氷獄魔王マヒアドの居城は広い。面積に対して、普段城に留まる魔族は少ない。  ゆえに氷獄魔王自身をはじめ、魔王城に集う魔族らは、年末年始に向けて、日々つつましく、少しずつ、掃除を進めるのだった。  この日、氷獄魔王軍の使命は広間の清掃であった。粛々と掃除を進める配下たちの間で、マヒアドその人の手が止まっている。 「まだ考えていらっしゃるんですね」  ノネッタの問いに、マヒアドは口を引き結び、厳しい顔で頷いた。彼は今朝、サームイテツクからの手紙を受け取ってから今まで、ずっと悩み続けている。 「私たちが悩んでも答えは出ません。あの子に聞くしかないでしょう」 「しかし……あの子を傷つけることになるかもしれん……」  マヒアドは手をお留守にして中空を睨む。配下たちも主に倣って手を止めた。 「傷つけることになるって、じゃあ傷つけないために黙っておくってことですか?」 「ヴッ」  配下のひとりが、箒を片手に言う。マヒアドはボディブローを喰らったように呻いた。 「傷ついたって、会うのが筋でしょう。遺していった子が無事かどうか、親なら知りたいはずです」 「うう」 「しゃあけど、ようやくこっちの暮らしに慣れてきたところでっせ。会うたところで一緒には暮らせへんのやし」 「う」 「この機会を見送って、次の時に会えなかったとしたら?あの時試しておけば会えたかもって、疑う気持ちがずっと」 「ううう」  マヒアドは奇声を発し、がくりと俯いた。手から雑巾が落ちた。 「泣いてます」 「そんな……」 「泣きたいのは氷獄魔王の名の方ですやろ」  カランカラン、カランカラン、カラン……  群れで一番大きな雌の下げる鈴が、冬の森に陽気な音を響かせる。それを除けば、毛長牛たちはほとんど音を立てない。広い蹄が雪を踏む音と、鼻息が聞こえるだけだ。  雪に隠れていた窪みを踏み抜いて、子牛が小さく啼いた。かすかな声を聞きつけた母牛が駆けてきて、寄り添う。別の母牛が足を止め、蹄で雪を掘り返すと、その穴に子牛が顔を押し込み、枯れ草を食み始める。  カランカラン、カランカラン。鈴の音は高らかに響き続ける。たくましく寡黙な毛長牛たちは、マヒアド領の厳しい寒さなどものともしない。  この牛たちの分厚い冬毛からは、保温力に優れた毛糸が作られる。冬の毛長牛たちは昼の間、自由に森を歩き回っているが、幼い子牛のいる群れにだけは、事故を防ぐため牧童がつく。とはいえ、経験豊かな母牛たちは、世話などほとんど必要としない。彼女らは草や苔のある場所も、歩きやすい道もよく知っている。  やはり、あまり役に立てていない。牛に先導してもらっているようなものだ。蹄の踏み跡を追っていると、考え事が多くなる。  最近は時々、マヒアド領住民の、魔族たちの仕事を手伝わせてもらっている。家畜の世話、秋に仕入れた荷物の仕分けや夏に向けた服の準備、仕事は無数にあるけれど、どれもうまくはできなかった。もっと何かできればいいのに。 「そろそろ帰る時間ではないか」  間近から声がかかった。針葉樹の茂みの後ろに、大きな白い獣が座っている。こんなに大きい生き物がいたのに、声を聞くまで存在に気づかなかった。マヒアド配下の狼の魔族だ。 「何、たまたま通り掛かったのだ」  狼は少し舌を出して笑った。彼は牙を隠してしゃべるのが、たいへん上手くなっていた。 「まだです。あと少しで牛呼びの笛が鳴ると思います」 「ふむ。では小屋の側で待っていようぞ」  そう言うと、敏感な毛長牛が気づくよりも先に、狼は姿を消した。 「我が一族は誇り高き雪の魔獣。馬の真似事など以ての外よ。では今そなたとこうしておるのは、何故かわかるか」  大きな狼は早足で、雪の上を駆けていく。長い指と肉球の力だ、馬ではこうはいかないだろう。背中は静かに揺れるだけで、滑ったり躓いたりする気配はない。 「氷獄魔王の拾った子だから……?」  狼は舌を出して、鼻先を舐めた。 「まあな、魔王と一の部下のお二方に願われたならば、この背はタクシーも同じ。サカエトルはハチロクをちぎってお見せするもやぶさかではない。だがそうではない。そなたが子供だからだ」  足取りが、早足から並足に移る。 「子供というのは特権なのだぞ。甘えて我儘を言って失敗するのが仕事だ。そなたが働いていくらか稼ぐより、甘えて我儘を言うた方が、お二方ともどれほど喜ぶかわからぬ」 「でも、拾った子だから……」  ほろりと口をついて出たのは、マヒアドやノネッタには言えないことである。