――また、夢を見ていた。 長く、永く。 理想を追い求めて、あるいは救いを探し続けて。 ただ彷徨い続けていたあの頃の、夢。 『…どうしてっ!』 目の前で、小さな女の子が泣いていた。 地面に膝をつき、嗚咽を漏らしながら、降りかかった理不尽の理由を彼女はわたしに問いかけていた。 『あの子は、確かに悪いことをこれまでにたくさんしてきました。そして、これからも人に、デジモンに、そして世界に害をなす存在だったのかもしれません。でも――』 声は震え、言葉は何度も途切れる。 『それでも…それでもあの子は、わたしのっ…!』 胸を締めつけるような、叫び。 本当は、彼女みたいな子を救いたかった。 わたしは誰よりも、そう強く願っていたはずなのに。 『どうして、あの子を■したんですか…!』 今、彼女を泣かせているのは―― 他でもない、わたし自身だった。 「全ての人が、デジモンが、必ずハッピーエンドを迎えられる世界を作りたい」だなんて。 そんな子供じみた理想を、たった一人の力で成し遂げられる世界なんて、どこにもない。 あったとしたらそれはきっと、何処かにできた歪を見て見ぬふりして作られた世界だと、今は思う。 だからこそ、人は叶わぬと知りながらも、少しでも理想に近づくために、互いに手を取り合って努力する。 そんな当たり前のことすら、あの頃のわたしは知らずにいた。 だから。 記憶をすり減らして、感情を削って、魂を砕いて。 果てに『一度壊してそういう世界に作り直せばいい』だなんて。 そんな安易な答えに縋った成れの果てに。 ――また、わたしは間違えたのだ。 「――――――」 わたしは、目の前の少女を熱の通わぬ瞳で見下ろす。 そして朗らかに、透明な笑みを浮かべて言葉を紡いだ。 その言葉が何だったのかだけは、今でもどうしても思い出せない。 けれど、少女の顔に浮かんだあの表情だけは、今でもはっきりと覚えている。 涙で濡れた頬に表れたのは、不釣り合いなほどに歪んだ――壊れた笑み。 あの時、わたし、安里結愛は―― 『あぁ…あなたのような方が、本当の救世主なんですね』 ――きっと、取り返しのつかない罪を犯していた。 *** 朝の雲雀のさえずりが、遠くで聞こえた気がした。 「うっ…」 胸の奥に残った重たい感触を引きずるように、わたしは目を覚ます。 ――先程の夢の余韻が、まだ心の芯にまとわりついていた。 あの頃の記憶。あの子の泣き声。あの時、わたしが選んでしまった言葉。 そのひとつひとつが、じわじわと身体を内側から焦がしていくようで。 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。 まるで、再び夢の続きに引きずり込まれそうな、そんな、胸の苦しさがわたしを苛んだ。 意識は深い水の底に沈んでいくように、再びまどろみへと落ちていこうとして―― 「ん…んぐっ…?」 ――おかしい。本当に、息が、出来ない。 いや、これは比喩とか精神的な問題とかそういう話じゃなくって…… 物理的になんか息苦しい! 酸素の欠乏に危険を察知して急速に脳が覚醒する。 寝ぼけた頭ではすぐに状況を飲み込めないけど、体の感覚がようやく追いついてきて、そこでようやく理解した。 わたしの顔の上に、何かが乗ってる! 手を伸ばして、顔に張り付いていたそれをぺらりとつまみ上げる。 そして、視界が開けると同時に――あの大きな黄色い瞳と、ばっちり目が合った。 「…ギギモン?」 わたしが手を離すと、重力から解放された彼女の身体は、ぽすんと胸の上に落ちた。 黒く、しっとりとした表皮に真っ白なお腹。ずんぐりしたぬいぐるみサイズの体型。 見慣れたその姿に、思わずため息がもれる。 わたしの――パートナーデジモンのひとり。 「おはよう、結愛」 ギギモンはしれっとそう言って、まるで自分が何かしたという自覚などないかのように尻尾を揺らした。 「おはようって…」 彼女の、そのどこ吹く風といった言い方にわたしは思わず顔をしかめる。 