「トレーナー殿。少しお話が」
　トレーナー室で作業をしていると、担当のヤエノムテキがこちらに話かけてくる。
「どうしたんだ？　ヤエノ」
「トレーナー殿、犬が……飼いたいそうですね？」
　藪から棒にヤエノがそんなことを言い出す。
「うん？　あれ、ヤエノに言ったっけ……？　まあ、ちょっと……興味あるな、ってだけだけど……」
　独り身の代わり映えのしない生活。そんな中で、何か癒しが欲しくて、あるいはともに生きていく相手が欲しくて、犬でも飼ってみようかと最近思案するようになった。
　……とは言っても、あくまで想像の中だけの話で、実際に飼うとなれば様々な制約や障壁があるのは分かっていたので、あくまでも現実にそうしたいというものでは無かったのだが……。

「……ふむ、犬ですか……確かに、日々の暮らしの癒しには良いですよね。利口で、献身的で、たいへん愛くるしいですから……私も分かります」
　どうやら、ヤエノムテキはその淡い願望を本気で考えてくれているらしい。
「……しかし、犬を飼うというのは言うほど易くはありませんよ？」
「んん……それは……」
「まずお世話をしなければなりませんから、それなりに時間は取られてしまうでしょう。食費や医療費、保険料などもかかってしまうと聞きます」
　それは、俺自身も考えていた。あくまでも、もしの仮定の話にしかならなかったのは、それらが大いに関係していた。

「……それから、毎日の散歩も必要ですね。一日に二回ほどでしょうか。しっかりと運動をさせて健康を維持させる必要があります。生命を飼うのですから、責任も重大でしょう。そう易易と飼い始められるものでもありません」
「……そうだよなぁ……。うーん、やっぱり……犬を飼うのは難しいか……」
　ヤエノの指摘はどれも尤もだった。犬を飼ってみたいという、言ってしまえば安易な気持ちはあるのだが。それを現実にするだけの覚悟や余裕は、今の自分には無いように思える。
　彼女に諭されて現実を改めて認識できた。やっぱり諦めることにするよ、とありがとうの感謝の気持ちとともに彼女にそう伝えようとしたところ、ヤエノムテキはこちらの目をしっかりと見据えて、重い口を開いた。

「ですので……」
「……？」

「……代わりに、“私を飼う”というのは、如何でしょう」

　………………？

　………………。

「…………は？」

――――
「――ええ、ですから。犬の代わりに私を飼うというのは如何でしょうか？」
「えっいや……何度言われても意味わからんけど。えっ……何が何で、なんて？」
　ヤエノムテキの意味不明な言動に疑問を投げかけると、ヤエノムテキは良いですか、と指を一つ立ててこちらに説明を始める。

「トレーナー殿は、日々の癒しの為に犬が飼いたい。……しかし、犬を飼うには数多の手間と障壁があります。そもそも、世話をする為に時間とお金が継続的に必要になりますし、そんな余裕は今のトレーナー殿には無い、と」
「うん、そうだな。それはその通りだ」

「では、ここで犬を飼う代わりに私を飼えば、どうでしょう？　私は食費は掛かりません。自分でやり繰りできますので。それから面倒な世話も要りません。大体のことは自立できていると、自分ではそう思っていますから。トレーナー殿のお手を煩わせることはありません」
「はあ……」
「そもそも、犬の良さとは何でしょう。可愛らしさでしょうか？　利口さでしょうか？　いつも主のそばに寄り添い、主の役に立とうとするその献身さでしょうか」
「……うーん、まあ、大体そんな感じかな……？」
「私ならば、そこらの動物よりもずっと利口です。トレーナー殿の役に立てることがあるならば、何でもやりましょう。それに……まあ、その……外見の可愛らしさも、犬にも劣らない程度にはあると、自負はしていますし……」
　最後だけ、ヤエノは恥ずかしそうに声を細くして語っていた。……いや、そこに恥を覚える前にもっとこう、他にもあるだろとは思うのだが。

「散歩だって……！　日々のトレーニングと兼ねれば問題は無いでしょう。辛い時は寄り添います。飢えを感じているのならば、私が愛でられましょう。トレーナー殿の日々の癒しになります。トレーナー殿は面倒な世話をする必要はありません。つまりは、私がトレーナー殿の犬として仕えれば、全て事足りるということです……！」
「そうか、何言ってんだお前」

