさん」 涙を拭いた彼女は、どこまでも眩しい笑顔で微笑んでくれた。 彼女が笑ってくれるなら、なんだってできる気がする。 出会ったときも、今も、これからも。 花の色がいくら移ろっても、それだけは決して変わらないと思った。 柔らかな三つ編みを解いた湯上がりの彼女は、どこか恍惚とした微笑みを湛えて椅子に座っている。そんな彼女が机の上の花瓶に活けた一輪の薔薇と、密会でもするようにいつまでも見つめ合っている姿は、微笑ましさと仄かな色香を同時に感じさせるものだった。 彼が言ってくれた言葉を、彼に言った言葉を反芻する度に、彼女の頬には湯当たりとは違う甘い熱が宿るのだ。 控えめな性格の彼女は、何かを自分のものだと主張することに慣れていない。そんな彼女が、「私の」という枕詞をつけるとどこか甘美な響きを感じるようになったただ一つのものが、彼女に寄り添うトレーナーだった。 「…私の、トレーナーさん。 ふふふっ」 彼女は薄桃色の薔薇の花弁を、指先でそっと弾いた。目の前に彼がいて、同じ色に染まった頬をからかうように。 彼女の心は、今はそれだけで満たされるのだ。 この花をもらったとき、彼女の心はふたつに分かれた。 ひとつは、果てしない喜び。そしてもう一つは、甘やかな淡い期待に。 いつかこの薔薇が、目の覚めるような真っ赤な色に変わっていたらいいな、なんて。 恋を知ったばかりの彼女の可愛らしい空想が、そっと芽をつけようとしていた。 11/24 私のトレーナーさんは、とても頑張り屋さんなひとです。 いつも私のトレーニングメニューを組むために、遅くまで仕事をされています。仕事が長引いて家に帰らずに、仮眠室で夜を明かすこともあるようです。 私のために頑張ってくださるのはとても嬉しいのですが、ご自分の時間も全部そのために使っているのではないかと思うと、申し訳ない気もします。一度、少しお休みしてはいかがですか、と申し上げたこともありました。 「ありがとう。でも大丈夫だよ。 今、すごく仕事が楽しいんだ。自分がやりたかったことが本当にできてるって気がする」 屈託なく微笑むトレーナーさんに、私はもう何も言えませんでした。そう言ってもらえて、私も嬉しかったからです。 私にできることは、トレーナーさんが一生懸命考えてくれたメニューを精いっぱいこなすこと。あとは、少しでも疲れをとっていただけるように、仮眠室をお掃除しておくことくらいです。 ちょうど、かわいいピンクのマーガレットのお花が手に入りました。 ほんの少しだけでもいいから、このお花がトレーナーさんの心を和ませてくれますように。 私のトレーナーさんは、ちょっといじわるなひとです。 「おはよう。昨日はありがとうな。練習の後なのに掃除もしてくれたみたいで」 昨日も仮眠室で休憩を取りながら、遅くまでお仕事をされていたのでしょうか。私がお部屋を掃除しておいたことにも気づいていらっしゃいます。 ということは、枕元に活けておいたあのマーガレットにも気づいているはずです。自信を持って選んだので、少しでも気に入っていただけているとよいのですが。 「ふふ、どういたしまして。でも大丈夫です。お片付け、結構好きなんですよ。 それと、あのお花は──」 そう思って早速尋ねようとしたのですが、トレーナーさんはそれを遮るように、いきなりこんなことを言いました。 「あ、そうだ。 昨日、妖精が来たんだよ」 「妖精さん、ですか?」 唐突にそう言われて何と返せばよいのかわからず、トレーナーさんの言葉をそのまま繰り返してしまいました。 「うん。夜間練習してるウマ娘の間でちょっと話題になってるみたいなんだけど、夜に頑張って仕事や練習をしてると、いつの間にかお花を持ってきてくれる妖精がいるんだって。 ブーケなら知ってるかなって思ったんだけど」 素敵なお話ですが、私には心当たりがありません。頑張っているひとにお花を贈るのが、ちょっとした流行になっているのでしょうか。 「初めて聞きました。でも、素敵な妖精さんですね。 トレーナーさんは、妖精さんを見たことがあるんですか?」 