# EP01: 黄金の王座と塵の民 - **世界線**: A:古代ウルク - **フェーズ**: I(品定め) - **視点**: 二人称 --- ## 本編 ### Part 1  壁に触れた小さな手の感触が、一番古い記憶だ。  三つか四つの頃——日干し煉瓦の温もりが掌に伝わった瞬間、頭の中にまったく別の手が浮かんだ。大人の手が、白い光の下で薄い板をかたかたと叩いている。キーボード。その言葉だけがウルクの言葉とは似ても似つかない響きで、妙に鮮明だった。  死んだ記憶はなく、なぜここにいるのかも分からない。ただ、この身体の一番古い記憶よりも前に、二十数年分の別の人生がまるごと頭の中に在った。あなたはその全てを抱えたまま、ウルクの子供として育った。  あれから二十年ほど経った今も、口に出せるのは二つの人生のうち片方だけ——ウルクの水路掘りとして生きている方だけで、スマートフォンもコンビニもエアコンも構造力学も、この世界には存在しない。水路の基礎が崩れたとき、頭の中には鉄筋とコンクリートで組む暗渠の設計図がくっきり浮かぶのに、この世界に鉄筋はなくコンクリートもない。隣家の子供が高熱を出したとき、解熱剤の名前も成分も舌の上に載っているのに、薬局はおろか清潔な水すら足りない。その度に舌を噛んで黙るしかない苛立ちも、二十年の間にひとつの鈍痛に変わっている——あなたという人間の半分は、この世界では最初から余分にできている。  今朝も背中の汗で目が覚めた。二十年同じ部屋で同じ朝を迎えていればさすがに慣れるが、目覚まし時計のない朝に心の底から慣れることは、たぶん一生ない。天井の亀裂から差す光で時刻を読むのは身体が覚えているのに、頭の片隅にはいつも、あの電子音が三度鳴るまで布団を被っていた朝の感触が残っている。水瓶の水で顔を洗い、亜麻の腰布を巻いて銅の鋤を肩に担ぐ。裸足の足裏で踏む土間の冷たさだけが、ウルクの朝であなたが唯一好きな感覚で——それも戸口の布を捲った途端に蒸発する。  通りはもう人と家畜でごった返している。壺を頭に載せた女たちが大城壁の影を辿り、角の花売りが葦籠に蓮を積み上げ、荷車が壁に車輪をぶつけて御者が怒鳴る——その脇を裸足の子供たちが駆け抜けていく、二十年見てきた朝の風景だ。焼いた平焼きの煙と家畜の匂いと乾いた土埃が低いところで混ざり合って、鼻が慣れきったその匂いの層に時おり蓮の花の甘さが紛れ込むと、一瞬だけ前世の何かが揺れて——振り返る前にもう消えている。 「おう、今日も早いな」  向かいのダガンが戸口から手を上げて、あなたも振り返す。陶工、二年前に結婚、去年第一子。二十年この路地で暮らせば通りの半分は顔見知りで、四分の一は名前まで分かる。あなたの足はこの道の石の凹凸を全部覚えていて、どの角を曲がればどの匂いがするかまで身体に入っている。ここはあなたが育った場所だ。  ——ただ、通りに面した煉瓦の壁を横目に見て、あの積み方では上層の荷重分散が甘い、と頭を掠めるのは二十年経っても直らない。口には出さない。出したところで「荷重分散」という概念そのものがこの世界に存在しない。三列目から目地をずらせば圧力が分散されて崩落の危険は減る——それだけの知識が、ここでは意味を持たない重さで頭の底に沈んでいる。  外壁の南を回り込んだ先に、灌漑水路の土手がうねりながら南へ伸びている。ユーフラテスから麦畑へ水を送るこの水路の補修を、もう三年は続けていた。膝まで水に浸かり、ひび割れた壁面に粘土を押し込んでいく——太陽が頭頂を灼く一方で膝から下だけ水に冷やされて、その温度差の境界がいつも妙に心地いい。