愛されているのはわかっていて、だから言えない。悲しませてしまう。 「そなたは臆病よな、一度失ってしまった故か。だが、二度はない。そなたの父は氷獄魔王にして、母は冬の妖精ゆえに」  狼は高らかに笑った。冬山に響く遠吠えに似ていた。 「お城で、何かあったんですか」 「主の言えぬことを、代わって口にするがよき臣下よな。いやはや」  わざわざ迎えに来て、諭すようなことを言う。マヒアドとノネッタには、この言葉は聞かれたくないのだろうか。狼は問いに答えず、また少し早足に戻った。 「おかえりなさい、早かったですね」  話が終わるのを待っていたかのように、頭上を覆う木々の葉の間から、ノネッタが現れた。実際に待っていたのかもしれない。 「乗っていかれまするか。ノネッタ様がお望みとあらば、ワルキューレV12であれ置き去りにして見せましょうぞ」 「そ、そこまで速い必要はないですね……」  すいとノネッタが降りてきて、後ろに座る。細い手が優しく背中を撫でた。やっぱり何かあったのだ。  冬の夜は素早く降りてくる。雪に薄墨を含ませたように、影が濃くなりつつある道を、狼は飛ぶように走っていく。影の中に城の明かりが灯る。その光を背にして、魔王の長身が、シルエットになって佇んでいる。 「サンタクロース……?」 「そうだ」  マヒアドは威厳ある表情で頷く。 「そのサンタクロースはな、死霊魔術の遣い手で、死者にプレゼントを届けるというのだ」  側に立つノネッタが、真剣な顔をして前を向いている。マヒアド配下の魔族たちの振る舞いは、気を遣ったのかその場を離れた者、留まって一緒に話を聞く者など様々だったが、とにかく皆何らかの形で、事の成り行きを気にしているようだった。 「サームイテツクに伝手がある。そのサンタに特に頼んで、降霊術を試みてもらえるやもしれん。お前はどうしたい」  マヒアドは言葉を切り、目をせわしくしばたたかせた。 「この時期サンタクロースは忙しいから、都合がつくかはわからぬ。魔術は魔術だ、失敗もある。試したところで、お前をがっかりさせるだけかもしれん、だが……お前はまた、ご両親に会えるかもしれんのだ」 「……」  咄嗟に答えられない。会いたい。でも、親に会いたいと聞いたら、面倒を見てきたのは自分たちなのにと、がっかりされてしまうだろうか。そんな特別な魔術にはいくらかかるのだろう。それに……  くしゃみが聞こえた。 「いや失敬」  狼は会釈すると、上げた鼻先でさり気なくノネッタを指した。彼女の小さな手は組み合わされ、ぎゅっと力が籠められている。 「会い……たいです」 「よし。わかった。任せておけ」  ノネッタの組んだ手が緩む。マヒアドは力強く請け合った。 「そうと決まれば準備が必要だ。何を贈るか考えるがいい」  ノネッタの細い指を見る。贈るものはすぐに思いついた。 「ノネッタ様」 「はい」  ノネッタがこちらを向く。少し驚いたような顔だった。 「編み物を教えてもらえませんか」  その顔がうれしそうに笑った。 「ええ、もちろん!」 「普段はね、こういうことはやらないんです」  サンタクロースは、クリスマスより少し早くやってきた。スネグラ=アッテンボローと名乗ったその人は、中年の女性だった。 「二度と会えないはずの人に会えたなら、ずっと一緒にいたくなる。当たり前の心の動きです。でも、それはとてもとても難しいこと。そのために人生を賭けて、それでも叶わない人がたくさんいるくらいです。それはサンタクロースの仕事じゃない」  彼女は魔術の道具を並べながら、独り言のように言った。サンタクロースの白い袋から取り出される道具たちは、死霊魔術という言葉の物々しさにそぐわず、おもちゃのように可愛らしい。 「それから……ネクロマンサーは魔術師に過ぎない。魔術では手の届かない場所に行ってしまう人もいます。二度と会えないって二度思い知らされるなんて、悲しいじゃないですか。クリスマスが、そんな悲しい日であっちゃいけない。そうでしょう?」  スネグラの目が道具から離れ、周囲を見回した。付き添いに来ていたマヒアドとノネッタが、小さく頷く。 「だからね」  スネグラがしゃがんだ。子供のためにしゃがんだことが何度もある、自然な動作だった。 「あなたのお父さんとお母さんが、ここに来られなかったとしても……それは二人があなたに会いたくなかったからじゃないんだよ。覚えておいて」  強く優しく、人を安心させる顔だった。