　僕がアメリカから帰国して数年の時が流れた。僕と出会った頃は新人だったトレーナーさんも、今ではそれなりの規模のチームを抱える中堅トレーナーだ。
　そんな中で僕はトレーナーさんのチームの最年長者として、レースやトレーニングに励みつつも、後進の育成やトレーナーさんの業務のサポートなどを行ってきた。

　この数年間、トレーナーさんと一緒に仕事ができて僕はすごく充実した毎日を送っていた。やり甲斐があったし、心から信頼している“仕事仲間”であるトレーナーさんと最高の仕事ができるのが、何より嬉しかった。
　けれど、その日々はいつまでも続く訳ではない。別れを思わせる桜花の蕾が膨らむ季節が、卒業の季節が、迫っていた。
　僕は、このトレセン学園を卒業することになった。いつか来るとは、分かっていた。しかし、卒業をして自分はそれからどうするのか、卒業後の進路を僕は未だ決めることができずにいた。
　僕がアメリカに行って自覚した、僕の仕事(やりたいこと)。それは、トレーナーさんと一緒に仕事をすること。
　それじゃあ、その後は――？　新たな仕事を探す？　おじいちゃんの跡を継ぐ？　それとも――。
　未だ答えは決まらないまま、新年を迎えてしまい、いよいよ後が残されていなかった、そんな時だった。

「……え、温泉旅行……？」
「はい……！」
　チームの後輩たちから、1つのチケットが渡された。
「ビリーヴさん、今年で卒業ですよね……これまでの感謝の気持ちと卒業を祝って、温泉旅行をプレゼントしようって話になったんです」
　そう経緯を語ってくれたのは、僕がアメリカから連れてきた後輩ウマ娘。他にも、チームの皆がうんうんと頷いていた。

「温泉旅行、か……」
「……あ、あの……あんまりお好きじゃなかったですか……？」
「えっいや、うん。うん……とっても嬉しい。皆、ありがとう」
「えへへ……」
　照れたように、みなが笑う。僕の仕事が、こうした形で返ってくるとは思わなかったけど……そっか。うん、これも大事な成果なのだろう。皆の気持ちが胸の奥でじんと滲みながら、大事に温泉旅行券を眺める。そうして眺めていると、旅行券に書かれた人数に目が留まる。

「……ところで、この温泉旅行は――」
「はい！　二人用です！」
「二人、用……？」
「ええ、ですので――」

――――

「ここが温泉宿か〜本格的だなぁ」
「そうですね……とても趣があります」
　温泉旅行当日。一通りの観光を終えて僕は、トレーナーさんと一緒に宿にチェックインをしに来ていた。
　二人用――そう言っていた後輩たちは、是非ともトレーナーさんと一緒に行ってきて欲しいと熱弁していた。いつもお世話になっているトレーナーさんも労りたい、というのが彼女たちの想いらしい。

「それじゃあ、チェックインをして――」
　優しい後輩たちの気持ちをそっと噛み締めていた時、トレーナーさんがあれ？　と不思議そうな声を上げる。
「どうかしましたか……？」
「あの、これ……部屋が、1つしか無いみたい……」
「え……？」

――――

　――ああ、なるほど、と。部屋についてようやく理解した。僕らは、あの子たちの術中に陥ったのだと。

「ま、まさか……同室になるとは……追加で部屋を用意して貰おうとしたけど全室満員らしいし……というかそんな人気のある所だったんだ」
「そうですね……随分高くついたのでは無いでしょうか……」
　僕たちを同室に押し込む為に、わざわざ人気のある宿を選んだのでは無いだろうか。そんな邪推をしてしまうのは……あの子たちが普段から僕とトレーナーさんのことを……その、“そういう関係”だと誤解しているというか、そういうことにしたいという思惑が見え隠れしているからで。
　どうぞ、トレーナーさんと水入らずで……！　なんて言っていた彼女たちの言葉の意味を理解して、僕は、はぁ……と溜息をひとつこぼす。