銅の鋤で古い粘土を削り取り、剥がした破片と新しい粘土を掌の中で練り合わせて壁面に押しつける。指の間から水が押し出されて泥水が手首を伝い、表面を拳で平らにする——三年やっても飽きない作業ではないが、手を動かしている間は前世のことを考えずに済む。肩の筋肉が鋤を引く重みに慣れきっていて、振り上げるたびに肩甲骨の間を汗が伝い落ちるのすら、もう日常の触感だ。  三年前、最初の週で剥けた指の皮が三日で塞がった。隣の男は同じ傷を一週間引きずっていた。前世の身体でも今世の身体でもこんな回復はしたことがなかったから、この身体には何か——この時代の人間の基準でも普通ではない何かが宿っている。水路の底に沈んだ石を片手で持ち上げたとき、両手で抱えていた隣の男が妙な顔をしたこともある。だがウルクでは兵士が素手で煉瓦を砕き、巫女が祈りひとつで火を灯す。傷の治りが早い程度のことは、誰も気にしない。 「また黙って食ってるな」  昼の休憩で土手に上がると、隣に座ったナブーが平焼きを千切りながら声をかけてくる。日に焼けた丸顔、太い首、よく動く目。十代の頃からこの男の隣で粘土を捏ねてきた。千切った平焼きの断面から立ち昇る湯気を風が攫い、それを葦の葉に載せて棗と交互に頬張りながら、ナブーは水路の水嵩がどうだとか上流の堰が先月壊れただとかを一人で喋っている。こちらが返事をしなくても気にしない——この男はあなたの沈黙の中身を知らないまま二十年付き合って、知らないことを一度も気にしたことがない。 「お前は時々、ここにいてここにいない顔をするな」  以前そう言われたことがある。——正解だ、とは返せない。ナブーもそれ以上は聞かなかった。余計なことを詮索しない男で、代わりに休憩のたびに麦酒の壺を差し出してくる。 「飲め。考え事は麦酒の後にしろ」  壺を受け取って掌に注ぎ、薄くてぬるい麦酒を啜りながら、ユーフラテスから吹いてくる風に汗の膜を乾かされる。水と土と葦原の青い匂いが混ざったこの風だけは、前世のどこにも対応するものがない。エアコンの冷気でも扇風機の風でもない、ウルクだけの空気だ。棗を口に放り込むと歯で割れた果肉の甘さが舌に広がって、ナブーの笑い声と風の匂いと膝に張りついた泥の感触が、前世の記憶を静かに押し退けていく。  午後、外壁の上から槍の稽古の掛け声が降ってくる。壁の稜線に沿って二人一組で向かい合う兵士たちの影を、粘土を押し込みながら目が勝手に追う——二十年来の癖で、止められたことがない。右端の兵士は穂先が重心から遠くて振りに無駄が生まれ、左の組は受けが浅くて次の突きに体重を移せず、奥の一人は踏み込みの軸がぶれて力が逃げている——そのひとつひとつが、手が粘土を押す間にも頭の中で修正図を描いてしまう。足の幅を拳ひとつ広げろ、柄を握る位置を指二本ぶん下げろ、重心を前の足に寄せろ。声に出せば済むことが、水路の底から叫ぶわけにもいかず、視線だけが壁の上を這い続ける。  前世の自分は武術と無縁だった。竹刀を握ったのは中学の体育が最後で、あれは試合ですらない。この直感は前世から持ち込んだものではなく、この身体に最初から刻まれている何かだ。七つか八つの頃、路地で遊び半分に木の枝を振ったら、枝が手の中で最短距離を走って相手の子供を泣かせた。振り方も力加減も、身体が勝手に決めていた——泣いている子供の前で、自分の右手が怖かった。それ以来、武器の類にはなるべく手を出さないようにしている。触れたら最後、この身体が何をするか分からない。  