　――カタン、コトン。遠く暗い意識の中で心地良い揺れと音が響く。しばらくそうして微睡みの中を揺蕩っていると、ひときわ大きな音を立てて、爽やかな日の光が視界に射し込む。

「ぅ……うぁ……？」
「トレーナーさん、もうすぐ駅に着きますよ」
　眩しさに意識を引き込まれていると、俺の担当のビリーヴの声がする。その言葉に応じるようにまぶたを開くと、そこには――。

「……あ、起きましたか？　トレーナーさん」
　ビリーヴがこちらを覗き込んでいて、それから、電車の窓から流れる青く、どこまでも蒼い海と空が目に写るのだった――。

――――
「着いたな、海」
「着きましたね」
　ガヤガヤと、楽しげな音を立てて賑わう海水浴場。そうだ、俺はビリーヴと海に遊びに来たのだ。
「日差しと潮風が気持ちいいですね」
「ああ、たしかに。海に来たって感じがするな〜」
「それじゃ、水着に着替えてきましょうか。……ええと」
　ビリーヴが、キョロキョロと辺りを見回す。
「……あ、あった。あそこが更衣室みたいです。行きましょうか」
「あ、ああ。そうだな……！」
　そそくさと更衣室の方へと歩き出すビリーヴの背中を、すこし慌てて追いかける。ちょっと駆け足になってビリーヴの背を追うと、なんだか彼女もこの海に心を踊らせ浮き足だっているように思えて自然と笑みが溢れる。

　さて。有名な海水浴場なだけあって、割と小綺麗な更衣室の目の前に立つ。自分たちと同じように海へとやって来た人々が、男女に別れて着替えを持って更衣室の中へと入っていく。
「……よし、それじゃ着替えるか」
「そうですね」
「んじゃ、また後で合流な」
　そう言って、俺は青いマークの男性用更衣室へと向かう。水着に着替えるなら、女性よりも男性の方が時間は掛からないだろうが、それでも……万が一にもビリーヴを待たせるといけない。
　できるだけ手際良く、着替えを済ませなければいけないな、と。歩を進めたその時――。

「…………」
「……ん？」
　俺の後ろに着いてくる誰かの気配。気になって歩を止めると、その誰かは俺に構うことなく前に歩いていき、そして――。

「……どうかなされましたか？　トレーナーさん」
「…………！？　ぇ、な……ビリーヴっ！？」
　俺の目に飛び込んで来たのは、ここに居る筈の無いビリーヴの姿だった。

「……？　何をそんな、びっくりした顔をして……」
「……ぃ、いや……！？　なんでビリーヴがここに！？　ここ、男性用更衣室だぞ！？」
「……？　はい、そうですね……？」
　不思議そうな表情で、こちらに応えるビリーヴ。いや、いやいや。ここは男性用の更衣室だ、ウマ娘である彼女が入って来ていい場所では無い……！

「……あの、着替えたいんで先行ってても良いですか？」
「……いや！　だから、ここは男性用の更衣室だから！？　君は向こうだろ！？　こっちに来ちゃ駄目だって……！！」
「え、……なんで、ですか……？」
　俺は焦り、大慌てでビリーヴを止めるものの、まるで何がそんなに問題なのかさっぱり理解できないというような表情で、彼女は聞き返す。
　更衣室の中には、多くの男性が服を脱ぎ捨て着替えをしている。そんな中に、女性であるビリーヴを入れるなどと、ましてやその中で着替えさせるなど……！！　グルグルと今の状況が頭の中を駆け回り、焦り必死に言葉を探して、ビリーヴを止めようとする。
「な、なんでって……！？　そりゃ、ここは男性用更衣室で、君はここに来ちゃいけなくて、それからえっと……！！　……とにかく！　君は女の子なんだから、こんなとこに来ないで早く向こうの女性用更衣室に……！！」

「…………何を言ってるんですか？」
　しかし、焦る俺とは裏腹に、ビリーヴは本当に意図を理解できていないような、極めて冷静でいながらも困惑の表情を浮かべて口を開く。――そうして紡がれた言葉は、俺の思考を焼き切るには充分な程に、あまりにも衝撃的であるのだった――。

「――僕は、男ですよ？」

――――
　信じられない、とは。こういうことなのだろう。あまりにも信じ難い出来事が起こった場合、人の心はそれを現実だと受け入れるには酷く時間が掛かるのだろう。

「……トレーナーさん？　行きますよ」
　茫然自失となりながらも、どうにか手を動かし、水着に着替えることはできたのだったが。俺の目の前で、さも当然のように服を脱ぎ捨て、男用の水着に着替える彼女――いや、俺の担当であるビリーヴ。その光景が目に入りながらも脳はそれを拒絶するみたいで、そうしてさっさと着替えてしまったビリーヴに促されるまま、あっという間に更衣室を出ることになった俺は……。