「そうか……人気の宿だったから一部屋しか取れなかったんだな……俺たちの為に良い宿を用意してくれるなんて……！」
「…………」
　多分、違うと思うけど。それをわざわざトレーナーさんに指摘する気にはなれなかった。

「いやあ、それにしても本格的な宿だなあ……部屋もすごく綺麗だ」
　そう言われて、僕も部屋を見渡す。しっかりと整った内装、温かで趣ある和室、随所に光る職人の技。……確かに、凄く良い部屋だ。
「部屋以外も凄かったよな、フロントもそうだし、途中の廊下とかも。風情があるよなー。それに、温泉宿なだけあって温泉もいっぱいあるし……！」
　パラパラと、部屋に備え付けの紹介案内を眺める。様々な種類の温泉があるようで、全部回るには丸1日かかりそうだ。
　しかし、ふむ……温泉もきっと、職人のこだわりが詰まったモノなのだろうな。それは、――気になる。
　2泊3日は取っているし、本当に全部の温泉を制覇してみようか、なんて考えていると……1つの温泉に目が留まった。

「……うん、どうしたんだ？　……なになに、家族連れにオススメの、貸し切り家族風呂……？」
　貸し切りの家族風呂。……別に、興味があって目が留まった訳ではない。強いて言うなら、この風呂だけは制覇できないだろうな、と思ったくらいなのだけれど……。――何か、嫌な予感がした。

「おお、結構凝った作りしてそうだなこの家族風呂も。……まあ、でも俺たちには関係無いかー」
「……いえ」
　チケットをよく確認してみる。するとそこには――。

「――家族風呂、予約されてます……」
「……え……？」

「……ええーっ！！？」

――――――

「なあ、ビリーヴ……本当に入るのか……？」
　脱衣所で、トレーナーさんはおずおずとそう尋ねてくる。
　僕の手には、バスタオルと、それから水着――。
　何故か。何故か執拗に、後輩たちから水着を持ってくるように念押された理由が、ようやく分かった。
　いや、流石に水着で温泉に入るのは良いのか？　と、トレーナーさんは言っていたけれど……それも彼女たちは想定済みのようで、“水着で家族風呂OKと確認とりました！”というメモが、いつの間にやら挟まっていた。

　貸し切り家族風呂……予約には結構費用が掛かるようで、後輩たちからの御好意を無下にする訳にもいかず……いや、好意だけではなくて下心も含まれているようには思えるけど、それでも。
　まあ、僕が水着を着てるなら最悪問題は無い……筈。たぶん。
　それに、家族風呂も凝った作りをしていると聞いて、興味があったというのもあって。僕は貸し切り家族風呂に入ることにしたのだった。

「あの、俺水着無いんだけど……」
「……その。別に見ませんから。気にしないようにしますから」
　……トレーナーさんと一緒に入る必要があるのか、と問われれば。一人ずつ入るほどの時間は無いし、かと言って折角の機会に僕だけ楽しむというのはあまり良い気はしないし。
　あの子たちの思い描く通りに事が運ぶのは、ほんの少しだけ癪な気もしなくも無いけど、まあ……それも良いかな、と思う気持ちも心の何処かにあったりはする。

「……え、えっと……」
　そうこうしている内に服を脱ぎ終わったトレーナーさんが、タオルで前を隠しながらオロオロとしていた。
「……あの」
「な、なんだビリーヴ……！？」
「……先、入っててください。僕、ここで水着に着替えますから」
「っ……！？　そ、そうだな……！　先入ってる！」

　僕が水着に着替えると言うと、トレーナーさんは大慌てで浴場への扉を開けそそくさと入っていった。
　……本当に、こういうことしちゃって良いのかな。
　衣服を脱ぎつつ、思う。何だかんだと理由を付けたけど……本当は、ただトレーナーさんと一緒に温泉に入ってみたい、なんて。そんな浅はかな理由なのかもしれない。けど……。

