　――気がつくと、俺は見知らぬ家に居た。知らない部屋に、知らない机、知らないソファ。
「パパーおふろでたー」
　てちてちてち、と。見知らなぬ子どもがこちらに駆け寄ってくる。俺のことをパパと呼び、ほかほかな顔でお風呂から出たと言ったその子どもは、どこか誰かに似ているような顔立ちをしていて。
　そんな、よくわからない状況に困惑をしていると……。

「ふふふー、マママーちゃんもでましたよー」
「あ、ママー」
　見知った声がして顔を上げると、そこには自分の知っているよりもずっと大人な俺の担当、アストンマーチャンが居た。

「……アストンマーチャン……？」
「……？　はい、マーちゃんですよー。どうかしましたか、“パパ”？」
　しっとりと濡れた髪の大人びたアストンマーチャンが、自分のことを“パパ”と呼ぶ。そこでようやく、思い出す。――ああ、そうだった。アストンマーチャンは自分の妻で、俺はアストンマーチャンの旦那である、と。

「――ううん、なんでもないよ、“ママ”」
「ふふ、そうですか。ヘンなパパですね……♪」
「パパへんー♪」
　俺とマーチャンの可愛い娘が、そう言って笑う。
「うんうん、お風呂も出たことですし、それじゃあマママーちゃんとおやすみしましょうか」
「うん、ママとねるー」
「パパはその間にお風呂入っちゃってください♪」
「ああ、わかった」
「はい、パパにおやすみなさいをしましょうね」
「あい、おやすみなさいパパー」

　そうして、二人は子ども部屋へと入っていった。残された俺は、言われた通りに風呂へと向かうのだった――。

――――

　風呂から上がり、寝間着に着替えてリビングに戻る。風呂上がりに1杯水を飲んでいると、子ども部屋からアストンマーチャンが出てきた。
「お風呂出たよ、ママ」
「ふふ、はい……♪　あの子はぐっすり寝ましたよー♪」
「そっか。いつもありがとう、ママ」
　いつもの夜のやりとり。アストンマーチャンは嬉しそうにこちらに近づくと、にこりと笑いかける。

「それじゃあ、マーちゃんたちも寝てしまいましょう……♪」
「そうだな」
　ピッと、リビングの電気を消して、俺たちは二人の寝室へと向かう。ほのかな灯りに照らされた寝室で、風呂上がりでまだほんのり温かい身体で、ベッドへと向かう。

「ふふ、パパ……♪」
「ママ、どうかした？」
　楽しそうな表情でこちらに呼びかけるアストンマーチャン。じっと俺の顔を見て、すこしイタズラめいた表情で、彼女は続ける。

「マーちゃんに、いつものおやすみのちゅー、してください……♪」
　嬉しそうに目を閉じて、そんなおねだりをするマーチャン。ああ、そうだ――“いつものように”、ママにキスをしなければ――。
　そう思って、顔を、唇を、彼女の唇に近づけようとして――不意に。

「…………あれ……？」
　何か、違和感が湧いてくる。まるで、その行為が不自然であるかのように、何故か思えてしまう。
「……どうか、されましたか……？」
　目を開けて、不思議そうにこちらをじいと見つめるアストンマーチャン。その顔を見れば見るほどに、俺は何かを思い出そうとしてしまう。いつもの、アストンマーチャンである筈なのに、何か大事なことを忘れてしまっているような、そんな気がして――。

「その……早くマママーちゃんに、ちゅーしてくれませんか……？」
「あ、ああ……そ、そうだな……」
　そう応えるものの、何故か身体は動かない。彼女は俺の妻で、ママで、おやすみのキスは“いつもの”ことで、何を今更躊躇っているのか、分からない、分からない筈なのに――。

「…………“パパ”……？」
「……っ！」
　見知った彼女の声、見知った彼女の表情で、彼女から、“パパ”と呼ばれて、……それが、強烈な違和感を呼び起こして、そうして気がつく。
　――ああ、何故俺は忘れていたのだ。

「……“アストンマーチャン”？」
「…………」
　そうだ、アストンマーチャンは……俺の妻では無い。ママでも無い。それから、俺は彼女の夫では無い、パパでは無い。
　そう、俺はアストンマーチャンの“トレーナー”で。彼女は俺の担当“アストンマーチャン”だ。

「……そうですか、気がついてしまったのですね、“トレーナーさん”」
「っ……！　や、やっぱり……」
「むむむ……“夢の中”だから、バレないと思ったのですが……やっぱりトレーナーさんは変なトレーナーさんですね」
　“夢の中”、と言われて改めて、認識する。そうだ、俺は自室で一人眠りについていて、これは俺の見ている夢である、と。