「なんで顔に乗ってたの? わたし、窒息するかと思ったんだけど」 不満をそのまま声に出してみれば、我ながら少し子どもっぽい言い方になってしまっていた。 …だって、あんな状況で笑顔で目覚められる人なんていないと思うけど! 口を尖らせ、抗議を込めてギギモンを見つめる。 しかし彼女は、わたしの不満など最初から見透かしていたかのようで、落ち着き払った声で返してきた。 「起きないのだから仕方ない、招集の時間に遅刻しそうだったからな」 「…それでもさ、もうちょっと優しい起こし方あったでしょ!」 「どうも、うなされていたからな。こうでもしなければ、起きなかっただろう?」 「……っ」 口から出かけていた言葉が思わず止まる。 喉の奥がぎゅっと詰まって、声が出せない。 霧散しかけていた夢の輪郭が、わたしの中で再び形を取り始める。 呼吸が乱れるのは、もうギギモンのせいじゃない。 それはわたし自身の――まだ癒えきらない、ずっと抱えている後悔のせいだった。 「…そっか。ごめん、ありがとう」 小さな声でそう言って、わたしはギギモンを胸元へそっと引き寄せぎゅっと抱える。 感じるすべすべの背中の感触と柔らかな重み。 その温かさが、ここが夢じゃなくて、確かな『現実』なのだと教えてくれる気がした。 「……」 ただ、それでもやられっぱなしは少し悔しかったので―― 意趣返しのように、そのままギギモンのお腹に顔をぐりぐりと押しつける。 「おい結愛…はあ、まったく」 呆れたような声が頭上から聞こえてくる。 それでもやめずに、何度も、深く深く、深呼吸。 日向で温まったような、ほんのり甘い匂いが、わたしの中をゆっくり満たしていく。 ギギモンはくすぐったそうに少し身じろぎしたけれど、それ以上何も言わずに、じっとしていてくれた。 「落ち着いたか?」 しばらくしてから、彼女はまるでお母さんのように優しい口調でわたしに問いかけてくる。 …なんとなく、それがおかしくって。 「…うん」 と、微笑みと共に自然に口から返事がこぼれた。 「ほら、早く身だしなみを整えてこい。のんびりしてる場合ではないぞ」 「はーい」 ギギモンを一度ベッドの上にそっと置いて、小さく伸びをする。 わたしはようやく布団から立ち上がると、洗面台へと足を運んだ。 *** 鏡の前に立ち、寝巻きから普段の服装へと着替える。 顔を洗って、歯を磨いて。 いつも通りのルーチンワークだ。 「……」 しゃこしゃこと、歯ブラシを手で動かしながらわたしはふと想いを馳せる。 …腐り切った理想を叩き折られ、こうして現代の世で生活を送るようになってもうしばらく経つけれど。 スマートフォン? Suica? PayPay? だとか。 わたしの記憶の中にある二十年前と比べたら、世の中の常識というのはもはや物語の中みたいに別物で、最初は本当に戸惑うことばかりだった。 でも、こうして朝に身支度を整える流れだけは昔とまったく変わっていない。 思えば、わたしを取り巻く環境も、わたし自身も大きく変わってしまった。 けれど、こうした変わらない習慣があるというだけで、心の大事な部分が保たれている気がする……なんて。 そんなことを考えながら、わたしは、鏡の中の自分をぼんやりと見つめた。 「……髪、また少し白くなっちゃったな」 黒と白が入り混じった、灰色がかった髪。 その一房を指先でつまみながら、ぽつりと呟く。 もともとのわたしは、どこにでもいるような平凡な黒髪だった。 それが――20年前、命を散らしたあの日に真っ白に変わって。 永い旅路の果て、ようやく現実世界に帰ってきたときには、また黒髪に戻っていて。 そして今、再びゆっくりと、白へと染まりつつある。 ふと、まるで落ち着きのない振り子みたいだと自嘲が浮かぶ。 どちらにも染まりきれず、宙ぶらりんのまま揺れているその色合いが、今の自分の心情と妙に重なって見えて、胸の奥がちくりと痛んだ。 「…ふう」 よくない癖だ。 こうして考え始めると、放っておけば際限なく心を沈ませていってしまう。 