――――

「……あ、広い」
　かぽん、と。くぐもった音が反響する。湯気に包まれた浴場は、家族風呂とは言うがしっかりとした広さがあって、本格的な作りをしていた。

　ザーっ。
　水の流れる音のした方を向くと、一足先に入っていたトレーナーさんがシャワーで頭を流していた。

「トレーナーさん、お背中流しますね」
「あ、ビリーヴ。えっと……その」
「……大丈夫です、洗わせてください」
「……わかった、おねがいするよ」
　そっとトレーナーさんの背後に近づいて声を掛ける。最初は身をこわばらせ遠慮していたトレーナーさんだったけど、僕がお願いすると、背中を柔らかくしこちらに委ねてくれた。

　ボディーソープを手のひらに広げ、泡立てる。トレーナーさんの背中は、大きい。そういえば、おじいちゃんも大きかったっけ。
　充分に泡立った手をそっとトレーナーさんの背中につけると、ゆっくりと泡を広げるように動かす。

「ん……」
「…………」
　実際に触れてみて、改めて思う。トレーナーさんの背中は大きい。大人だからだろうか、それとも男の人だからだろうか。
　なんだか、少しおじいちゃんを思い出して。それから、トレーナーさんの顔を思い浮かべて、労るように、しっかりと泡を広げ洗う。

「……流しますね」
「ん、ああ」
　サーっ。すこし冷たかったシャワーを適温に戻して、そっと後ろから泡を洗い流していく――。

「――はい、終わりました。トレーナーさん」
「……ん、ありがとうビリーヴ。じゃ、ちょっと身体洗うからビリーヴも向こうでシャワー浴びておいで」
　トレーナーさんに促されるまま、離れたところにある反対側のシャワーへと向かった。……あまり、お互いに身体を洗ってる姿は見せない方が良いだろう。だから、あえて見えない方に。水着を着ながらですこし慣れないけど、僕はシャワーの取っ手をひねりソープを付けるのだった。

――――

「……ふぅ、いい湯だなぁ……」
「……ですね」
　温かな湯に身体を浸からせ、温泉特有の香りを感じながら身体を伸ばす。家族風呂とは思えない程に広い湯船は、僕とトレーナーさんが入っても充分に余り。というより、家のお風呂のような狭さじゃなくて助けられたとも言うべきか。
　……流石の僕でも。お風呂場で行き場もなく身を寄せ合うことがマズいことくらい、わかる。

「あぁ゛〜……気持ちいいな……」
「……すこし、おじさん臭いです」
「えっ、そうか……！？」
　慌てて自分の腕を嗅ぐトレーナーさんに、そういうことじゃないんだけどな、と思いつつ。何だかおかしくて、ちょっとだけ、ふふと笑みが溢れる。

　…………。

　かぽん。
　湯気で満ちた広い浴場。そんな中で僕とトレーナーさんで二人。静かなようで、よく響くここは、何だかすこしそわそわと落ち着かなくて――。

　……ちゃぷ、ちゃぷ。

　そっと、湯の中を進む。

「……？」
「…………」
　すこしだけ、あと少しだけ。トレーナーさんの方へと近づく。
　湯気の中でもハッキリと、その顔が分かるくらいまで、近くに――。

「……あ、あの……ビリーヴ……？」
　焦ったような、恥ずかしがってるような、そんな困惑を浮かべたトレーナーさんの表情を、近くで眺める。……ああ、本当に。トレーナーさんはよく顔に出るよな。

　……それが、何だか。この人の考えてることがよく分かることが、何だか安心して。……その所為だと、たぶん思う。
　とん、と。
　トレーナーさんの肩に頭を預けてしまったのは。