　熱弁をされても、どうすることもできない。まず担当を犬扱いなどできないし、するつもりも無い。確かにヤエノは可愛らしいが、犬の代わりとして扱えるような存在では無い。というか、ヤエノを飼うってどういうことだ。

「ふむ……ではどうするのですか？」
「……何が……？」
「癒しを求め、犬を飼いたいという欲望に蓋をして、見て見ぬふりをして、自分を抑圧しようというのですか……？」
「いや……それはまあ……大人だし、それくらいの我慢はできるけど……」
「良いですか？　トレーナー殿、貴方が今行おうとしているそれは止水のようであってそうではない。ただやたらめったらに己の烈火を抑圧し、その胸の内に見えないところで烈火を燃やし続けることに過ぎません」
「それは……」
「己の烈火には、正しい止水を以てして制するべきです。つまり、犬を飼いたいという欲望には、犬を飼うのと同等のことをして己を満たす必要があるのです！」
　つまりは、犬を飼う代わりにヤエノを飼うことで、正しく火水合一を果たせと、ヤエノはそう言いたいのだろうか。

「そもそもの話をするならば。トレーナー殿には時間がありません。日々のトレーナー業……その他雑務、諸々……トレーナー殿には犬に割くほどの時間などありません」
「それは、そうかもしれないけど……」
「トレーナー殿の時間は、私の為に使われるべきです。犬などの為に使う道理はありません」
「ああ、それはそうだ……え？」
「トレーナー殿の時間は私の物です。犬などに使われてなるものですか」
「いや、俺の時間は俺の物だけど……」
　真っ直ぐな眼差しでこちらに言い放つヤエノムテキ。何か間違ったことを言っているだろうか、彼女はそうとでも言いたそうな真剣な目でこちらに訴えかけてくる。

　……まあ、それはそれとして。
「……君が、俺のことを真剣に考えてくれてるのは分かったよ」
「そうですか……！　では！」
「いや、でも担当を犬扱いできないよ。だって担当だし」
　この世のどこに、担当バを犬扱いするトレーナーが居るのだろうか。
「というか、ヤエノはヤエノだし。犬じゃないよ」
「……まあ、そう思われてしまいますよね。それは、仕方ありません……現に私は犬ではありませんから……」
　ヤエノムテキはボソリと俯きがちに言葉を漏らす。……ああ、これで。ヤエノも分かってくれただろうか。ならば話は終わりだ、と適当に切り上げようとした時――ヤエノは、おもむろに何かを取り出しこちらに見せつけた。

「――という訳で、私に首輪を着けてください」
「は？」
　じゃら、と鎖の擦れ合う音が響き、ヤエノの手元に目が奪われる。
　それは人間の首ほどの大きさの、赤い首輪であった。

「私を初めから犬として扱うのは難しいでしょう。ですから、まずは首輪を着けることで犬として認識しやすくしましょう……！」
「いやいや、は……？」
　何を言っているのだ、この娘は。

「何事もまずは形から、と言うではありませんか」
「いや、ありませんかと言われても」
「トレーナー殿！」
「えっなに」
　突然、ヤエノがぐいとこちらに顔を寄せる。

「日々の暮らしに癒しが欲しいのでしょう！？　犬が飼いたいのでしょう！？」
「あ、ああ……」
「では、この機会を逃してどうしましょう！？　今なら、トレーナー殿の願いは叶えることができます。私が、トレーナー殿の願いを叶えることができるのです。ですので、さあ。さあ！」
「いや、近い近い近い！」
　首輪を持ったヤエノムテキがこちらにグングンと距離を詰めてくる。今日のヤエノはどこかおかしい。
　……しかし、その眼差しは真剣そのもので……。ここまで俺のことを考えて我が身を犠牲にしてでも俺の為に何かを成そうとしているヤエノの好意を、ただ無為にするのは何だか気が引けて……。

「…………分かった」
「……！」
「……いや、ヤエノを犬にしようとまでは流石に思えないけど……ヤエノがそこまで言うなら、少し付き合うだけなら……」
「では……！？」
「……分かったよ、首輪を着けるだけな？　それだけだから」
　……ヤエノの熱意に負けたのはある。というか、彼女の言うことを少しでも叶えてやらないと話は進まない気がして……少しだけ、彼女の言う通りにすることにした。