大きくひとつ息を吐いて、わたしは軽く頭を振る。 ……誤解されないように言っておくと、白髪そのものは、わりと気に入っているのだ。 アニメや漫画のキャラみたいでちょっとかっこいいし。 何より――白は、わたしの大切なパートナーたちの色でもあるから。 けれど、それでも。 この色には、どうしたって苦い記憶がつきまとう。 少しずつ白くなっていく髪が、わたしに思い出させる。 黒白くんをさらった、わたしそっくりな姿をした『あいつ』のこと。 わたしが知らない、現代の聖心ちゃん…その隣に寄り添う『彼女』のこと。 なにより―― あの頃のこと。 夢の中で見た、壊れたわたし自身を。 「…どうしてまた、あんな夢なんか」 問いかけるようにこぼれた独り言は、洗面所の静けさに溶けて消えていく。 もちろん、返事なんて返ってくるはずがない。 それでも―― 自問しつつも、わたしの中では理由はなんとなく分かっていた。 きっと、きっかけは数日前のある出来事から。 BVの一員として参加した、とある任務。 巨大企業《FE社》の崩壊事件。 ホウライオブジェクトっていう願望器――あらゆる願いを叶えるという、強大な力を持った危険な遺物。 それを巡って、多くの人たちの想いや因縁、そしてひとりの少女の――執念と、欲望と、幼い願望。 全てが絡み合った果てに起こった、大きな事件だった。 とはいえ、わたし自身はその渦の中心にいたわけじゃない。 わたしにできたのはただ、最後の舞台へ向かうみんなを送り出すこと――それだけ。 その結末も、ちゃんと見届けることはできなかった。 ……だから、ここからは伝聞と推測の話。 結論から言えば、みんなによって世界はちゃんと救われた。 暴走したホウライオブジェクトの力によって開かれた、現実世界とダークエリアを繋ぐゲート。 それを無事消滅させ、全てを滅ぼす赤い嵐の流入を防いだのだ。 ただ――事態はそれだけでは終わらなかった。 この事件の裏には、暗躍していたひとりの少年の存在がいた。 事件の黒幕……正確には、そう呼ぶのは少し違うのかもしれないけれど。 ともかく、彼は――自分の存在とホウライオブジェクトの力を使って、決断したのだという。 世界に悲劇が生まれぬよう、過去自体を書き換えることを。 彼によってFE社が犯してきた悪事も、それによって傷ついた多くの人たちの記憶も、事実そのものさえ、なかったことにされた。 『本当に良かったよねっ!』 目の前の鏡の中で、あの日のわたしがまた透明な笑みを浮かべた気がした。 『だって、彼のおかげで災禍の種はなかったことになった。悲しみは消えうせた。全てが丸く収まり、誰もが傷つかず、笑顔で終われる。完璧なハッピーエンドだもん』 「……」 ――そうだ。その通りだ。 その言葉自体に、わたしは異論はなかった。 『じゃあ……なんでそんな顔をしているの?』 「それは……」 指摘されて、口をつぐむ。 ……改めて、わたしは部外者だ。 部外者のわたしに、渦中にあった彼らが選んだ結末へ口を出す資格なんてない。 それでも、どうしても思ってしまう。 それって、本当に正解だったのかな、と。 わたしの胸の奥に、ずっと引っかかっているもの。 過去をなかったことにするということは、その中で積み重ねた痛みも、苦しみも、乗り越えた希望さえも、なかったことにしてしまうということ。 それはわたし達が進んできた時間すら、なかったことにするということ。 それって、ただの傲慢じゃないだろうか。 そんなふうに、思わずには―― 『違うよね』 「…っ」 『そんなのは、口だけのきれいごと。分かるもん。だってわたしのことだもんね』 …ああ、本当はわかってる。 わたしが飲み込めずにいるのは―― あのとき、わたしがやろうとして、叶えられなかったこと。 現在の世界を壊してでも、理想の世界を作りたかった。 でもわたしには、それができなかった。 失敗して、たくさんのものを傷つけて、取り返しのつかない後悔を背負った。 