「び、ビリーヴ……！？」
「……トレーナーさん……。その、……もう少しだけ、こうさせてください」
　僕がそう言うと、色々なことをグルグルと考えてる百面相を見せてから、それでも――緊張したように、ううん、僕の気持ちを尊重してくれている顔で、頷いてくれる。

　だから、僕はそんなトレーナーさんに甘えて……しばらく、ずっと。トレーナーさんの肌を間近で感じながら、身も心も満たされるまで温かなこの湯に浸かってゆくのであった――。

――――――

「……いいお湯でしたね」
「……そ、そうだな」
　あの後、何だかやっぱり気まずくて。湯から上がった後もどうにも、よそよそしくなってしまう。
　いや、僕の方は……そんなに、だけど。多分、トレーナーさんの方が……。

「えっと、その……！　あれだな、夕飯も美味しかったな……！！」
「そうですね、美味しかったです」
「うん……！　……、その……。……うん」
　トレーナーさんが気まずそうに、顔を逸らす。
　やっぱり……温泉であんな距離まで近づいたのは……良くなかったかな……。後になって、反省点が見つかる。そんなことは僕にとっては、よくある事だけど……。うん、これは……部屋がこの後もずっと一緒なのが、良くないよな。

　部屋に帰ってみれば、和室に綺麗に並べられた布団が2つ。隣同士なのは……たぶん、そういうマニュアル通りなんだと思う。丁寧に整えられた布団は、こだわりを感じるのだけれど。だからこそ、その……ちょっと……圧を感じてしまう。

「も、もうこんな時間か……！　……えっと、その、……何か飲むか？」
　冷蔵庫を開けて、その中の後払い式の飲み物をトレーナーさんは見せる。ビールとか、お酒とかあるけれど僕はまだ未成年だし。ジュースもあるけど、……でも、そんな気分でもなくて。
「……大丈夫です」
「そう、か……」

　僕の返事を聞くと、トレーナーさんはバツが悪そうにそっと冷蔵庫を閉める。
「……あの、トレーナーさんは、呑んでも良いんですよ……？」
　思わずそう尋ねるけど、トレーナーさんは首を振って。
「いや、今日はやめとく……。うん、その……担当の前でビールは…………というか、色々怖いし……あ、いや、何でも無い！」
　何かを想像したのか、顔をブンブンと振るトレーナーさん。……何だろう。よく分からないけど、でも……そんなに否定するんだったら、別に無理強いするのも良くないか。

「……うん、もう寝ようか」
「……そうですね」
　時計を見たら、11時くらい。明日は別に早い訳では無いけど。でも、ずっとこうしてよそよそしくしていても仕方ないし……。
　そうして、トレーナーさんと二人、和室に向かう。僕は、なんの気もしないで布団に座りこむけど、トレーナーさんは何やら思案しているようで。

「……やっぱり離すべきか……？　というか、別々の場所で……いや、それはそれで何かあれな気はするな……あぁ、そうだな……えっと……」
「……トレーナーさん？」
「！？　な、なんだ？？」
　声が上擦ってる。
「……その、布団……入らないんですか？」
　僕がそう尋ねると、トレーナーさんは慌てふためいて。
「あ、ああ！！」
　いそいそと、布団の中に潜り込んでしまう。……いや、そんなに慌てなくても、別に……。そう思わなくも無いけど……まあ、良いか。
　じゃあ、僕も布団に入ろうと。部屋の灯りを消す。

　……真っ暗。そういえば、枕元にランプがあったな。カチリとランプを付けると、温かな光が辺りを照らす。
「お、おお……風情あるな」
「そう、ですね」
　僕もトレーナーさんにならって布団に入り、うつ伏せになってランプを見つめる。
　……何だか、不思議な気分。

「――…………ぁ」
「……？」
　……しばらくそうやってランプを眺めていると、隣から視線を感じる。気になってそちらを向いてみると、トレーナーさんと目があった。
「……っ！」
「……？　どうか、しましたか……？」
「い、いや！　何でもない！」
　トレーナーさんは、顔を赤くして何かを誤魔化す。……恥ずかしがってるのは分かるけど、何をそんなに取り乱しているのだろう。いまいち、僕には分からない。何か、僕の顔に付いてたのかな……？

