​リビングを支配しているのは、静寂という名の暴力だった。 一週間。楓がその姿を消していた空白の時間は、我が家の均衡を無慈悲に粉砕した。 ​保護されてから三日が経つが、リビングの空気は澱んだままだ。 父さんは憔悴し、母さんは時折、理由のない涙を流してはキッチンへ逃げる。 そしてボクは……。 ​(ボクは、何を考えているんだ。こんな時に……) ​部屋の隅、壁の影に背を預けながら、ボクは視線を床に落としていた。 ボクの心臓は、楓が戻ってきたあの日から、一度も静まることを知らない。 それは心配ゆえの動悸ではない。自分でも嫌悪するほど、ドロドロとした「後ろ暗い期待」が、この沈黙の中でじわじわと鎌首をもたげているからだ。 ​ボクは、妹である楓を、歪んだ情欲の対象として見ていた。 清廉で、非の打ち所がないほど美しい、ボクの妹。 彼女が失踪した時、ボクは気が狂うほど心配したのと同時に、心の深淵でこう囁く自分を見つけた。 ​──『これで、ボクの劣情も、あいつらの仕業として「浄化」されるんじゃないか?』 ​最低だ。ボクは、この世で最も卑怯な生き物だ。 監禁され、地獄を見てきたはずの妹を、自分の欲望の免罪符にしようとしている。 ​「……楓、何か温かいものでも飲むかい? それとも、少し横になる?」 ​父さんの、掠れた声が響く。 楓はテーブルの前に座ったまま、一言も発さない。 その白い、どこまでも白い肌。月の光に透けるような指先。 あの一週間、あいつらにどれほど酷いことをされたのか。 そう思うだけで怒りで頭が割れそうなのに、それ以上に、傷一つなく戻ってきた彼女の「神聖な美しさ」に、ボクの理性が削り取られていく。 ​「楓……?」 ​不意に、楓が椅子を引いて立ち上がった。 その動作は、淀んだ空気を切り裂くように滑らかで、あまりに唐突だった。 ​彼女は迷いのない足取りで、リビングの中央へと歩みを進める。 そして、家族の視線が集中するその場所で──。 冷たいフローリングに、あの日、見知らぬ男たちに無惨に踏みにじられたはずの両膝を、静かに、そして毅然とついた。 ​「お願いします。兄さんに、私を上書きさせてください」 ​耳鳴りがした。 視界が白く明滅し、ボクの心臓が胸を突き破らんばかりに跳ねる。 楓は床に額を擦り付け、深々と頭を下げている。さらさらと零れた黒髪が、フローリングに黒い花を散らしたように広がった。 ​「……っ、楓、何を……何を言ってるんだ! お前は、まだ混乱してるだけだよ!」 ​ボクは悲鳴に近い声を上げて、彼女に駆け寄った。 彼女の肩を掴み、無理にでも立ち上がらせようとする。 その瞬間のボクは、彼女を助けたい一心だったのか、それとも、自分の胸の奥で爆発した狂おしいほどの「歓喜」を、必死に隠したかったのか、自分でも分からない。 ​「混乱なんてしていません」 ​楓が顔を上げた。 至近距離で合う瞳。そこには涙が溜まっていたが、その奥にある光は、驚くほど冷徹で、そして揺るぎない確信に満ちていた。 ​「私は、汚されました。知らない男たちの、身の毛もよだつような匂いや感触が、今も私の全身にこびりついて離れないんです」 ​「それは……でも、ボクなんかが……ボクみたいな情けない兄が……」 ​「お願い、兄さん。兄さんは、私が世界で一番信頼して、一番大好きな人だから」 ​楓の手が、ボクの腕に添えられる。その指先の熱が、ボクの罪を暴くように肌に染み込んでくる。 ​「兄さんの熱で、私を全部塗りつぶして。兄さんにだけは、私の全部を捧げられるからっ」 ​ボクの膝から力が抜けた。 楓の言葉は、ボクにとっての地獄への招待状であり、同時に唯一の「救済」でもあった。 妹をこんな風に求める自分を、汚れた存在だと罵り続けてきた自分を、彼女自身が『ボクにしかできないことだ』と言って肯定してくれたのだ。 ​ボクは、彼女を救うという最強の大義名分を手に入れた。 この卑怯で受動的なボクが、この世で唯一、彼女のヒーローになれる道。 ​(ボクが……ボクがやらなきゃいけないんだ。彼女を救うために。……それが、ボクに許された唯一の贖罪なんだ) ​「ボクが……やるよ。父さん、母さん。楓を救えるのは、ボクしかいない」 ​ボクは震える手で、楓の華奢な肩を抱き寄せた。 彼女の肌は、信じられないほど柔らかく、そして……ボクを求めているように感じた。 これが過ちだと、倫理が崩壊する音だと分かっていても、ボクはもう、楓の差し伸べたこの甘い罠を、振り払うことなんてできなかった。 ​