「ねぇ朋子……カレー、食べたくなぁい?」 そう口を開いたのはサカエトル地下で暗躍する盗賊ギルド宵の明星の幹部が一人、ヘカトン明美である。 「カレー? そうねぇ……どっちかと言うと素敵な彼が食べたいわぁ」 それに答えたのは同じく宵の明星の幹部、ケルベロス朋子であった。 普段なら地下に構えた拠点で闇オークションの目録を眺めたり、お肌のお手入れをして過ごす彼女らだが、先日発生したSSS──サカエトル・サウナ・サークル──によるサカエトル地下サウナ化テロによりギルド拠点は壊滅。 未だロウリュ噴き止まぬ場所になんて居られない!と市街へ繰り出した形であった。 とは言え、普段は地下に籠りっぱなし。 外に繰り出す──盗賊のお仕事❤──としても日がすっかり落ちた真夜中の話。 慣れない日差しに加えサウナテロの疲労も重なり、市街の一角に据えられたベンチにて、ぐったりとした様子で街を眺めていた。 サウナテロによる影響は地上にも及んだようで、街路はひび割れが目立ち、屋根や壁の欠けた家屋も少なくない。 けれどもサカエトル市街はヘカトン明美ら二人とは対照的に活気に溢れていた。 商人たちは家の奥から机を引っ張りだして即席の露店を披露して見せるし、行き交う人々はそれを当たり前のように受け入れている。 つい先日、地面から高温の蒸気が噴き出したり、巨大ロボットが出現したことなど意にも介さず既に日常の顔に戻っていた。 王城があんなのだからさもありなんという気もするが。 ともあれだ。 「美しくないわ。 みんな逞しく生きてるってのに、こうしてダラッとしてるなんて」 「そうかもだけど、なんでカレーなのよぅ?」 「ほら、ガツンと芯に響くスパイスの効いたカレー食べれば少しは元気が出るってもんじゃない?」 ケルベロス朋子は完全には納得いっていない様子で「そうねぇ……」と曖昧に返したが、ヘカトン明美は喋っている内にカレーの口が出来上がってしまったのだろう。 やおら立ち上がり「行くわよ!!」と声を張り上げたのち、返事も待たず行ってしまう。 「ちょ、ちょっと待ってよ姐さま!」 一拍遅れて立ち上がったケルベロス朋子は、「姐さまって割と脳筋よねぇ」などと考えながらヘカトン明美の背中を追った。 ◆ ◆ ◆ 活気ある市街から一転、二人は高架近くの雑居ビル群に囲まれた路地裏を歩いていた。 「姐さま、全然カレーって感じの雰囲気じゃないけど?」 スンスンと鼻を鳴らし狼獣人特有の臭覚で周囲を探るケルベロス朋子だが、すえた不快な臭いがするだけでカレーはおろか飲食店の気配の一つもしない。 ただヘカトン明美の脚に迷いはなく、右へ左へスルスルとコンクリートの迷路を進んで行く。 「このワタシが食べるカレーなのよ? ただのカレーなんかじゃないわン」 彼女はそう言って茶目っ気たっぷりにウィンクを投げ、更に奥へ奥へと歩みを進めた。 どうやらサプライズにしたいらしい。 ケルベロス朋子もそれ以上聞くことを止め、大人しく後に続いた。 周囲は徐々に暗がりを増し、普通の人間ならば脚を踏み込まないであろう様相を呈していたが、彼女らは裏の住人である。 そんな場所にあるカレー店もまた、まともなモノではないことは明白であった。 そうしてしばらく。 本当に偶然だった。 「あらぁ! 薫子じゃないの! こんな所で何してるのよ」 T字路でバッタリ! 現れたのはヘカトン明美らと同じく明星幹部、オーディン薫子である。 常に周囲に目を光らせているかのような険しい顔は、同僚との偶然の出会いによって更に一段階険しさを増す。 「何してる? じゃないわよアンタたち! サウナテロのどさくさに紛れて宝盗まれたって知ってるでしょ!! その調査よ!」 「はぁ〜ん、だから裏通りに。蛇の道は蛇ってやつね。大変ねぇ、アンタも」 「他人事みたいに言って! ウチの沽券に関わるんだからアンタらもちゃんと探しなさいよ!」 