「……そ、その……！　おやすみ、ビリーヴ……っ！」
「ぁ、はい……おやすみなさい、トレーナーさん」
　布団を被って、トレーナーさんは寝てしまう。
　……暑くないのかな。

　…………。
　ちく、たく、ちく。
　………………。

　小さな時計の針の音だけが響く部屋。ほんのりと照らされた枕元に、すこしだけ。……心が落ち着かなくなる。
　そもそも、隣にトレーナーさんがいて。緊張してる訳じゃないけど……でも、何だか妙に心がそわそわして。――手が、伸びかける。

　……、僕、何してるんだろう。
　宙を切った僕の手の先。山ができたトレーナーさんの布団。僕は、今……何を求めたのだろう。

　すこし、考える。

　…………。

　……。

　……ああ、たぶん。

　そっと、布団を抜け出す。――トレーナーさんに気付かれないように、あるいは、僕自身の心が気付かないように、そっと――。

　そうして、トレーナーさんのすぐそばにやってきて――。手を、布団に差し込む。
「――……！？」
　びく、と。トレーナーさんの身体が跳ねる。僕の手も、そこでぴくりと止まる。
「び、ビリーヴ……！？」
　驚いて振り返るトレーナーさんに、見られてしまう前に。
　僕は、ぐいとトレーナーさんの布団の中に身体を潜らせる。
「っ！？」

　トレーナーさんが、驚いてるのが、わかる。
　正直、僕自身も驚いている。なんでこんなことをしてるんだろうって。
　……けど、だけれど。なんだか僕はそうしたい気分だった。トレーナーさんと、トレーナーさんの布団の中で、身体を収める。
　そうして、ちょっとだけ手を伸ばして……トレーナーさんの身体に触れて――。
「お、おいビリーヴ……！？」
　焦ったような声。それが何だか、当然そうなるってのは分かっていたのだけれど、胸の奥がチクリと傷んで。

「…………駄目、ですか……？」
　思わず、弱々しい声で、そう言ってしまって――。

　ああ、こんなことを言ってしまえば、トレーナーさんがどんな反応をするかなんて、分かりきっているというのに――。

　トレーナーさんの顔がぐるぐると目まぐるしく変わっていく。赤くなって、青くなって、困って、でも真剣な瞳で。ああ、そう……トレーナーさんはきっと、こんな僕の、我儘も。受け入れてくれる。

「……駄目じゃ、ない……けど」
　そうして、顔がどんどんと、赤くなって――。何かを自分に言い聞かせるように必死な顔をしていて。

(――俺が意識しなけりゃ良いだけ、俺が意識しなけりゃいいだけ……！！！！)
　……ああ、うん。本当に……トレーナーさんは、顔に全部出るんだな。

　……僕だって、何にも分かってない訳じゃない。僕だって、分かることは分かる。
　……こんなこと、本当はしちゃいけないって、分かってる。けど――。

「…………やっぱり、離れたく、無いです……」
「……！」
　……自分でも不思議なくらいに、自然と言葉が溢れた。ああ、こうやって触れ合って……近くにいて、初めて自覚する。
　僕は、やっぱり……トレーナーさんと、離れたくない。ずっと一緒が、良い……。
　――卒業でお別れなんて、嫌だ。もっと、もっとトレーナーさんと、仕事がしたい。

　そう気付いてしまってからは、思いが、抑えられなくて。あるいは、言葉にも、漏らしちゃったかもしれない。
　ぎゅぅ、と。トレーナーさんの身体にすがりつく。ああ、きっと困らせてしまう。トレーナーさんは今きっと、困り果てた顔をしてるんだろうな。