けれど今回の『彼』は、それを成功させてしまった。 わたしのやりたかったことを、やり遂げてしまった。 『その事実が、悔しかったんだよね?ずるいと思ってしまったんだよね?』 その通りだった。 そしてそんな感情を抱いてしまった自分が―― 何よりも、見苦しくて、情けなくて、救いようがない。 『結局あなた(わたし)は、昔(わたし)からなにひとつ、変わってないんだよ』 「……」 わたしは、鏡の中の自分を再びじっと見つめる。 映っているのは、泣きそうなのに泣けもしない、そんな情けない表情をしたただの自分の寝起き顔だけ。 いつの間にか、あの囁きは止まっていた。 「おーい、結愛」 背後からかけられた声に、思考がぷつりと途切れる。 「まだか? そろそろ行かないと、峰子はともかく……先に行ったクルモンが、何を言い出すかわからんぞ」 どこまで気付いているのだろうか、ギギモンの声音には、いつもよりわずかに気遣うような響きが混じっていたような気がした。 ――このままじゃ、だめだ。 冷たい水で、もう一度顔を洗う。 水が、肌に触れた瞬間。 波打つように、頭の中がクリアになっていく。 タオルで顔をぬぐい、深呼吸をひとつ。 そして、わたしはギギモンの待つ部屋へと戻る。 「…今度こそ、切り替えなきゃ」 この醜い気持ちを消化することはできなくても、せめて蓋をして。 今日、わたしにできることを、ちゃんと果たさないと。 「お待たせ、ギギモン。……それじゃあ、いこっか」 「……ああ」 飛び乗ってくるギギモンを定位置の頭へと乗せて、わたしは彼女と共に、指令室へ向かった。 *** 指令室。 ドアが開くと、淡い青白い光に照らされた空間が広がっていた。 壁一面に配置された透過ディスプレイには、現実世界の各地の情報が次々と映し出されている。浮遊する立体マップ、流れ続けるデータの奔流。まるでSF映画みたいな光景だけど、わたしももう慣れたものだ。 その光の中心に、彼女はいた。 「おはよう、結愛ちゃん」 くるりと座っていた大きな椅子を回し、振り返った彼女がいつもの穏やかな笑顔で出迎えてくれる。 高円寺峰子――峰子ちゃん。 黒いポニーテールに、細い黒縁のメガネ。大人っぽい雰囲気で、見た目は二十代後半くらいだけど、実際の年齢は誰も知らない。 わたしが所属する組織《BootlegVaccine》――通称BVの司令官であり、ロイヤルナイツの一人、ドゥフトモンをその身に宿している人だ。 BVは、デジタルワールドと、この世界の治安を守る組織。 といえば聞こえはいいけれど、メンバーのほとんどは、かつて問題を起こした元『罪人』たち――わたしみたいな。 そんな過去に罪を犯した者に超法規的な権限を与えて、償いとして治安維持に当たらせている。それがこの組織だった。 「おはよう、峰子ちゃん」 そう挨拶を返すと、わたしは頭の上のギギモンを下ろさないまま峰子ちゃんの元へ歩いていく。 「遅いわよ! 結愛。もう少しで置いていくところだったんだから」 甲高い声。 ぷかぷかと宙に浮かびながら峰子ちゃんの椅子の後ろから出てきた白い塊が、ぴょこりとわたしの横に来て不満そうに言う。 くるくると目まぐるしく、騒がしく、でも愛くるしい、ぬいぐるみのような子――クルモン。わたしのもうひとりの大切なパートナーだ。 「ごめんごめん。ちょっと準備に手間取っちゃって」 「まったく……」 クルモンは口を尖らせるけれど、それ以上は何も言わない。 「ふふ、相変わらず賑やかね」 峰子ちゃんはそんなわたしたちのやり取りを見て、くすりと笑う。そして少しだけ、心配そうな目でわたしを見た。 「結愛ちゃん、今朝はちゃんと眠れた?」 「……うん。大丈夫だよ」 ……嘘はついていない、多分。夢見は最悪だったけれど。 「そう。それならいいんだけど……無理はしないでね」 「ありがとう、峰子ちゃん」 わたしの強がりに気づいているのだろう。峰子ちゃんはただ優しく微笑むと、メインモニターへと向き直った。 