鋤を握り直して、壁面に粘土を押しつける。水路掘りの道具なら何も起きない——はずなのに、城壁の上で柄と柄がぶつかる甲高い金属音が降ってくるたびに、右手の指がわずかに痙攣する。  日が西に傾いた頃、ナブーが不意に手を止めて南の空を見上げた。つられて目を向けると、何層もの段を積み上げて街の中心から天を突くジッグラトの頂に、金色の影が立っている。遠すぎて輪郭は分からないが、夕日を浴びた金の装飾が光を弾いて、煉瓦の塔の先端だけが燃えているように見えた。 「女王だ」  ナブーが声を落とし、泥の中で片膝をついて頭を垂れる。周囲の男たちも一斉に跪いて、あなたも膝を折る——が、目だけはジッグラトの頂を見上げていた。  ギルガメッシュ——ウルクの女王。この名の下で二十年暮らしてきたのに、あなたは王の姿を直に見たことが一度もない。金の装飾、神殿に翻る旗、兵士の鎧の紋章——街のあらゆる場所に王の気配があるのに、王そのものはいつもあの塔の頂か宮殿の奥にいる。前世で「王」といえばテレビの向こう側の存在だった。画面を消せば消える、自分の生活とは無関係な誰か。ここでは違う。水路を掘り、壁を直し、税を納める——あなたの暮らしの全てがあの頂の光に繋がっている。繋がっているのに、手は届かない。太陽と同じだ。  ジッグラトの頂から金の影が消えると、男たちは何事もなかったように泥から立ち上がり、作業に戻る。あなたも膝の泥を払って鋤を握り、日暮れまで粘土を押し込む。  城壁をくぐって帰る道すがら、松明が灯り始めた通りに羊肉を焼く煙と麦酒の匂いが漂い、夕日が煉瓦の街を赤く染めている。かまどの火が戸口から漏れ、女たちの呼び声と子供の笑い声が路地を往復し、ナブーが手を上げて自分の家に折れていくのを背中で見送りながら歩く。二十年の暮らしが足の裏から積み上がってくるこの帰り道のどこかで、ジッグラトの頂だけが最後まで金色に光っていた。  あの光の中にいる存在が、あなたの顔を知ることは一生ない。水路掘りの一人と王の間にある距離は、二十年かけても一ミリも縮まらなかった。この先も——変わるはずがなかった。 ### Part 2  六日間、同じ水路で同じ粘土を押し込みながら、夕暮れのたびにジッグラトの頂を見上げるのが癖になっていた。鋤を振り、泥を練り、壁を直す——日中は手が覚えた作業を繰り返すだけで頭が空くから、城壁の上の稽古の掛け声や柄の打ち合う音に耳が引き寄せられるのを抑えるのが日に日に難しくなる。金色の影は二度と現れず、あの一瞬は見間違いだったのかもしれないと思い始めた七日目の午後——頭上の城壁で甲高い金属音が弾けて、影がひとつ壁の縁を越えた。  稽古中に弾かれた槍だ。穂先を下に、柄が回転しながら降ってくる軌道を、あなたの目は水路の底から妙に冷静に追っていた。二歩右でしゃがんで壁を直している男の首筋に、穂先がまっすぐ落ちる——叫ぶ時間はない。考えるより先に、身体のほうが動いている。  鋤を放って水を蹴り、泥の斜面に右手をついて跳んだ勢いのまま左手を伸ばして、落下する柄を鷲掴みにする。回転の衝撃が手のひらを灼き、肘から肩を突き抜けた——が、指は開かなかった。穂先がしゃがんだ男の頭上で止まったとき、左手の中で槍の重心はすでに掌の真ん中に収まっている。  水の流れる音だけが戻ってきて、鋤の音も話し声も止まった水路で、ナブーが口を開けたままこちらを見つめている——助けられた男は頭上で止まった穂先を見上げたきり石のように動かない。あなたの目が左手に落ちる。