この人が言うなら、信じていい。そう思わせてくれるオーラがある。 「わかっています」  スネグラは歯を見せてにこりとした。 「じゃあ、始めましょう」  彼女の手が蝋燭に火を灯す。 「魔術はこの火が消えるまで。悔いのないように」  蝋燭の火が暖かな橙色に輝く。蝋の燃える匂い。蝋に何か香料が混ぜてあるのか、スパイスの香りが漂ってくる。オレンジの、紅茶の、焼いたソーセージの、温めたワインの……  光の向こうに、両親が立っている。生前のままの姿で、少し驚いた表情を浮かべて。父親の胸を貫いていた矢はなく、母親の手は霜に覆われてはいない。 「……!」  母親が飛びついてきて、両手を伸ばした。手は火のこちら側には届かない。父親が母親の肩に手を置いて、なにか言った。この世のものではないからなのか、二人の声は聞こえなかった。 「お母さん、お父さん……」  何を言えばいいのだろう。会いたかった、寂しかった、一緒に行けなくてごめんなさい、どうして置いていってしまったの、今は痛くも苦しくもないんだね、よかった……。言葉はたくさん思いついたけれども、どれも嘘くさいようで、何も言えなかった。  涙が出たらいいのに。 「……!!」  突然背中が濡れた。真後ろに立っているマヒアドが、声を出さず号泣していた。ノネッタが側に来て、そっと手を握ってくれた。自分とさして大きさの変わらない手の力を感じながら、話し始める。 「今は、この人たちのところに置いてもらっていて……」  言葉を口に出してみると、やはり嘘くさい気がした。本当に大事なことは、声から抜け落ちてしまう。伝えたいのは、こんなことじゃないはずなのに。 「みんないい人たちで、元気でやってる。心配いらないよ、安心して」  母親は少し涙をこぼしながら、せわしく頷いた。父親は母親の肩を抱いて、悲しみを隠そうとしながら笑った。 「それでその……贈り物があって」  蝋燭の火の上を通して、包みを差し出す。毛長牛の毛糸で編んだマフラーだった。 「こっちの人たちの仕事を手伝わせてもらって、お金を貯めて毛糸を買って、作ったんだ……そっちでは、役に立たないのかもしれないけど」  母親は首を振り、包みを抱きしめて、嬉しそうに笑った。父親は早速包みを開けて、マフラーを首に巻き、涙をこらえるのに失敗した、くしゃくしゃの顔で笑って見せた。 「……」  マヒアドが何か言おうとして、すすり泣きを漏らしたきり、口を閉ざす。ノネッタがその肩に手を置いて、なだめるようにさすった。 「ご子息はわたしたちが、責任を持ってお預かりします。精一杯育てます。どうか安らかに」  ノネッタが高い声で言う。少女めいた顔が、責任を覚悟した大人の表情を浮かべている。 「……いい子です」  マヒアドはかすれた小さい声で、なんとかそれだけを口にした。  蝋燭の火が揺らめく。もう消えてしまう。思いがけず大きな声が出た。 「お父さん!お母さん!」  蝋燭の火が消える一瞬、両親がこちらに笑いかけ、それから深く頭を下げたのが見えた。 「大丈夫かい?」  スネグラが力強い笑みを向けてくる。笑顔が浮かべられず、ただ頷いた。 「はい」 「そうかい」  笑みが優しくなった。この人は、こんな悲しみをたくさん見てきたのだろうと思った。 「ほら、泣かないで。折角のクリスマスですよ」  スネグラは立ち上がり、号泣しているマヒアドをなだめた。マヒアドはごしごしと顔を拭いながら、なんとか普段通りの表情を作り、ぐっと頭を下げた。 「そうですよ、クリスマスです。パーティの用意があるんです。良ければスネグラさんも、どうぞいらっしゃってください!」  湿った雰囲気を吹き飛ばそうとするように、ノネッタが明るい声を上げる。 「おや、嬉しいですね。サンタはパーティに出られないものですから」  スネグラがにこにこした。 「行きましょう。みんなが待ってます」 「待ってください」  皆を先導するノネッタを呼び止め、隠していた包みを差し出す。 「プレゼントがあるんです。両親と同じもので、申し訳ないですが」 「わたしたちに、ですか?」  ノネッタが目を丸くした。敏感な彼女に気取られないよう、部屋でひとりの時に、こっそり編んだのだ。 「ありがとうございました。大した贈りものができなくてごめんなさい」 「大したことないなんて、そんなはずありません。ありがとうございます」  一方、マヒアドは何も言わなかった。止まりかけた涙が、また溢れ始めていたからだった。