「んもぅ、やぁねぇ股間だなんて」 「股間握られてるようなもんよ! まったく……盗賊が宝盗まれたのよ!」 そんなコントめいたやり取りを重ねたのち、オーディン薫子はがっくりと肩を落とした。 ギルドにおける命令違反の伝導者たるヘカトン明美にも、明美を慕うケルベロス朋子にも何かを言って聞かせるだけ無駄だと諦めたのだ。 「んで? アンタらは何の用?」 「んふふ、カレー食べに来たのよ。明美姐さまがとびっきりのカレー食べさせてくれるって言うから」 「あっそ、聞いたワタクシが馬鹿だったわ」 心底呆れたという表情で来た道を引き返そうとするオーディン薫子をヘカトン明美が呼び止めた。 「アンタも一緒に食べる? 予約してるわけじゃないし、それになんたってガッツ出るわよ」 そういえば今日何も食べていないな、と自分の腹具合を確かめ、同時にカレーの風味を思い浮かべてしまったオーディン薫子。 乙女のお腹が鳴ってしまうのも致し方ないことだ。 「決まりね」 しっかりと聞き漏らさなかったヘカトン明美がニヤリと笑う。 「か、勘違いすんじゃないわよ! あくまで情報収集の一環よ!」 「はいはい、迷子になるんじゃないわよ」 「んもう! 馬鹿にして!」 こうして三人となった一向はサカエトルの更に深部へ━━ 「なぁ〜んて言ってる間に着いたわ! ここよぉ!」 案内されたのは何の変哲もない雑居ビルだった。 コンクリートが剥き出しで窓も少ない不愛想な、これまで通り過ぎてきたのとなんら違いのない雑居ビル、その裏口。 当然、そこがカレー店だと知らせるものは何一つ用意されていない。 「本当に大丈夫なんでしょうね?」 「薫子は心配性ねぇ、ワタシが大丈夫って言ってるんだから大丈夫に決まってるでしょ! じゃ、行くわよ」 ヘカトン明美は独特のリズムで戸を叩いた。 それが符牒となっているのだろう。 ややあって鍵の回される音が聞こえ、スッと戸が一人でに開く。 三人は中へ足を踏み入れるが、広がる光景はやはり普通。 剥げかけた白壁、安っぽい蛍光灯、壁際に並ぶ事務所用のドア。 まだ完全に店の中というわけではないらしい。 ケルベロス朋子は再び鼻を鳴らすも、ビルに入ってなおカレーの匂いはしなかった。 何らかの結界術や封印術が施されているのは明らかであり、そうまでしなければいけないカレーとは一体何なのか。 いよいよ期待が高まるというもの。 ヘカトン明美は楽しそうに肩を揺らしながら奥へ進み、突き当たりにあるエレベーターを呼んだ。 ランプが五階から一階へ順に灯り、「チン」という気の抜けた電子音と共に停止した。 扉が開くと中に男が一人。 互いに目を合わせないようにして入れ違いでエレベーターに乗り込んだ。 「……今のも客かしら? 食べ終えたって感じね」 「まぁそうなんじゃない? このビル、カレー店以外入ってないし」 「でも、あの男何か言ってなかった? ボソっとだけど」 「あんたのドギツイ化粧に思わず声でも出たんじゃなぁい?」 「はっ、そっくりそのまま明美に返してあげるわ」 「でも、薫子姐さんと同じであたしも聞こえたわよ。 なんか男のお腹辺りから━━ それは本当ですか……って」 「…………!? ちょっと朋子、それ本当!?」 途端、オーディン薫子の顔が青ざめる。 一方のヘカトン明美は得意げだ。 「まぁいいわ。教えてあ・げ・る❤️ そう! 今日食べに来たのは、細胞の一片になってなお鳴き声を上げ続ける究極のスタミナ食材!」 その声こそが彼女の用意したサプライズの正体。 「魔鹿肉を使ったカレー、通称『魔鹿レー』よン!!!」 「はぁっ!? 馬っ鹿じゃないの!? 魔鹿肉ってツツシミ法で持ち込み禁止なのよ!? テロ等準備罪よ」 魔鹿━━その特徴的な鳴き声は山を三つ越えると言われ、細切れにしてもなお肉片から声を上げ続ける魔界の鹿。 夜行性の彼らは安眠の対極に位置し、人魔問わずその対処に頭を悩ませる害獣。 