握った瞬間に柄の太さも穂先の重みも全部を読み取って、最適な位置に指が勝手に移動していた——七つのときに路地で枝を振って隣の子供を泣かせた、あの感触そのものだ。 「怪我はないか!」  城壁から兵士が身を乗り出して叫び、革靴が階段を駆け下りてくる音が二人分、三人分と重なって水路の縁に並んだ。泥まみれの腰布に裸足の水路掘りが、訓練用の槍を空中で掴んで止めている——その光景を、兵士たちの目が一様に追う。 「すまなかった、稽古中に弾かれて——お前、それをどうやった」  腕章をつけた隊長格の兵士が、声の調子を途中で切り替えた。槍を差し出そうとして——柄を離す瞬間、指が名残を惜しむように滑る。それだけで胃の底がひやりと冷えた。 「たまたまです。手が出ただけで」 「たまたま落ちてくる槍を素手で掴む水路掘りがいるか」  隊長は目を細め、あなたの腕から肩、脚へと視線を流した。汗と粘土にまみれた労働者の身体だが、この肉体は見た目以上に頑丈にできている。名を聞かれて答えると、隊長は傍らの部下に何か囁き、部下が城壁の階段を駆け上がっていった。ナブーの方を見ると、友人は目を丸くしたまま小さく首を横に振っている。 「ちょっと来い」  隊長に連れられて城壁の上に登ったのは、二十年のウルク暮らしで初めてのことだった。壁の上は訓練場を兼ねていて、等間隔に木の柱が立ち革の的が括りつけてある。下から見上げるだけだった兵士たちと同じ高さに立つ違和感——そして壁の内側に開けたウルクの街並みに目を奪われた。日干し煉瓦の屋根が足元から夕暮れの色に沈んでいき、その只中にジッグラトの段壁がひときわ濃い影を落としている。水路の底から仰ぎ見るのとは、まるで別の街だった。 「持ってみろ」  隊長が訓練用の槍を放ってよこした。掴んだ瞬間に、また来る。穂先の形状も柄の材質もさっき掴んだものとは違うのに、手に触れた途端にその武器の「使い方」が指の間から流れ込んでくる。穂先の重みに合った重心の移動、柄のしなりから逆算した最適な握り幅——何も考えずに構えた姿勢を見て、隊長の眉が動いた。 「……それは近衛の構えだ。誰に習った」 「誰にも」  嘘ではなかった。この身体は武器を握るたびに勝手にそうなる。前世にも今世にも、槍術を学んだ覚えはどこにもない。  隊長は数秒あなたを見つめてから、槍を取り上げた。何かを測るような目だったが、それ以上は何も言わない。 「今日は帰れ」  城壁を降りると作業はとうに終わっていて、ナブーが鋤を二本——あなたの分と自分の分を——抱えて待っている。  帰り道、友人は何も聞かなかった。城壁を降りて、かまどの煙が低く漂い始めた路地を並んで歩きながら、麦酒の話やら隣の家の赤子が夜泣きする話やらでいつも通りの沈黙を埋めてくれる。ナブーの声を聞きながら、あなたはそっと右手を開いて閉じた。さっきの槍の感触が、まだ消えない。  家に帰って鋤を土間に立てかけ、水瓶の水で手と顔を洗い、寝台に腰を下ろす。天井の染みを見上げながら拳を握ると、手のひらの真ん中に槍の柄の太さがそのまま残っていた。二十年間触らないようにしてきたものに、一度手を伸ばしただけで——身体がもう、元には戻れなくなっている。  翌朝、日の出と同時に戸口の布が外から叩かれた。  開けると、見覚えのない男が立っていた。兵士ではない。白い亜麻の衣に金糸の帯——宮殿の文官か神官の装いで、あなたを一瞥してから粘土板を取り出す。 「女王の御名による召喚である。本日の夕刻、ジッグラトの謁見の間に出頭せよ」  粘土板を懐に仕舞い、男は振り返りもせず通りを去っていった。