「それじゃあ早速だけど、今日の任務について説明するわね」 そう言って、峰子ちゃんが手を動かす。空中に浮かぶ透過ディスプレイに触れると、画面が切り替わり、街の地図が表示された。 その地図の上に――無数の光点。 「今朝から急遽対処しなければならない問題が発生したの。結愛ちゃんには、そちらの対応をお願いしたいんだけど――」 「どんな問題なの?」 「デジモンの大量リアライズよ」 峰子ちゃんの言葉に、わたしは思わず目を見開く。 「大量って……これ全部リアライズしたデジモン? こんなに!?」 モニターに映る光点の数は、ざっと数えても数十。これだけのデジモンが一度に現実世界に現れたとなれば、普通なら大騒ぎになっているはずだ。 「ああ。場所は《あわせみそ通り》だ」 峰子ちゃんの声が、すっと変わる。 そう言いながら、峰子ちゃんがメガネを外した。 少し低く、落ち着いた男性的な響き。同時に、黒いポニーテールの髪が、根元から金色へと染まっていく。 ――峰子ちゃんと体を共有している、ドゥフトモン。 ロイヤルナイツきっての策略家なんて言われていて(その評価はいろんな意味で再考の余地ありだとわたしは思っているけれど!)、このBVという組織を立ち上げた張本人だ。 能力さえあれば過去の罪を問わず戦力として集める――そんな彼の方針のおかげで、わたしみたいな元罪人にも、償いながら生きる道が与えられている。 「原因は《ランタモン》というデジモンの仕業のようだ。主にデジタルワールドから、ごくまれに現実世界からも、無作為にデジモンを呼び寄せている」 「ランタモン……」 一見、聞いたことのない名前だった――昔の記憶を深堀すればその限りではないかもしれないけれど。 わたしは首を傾げる。 「いたずら好きなデジモンでな。ハロウィンの時期になると、こうして騒ぎを起こすことがあるらしい」 「なるほど。それで、対処法は?」 頭の上から、ギギモンの声が降ってくる。 「幸い、既に確立されている」 ドゥフトモンはそう答えると、画面を切り替えた。今度は、色とりどりのお菓子が映し出される。 キャンディ、チョコレート、グミ――見ているだけでも楽しくなるような、カラフルなお菓子たち。 「あわせみそ通りで購入したお菓子を、迷い込んだデジモンに食べさせてやれば、元の場所に戻るとのことだ」 「お菓子……って、それだけ?」 わたしが驚いて聞き返すと、ドゥフトモンは頷いた。 「ああ。ランタモンがデジモン達の呼び寄せを行う理由――それは、彼らに乗り移ってお菓子を共に味わいたいからという、単純なものだ。つまり――」 「トリック・オア・トリート、ってこと?」 わたしが言うと、ドゥフトモンはメガネを掛け直した。金髪が再び黒へと戻っていく。声も、峰子ちゃんのいつもの穏やかな口調に戻った。 「その通り。呼ばれたデジモンたちは今のところおとなしくて、今日がハロウィンだから、人間からは仮装だと思われているみたい。だから今のところは大した騒ぎにはなっていないの」 峰子ちゃんは、わたしの方へと向き直る。 「だから結愛ちゃんのお仕事は――現地に行って、デジモンたちにお菓子を食べさせてあげること。そして、もし暴れるデジモンがいたら、それを鎮圧すること。これでいい?」 わたしは頷く。 「なんだ、それくらいなら楽勝じゃない」 クルモンが得意げに言う。 聞く限り、任務としては簡単な部類だ。デジモンたちがおとなしいなら、戦闘になる可能性も低い。 何より―― 「せっかくのハロウィンだし、半分休暇だと思って楽しんできてね」 峰子ちゃんはそう言って、片目でウィンクをした。 ああ、やっぱり。 峰子ちゃんも、わたしの様子を見て気を遣ってくれているんだ。 「……ありがとう、峰子ちゃん」 「あ、それとね――ミサキちゃんに頼んで、バイタルブレスに新しい機能を入れておいたから」 「新しい機能?」 「ええ。詳しくは現地で確認してみて。きっと役に立つはずだから」 峰子ちゃんは楽しそうに笑う。 わたしは右手首のバイタルブレスに目をやり、画面を軽く操作する。 