
(…………あの子、うちの担当みたいな走りをするな……)

　担当が大きな骨折をしてから一ヶ月。俺はぼーっと、コースを眺めてばかりいた。
　俺の指導が悪かったのだろうか、注意力が不足していたのだろうか。あまりにも突然過ぎるその大きな怪我に、担当が走れなくなった事実に……打ちのめされた。

　担当にしてあげられることもなく、ただ後悔と虚無感に苛まれる日々……。担当への見舞いに行ったとき、ちゃんと明るく振る舞えていたか……あまり自信はない。


「やった、私、こんなに走れるようになりました……！」
「…………ああ、よかった……！　よかったな……！」

　そんなやり取りが聞こえてくる。きっと彼らは、怪我を乗り越えたのだろう。いつか自分たちも同じように、ああやって笑いあえる日が来るのだろうか。

『この怪我では、もう二度とレースでは……』

　医者の言葉が過ぎる。

　夕焼けが沈んでいき、暗くなり始めた空を、冷えた空気を、俺の心は吸っていた。

「……トレーナーさん」

　そのとき、誰かの声が聴こえた。

　呼ばれるままに振り向くと、一人のウマ娘がそこに立っていた。

　見知らぬウマ娘だ。
　制服を着ているから、トレセンの生徒だとは思うが。

「……トレーナーさん、トレーナーさんに身体を売らせてください」

　彼女はそっと近づくと、妖しげな笑みを浮かべてそう言った。

「……身体を売る……？　何を言って……」

「トレーナーさん、身体を買いませんか……？」

　彼女の正体はわからない、わからないが……『身体を売る』なんてことを、軽々しく年頃の少女が言っていい訳は無い。

「そんなこと、してはいけないよ。身体を売るだなんてそんな……何か事情はあるのかもしれないけど、自分の身体は大事にしないと……」

　大人として、指導者として、彼女にそう諭した。

　すると、彼女は可笑しそうに笑った。

「……ふふふ、お可愛らしい人。何か勘違いなさってるようですね」

「……私が売るのは、"身体"ですよ。貴方の為に、貴方の愛バの為に、特別に身体を売っているのです」

　意味がわからなかった。しかし、なぜか彼女の言葉が頭から離れない。

　愛バの為……？

「そうですよ、貴方の可愛い可愛い愛バ。可愛そうな担当」
「その子の為に買いませんか？　"身体"を」

「貴方に、健康な身体を売りましょう。ウマ娘の健康的で綺麗な身体を。全て買えとはいいません、必要な所だけでいいのです」

　彼女の言葉に妙に惹かれる。

「……本当に、そんなことができるのか……？」

「ええ、可能です。すこしお値段は張りますが、まあ……」

　いやでも、そんな怪しい話信じていいのだろうか。そんなおいしい話が本当にあるのか。

「ありますよ。だからこうして貴方に話を持ちかけているのですから」

「安心してください、御満足いただけないなら返金も致しましょう」

　まるで悪魔の取引だ。
　とても魅力的で、とても恐ろしい。
「……何か、リスクは無いのか……？」

「あるとすれば、財布は軽くなってしまいますが……あとは、100%元の走りができるということではありません」

「買ってきた身体ですから、元の身体と勝手は違うでしょう。それでも、また走れるようにはなりますよ」

「それ以外に貴方たちへのリスクはありません。安心安全なお取引を心掛けておりますので」

「もう走れないかもしれない愛する担当が、もう一度走れるようになるのですから。こんな安い買い物は、ありませんよ」

　……リスクはほぼ無い。もう一度、あの子が走れるようになる……。

　悪魔の取引に、心は揺れていた。

「……もう、後悔したくないでしょう？」

　その言葉で、天秤は傾いた。
　例え悪魔に魂を売ってもいい、もう一度あの子が走れるなら、もう後悔しなくて済むのなら。

「……ふふ、お買い上げありがとうございます」

――――――

　それから一ヶ月が経った。

　俺の担当は、みるみるうちに回復して、また走れるようになった。

　安くはない買い物だったが、今ではそれを後悔していない。

　医者は奇跡だと言った。担当もまた走れる日が来るなんて、と心の底から喜んでいた。
　……後ろめたさから、担当の無垢な笑顔にぎこちなく微笑み返すことしかできなかったのを今でも覚えている。

　あの日の取引を知っているのは、俺とあの悪魔のようなウマ娘だけだ。いくら探してみても、あのウマ娘には出会えていない。

　……本当に悪魔だったのだろうか。

　タッタッタ。

　走る担当を見る。

　確かに、あのウマ娘の言っていた通り、走りはすこし変わってしまった。
　だが、もう一度走れるようになったのだ。それ以上、高望みすることも無いだろう……。

「…………あの子の走り、俺の担当みたいだな……」

　どこからか、そんな呟きが聴こえた。

　虚ろな目をしたトレーナーが、俺の担当を見ていた。
　……たしか彼は……一ヶ月ほど前に担当が大きな怪我をしたと風の噂で聞いた。

　自分と同じような境遇に、心がざわついた。

　タッタッタ。

「トレーナーさん！」

　担当が、こちらに向かって走ってきた。

「やった、私、こんなに走れるようになりました……！」

　どこかで聞いたことのあるセリフ。

　心のざわつきを感じながらも、キラキラとした瞳でこちらを見つめる彼女に応える。

「…………ああ、よかった……！　よかったな……！」

　彼女には言えない。

　あの日、俺が"身体"を買ったことを。

　ただ、何ごともなかったように、そう、よかった。と応えた。


　夕焼けは沈み、暗くなり始めた空。冷たい空気の中で、俺の心は既視感と謎のざわめきで満たされていた。

　…………そういえば、俺は"誰"の脚を買ったのだろう。

　もう一度、あのトレーナーの方を見る。

　あのトレーナーは、後ろに背を向けていた。

　……誰かと話しているのだろうか。
　暗くてよくわからないが、冷たい風に乗ってこんな言葉が聞こえてきた気がした。

「トレーナーさんに、身体を売ります」

おわり