自分がGO鬼塚を好きになれない理由……それは、「人間らしさが欠けていると感じた」からなんじゃないかなって思いました。  え?人間らしいだろ!って言いたくなるとは思いますが、自分なりにそこを言語化してみたい。  人間らしさの定義については、人それぞれ解釈があると思います。  今回自分が定義する人間らしさは、善悪両方が備わっていること。  例えばドン・サウザンドを人間らしい…と考える人はあまりいないと思う。  葛藤や躊躇や他者を慮るといった部分がないからですね。  これは極端な例であって、流石に鬼塚もそれと比較できる程の悪党ではないとは自分も断言します。  ただ、鬼塚は他者への関心や共感性が欠如した人物であるのも疑いようがないと感じました。  具体的そうだと感じたのが、まずPlaymakerを追う為にSOLに雇われたこと。  鬼塚が何故Playmakerを敵視しているのか……という理由については明確に描写されています。  しかし恩人でもある筈なんですよね……。  リンクヴレインズ上のみの接点ではありましたが、少なくとも背中を預けた間柄だったのにお尋ね者として追うことに躊躇はないのかと。  これに関してはSOLの事情はどうでもよく自分が追うのに都合が良かったからと受け取れますが、それにしても葛藤がなさすぎる。  Playmakerを追う過程でどういう人物なのかを考えるとか、そういう思考に行き着くのも不自然ではないと思うのですが……。 (カリスマデュエリストをやめることそのものへの葛藤はありました。あくまで自分の選択の悩みなのが性格出てますね。やめること自体は、別にいいと思います。今までの自分を捨てないと勝てないと考えるのは自然)  というか、Playmakerがどういう人物なのかを考える機会そのものはSOL入りしてからありました。  ロスト事件、その被害者であることについて財前晃から教えてもらったタイミング。  ですが、彼がロスト事件の事を知ったうえでの反応は「どれだけの目に遭ったのかは知らん。だがこの俺とて生半可な気持ちでデュエルを始めたわけではない」という内省。  「俺は苦しい人生だったが、奴も大変だったようだな」と歩み寄るわけでもなく、「奴も苦しかったようだが、俺も苦しかった」と対抗する訳でもなく。  「計り知ることはできないが」という意味合いにもとれますが、どの道相手について考えることを放棄していることに変わりはありません。  イグニスの命を軽視している点は、現代のAIの扱われ方に照らし合わせればそれ程不思議な見方ではないとは思います。  しかし、上にも下にも振れず「軽視している」で止まってしまっているんですよね。  この作品はAIに歩み寄ったり、あるいは敵視したりと様々な観点でのAIとの接し方が描かれます。  そんな中で逆に「関心なし」を貫けるのはある意味凄いような……。  デュエルリンクスでもアースについて負い目は感じていないと明言されているようです。  また、このスタンスの弊害で鬼塚はドラマが作られず本筋に関われなかったのだと感じました。  極めつけが3期で正気に戻った状態で、対Aiの為に集まった場面でも、特にPlaymakerに申し訳なさは感じてなさそうだった点が印象的でした。  強いて言うなら、Aiにアースゴーレムを出された際は流石に動揺していましたが。  Aiはもっと言っていいよ。  こうもひたすらに自分本位で思慮や配慮にも欠けた描写ばかりなので、一周してもう人間らしくないと自分は感じたのだと思います。  正直気味悪くすらある。  葛藤自体はしつこいくらいに描かれていますが、それら全てが自分に向いているのが二期以降の鬼塚なんだ。悔しいだろうが仕方ないんだ。  あと、最終的に彼と縁が深いと言えるメインキャラって不在なんですよね。  私生活で積み重ねたものに救われた形ではありますが、他者にあまり関心を持たなかったことを象徴しているように見受けられした。  鬼塚が嫌いなのかと言われれば肯定しますが、安易に切り捨てることはしたくない、許されないキャラだ考えた為にこうやって言語化した次第です。  それ程に、自分でも恐らく勿体なさとかも感じているのだと思います。  子供達の為に戦う、で一貫していたら好きになれたのかなぁ……。  マコトの為にDr.ゲノムと戦うあたりとかはかっこよかっただけに無念。