トレーナーさんはちょっぴり自慢げに目を細めて、その妖精さんの話をしてくれました。 だから、すっかり油断していたのです。 「うん。俺は昨日見た。 でも、ちょっとびっくりしたよ。妖精も自分で活けた花を写真に撮るんだね。 あんなに綺麗に活けられたら、やっぱり妖精でもうれしくなっちゃうのかな」 そのときの私は、どんな顔をしていたのでしょう。鏡がないから確かめることはできないけれど、きっととても滑稽な表情だったに違いありません。 「…!」 私を見るトレーナーさんの口元は、とても楽しそうに悪戯っぽく釣り上がっていましたから。 昨日のマーガレットは綺麗になるという確信が活ける前からあったのですが、いざ活けてみると思った以上に凛と咲いていて、うれしくて思わず写真に撮ってしまったのです。 あんなところまで、全部見られていたなんて── 「…トレーナーさんのいじわる」 わざわざ妖精さんの作り話をしてまで、私をからかうなんて。もう、疲れていてもお茶を淹れてあげません。 私のトレーナーさんは、本当にずるいひとです。 こうやって私をからかった後に限って、私がいちばん言ってほしいことを口にしてくれるのですから。 「ごめんごめん。でも、最初は本当に妖精の仕業なんじゃないかって思ってたんだ。 あの花を見てると、それだけで元気になるからさ」 そういうときのトレーナーさんの顔は、さっきのいじわるな笑顔とは違う、少し目を細めた優しい微笑みになるのです。 ──私はこの顔がいちばん好きだということにも、気づいているのでしょうか。 「…本当、ですか」 「うん。いつも本当にありがとう。 だから、今日も楽しみに待ってていいかな」 あなたの微笑みを見るたびに、私はお花のことを考えています。 今日はどんな花が、その笑顔に似合うでしょうか。 私のトレーナーさんは、ちょっといじわるです。 でも、とても優しくて、素敵なひとです。 私のトレーナーさんは、少し不思議なひとです。 私が時々部屋に活けているお花を、トレーナーさんはいつも大事にしてくれます。それはとてもうれしいのですけれど、自分が活けた花をトレーナーさんが愛でているとなんだか少し気恥ずかしくて、声をかけられずにいつもこっそり見守ってしまうのです。 それにしても、トレーナーさんはささやかな一輪挿しであっても、活けられた花を本当に大切にしてくれます。贈った私が少し不思議に思ってしまうくらいです。 まるでお話でもしているように、マーガレットを見ては微笑んでみたり、優しく指で小突いてみたり。 まるで、好きなひとと一緒にいるみたい。 私と会うまで、お花にはあまり縁がなかったそうです。そんなひとがこれだけお花を愛でてくれるようになったのなら、花が好きな身としてはこれ以上にうれしいことはありません。 なのに、不思議です。お花が大好きで、お花が大事にされているとすごくうれしいのに。 初めて、お花に代わってほしいと思ってしまいました。 私のトレーナーさんは、とても真摯なひとです。 手をかけて育てた分だけ綺麗に咲いてくれるお花のように、私がなにかすると必ず応えてくれます。 「これは…」 「プレゼント。ブーケにはいっつも、世話になりっぱなしだからね。 …ほんとは俺が、ずっとブーケを支えてあげなきゃいけないんだけどさ。まだ、そこまでできそうにないから」 うれしいのですけれど、少し困ってしまいます。別に、お返しがほしいからトレーナーさんに優しくしているわけではないのに。こんなに真剣に、ありがとう、と言われると、どうしてもそれを期待してしまいます。 「いつもありがとう。 だから、せめてこのくらいは返させてくれ」 「私のほうこそ、ありがとうございます。 …今、開けてみてもいいですか」 「…いいよ」 お互いに照れくさくて、少しぎこちない話し方になってしまいました。思えば誰かへの贈り物の相談を受けたことは何度もありますが、自分が何かをいただくということはなかったかもしれません。 「…綺麗」 入っていたのは、小さな竹の花籠でした。