　雨がシトシトと降る午後。雨が降っていたのでトレーニングを取り止めることにした俺とケイエスミラクルは二人トレーナー室にいた。
　俺はトレーニング資料などをまとめていたが、ケイエスミラクルには特にやることもなく。なので今日はもう帰って良いと言ったが、彼女はトレーナー室にいたいと言ってソファーで座っていた。

「……ふう」
　作業が一段落して一つ息を吐く。グッと身体を伸ばすと、ケイエスミラクルが立ち上がる。
「お疲れさまです、トレーナーさん」
「ん、ありがとうミラクル」
　こちらをねぎらってくれたケイエスミラクルに応える。彼女の優しさが、ジンと身体に沁みるようだ。

「……あの、トレーナーさん」
「ん？　どうかしたか」
　遠慮がちにこちらに話しかけるミラクル。どうかしたのだろうか、と彼女に続きを促すと、やはり遠慮がちな声色でケイエスミラクルは言った。
「その……こっちに、来てくれませんか……？」
「……？　良いけど」
　ケイエスミラクルはソファーの方へと歩き出す。それに倣って俺もソファーの方へと向かうと、彼女はソファーに座りこちらにも座るよう促した。

「……トレーナーさん、すみません。おれ……今から、わがままを言います」
「え？　あ、ああ……」
　珍しく、ケイエスミラクルがわがままを言うというのだ。戸惑いつつも了承する。彼女は自分のことをあまり顧みない娘である。多少のわがままはむしろ、積極的に聞いていきたいというものだ。

「その、トレーナーさん……おれと、手を繋いでくれませんか……？」
　しかし、彼女の言ったそれは、わがままというにはあまりにも可愛らしいもので。
「……そんなことで良いのか？」
「駄目……ですかね」
「いや、大丈夫。……いいよ」
　そっと左手を彼女の方へ差し出す。
「あ、ありがとうございます……それじゃあ」
　きゅっと、彼女の細い手が俺の左手と重なり結ばれる。ガラス細工のように綺麗なケイエスミラクルの手をそっと握り返す。
「……ん……」
　少しの気恥ずかしさを感じつつ彼女の方を見ると、瞳を閉じて、じっとその手の中の温もりを感じているような表情のケイエスミラクルがいた。

「……トレーナーさん……もう少し、強く握っても……良いですよ……？」
「あ、ああ」
　彼女にそう言われて、彼女の手を繊細に扱いすぎてあまり力を込められなくなっているのを自覚する。ならば勇気を出して、もう少し。ぎゅっと、彼女の手を握る。
「ん……。……あはは、トレーナーさんの手……おっきいですね」
「そう？」
「はい……なんだかおれ、安心します」
　嬉しそうに微笑むケイエスミラクル。そんな彼女を見ていると、小さくドキりと心が跳ねるのを感じる。

「トレーナーさん」
「……どうかしたか」
「……えっと……」
　彼女の方を向くと、恥ずかしそうに、少し顔を赤くして言い淀む。しかしやがて、意を決したようにミラクルは口を開く。
「……トレーナーさん。おれ、もっと……繋がりたいです。もっと、ぎゅっと……深く……」
　頬をうっすらと赤く染めながら彼女は言う。しかし、もっと深くとなると……。
「……その、指を……絡めて手を繋いでみたいです」
「それって――」
　ケイエスミラクルの提案は、分かりやすく……しかし、立場上難しいものであった。その手の繋ぎ方は一般的には――。

「――駄目、ですか……？」
「…………」
　こちらを見つめるミラクルの、珍しいわがまま。それを無為には、したくなかった。それが例え、今の俺たちの立場を越えたものだったとしても――。

「……あっ」
　一度、手を離して。それから、彼女の手の指の間に自分の指を絡ませて……そうして、ぎゅっと手を繋ぐ。
「えへへ、……トレーナーさん」
　ケイエスミラクルも指を絡ませてぎゅっと握り返す。
「……おれ、幸せだな……」
　彼女の手のひらから熱を感じながら、ケイエスミラクルの呟きをそっと拾う。
「……そうか。それは、うん。良かった」
「はい……♪」