そんなものをカレーと煮込んで食おうと言うのだからオーディン薫子の反応も当然と言えた。 「盗賊のワタシらが気にすることじゃないわン。それにワタシたちはただの客だもの」 「 お腹から声が出る食べ物なんて盗賊が一番食べちゃダメでしょ!」 「どうせギルド直るまで仕事もないんでしょ薫子姐さん? だったら仕事のない今だからこそ! じゃない?」 「それにもうここまで来ちゃったんだから」 ヘカトン明美がそう言い終わると同時にエレベーターが目的地に到着し扉が開いた。 オーディン薫子は最後まで納得のいかない様子ではあったが、しまいには折れた。 エレベーターホールを挟んで向かい側にまたしても扉が一つ。 扉の前には屈強そうなスーツの男が一人。 ヘカトン明美はその男に目配せをすると、男は短く頷いたのち三人を中へ案内した。 そうして、一向はようやく本当の意味で店に辿り着いた。 落ち着いた色合いの壁紙に木製のテーブルと椅子が整然と並び、天井からは柔らかな照明が下がったレストラン風の内装。 客は数人おり、その全員が「それは本当ですか!?」と鳴く奇妙なカレーを口に運んでいる。 その光景は異様そのものであったが、それ以外は徹底して普通を装っていると見えた。 ウェイターに連れられ、窓際の席へと座る。 当然、メニューは置いていなかったし、注文を取られることもなかった。 後はただ黙って魔鹿レーが出てくるのを待つのみだ。 「それにしても、どうやって魔鹿を持ち込んだのかしら? いくら肉片で持ち込んでもキロ単位で運んだら声でバレるわよね?」 「さぁ? 夜行性っていうから昼間寝てる間にこっそり運んだんじゃない?」 「どっちかってと言うと食べた後の方が問題よ! だって私は魔鹿を食べました~って言いながら街を歩くことになるのよ? ただでさえサウナテロで王都警察が目を光らせてて危ないってのに」 「食べた後の心配なら要らないわ。詠唱封じの効果を持つスパイスを三日三晩揉み込むことで、初対面の親戚の叔父さんに挨拶するガキンチョくらいの声量まで抑え込んでるのよ」 「それ、結構なボリュームじゃない?」 「大丈夫大丈夫。こんにちは……くらいの感じよ」 「明美姐さまって子供の頃はシャイだったのね」 「それがすっかり面の厚いムキムキオカマになっちゃって」 「美しさに磨きがかかったって言ってほしいわね」 そんな他愛もない会話で時間を潰していると、銀色のワゴンを押したウェイターがこちらに向かってくる。 ウェイターが近づいてくるにつれ、インド風と思われるスパイシーな香りとともにトレイの蓋の隙間から、かすかに―― 「……それは本当ですか……?」 「ちょっと!? 今、鳴いたわよ!?」 「ほらほら、来た来た」 ヘカトン明美は満足そうに手を打つ。 ウェイターが一礼し、蓋に手をかけた。 「魔鹿レーでございます」 深く濁った褐色のカレーが静かに揺れていた。 野菜などは溶けきってしまったのか、どろりと粘性の高いルーに浮かぶ具材は大ぶりの肉塊のみであった。 てらてらと光るソレはスプーンでも簡単に崩れそうで、しかしどこか弾力を秘めているようにも見える。 スパイシーな風味も相まってとても美味しそうではあったのだが。 ただやはり、「それは本当ですか!?」と肉塊がプルプル震える様は一口目を躊躇させるに十分な光景だった。 「ちょっと明美、アンタが連れてきたんだからアンタから食べなさいよ」 「こういうのは若い子に譲ってあげるのがデキる女ってやつよ。ってことで朋子、食べなさい」 「うぇ!? あたし!? 姐さん方に譲るわよぉ。というか明美姐さまも食べたことないの?」 「話には聞いてたけど実際に食べるのは初めてよ」 「…………なのにあんな得意げにしてたの?」 「あぁ~もう、うっさいわね! じゃあせーので一斉にいくわよ! それなら文句ないでしょ!!」 