いつもの見慣れたインターフェース。でも、確かに新しいアイコンがひとつ――かぼちゃのマークが追加されているのが見えた。 「……ふふ、楽しみにしてるね」 「それじゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」 「うん。行ってくるね、峰子ちゃん」 わたしは頭の上のギギモンと、横に浮かぶクルモンを確認してから、指令室を後にした。 *** 転送ゲートを抜けた先は、ハロウィン一色に染まった商店街だった。 オレンジと黒の装飾が街路を彩り、店先にはカボチャのランタンが並んでいる。仮装した子どもたちが、笑い声をあげながら駆け回っていた。 「わあ、すごい賑わい……!」 わたしは思わず目を見張る。 街全体が、まるでお祭りみたいだ。魔女やお化け、吸血鬼に仮装した人たちが通りを埋め尽くしている。 そして――よく見ればその中に、ぽつぽつと混ざるデジモンたちの姿。 人間たちは、それを精巧な着ぐるみだと思っているようだった。 「あれがランタモンに呼ばれたデジモンたちか」 ギギモンが頭の上から呟く。 「おとなしいものだな。本当に仮装やぬいぐるみと間違われているようだ」 「うん。これなら、スムーズにいけそうだね」 わたしは袋から飴とチョコを取り出す。峰子ちゃんが用意してくれた、あわせみそ通り特製のお菓子だ。 「よし、時間をかけるのもよくないし、早速始めようか」 最初に見つけたのは、店先でぼんやりと立っているテントモンだった。 「こんにちは!」 なるべく警戒させないよう、笑顔で話しかける。 ……自慢じゃないけど、こういう時自分の幼い容姿は存外役に立つのだ。 「トリック・オア・トリート! はい、これあげる!」 これではあげる側じゃなくって貰う側な気がするけれど、そこは勢いで。 わたしが飴を差し出すと、テントモンは少し身構えたものの、嬉しそうに受け取ってくれた。 「あ、ありがとうでござる!」 飴を口に入れた瞬間、テントモンの体が淡く光り始める。そして次の瞬間――ふわりと姿が消えた。 「……よし。うまくいった」 「ふん、簡単な仕事じゃない」 クルモンが得意げに言う。 わたしたちは通りを歩きながら、次々とデジモンたちにお菓子を渡していく。アグモン、ガブモン、パタモン――みんな、素直にお菓子を受け取って元の世界へと戻っていった。 「でもさ、こういう平和な任務もたまにはいいよね」 「……そうね。まあ、悪くはないわ」 クルモンもそう言いながらも、どこか嬉しそうだ。 任務は順調に進んでいた――そう思った、その時だった。 「ちょっと待て、結愛」 ギギモンの声が、わたしの思考を遮った。 その声音が、いつもと違う。 「デジヴァイスに反応がある」 わたしは反射的に右手首のバイタルブレスに目を落とす。 画面に表示されたマップ上に、青い光点がひとつ――こちらに向かって動いている。 「反応? また新しいデジモンが現れたの?」 「いや……これは、テイマーの反応だ。それも――」 ギギモンの声が、わずかに緊張を帯びる。 「――我々のよく知っている相手だ」 心臓が、不安を感じ取ったように速く打ち始める。 まさか―― 「距離、およそ500メートル。こちらに向かって接近中――」 「――上野聖心だ」 聖心ちゃん。 その名前を聞いた瞬間、心臓が激しく跳ねた。 周囲の音が、すっと消える。 「え……?」 「間違いない。以前の彼女のD-アークの反応と一致している」 ギギモンの報告が、冷静に続く。 以前――二十年前、古代デジタルワールドで共に戦っていた頃のデータ。その記録と照合して、ギギモンは断言した。 「おかしいわね……今の聖心っていわゆる引きこもりってやつで、外になんて梃子でも出なくなってたはずでしょ? しかも家だって遠いし。それがこんな賑やかな場所に来るなんて」 クルモンも首を傾げる。 わたしは――何も言えなかった。 理由は分からない。 でも聖心ちゃんが、ここに。