「……あの、本当に……君、男なのか……？」
「えっと……言ってませんでしたか？」
　すこし困り顔のビリーヴ。まるで、俺が知らないことがおかしいみたいな反応に、俺はどうにも納得できず。
「い、いや……だってビリーヴはウマ娘だし、普通みんな女の子で……」
「……何を言ってるんですか……？　男のウマ娘だって普通じゃないですか」
「そう、なのか……？」
　当たり前のようにそう言ってのける彼女に、俺の常識が揺るがされる。いや、いやいや……だってこれまで一度もそんな話は聞いたことないし、俺は今までずっとビリーヴのことを女の子だと思っていて――。

「……まだ、寝ぼけてるんですか……？」
「え、俺がおかしいのか……？」
　ウマ娘は女の子しか居ない。そう思っていたのだが……俺の担当であるビリーヴはれっきとした女の子だと、そう思っていたのだが……。
　いや、確かにビリーヴは一見すると少年のようにも見える顔立ちをしているし、身体も起伏は少なく声も落ち着いていて、普段の服装だって男の子のように見えるが。
　だがそれでも、ビリーヴにはちゃんとウマ耳が生えていて、尻尾もあって、トレセン学園に在席しているウマ娘で……れっきとした女の子である筈だ、筈なのだ。だと言うのに……。

(そう言えば、ビリーヴが着替えてる間誰も彼女のことを珍しがったり好奇の目で見ようとしてこなかった……)
　俺の世界の常識なら、どんなに男の子らしくてもウマ娘が男性用更衣室に入ってきたら驚くし、……別にそういう気がある訳では無いが思わず気にして見てしまう男が大半だろう。
　だと言うのに、あの更衣室の中に居た男性客たちはそれが当然であるかのようにビリーヴの着替えに目もくれなかった。

「……あの、いつまでも出口塞ぐ訳にはいかないので、出ましょう」
「あ、ああ……そうだな」
　落ち着いた様子のビリーヴに促されるまま、更衣室の外へと出る。瞬間、日差しの眩しさが、ジリジリと焦がす暑さが、俺の身体を襲う。
「素肌だと、やっぱりちょっと日焼けが心配ですね」
　そう呟くビリーヴは、パーカーのようなラッシュガードを羽織り、チャックを開いて胸元から腹までを晒していた。……当然、彼女の胸元に水着は無く、あるのは肌色――。
「っ……！」
　いや、俺は何を見ているんだ……！　教え子の、晒された肌なんて……！

「トレーナーさん、荷物置いたら日焼け止め塗ってくれませんか。背中だけで良いので」
「……えっ？　あ、ああ」
　そうして、ビリーヴとともに砂浜へと繰り出す。ある程度広いところへ着いたら砂の上にシートを広げ、用意したパラソルを開き日陰を作る。

「えっと……日焼け止めは……」
　自分のカバンをシートに置いてその中を探すビリーヴ。こうして後ろ姿を見ているだけなら、いつものビリーヴと変わらないのだが……。いや、むしろいつものビリーヴと変わらないからこそ、彼女が男であるという事実はどうにも信じ難く、そして彼女が男として振る舞う姿を直視することができずに居るのだ。

「あ、あった」
　ビリーヴと出会って以来、俺はビリーヴとどれだけの時間を重ねただろうか。その間ずっと、俺はビリーヴのことを女の子だと思い続けていた。それ故に、突然実は男だったと打ち明けられても、はいそうですかと脳を切り替えることはできる訳もなく。
　だから、彼女の身体はどうしても女性のものとして見てしまうのは、そう感じてしまうのは、俺にはどうしようもないことで――。
「……よいしょ」
　――などと、そんなことを思っていると、ビリーヴはおもむろに羽織っていたラッシュガードを脱ぎその白い背中を露わにした。
「っ……！？」
「ん、日焼けする前にちゃんとくまなく塗らないとな……」

