野良犬でも飛び込んで来たのかと思った――低い唸り声、どたばたと地を駆ける音。 「ウソツキ!ウソツキ!」 今時総合格闘技でも見ないような容赦ないパウンド――頭から肩まで満遍なく。 だが拳には力なく、当たっても、ぱすん、ぱすん、と軽い音がするばかり。 俺にマウントを取っている緑髪の肉食獣は、今やそこらの仔犬にだって見劣りするだろう。 「オマエ…クリップノコト、キライカ!?」 首を絞め上げられても、以前のような生命の危機を感じるような握力ではなかった。 天井の安っぽい蛍光灯に、逆光となった少女の顔は、今や崩れそうな程に弱々しく、 ぽたぽたと、熱い雫を俺の顔に落としてきているのだった――そんなことを言われても。 「オマエ、オレノコト…スキッテイッタノニ…」 悔しさに溢れたその顔に、貴女の勘違いですよ、と追い打ちを掛けられるほど冷酷ではない。 だからといって――是認すれば既に二人と関係を持った事実を如何すべきか。 それまでは、意思を持つ暴風雨のように俺の肉体をめためたに振り回してきていたというのに、 急に一人で騒ぎ立てて、凹んで、責めてくるとは。俺に人権というものはないのか? 君に付けられた瘤も痣も、まだあちこちに残っているぞ――と、そう言いたくもなる。 「ヴ――…!」 吊り目をいよいよ細く尖らせて睨まれても――涙で潤んでいては逆効果だろう。 五人の中でも殊更小さな体躯が一層縮んで、見えなくなってしまいそうだ。 「レコノ…キューノニオイスル…」 少女は鼻を鳴らして、俺の身体と服に着けられた残り香の正体を探る。 何も犬の真似、というわけではない。彼女らの付ける香水の、整髪料の匂い―― それは近しい間柄の人間なら、飽きるほどに嗅ぐものでもあろう。 無言のままに俺の全身を嗅ぎ回っている間も、手は獲物を逃がすまいと押さえ込んでくる。 やはり力は失せ――彼女が二人に遅れを取ったことによって、 少なくとも危害を与えてくる存在でなくなったことに、俺は安堵を―― ごりっ。痛みに、視界が滲む。鋭い痛み。肉の裂ける、皮膚の奥に、沈み込む痛み―― 反射的に彼女の顔を見る。血。赤い色。誰の?当然――それは俺の、太腿からの。 「オマエ…クリップノ、モノ――シルシ…ツケル」 言い終えるや否や、また歯は俺の――脛に沈む。反射的に跳ね上がりそうになる脚を、 彼女は先程までの弱々しさが嘘のように強く抑え込み、逃げることを許さない。 虎、豹、獅子。大型の猫が、懐中にて小鳥の残骸を転がしているのと同じ。 肉を千切るための――ではない。歯型を、俺の上に残す――執念深い、噛み跡。 がりっ。ごりっ。少女は俺の肌のあちこちに、その鋭い犬歯を突き立てる。 噴き出す血を舐め取り――目を爛々と光らせて、興奮を強めていく。 人に噛まれる、というのは想像以上に精神の抵抗力を損なうものだ。 自分が人ではなく――ただの肉の塊のように扱われている、と思い知らされるからか。 五回目までは苦悶の声を上げていた俺の喉も――その倍の数の歯型が付いた頃には、 すっかり、言葉としての意味を持たない呻きしか出せなくなっていた。 唇に付いた血を拭う赤い舌は、少女の小さな口の中で、別の生き物のように躍っている。 元より言葉を紡ぐためよりも――きっとあのために、今まで不本意に使われてきたのだ。 スキ――オレノ――ココニモ――歯の触れるほんの一瞬前にこぼれる彼女の言葉は、 俺が抵抗らしい抵抗をしたら――その牙の立つ箇所が、どこに滑るかもわからなくさせた。 首筋に彼女の唇が触れたとき、脳内に浮かんだのは――食い破られる、頸動脈の切れっ端。 実際に残ったのは、唇の裏との間の陰圧の作る、貝型の鬱血の跡だったが。 