それぞれおっかなびっくり、魔鹿肉をカレーと合わせてスプーンですくい、口の前まで運ぶ。 「じゃ、いくわよ……せーの………って朋子、アンタもスプーン構えなさいよ」 ケルベロス朋子は固まったようにヘカトン明美の後ろを眺めていた。 「明美姐さま、あれ魔鹿じゃない?」 「はぁ? 魔鹿レーなんだから魔鹿に決まってるでしょ」 「いや……そうじゃなくて」 促されるままケルベロス朋子の指す方向を向くと、こちらをじっと見つめるつぶらな瞳があった。 食材用に持ち込んだものが逃げ出したのか定かではないが、とにかく立派な魔鹿が一匹。 肉片であってもスパイスで声量を抑えなければならないその鳴き声。 それを近距離で聞いたならば無事で済む保証はない。 気付けば店内は緊張に満ちており、他の客や店員らもどうして良いか分からずただ黙って状況を見ている。 (こんなところで鳴かれたらヤバイわ、絶対に刺激を与えちゃだめよ) (了解、とりあえず、そっとよ……そ~っと席を立つの。王城に忍び込むと思いなさい) 三人は読唇術でやり取りを行い、魔鹿から距離を取ろうとした。 その瞬間━━ 「「「サカエトルや!! 開けんかいコ゛ラ゛ァ!!」」」 ドスの効いた声とともに店のドアが吹き飛ぶ。 店内になだれ込んできたのは武装した王都警官たちだった。 魔鹿がピクリと反応し、そして── ┛┛┛┛┛┛┻┗┗┗┗┗┗ ┫ それは本当ですか!? ┣ ┓┓┓┓┓┓┳┏┏┏┏┏┏ その日、サカエトルの人間は思い出した。 ツツシミ様が居た在りし日のことを……。 ◆ ◆ ◆ 三人はすっかり日が落ち切った夜の街を歩いていた。 カレー店で生きた魔鹿が鳴いたその後、逃げる一向と、なぜか追いかけてくる魔鹿と、更にそれを追いかける王都警察とで鬼ごっこが繰り広げられた。 王都警察の交通安全課による魔鹿の捕獲で幕を下ろしたものの、至近距離で何度も鳴き声を聞くハメになったダメージは深刻なものであった。 普段ならばオーディン薫子あたりから「アンタのせいでえらい目にあったわよ!」などと憎まれ口の一つでも飛びそうなものだが、その気力すらないようだ。 三人の頭の中では未だに「それは本当ですか!?」と尋ねる声がわんわんと響いていた。 目的もなく歩いていると、ふと鼻をくすぐる匂いがして足を止める。 辿ってみれば路地の方からカレーの匂いが漂ってきていた。 市販のカレールーを使った絵に描いたような家庭的なカレーの姿を容易に想起させる。 誰が言うでもなく、匂いに引かれるように進んでいき、そうして── 「あらやだ、これウチの店……」 路地の暗がりに浮かぶのはこぢんまりとしたバーであった。 表向きの顔として、また地下拠点の出入り口として宵の明星が持つ店の一つだ。 サウナテロを受け、しばらくは閉店のはずで、確かに扉にはCLOSEの看板が掛けてあったが、店内は暖かな光が灯っていた。 「あら、姐さん方じゃない。いらっしゃい」 「今日の店番は日依なのね。お邪魔するわ」 中に入ると明星の団員が一人、ワルキューレ日依に出迎えられる。 ワルキューレ日依の花のような笑顔を見て、三人はほとんど投げ出すようにカウンター席に身体を預けた。 「どうしたのよ疲れた顔しちゃって」 「魔鹿がね、ちょっとね」 「あぁ、なんか今日うるさかったものね」 グラスにお冷を注いで回ると、彼女はカウンター奥の鍋に向かい直した。 「カレー作ってるのね。アンタ料理なんてするっけ?」 「あまり得意じゃないけど、花嫁修行ってやつ?」 「あら、男でもできたのかしら。まぁ何でもいいわ。一皿頼めるかしら? 朝から何も食べてないのよ」 「いいわよ、元々ギルドのみんな用に作ってたから」 ワルキューレ日依は慣れた手つきで棚から皿を取り出して白米とカレーを盛り付ける。 三人は「いただきます」と短く言って勢いよく口へ運んだ。 