　今、俺の目の前には、上半身を露出した担当のビリーヴが居る。そんなことを、俺の頭はどうしてもそう考えてしまい、頭の先へと血が登っていく。
「ん……しょ……んしょ、……ん？」
「び、ビリーヴ……っ！　やっぱり何か着よう！　流石に上裸はマズイって……！！」
　いても立ってもいられず俺の持っていた上着をビリーヴに上から羽織らせる。周りにビリーヴのことを見ている人が居ないか気にしながら、鼓動が早まっていくのを感じていると。
「……あの、そうされると日焼け止めが塗れなくなってしまうんですけど……」
　すこし困ったような、あるいは咎めるような、そんなじとりとした眼差しで、ビリーヴは静かにそう抗議する。
「っあ……えっとこれは、その……！　つい……！」
「それに……僕は男ですよ？　別に上裸くらい普通ですし……」
　そう言って、上着をそっと脱いで返すビリーヴ。その様子を見てしまった俺は、再び露わになるビリーヴの素肌を見てしまった俺は、思いっきり顔を反らして。
「っ……！！」
「……あの、どうかされましたか……？」
「い、いや……だって……」

「……その、トレーナーさんが今まで僕のこと女の子だと思ってて……それで、こういうことに抵抗があるのは、その……分かりました」
　ビリーヴは、困ったような顔で、しかし淡々とこちらに目を合わせて話す。
「……でも、僕はこの通り。れっきとした男です。こうして素肌を晒しても、別に恥ずかしいことなんて何も無いですよ」
「っ……！」
　ビリーヴは、むしろ堂々とするように、その上半身を白日の元に晒す。白く透き通る肌が、薄く筋肉のついた身体が、俺の目に焼き付く。
　心臓が、痛いくらいに早くなる。顔が、耳の先まで赤くなるのを感じる。茹で上がった脳が、いけない物を見ていると感じてしまうこと自体に警鐘を鳴らす。ビリーヴは男だ。上裸でも何も問題はない。むしろそれをいけない物だと思う自分が、教え子をそんな目で見てしまう自分こそが悪いのだと。
　網膜に、焼き付く。彼女の肌が、身体が、そして薄く白い胸が、焼き付いて――。

「…………トレーナーさん、日焼け止め、塗ってください」
　差し出される日焼け止め。差し出される彼女の無防備な身体。それを、俺は、俺は……受け取って、受け入れて、そうしなければ、それこそが自然なことで、俺は、俺は、喉が、ゴクリと鳴って、彼女の晒された素肌に、手が伸びて、そうして――――。

――――
「――や、やっぱりダメだビリーヴっ！！！！！」
「っ……！？」
　ガバリ、と。身体が飛び起きる。

「……あ、あの……どうかされたのですか……トレーナーさん……？」
「…………え？」

　ガタン、ゴトン。
　意識が次第にハッキリしてくと、そこは先程までの暑い日差しが肌を焦がすような砂浜ではなく、むしろ快適なくらいの涼しさが保たれ、ゴトゴトと揺れるそれは海でも砂浜でもなく電車の中で……。

「……あれ、夢……？」
「…………その、寝てるトレーナーさんが急に大声上げて飛び起きたので……あの、大丈夫ですか……？」
　心配そうな普段着のビリーヴにそう声を掛けられてようやく、先程までの出来事が全て夢であったことに気付く。
「す、すまん……変な夢を見てしまって……」
「そう、ですか……」
　ふと、窓の外の景色に目を向けると、それはどこまでも青く、蒼い海と空で。ああ、そうだ。俺はやっぱり、ビリーヴと海に遊びに行くところなんだった。……ともすれば、俺はひとつの疑念が、本来なら浮かぶ筈も無い疑念がどうしても俺の頭から離れなくて――。

「……な、なあ……ビリーヴ……？　その、一応聞いておくんだけど……えっと……」
「……なんですか……？」

「……ビリーヴって、男じゃ……無いよな……？」
「…………」
　暫しの沈黙。勝手にドキドキと胸が痛み、じっとビリーヴを見つめていると、やがてビリーヴは口を開いた。

「……あの、まだ寝ぼけてるんですか？　僕はウマ娘ですよ……？　男な訳無いじゃないですか」
「……そ、そうだよな……！　そうだよな、男な訳無いよな！！　あ、あはは……！！」
「……変なトレーナーさん」
　彼女からの怪訝な視線を感じながらも、俺はひとつ安心しながら何かを誤魔化すように声を大きくする。

　そんな訳ない。あれは夢だ。ビリーヴが男な訳無いんだ。
「……そろそろ駅ですね」
「あ、ああ。そうだな」
「……海、楽しみですね」
「そ、そう……だな」
　分かっている。頭では分かっている、その筈なのに……。あの夢の中とはまた逆で、しかしあの時と同じように、頭では分かっている筈なのに。夢の出来事だと分かっている筈なのに。
　夢の中で見たビリーヴの姿が。あの白く透き通ったビリーヴの素肌が、ビリーヴのあられもない姿が、俺の脳に焼き付いて、どうしてもどうやっても、離れてくれはしないのであった――。

おわり