わたしのいる場所に、近づいている。 どうして。どうして、よりによって今日、ここに。 「結愛、どうする?」 ギギモンが問いかけてくる。 どうする? 会えない。会うわけにはいかない。 わたしは――わたしは、聖心ちゃんに顔を見られるわけにはいかない。 安里結愛はあの時死んだ。今ここにいるのは存在しちゃいけない、罪人なのだから。 「……逃げる」 声が、震えていた。 「……結愛、あんたいい加減――」 クルモンの呆れた声が途中で遮られる。 「――分かった。それでいいんだな」 ギギモンの静かな声。責めるでもなく、ただ確認するように。 「ちょっとギギモン!」 「とにかくここから離れよう。早く!」 わたしは踵を返し、人混みの中を駆け出した。 「あーもうっ! 待ちなさいよ!」 クルモンの声を背に、走る。 賑やかだった商店街の音が急に遠くになっていく。 「結愛、聖心との距離400メートル」 ギギモンが、冷静にカウントを刻む。 「300メートル」 足が震える。息が苦しい。心臓の音だけが、やけに大きく響いている。 「こっちも逃げてるのにあの距離からどんなスピードで追ってきてんのよあいつ! 相変わらず早すぎるでしょ!」 クルモンの怒声に、答える余裕はなかった。 「200メートル」 路地を曲がる。人混みを避けて、さらに奥へ。 「100メートル」 もっと、もっと遠くへ。見つからない場所へ。 でもどうしよう。このまま逃げ続けても、いつかは―― 「……っ」 そんな目まぐるしく変わる視界の先に最後に入ってきたのは、そびえ立つ壁だった。 「行き止まり、だな」 無情にギギモンの声が響く。 薄暗い路地の奥。古びたゴミ箱と、錆びた非常階段だけが置かれた袋小路。 心臓の音が耳鳴りと重なって脳内に響く。頭がうまく働かない。 どうしようどうしようどうしようこのままじゃ―― 『あ、それとね――ミサキちゃんに頼んで、バイタルブレスに新しい機能を入れておいたから』 「……あ」 限界の思考の最中、ひとつの案が天啓のように落ちてきた。 そうだ、峰子ちゃんが言っていた―― 「これなら、もしかして……」 わたしは右手首のバイタルブレスに目をやる。 かぼちゃのマークのアイコン。ハロウィン用の仮装機能。 わたしの予想が正しいのなら、このアプリを使えば現状を打開できるかもしれない。 でも、この方法は―― 「……結愛、50メートル」 ギギモンの声。 もう、迷っている時間はなかった。 「ふたりともっ! 今すぐバイタルブレスに入って!」 「は? なにを……」 「そういうことか……行くぞクルモン!」 わたしの意図を察してくれたギギモンが、クルモンを連れて粒子となりバイタルブレスの中に戻っていく。 それを見届けた後、わたしは一度深呼吸して、改めてカボチャのアイコンを見下ろした。 分かっている。 これを使うということは『彼女』の記憶を利用するということだ。 これを使うということは『彼女』の想いを利用するということだ。 これを使うということは『彼女』の築いてきた今までを奪い取るということだ。 ――足音が、すぐそこまで迫ってくる。 「それでも、今ここで会うわけにはいかないの!」 誰にも聞こえるはずのない、言い訳のような懺悔を口にして。 わたしは、そのアイコンを押した。 次の瞬間、アプリから溢れ出した純白の光が、わたしの全身を包み込んでいく――。 *** 光が、消える。 わたしはちらりと、割れた鏡越しに映る自分を横目にとらえた。 そこにいるわたしの姿は――もう、わたしじゃない。 白を基調としたシスター服。ピンク色の動物の顔を模したウィンプル。 ある意味見知った『彼女』が、そこには佇んでいた。 「結愛ちゃん――!」 、 瞬間背後から聞き覚えのある声が響く。 「――っ」 たったそれだけで、息が止まりそうになる。 その呼び名に、思わず体がこわばる。 だめだ。まだ、振り向いちゃ、だめだ。 今のわたしは――『彼女』なんだから。 一瞬、わざと反応を遅らせる。