「夢の中でトレーナーさんをパパにしちゃおう大作戦、失敗してしまうとは……あなどりがたし」
「……やっぱり、本人だよね。そんな気はしてた」
　やけにハッキリと明確な意志を持って喋る目の前のアストンマーチャンは、やはり本物のアストンマーチャンであった。
　どうやって俺の夢の中に侵入してきたのかは分からないが、しかしアストンマーチャンならそれくらいやってしまうだろうという納得感もあった。


「……それで、なんでこんなことを……？」
「トレーナーさんは、マーちゃんのトレーナーさんで。なのでトレーナーさんにとってマーちゃんはアストンマーチャンでしかないですよね？」
「……それは、そうだ。俺はトレーナーで、君は担当だし」

「しかし、マーちゃんはひらめきました。夢の中でなら、トレーナーさんはマーちゃんのトレーナーさんじゃなくなるって。マーちゃんのパパトレーナーさんにもなってくれるって」
「……つまり？」
「トレーナーさんを“パパ”にしたかったのです。えへん」
「そっか……」
　……よく分からないが、そういうことらしい。

「……それで、マーちゃんにおやすみのちゅー、するのですか？」
　彼女に、問われる。しかし、答えは初めから決まっていた。
「いや、しないよ。俺は君のトレーナーだし」
「せっかく、パパになれたのにですか？」
「いや……俺はトレーナーで、君は担当だろ……？」

　そう言ってみるのだが、アストンマーチャンはあまり納得のいってないような表情をしていて。
「でも、ここは夢の中ですよ？　ここではマーちゃんはトレーナーさんの“ママ”で、トレーナーさんはマーちゃんの“パパ”なんですよ……？」
「いや、でも……」

「ほら、マーちゃんを見てください。目の前のマーちゃんは、トレーナーさんの担当のアストンマーチャンですか……？」
　そう言われて改めて彼女を見る。そこに居たのは、自分の知ってるよりももっと大人びた、アストンマーチャンで。
「けど……」
「トレーナーさんは、マーちゃんのパパですよ？　おやすみのちゅーもいつものことですよ？　ここは、そういう世界なのですよ……？」
「でも、これは俺の見ている夢な訳だし……俺がトレーナーである以上、そんなこと……」
「でも、“夢の中”ですよ……？」
　そう言って、アストンマーチャンはぐいとこちらに顔を近づける。

「マーちゃんと、ちゅー……したくないですか？」
「いや、それは……」
　アストンマーチャンは、そっと唇に指を当て、じいと見つめる。そんな風にされると、いやでも彼女の唇を意識してしまって……。
「マーちゃんとちゅーするの、嫌ですか……？」
　ほんのりとその瞳を潤わせ、見つめるマーチャン。じく、と心臓が刺される。
「……い、嫌な訳じゃない……嫌では無いけど、でも俺はトレーナーだから……」

「……良いのですよ？　だってここは夢の中、ですから。誰も見てません、誰もダメとは言いません」
「うっ」
「トレーナーさんは、ここではトレーナーさんじゃなくて……マーちゃんのパパですから。ちゅーするくらいふつーですから」
「で、でも」
「……ちゅっ」
　瞬間、唇に柔らかなものが当たる。

「っ……！　ま、マーチャン……っ」
「ふふ、パパのくちびる、いただきました……♪」
　イタズラっぽく笑うアストンマーチャン。俺のことを、パパと呼ぶアストンマーチャン。
「……ふふふ、パパは……やり返さないんですか？」
「っ……」
　誘うように、目を細めて。アストンマーチャンは微笑む。それが、自分の知ってるよりももっと大人びていて、妖艶で、脳の中身が、彼女のことを自分の妻だと認識し始めて。
　ダメだと、分かっているのに。それでも、彼女の唇の魅力に、目は囚われていて――。

　――ああ、そうだ。ここは夢の中なのだ。誰も見ていないのだ。だから、夢の中でくらい、自分の欲に正直になったって……。
　いけない思考が頭を埋め尽くす。押し戻そうとする理性が、徐々に後退していって――。

「……ふふ、“パパ”……♪」

「……おやすみの、“ちゅー”……してください……♡」
「っ……！！」

　――彼女に、言葉にされて、誘われて、ねだられて、俺の理性は何処かへと吹き飛んで、そうして俺は、唇を近づけて――。

「……っ……ちゅぅ……っ」
「……っ……♡」

　誰も知らない夢の中。誰も見てない夢の中。
　二人きりの世界で俺は、自分の愛する妻へと、この唇を重ねるのであった――。

おわり