「分かりました……！　では、どうぞ！」
　そう言って、ヤエノが首輪を差し出してくる。
「えっと……？」
「はい、私の首にそれを着けてください……！」
　ヤエノムテキは、無防備にもその白い首を差し出す。……これ、俺が着けないといけないのか……。

　戸惑いはある。というか戸惑いしかないが……。しかし、彼女にやると言ってしまった以上、やらざるを得ないだろう。
　ええい、ままよと勢いに任せ、首輪をヤエノの首に嵌めてやる。

「あっ……」
　カチリ。首輪の留め具を着けて首から手を放す。
「……これで、良いのか……？」
「ふむ……なるほど、これが首輪を着けられる気分……ですか」
　ヤエノは何やら感慨深そうに目を細め、言葉を漏らす。
「…………その、トレーナー殿……？　鎖を持っては貰えないでしょうか……？」
「え、うん……」

　彼女に言われるがままに、鎖の端を持って見せる。するとヤエノはうんと頷き、やがて自ら這いつくばった。

「……ヤエノ……！？」
「はい、何でしょう……？」
「いや、何でしょうじゃなくて……なんで這ってるの……？」
「……？　犬は四つん這いになる物でしょう？」
　さも当然かのように、彼女は上目遣いで言い放つ。……そうか、ヤエノはもう、犬に成りきっているのか……。
　軽い目眩を覚えながらも、彼女の言った通りに鎖を持つ。ヤエノ犬は、どこか楽しそうな表情で這いつくばり、腰を上げ尻尾を振る。

「さあ、トレーナー殿……！　私を犬のように扱いください……！」
「いや、犬のように扱えって言われても……」
　そんなこと言われても、全く何も思いつかないのだが……。
「……トレーナー殿、トレーナー殿」
「……なに」
「芸を仕込むのです。お手、おかわり、と」
「………………」
　あくまでもヤエノは、犬を飼いたいという俺の欲求を満たす為に、こんなことをやっているのだろう。そうに違いない。いや、そうであっても困るのだが、それ以外に意図があってこんなことをしてると言われてもどうにもしようがなくなる。

「…………分かった。じゃあヤエノ……」
「……ワンっ」

「お手」
「ワンっ」
　俺が手のひらを差し出すと、ヤエノは四つん這いのまま手を差し出し、ポンと俺の手のひらの上に置く。
　態々、犬の鳴き声まで出して、俺の言う通りにヤエノは動く。……俺は一体、ヤエノに何をやらせているのだろう。

「…………ぁぁ……おかわり」
「わんっ！」
　もう片方の手のひらを差し出すと、先よりも元気よく、ヤエノは鳴いて手をポンと置く。
「……おすわり」
「わふ……」
　ヤエノが、蹲踞の姿勢となってこちらに向き直る。……こちらから見ると凄く制服のスカートの辺りが危ういのだが……そんなことにも目もくれず、ヤエノは犬に成りきっていた。

「………………」
「…………」
「…………うず、うず」
「……？　ヤエノ……？」
　何か、物欲しそうな表情でこちらをじいと見つめるヤエノ。俺にはもうヤエノのことが何も理解できないので、残念ながら察してやることはできないのだが……。その真意を探っていると、ヤエノはおずおずとこちらに伺ってくる。
「……あの……トレーナー殿……」
「どうしたんだ……？」
「……その、芸、……ちゃんと、できました」
「……ああ、できたな」

　ヤエノは、何か意を決したような顔で続ける。
「トレーナー殿……っ……褒めては、いただけませんか……っ？」
「褒める……？」
　褒める、というのは褒めるということだろうか……？
「はい……よしよしと、良くできたと私めを褒めてはいただけませんか……？」
　ウズウズと、物欲し気な表情でこちらに伺いを立てるヤエノムテキ。……なるほど、確かに犬がちゃんと芸をできたのならば、ご褒美をやるのは定石だろう。

「……褒められたいのか……？」
「……はい……っ……」
　くぅん、と軟い声を鳴らして、ヤエノは応える。……ここまで来たのだ、彼女の求めるものは叶えてしまった方が良いのかもしれない。