ふっくらと丸い荒編みの籠に、しなやかに曲がった竹の持ち手が付いています。少し茶色がかった竹の風合いは渋さを感じさせるのに、形はなんだか可愛らしくて、見ていて飽きが来ません。 どれだけの手間をかけて、この花籠を選んでくれたのでしょうか。そう思うと、自然とトレーナーさんと目が合いました。 トレーナーさんのお顔をこんなに見ていたいと思ったのは、初めてです。少し恥ずかしそうに、けれども優しいまなざしで私を見つめ返してくれるのが、心地よくて仕方ありません。 「前にさ、あの花は妖精の仕業なんじゃないかって思ってたって言ったでしょ。 でも、ブーケが活けてくれてるんだって気づいたら、もっとうれしくなった」 そう言うとトレーナーさんは、心の準備をするように一拍の間を置きました。 ──それがなんだか、告白するときみたいだと思ってしまったのは、私が浮かれているからでしょうか。 「ブーケの活ける花、好きだよ。 …だからブーケには、いつまでもここにいたいって思ってほしい」 花瓶は花のお家だから、できるだけ住み心地がよさそうな、かわいい居場所を用意してあげたいと、前にトレーナーさんに話したことがあります。ここで咲いていたいと、思ってくれるような。 「…トレーナーの意地、なのかな。 ブーケがいちばん輝ける場所は、俺が作りたいんだ」 そのことを、覚えてくださっていたのでしょうか。 いつの間にか、このひとの隣にずっといたいと思うようになっていました。 私には、自分の夢や望みがあまりありません。誰かが笑っているところを見る方が好きなのです。そういう性格が、ここ一番での勝負で勝ちきれないという、ウマ娘としての致命的な弱点に繋がっているのかもしれません。 だから、初めてなんです。 「トレーナーさんの好きなお花を、教えてください。 一緒に選んで、一緒に活けてほしいんです」 誰にも譲りたくない、ほしいものができたのは。 自分の欲を出すことに慣れていないから、まだ少し怖いです。加減が分からずに、もしかしたらこのひとを傷つけてしまうのではないか、と。 けれどトレーナーさんは、私がそう思っていればいるほど、優しく微笑んでくれるのです。 「ふふ。 なんだか、嬉しそうですね」 「嬉しいよ。 ブーケがはじめて、自分のしたいことを言ってくれたんだから」 だからほんの少し、夢を見てしまいます。いつか私が本当にしたいことを言っても、あなたは優しく受け止めてくれる、と。 あなたの隣で、咲きたい。ずっとそばに置いておきたいと、思ってくれるくらいに。 私のトレーナーさんは、春風のようにやさしいひとです。 私に、恋を教えてくれたひとです。 12/31 朝、私が学校に来て一番初めにすることは、花瓶のお水を替えることです。トレーナーさんの机の上に活けてあるお花を、できるだけ綺麗に長く咲いていられるようにすることに、私は下手をすると練習と同じくらい心を砕いているかもしれません。 「いつもありがとう。今日も綺麗に咲いてるな」 「ふふふっ、ありがとうございます。きっとこの子も喜んでいると思います」 頑張った子供にそうするように指先で優しくお花を撫でるトレーナーさんを見ていると、自分のことのように嬉しくなります。自分の育てているお花が、最近はなんだか同じ道を一緒に走る仲間のように思えて来ました。 「…頑張ろうね。私も、頑張るから」 自分にできる最高の輝きで、あのひとの期待に応えたい。私とお花の気持ちがひとつになったような気がしました。 ある日、私がいつものように新しいお花を活けていると、トレーナーさんがこう言いました。 「これからは俺も、花を替えるの手伝うよ。 はじめはいろいろ聞いちゃうかもしれないけど、いいかな」 どうして、と聞くのを忘れてしまうほど嬉しいお話でした。もちろん私はすぐさま快諾して、お花のお手入れをトレーナーさんに教えることにしました。 初めは私が水揚げや切り戻しをして見せるところを、後からトレーナーさんが真似をしていました。