そして、深呼吸をひとつ。 ゆっくりと、振り返った。 声の主。そこに立っていたのは――聖心ちゃんだった。 「わっ、聖心? どうしたの、そんなに慌てて?」 驚いたような声を出して、わたしは『いつものように』彼女へと駆け寄る。 『彼女』の記憶を辿る。『彼女』の口調。『彼女』の仕草。それを必死に、なぞる。 ――初めて、今の聖心ちゃんの顔をこんなに近くから見上げた。 「……聖心?」 ボサボサに括られた黒い髪。ぐっと大人びた目つき。そして、少しやつれた顔。 二十年という時間が、確かに彼女を変えていた。 でも――その瞳の奥に宿る、強さと優しさは。 確かに、あの頃の聖心ちゃんだった。 息を切らしている彼女を見て、わたしは――喉の奥が、熱くなる。 会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかった。 でも、会っちゃいけないと思っていた。 それなのに、今―― 「――っ」 聖心ちゃんの瞳が、困惑と戸惑いで揺れているのが分かる。 心臓の音が聞こえてきそうなほど、彼女の表情は切迫していた。 景色も、感覚も、まだ現実に追いついていないような、そんな顔。 そして――彼女は、わたしを見つめる。 じっと、見つめる。まるで、何かを確かめるように。 わたしの背筋に、冷たいものが走る。 聖心ちゃんの視線が、わたしの顔を、服を、髪を、隅々まで舐めるように見ている。 一般人には完璧に見えるはずのこの変装も、聖心ちゃんには―― 細かい違和感が、見えているのかもしれない。 数秒が、永遠のように長く感じた。 「……ブラン、っすか?」 その名前が、ようやく聖心ちゃんの口から零れた。 ――そう、『彼女』の名前は、ブラン。 今の聖心ちゃんの傍には、シスタモン・ブランと呼ばれるパートナーがいる。わたしそっくりな、デジモン。 彼女は聖心ちゃんの元に現れ、共に生活し、苦楽を共にして、絆を育んでいる。 そしてわたしはそのことを、なぜか流れてくる断片的な記憶から知っている。 経緯は分からない。理屈も分からない。でも、それが事実だった。 だから――利用した。 「うん、そうだよ? 本当にどうしちゃったの聖心? 変なものでも食べた?」 ブランならこう言うだろう。そう思いながら、言葉を紡ぐ。 一言喋るごとに、彼女の存在を冒涜している気がして、罪悪感が胸を貫いた。 「い、いや……その……」 聖心ちゃんが、言葉に詰まる。 その表情は、落胆と安堵が入り混じったような、複雑なものだった。 「……なんでもないっす。ただ、ちょっと……見間違えたかと思って」 「見間違え?」 わたしは首を傾げる。ブランなら、きっとこう聞き返すだろう。 「いや、多分ウチの気のせいっすね。ごめん」 聖心ちゃんは、少しだけ寂しそうに笑った。 その表情を見て、わたしの胸が痛む。 聖心ちゃんはもしかしたら、わたしの正体に気づいているのかもしれない。 でも、確信が持てなくて。あるいは、確信したくなくて。 だから、こうして――ブランとして接してくれているのだろうか。 沈黙が、降りてくる。 ハロウィンの喧騒が、遠い。 わたしと聖心ちゃんだけの、静かな時間。 「……ブラン」 聖心ちゃんが、もう一度わたしを呼ぶ。 「うん?」 「あ、あなたは、本当に……」 どこか、覚悟を決めたような顔の聖心ちゃんの言葉。 わたしにとって、ある意味死刑宣告にも等しいそれが、紡がれようとした、その瞬間―― ドンッ! 轟音が、街を揺らした。 「……っ!?」 わたしと聖心ちゃんは、同時に音のした方向を見る。 悲鳴。逃げ惑う人々の足音。 さっきまでの平和な雰囲気が、一瞬で変わる。 通りの中心に、路地裏からでも分かるほどの巨大な影が立っていた。 赤黒いオーラを纏った、異形の存在。巨大な体躯。悪魔のような角。 ――それは仮装でもなんでもなく。まさしく本物の、脅威だった。 その、脅威の名は。 「「……ベルフェモン!?」」 わたしと聖心ちゃんは、同時にその名を口にするのだった。