「…………よしよし」
「……っ！」
「よーしよしよし、良くやったな、ヤエノ」
「！！　わふっ……くぅん……♪　くぅーん♪」
　ヤエノが、嬉しそうにこちらに鳴く。……思えば、ヤエノは乱暴者と呼ばれるような幼少期を送っていたと聞く。純粋に褒められるような経験は少なく、それ故にこの状況に、俺に褒められることに大きな喜びを抱いているのではないか。

　……と、そう思わないと、彼女の行動を受け止められないような気がして、ああ、そうに違いないと無理矢理自分を納得させた。

「――ふぅ……あの、ではトレーナー殿……」
「うん……？　なんだ、ヤエノ」
　彼女の頭を抱き、よしよしよしと撫でているとヤエノはこちらに向き直り声を掛けてきた。
「散歩を、いたしましょうか」
「散歩……？」
　まさか、ヤエノはこのまま、自分を外に連れだせとでも言うのだろうか……？

「いや、そういうあれではありません……！　流石に、それは……トレーナー殿が何と噂されるか分かった物ではありませんから……その分別はついております」
　もう既に、何と噂されるか分かった物じゃない状況ではあるのだが……流石に、外に連れだせとは言わないらしい。ならば、どうするつもりなのか……？

「このトレーナー室の中だけで良いのです。私を連れて歩いてはくれませんか……？」
　……なるほど、このトレーナー室の中で散歩をしようということか。
　……抵抗感が無いと言えば嘘になるが……まあ、もうここまで来たのだ……やれることはやってしまおうじゃないか。

　ヤエノの首輪をじゃらりと持って立つ。それを見たヤエノは心得たとばかりに四つん這いになり、尻尾を立ててこちらを見上げる。

「……行くぞ、ヤエノ」
「……ワン……！」
　そうして、俺たちは歩き出した。ヤエノが4足歩行でずいと進むと、こちらもそれに合わせて一歩と進む。
　ヤエノが歩む度にこちらも歩を進める。

　ふり、ふり。
　ヤエノの尻尾が左右に揺れる。こちらからは彼女の表情は見えないが、はっはっと微かに息遣いが聞こえ、楽しげに揺れる尻尾を見ると、彼女がこの状況を喜んでいることがこの首輪越しにも伝わってきた。

「と、トレーナー殿……！　わ、わん……！　わんっ！」
　てくてく、てくてくとトレーナー室を一周する。その間にもヤエノは楽しげに鳴き、尻尾をブンブンと振っていた。

「ああ、トレーナー殿……！　散歩とはこうも楽しい物だったのですね……！　あぁ……♪　くぅん♪　くぅん♪　わふっ、わぅ……♪」
　俺は、一体何をしているんだろう。彼女が喜び楽しんでいるのに反比例するように、俺はこの状況をどこか遠くの出来事かのように感じてしまっていた。

　ああ、こんな所を誰かに見られでもしたら、俺は一体全体どうなってしまうのだろうか。諦めとも、何とも言えない遠い目で向こうを見やる。
「ワンッ！　ワンッ♪」
　ヤエノは楽しそうに鳴いている。ああ……本当に、こんな所を誰かに見られでもしたら……俺は、俺は……。

「ワンっ！　ワンっ！」
「――あのー、ヤエノさん居ますかー？」

　ガラリ。扉が開く。

「わんっわっ…………あ――」
「えっ……？　…………あ――」

　扉の方へと視線を向ければ、そこに居たのはサクラチヨノオー。ピシリと固まった彼女の表情。その目線の先に居るのは、勿論……首輪に繋がれ四つん這いになったヤエノムテキと、その首輪を持って歩く俺で――。

「――あっ、あっ……ぁの、その……」
「ぁっ……えっと、チヨノオーさん……こ、これはその…………っ……！」

「――す、す……す……」
「す……？」

「――すみませんっ！！？　失礼しましたーーーーっ！！？？」

　サクラチヨノオーは真っ赤な顔で大声を上げて逃げた。その叫び声は、どこまでも反響して……。

　……ああ、俺の人生、終わったな。と……どこか遠くの方でそっと、そう思うのだった。

おわり