けれどトレーナーさんは飲み込みが早くて、二週間もすれば基本的なお手入れは一人でできるようになっていました。 「これでどうかな」 「とてもお上手ですよ。始めて二週間しか経っていないなんて、見ているのに信じられないくらい」 自分が好きなものに同じくらい誰かが夢中になってくれるというのは、誰にとっても嬉しいものです。それが大切なひとなら、なおさら。 「ありがとう。一応、自分でも勉強したからな」 「…ふふっ。ありがとうございます。 でも、どうして急に手伝おうと思ってくださったのですか?」 そのとき、私の頭には初めに確かめられなかった疑問が改めて湧いてきました。いつもトレーナーさんは私の活けるお花を喜んでくださいますが、自分で花の手入れをしようと思うような、特にこれといったきっかけはなかったはずです。 「あー…あはは」 私が尋ねると、トレーナーさんは少し恥じらうように目を細めて、両手を揉み合わせました。その理由を言うためには心の準備が必要だから、そのための時間がほしいと言っているかのように。 「…ブーケはいつも綺麗に花を活けてくれるけど、その花がいちばん綺麗だなって思うのは、落ち込んでたりちょっと疲れたなって思ってるときなんだ」 でも、私はあなたの目を見ていたいのです。 私のお花を見て輝くあなたの目が、何よりも好きだから。 「でも、そういうときにブーケの花とか、花を選んでくれるブーケを見てると、本当に嬉しくなるんだよ。こんなときにも綺麗に咲いてくれて、そばにいてくれてありがとうって」 トレーナーさんには、不思議な才能があると思います。 私がほしいと思っていた言葉を、いちばんほしいときにくださるのです。時にそれは、私自身さえ気づいていなかった言葉だったりするのですけれど。 「…花も、それで人を元気にできるブーケも、本当にすごいなって思った。だからちょっとでもいいから、俺もそういう人間になりたくて。 ごめん、いい大人が恥ずかしいよな」 でも、そんなやさしい心を、トレーナーさんは大人になりきれていない証拠だと思っているのです。 だから、お水をあげないといけません。 「…そんなことありません。 私も、トレーナーさんが活けてくれるお花を見ていると、元気になれますから」 その心が枯れずに、少しでも長く咲いてくれるように。 それ以来、どちらが言い出すでもなく、一週間おきに代わりばんこに花を選んで活けるというのが決まりになっていました。 前までは活けたお花を替えるとき、前のお花が萎れているのを見るのが少し悲しかったのですが、今はむしろトレーナーさんがどんなお花を活けてくれるのか、次に私はどんなお花でそれに答えたらいいだろうかと考えていて、お花を替えるのが楽しみになりました。 「なんか、彼岸花に似てるな」 「ふふっ。おっしゃる通り彼岸花の仲間ですよ。ネリネといって、冬の間しか手に入らないんです」 活けたお花をトレーナーさんが見てくれる度に、私は思いました。 花びらに伝えたいことをのせて、秘密の文通をしているみたいだな、なんて。 「綺麗だな。花びらがきらきら光って、雪が降ってるみたい」 「…そうですね。でも、綺麗にお手入れすればとても日持ちするんですよ。本当の雪より、きっと長く。 だから、どうか楽しんでくださいね」 けれど、お花がお手紙になって、言葉にできなかったことも伝えてくれるというのは、なんと素敵なことでしょう。 私とあなたにしか見えない、秘密の文字で書かれた手紙。 今日の便箋は、どんな色で咲いてくれるでしょう。 ある日、花瓶に新しい花が植わっていました。 「グラジオラス、ですか?」 「うん。ちょっと新しい花に挑戦してみようと思って」 一年中手に入るので決して珍しい花ではないのですが、その姿は殊更に私の目を引きました。 剣のように真っ直ぐ伸びたしなやかな茎についたたくさんの花は、まだ全て蕾のままだったのです。 「うまく育てると、切り花でも蕾を大きく咲かせられるって聞いてさ」 薄桃色の花びらがほんの少しだけ覗いている下の方の蕾を撫でながら、トレーナーさんはそっと呟きました。 