料理があまり得意じゃないというのは謙遜ではないらしく、ジャガイモはぶきっちょな形をしているし、ニンジンも大きさがまちまちで火の通りにバラつきがあった。 ルーも少し水っぽい。 けれども美味しかった。 「なんだかホッとする味ね。ワタクシ好みだわ」 「そうね。今はこういうカレーが一番いいわ」 「甘めだけど何か独特のピリっとした感じでどんどん行けるわね。何かしらこれ」 三人が銘々に感想を述べていく。 文句なしの好評にワルキューレ日依の顔もほころんだ。 「ふふん、隠し味ってやつよ」 「なによ日依、恋する乙女みたいな顔しちゃって」 「ちょっと、本当に男が出来たなんて言ったら引っぱたくわよ」 「乙女の秘密よぉ~❤」 気付けばあれほど頭の奥で反響していた魔鹿の鳴き声もいつの間にか聞こえなくなっていた。 疲労が抜けたのか、それとも単に温かいものを食べて気持ちが落ち着いたのか。 そうして三人はあっという間に平らげてしまった。 「ごちそうさま。美味しかったわ日依」 「お粗末様でした」 食後の余韻に浸ったように三人は椅子に深く身を沈めたまま、しばし動かなかった。 頭の中が静かになった安堵感とお腹が満たされた安心感に浸っていた。 しばらくしてヘカトン明美は大きく欠伸をかくと、ケルベロス朋子に視線を送り椅子から立ち上がる。 「じゃ、ワタシと朋子は行くわ。なんだか眠くなっちゃった」 二人は簡単に別れを告げ、店を後にしていった。 扉が閉まり、二人の足音が遠ざかっていく。 店内にはオーディン薫子とワルキューレ日依だけが残された。 フンフンと鼻歌を歌いながら食器を洗うワルキューレ日依。 オーディン薫子は少し躊躇ったのち、その背中に声をかけた。 「ねぇ、日依……サウナテロがあった日も、あなたここの店番だったわよね?」 「なぁに薫子姐さん? ……怖い顔して」 「日依……」 「え、えぇそうよ、それがどうかしたの?」 「魔水晶が盗まれたのは知ってるわよね? ワタクシはその犯人がギルドの子だと睨んでるの」 「……………」 「じゃないと辻褄が合わない。あんなピンポイントに重要金庫の一室だけ狙うなんて。内部の人間じゃないと……だから、あの日ここから出入りした子が居ないか教えてほしいのよ」 「う~ん、そうねぇ……出入りした子は誰も居なかった、と思うわ」 「誰も? ……そう、そうよね。ありがと。変なこと聞いたわね。じゃあワタクシも行くわ。魔水晶を盗った犯人を早く捕まえないと」 「お疲れ様、薫子姐さん。疲れたらまたカレー作るわね」 オーディン薫子も立ち上がり、バーのドアに手を掛ける。 カランカランとドアベルの小気味いい音と共に、夜の冷たい空気が店内に忍び込んできた。 「あぁそれと」 オーディン薫子は振り返り、日依の顔をじっと見つめた。 一瞬、探るような視線で何か言いたげに口を開いたが、それを飲み込み柔らかに微笑んだ。 「……今度、隠し味が何か教えなさいよ」 「ダメダメ、姐さんにだって教えらんないわ。これも乙女の秘密なのよ❤️」 薫子が店を出ると、日依はしばらくその背中を見送ってから、静かにカウンターへ視線を落とした。 「ごめんなさいね……薫子姐さん……」 ◆ ◆ ◆ それからいくらか経ったある日のこと。 宵の明星所有のバーで鍋に向かう人影が一つあった。 「あら、薫子じゃないかい。幹部自ら店番なんてご苦労なこったね」 「そっちこそ金庫番が金庫を離れていいわけ?」 「何やらカレーのいい匂いがするもんだからね」 「そう、食べてく?」 「せっかくだし一皿もらおうかね」 オーディン薫子は棚から皿を取り出して白米とカレーを盛り付ける。 鍋からよそったカレーは、あの夜の物とよく似ていた。 だが、決定的に違うことを、彼女自身が一番よく分かっていた。 「あまり期待するんじゃないわよ。足らないのよね……隠し味が……」 彼女はそう呟き、鍋の蓋を静かに閉めた。