　そうして、幾つかの時間が過ぎて。二人の手のひらが溶け合ったように、当たり前のように結ばれているのを感じながら、この時間を堪能していると――。

「――おれ」
　不意に、ミラクルが声を上げる。
「おれ、トレーナーさんの手を……いつか、離さなきゃって、思ってるんです」
「それは――」
「だって、おれは。……おれの脚はずっとは保たなくて、レースを引退する日はたぶんすぐ近くまで来てると思うんです。それに、トレセンから卒業する日だって……いつか絶対に訪れます」
　ケイエスミラクルは、言葉を続ける。それは、悲しい現実の話である。別れは、いつか必ず訪れる。

「そうなったら、トレーナーさんとはお別れしなきゃいけない。……こうして、手を繋いだままというのはできないんです。……トレーナーさんは、優しいから……おれが最初で最後の担当でも良いって言ってましたけど……トレーナーさんには、おれに囚われないで、ちゃんとおれとお別れをして、新しい担当のトレーナーになって欲しいんです」
「…………」
　彼女の言葉を否定しようとしたが、言葉が出なかった。できることなら、ずっとケイエスミラクルのトレーナーでいたい。……しかし、それは叶わぬ願いであり。
　いつまでも俺が彼女に囚われているのは、他でもない彼女自身が望まないことを、よく分かっていた。
　……しかし、そんな現実を告げる一方で。俺の手には、ぎゅぅ。と、彼女の右手が俺の手を離すまいと強く握られていた。

「……だから、おれは……トレーナーさんの手を離さなきゃいけない。離さなきゃいけないってことは、ずっとずっと、分かっていました。……でも――」

「――おれ、離したくないんです。この手を……トレーナーさんの手を……」
「…………」
「……あはは、駄目ですよね、おれ……トレーナーさんと、こうして手を握って欲しいなんて言っちゃって……握って貰っちゃって、わがまま言って。今もこうして、手を離したくないってわがまま言っちゃって」
　あはは、と笑う彼女の瞳にはどこにもやりようの無い想いが、潤んでいて――。

「――すみません、おれ……わがままですよね。変なこと言っちゃいました……ごめんなさい」
　そう言って俺の手から離れようとする彼女の手をぎゅっと、離さないように力を込めて握る。
「……え」
「……こうして、ずっと……。手を握っていよう、ミラクル」
「そんなこと、できないですよトレーナーさん……」
「それでも、ずっとは無理でも……でも、例えキミのトレーナーじゃなくなっても、俺の担当じゃなくなっても。……手は、握れる筈だ」

　そう言って、俺はより深く、強く彼女の手を握る。俺の想いを込めて、ぎゅっと。
「だ、だめですよ……そんな。そんなこと言われたら、おれ……」
「嫌、か……？」
「いやな訳じゃ、嫌な訳じゃなくて……でも、その……おれ……そんなこと言われちゃったら、変になっちゃう……」
　顔を赤く染めて、ケイエスミラクルは言葉を絞り出すようにこぼす。
「……ずっと、おれ……。トレーナーさんの手を握っていても、良いんですか……？」
「ああ」
「っ……」
　ぅ、ぁ……と。ケイエスミラクルは小さく声を漏らす。そんな彼女を安心させるように、言い聞かせるように、ぎゅっと深く手を握る。

　……そうして、しばらく経って。ミラクルが落ち着いて、それから……彼女は、口を開く。
「……あの、トレーナーさん……」
「もう一度だけ、わがまま……言っても良いですか……？」
「ああ、良いよ」

　そう確かに答えると、ケイエスミラクルは不意に立ち上がる。
「それじゃあ――」
　一度、手が離れる。しかし、すぐに手は向きを変えて握り直され、そうしてもう片方の手も指を絡ませ結ばれる。
「ミラクル……？」
「…………」
　立ち上がったミラクルをソファーから見上げていると、ミラクルが少し力を入れて俺の身体を――。

「……ごめんなさい、トレーナーさん」
「わっ」
　そうして、ソファーへと俺の身体は押し倒される。両手は指を絡ませ握り合い、俺の身体の上に彼女の軽い身体が重なって。俺とミラクルはより深く重なり合う。

「トレーナーさん……」
「ミラクル……」
　ぎゅっと、両手が握られて。ソファーの上で身体が重なって。
「すみません……しばらく、こうしていても良いですか……？　こうして、トレーナーさんと……深く繋がっていたいんです」
　そんな風にわがままを言うミラクルに、俺は――。

「――ああ、こうして繋がっていよう。いつまでも、ずっと」
「……はい」

　そうして俺たちはいつまでも、溶け合うようにずっと、深く深く互いに繋がり、重なり合うのであった。

おわり