　そう、思っていたのだけど――。

「……ビリーヴ」
　ぎゅっ。

　僕の身体が、抱きしめられる。
「と、トレーナーさん……？」
「…………」
　ただ、黙って。何も言わないで。ぎゅっと、抱きしめられる。
　……ああ、なんで……こんな時に顔を見られないんだろう。トレーナーさんの顔を見れば、どんなことを考えてるかなんてすぐに分かるのに――。こんな風に、困って、不安になって、しまわなくて済むのに……だけれど。
　確信は無いけれど、それ以上に――ああ、この人の心が、その温もりから伝わってきて――。

「……トレーナーさん、……もう少しだけ、このままで、良いですか……？」
「……ああ」
「…………このまま、一緒に、眠ってくれますか……？」
「ああ……」

　トレーナーさんの、優しい声が、胸の中を温かくさせる。そうして、安心して、瞳を閉じる。

「……トレーナーさん」
「ああ」
「…………おやすみなさい」
「……おやすみ、ビリーヴ」

　トレーナーさんの温もりに包まれて、僕の意識はまどろみに溶けていく。安らかな、夢の中へ。溶けて、溶けて、溶ける――。……おやすみなさい、トレーナーさん。

――――――

「えっ……！？　サブトレーナーを目指すんですか……！？」
「うん。卒業したら、トレーナーさんのもとで実地研修を受けて……それで、ライセンス受験資格を得ようかなって」
「じゃ、じゃあビリーヴさん……！　卒業しても、また走りを見てくれるんですか！？」
「うん……まだ、色々手続きとかはあるから分からないところはあるけど……それでも、ここで研修を受けるつもりだから」
　トレーナーさんとの温泉旅行から帰って、チームの後輩たちに僕の決めた道を、伝える。あれから、自分でも考えてみて、トレーナーさんとも相談してみて。……やっぱり、僕はトレーナーさんと一緒に仕事がしたい。そう、思ったから――。

「えぇ〜ビリーヴサブトレーナーさんか〜！　うん、凄く似合ってます！」
「そう、かな……えっと、ありがとう」
　キラキラと、輝く瞳でこちらを見つめる後輩たち。……もし、皆があの温泉旅行を用意してくれなかったら……自分の本当の気持ちに、気付かなかったかもしれない。そんな思いもあるからこそ、ちゃんと報告する。

「トレーナーさんと、ビリーヴサブトレーナーさんか〜……うん、うん！　とってもお似合いですね！」
「えっと……その、ありがとう……？」

『きゃっきゃ』
　やがて、ところかしこで、黄色い声が上がるようになる。……なんとなくそんな気はしてた。
「……え、じゃあその……トレーナーさんとは温泉旅行で、その……気持ちを伝えあったんですか……？」
「…………伝えあったというより、その……離れたくない、って僕が勝手に言ったというか……」
『きゃ〜っ！』
「じゃあじゃあ、やっぱり気持ちを伝え合ったあとは、お二人でその……！　二人っきりで……！」
　……何かを期待するかのような視線を一身に浴びる。けれど僕は、すこし低い声で、否定する。
「何も、無い。無いから……」
「えーっ、トレーナーさんのチキン！」

「――おい、休憩時間終わるぞー！　トレーニングに戻れー！」
「あっ、やば行かなくちゃ！」
　きゃっきゃと口々に言いながら、あの子たちはコースへと走っていった。
　残されたのは、僕と、それから――。

「…………はぁ」
　顔を赤くした、トレーナーさん。とても真っ赤な顔で、トレーナーさんは溜息を吐く。

　……ああ本当に、顔に全部出るよな。トレーナーさんって。
　僕以外にも、バレてたり……するのかな、考えてること。トレーナーさんの顔で。

「……ビリーヴも、トレーニングを見てやってくれ」
「はい、トレーナーさん。……行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」

　――でも、今だけは。僕だけが知ってる方が、良い……かな。トレーナーさんの素顔は。

「……ふふ」

おわり