それを見て、気づいたのです。このひとがお花に向けるまなざしが好きなのは、同じようにやさしい目で、私のことを見つめてくれるからなのだと。 トレーナーさんの瞳が、私を真っ直ぐ見つめています。 春の陽だまりのような、大丈夫だよ、と言ってくれているようなそのまなざしを、いつまでも浴びていたいと思ってしまう私は、わがままでしょうか。 「…今、ブーケが頑張ってくれてること、ちゃんとわかってるから。それでも結果が出なくて、申し訳ないって思ってることも。 俺のほうこそごめんな。ブーケが頑張ってるのに、それに応えてあげられなくて」 やっぱり、トレーナーさんは不思議なひとです。 どうしてこんなにも、私に向き合ってくれるのでしょうか。 「だから、俺も頑張る。ちゃんと綺麗に咲かせるから。 あんまり自分を責めないでくれ。ブーケには優しい笑顔が一番似合うよ」 あなたという太陽に、いつまでも照らされていたい。 あなたがいつまでも照らしていたいと思うほど、綺麗に咲いた花になって。 レースの本番前はいつも少し緊張するのですが、今日はずっと落ち着いています。 「今日はなんか調子よさそうだな」 「はい。だって、トレーナーさんが約束を守ってくださいましたから」 控室の鏡の前には、大輪の花を鈴なりにしたグラジオラスが、今が盛りと咲き誇っていました。 花は想いを運ぶものと、いつかトレーナーさんに話したことを思い出します。 その想いの種が、こんなにも大きな花をつけて咲いていることが嬉しくて仕方なくて、緊張を忘れてしまいました。 「小さな蕾でも心を込めて育てれば、いつか大きな花をつけられるって、トレーナーさんが教えてくれたんです。 だから、今度は私が約束を守ります。トレーナーさんがしてくれたことは、全部無駄じゃなかったって」 私のために頑張ることは、まだ少し難しいけれど。 私をこんなにも信じてくれるあなたのためなら、きっと誰よりも眩しく咲けるでしょう。 私の名前を呼ぶ声が、遠鳴りのようにスタンドから聞こえてきます。 「行ってこなくていいのか?みんな待ってるよ」 トレーナーさんが私を促す声はとても穏やかで、それに従いたいのはやまやまなのですが、もし勝つことができたなら、ずっと前からそうしようと決めていたことがあるのです。 「はい。 でも、もう少しだけここにいたいんです」 こんなにもたくさんの人が、私が大輪の花をつけると信じてくれたことは、とてもうれしいです。 けれど今は、一番近くで誰よりも強く信じてくれたひとに、今の私を見せてあげたい。 あなたが大切に育ててくれたから、こんなにも綺麗に咲くことができました、と。 「…ありがとう。頑張ったな」 「…はい。トレーナーさんがいたから、頑張れました」 花を育てる私がお花の気持ちを代弁するのは、少し虫が良すぎるかもしれません。けれど真摯に育てれば、お花はその分だけ元気に育って、鮮やかに咲いて応えてくれると、私は信じています。 「本当に偉いな、ブーケは。何か欲しいものがあったら言ってくれよ。ブーケのこと褒めてあげないと気が済まない」 けれど、お花の気持ちを考えているうちに私はひとつ不思議に思いました。 「…では、ひとつだけ。 …手を、握っていただいてもいいですか」 ──お花も、恋をするのでしょうか。 「…うん。いいよ」 トレーナーさんは少し沈黙した後、私より大きな手をそっと差し出してくださいました。 あたたかくて、たくましい手。この手でいつも触れてもらえるお花が少し羨ましくなってしまうくらい、その感触は心地よかったのです。 お花が恋をするとしたら、好きになったひとには、どうやって愛を伝えたらよいのでしょう。 きっといちばん手間をかけて、愛情を込めて育ててくれたひとのそばで、いちばん綺麗に咲いている花は、恋をした花に違いありません。 ずっとずっとそのひとと、見つめあっていられるように。 あなたのてのひらの中で、そのぬくもりをたよりに咲いていたい。 私の心は、そんな一輪の花でした。