「――フウ…」 一仕事終えた顔で、少女は俺を見下ろした――数えてもいないが、全身が痛い。 身体中の関節と筋肉とを、満遍なく噛み切られたように力が流れていかない―― そして彼女はそのまま、俺の身体と並行になるように密着して――頬ずりを、する。 自分の付けた痕を一つ一つ確かめるように、手で触れ、頬でなぞり、胸を、押し付けてくる。 柔らかな二つの膨らみ。身長に反比例して大きな、不釣り合いなほどの丸み。 幼げな顔、未発達な情緒、片言の言葉――そんなものからは想像できない、明らかな雌の証。 「モウ、ウワキスルナ」 にいっと口端を歪めて――少女は自身の服の、胸元をぐいっ、と握って引き下ろす。 そこに詰め込まれていた、大ぶりなものが重力に引かれて、前に――下に、振れる。 それまで散々噛み付かれ、なぶられていたのに、俺の中の雄の部分は、 そちらを見ずにはいられないのだ――思ったよりもずっと大きな、それを。 俺の視線が胸元に集まるのを見て、少女の自尊心は随分と回復したらしい。 乳房を目の前でたぷたぷと自由にさせながら、俺の股間に手を伸ばし――ホックを外す。 「ココニモ、ツケテヤロウカ――」 開いた口を見せられ、握られながら言われると、とてもではないが平常心ではいられない。 無論それが冗談――一応は――であるとわかっていても、“俺”は縮こまってしまう。 それを、彼女の舌が撫で――また無理やりに、硬さを取り戻させてくる。 胸と舌とで俺の興奮を証立てた少女は、当然の権利として、俺の上に跨る。 そして、また当然のごとくに――俺のもので、勝手に、純潔を千切り捨てていくのだ。 その行為の魔力によって、人を縛ることができると信じているかのように―― 「オマエ、モウ、クリップのモノ…オレ、オマエノ――」 最後まで言い切らずに、少女は顔を赤らめ、ごまかすかのように腰を降ろし、振る。 一方的な所有権の宣言――ロマンのある言い方にすれば愛の告白――を受けるのも三度目、 心臓が冷たく凍って奈落の底へと沈んでいくのも、三度目のことだ。 こんな女たちとの、いつ冷めるやも知れぬ契りなど――恐ろしくてたまらない。 ふと俺は思うのだった。彼女たちの表の顔、キラーチューンの“本当の”ファンなら、 こうして複数人と肌を重ねるに至った俺を、どう思うであろうか? まして、その俺自身が現状から逃げたがっていると知ったなら――殺されるかも、しれない。 腰を振っている間は、流石に新しい歯型を付けられることはない――代わりにキスマークが、 新しく何箇所にも、分散して――それは当然、隠しきれないだけの広範囲に――飛び散る。 鬱血はそう簡単には消えない。歯型となれば治癒するのにどれだけかかることか。 まだ無理やり空けられたピアス穴さえ閉じていないというのに―― 俺の辟易とした感情を尻目に、小さな獣は俺の上で大きな胸を揺らしながら声を上げ、 膝頭で俺の脇腹をぎゅっと挟み込んで――奥の奥へと、精を呑み込んでいく。 「チョット、ヤリスギタカナ…」 胸板に付いた歯型を手の腹でぽんぽん叩き、他人事のように言う。 一つ二つなら服の下に隠せようが、これだけの数は――自然、誰がやったか、まで、 五人の中の公然の秘密となるだろう。そして、他の四人が彼女のこの行為に対して―― それを考えるだけで、射精の僅かな余韻は消え失せてしまう。 ガキの頃に転んで鼻の骨を折った時だって、ここまで快癒を祈ったことはなかった。 俺の不安をよそに、少女は身体を擦り付け、自分の使う洗剤の匂いを擦り込もうと試みる。 そんなことをすれば――また別の誰かが、同じことを俺にするだけだろうに。 俺の精神はじくじく痛む肉体から逃避し、どこか遠くに流れ去っていくように思われた。