向かいの戸口からダガンが顔を出して、何事だという目をこちらに向けている。  あなたは戸口に立ったまま、通りの向こうに聳えるジッグラトの先端を見上げた。朝日が当たって、頂が金色に光っている。一週間前、水路の泥の中から見上げたのと同じ光だ。あのとき二十年かけても一ミリも縮まらないと思っていた距離に——今朝、指の先が触れようとしている。 ### Part 3  夕刻までの時間が、普段の一日より長かった。  水路の仕事は免じられたが、家の中で座っていれば戸口の向こうの足音ひとつ、羊の鳴き声ひとつにまで意識が尖る。水瓶の水で顔を洗い、いつもよりましな腰布と肩掛けを選んで爪の間に入り込んだ泥を削りながら——二十年、ウルクで生きてきた。税を納め、水路を直し、隣人の子供の名前を覚え、麦酒のまずさにも慣れた。その二十年が全部、今夜ひとつの問いにまとめられて差し出される気がしている。なぜあの槍を掴めたのか。お前は何者なのか。王の前に立ったとき、そのどれにも答えきれない。  日が傾き始めた頃、短槍を帯びた兵士が二人来た。どちらもあなたの胸より高い位置から視線を落とし、露骨な侮りではなく測るような目でこちらを見ている。昼のうちに話は回っているのだろう——水路掘りが城壁の上で槍を握った、その程度の噂でも宮殿に呼ばれたとなれば意味が変わる。 「付いて来い。遅れるな」  向かいのダガンが顔を出しかけて、兵士の姿を見るなり口を噤んだ。通りの女たちが壺を抱えたまま動きを止め、子供が二歩だけ距離を取る。誰も何も言わないが、その沈黙だけで分かる。女王に呼ばれるとは、羨望より先に畏れを生む出来事なのだ。  ジッグラトへ向かう道は、普段の帰り道と同じ街のはずなのに別の場所だった。蓮の花びらが夕暮れの風にめくれ、羊肉を焼く煙と松明の油の匂いが低いところで混ざり合い、空の上半分がまだ赤いのに街の下半分はもう夜に足を踏み入れている。煉瓦の壁に映る松明の火が揺れるたびに道の両脇の人々の顔が明るくなったり暗くなったりして、その視線だけが一定にこちらへ集まっていた。好奇心と憐れみが少し、あとはほとんど祈りに近い距離感——生贄を見送る目に似ている、と頭を掠めて、否定しきれない程度に胃の底が冷えた。  ジッグラトの基壇に辿り着いて中へ入った途端に空気が変わる。外の砂と獣と人いきれの匂いが分厚い壁に遮断されて、冷えた石と古い香油と乾いた葦の匂い、自分の素足が磨かれた床を叩く音だけが残った。大階段を一段上るたびに足裏に触れる煉瓦の温度が下がり、日の当たらなかった段を踏むごとに石の冷たさが足首まで昇ってくる——二十年間仰ぐだけだった塔の内側を、今あなたの足が一段ずつ踏んでいた。  回廊に入ると壁の煉瓦が日干しから焼成に変わり、表面に楔形文字の浮彫りが走り始め、松明の間隔が狭まるにつれ通路は明るみを帯びていく。すれ違う者たちは兵士であれ神官であれ、水路掘りの腰布と宮殿の白壁が釣り合っていないことを一瞥で読み取る目をこちらに向けた——だがこの異物をここに通しているのが女王の意志だと知っているから、誰も口には出さず、視線だけが通り過ぎる。  階を上がるごとに街の音は遠くなり、代わりに自分の心臓の音が耳につき始めた。  謁見の間の手前で立ち止まらされ、兵士が一言だけ告げる。 「中では女王の御前だ。問われぬ限り喋るな。目を上げるな」  ほんのわずかに言葉を切って、 「……余計な真似はするな」  重い扉が、内側から開いた。  天井が見えない。二列に並ぶ太い円柱の間で揺れる灯りが届かない高さに暗い空洞が広がり、足元は磨き上げられた一枚岩で、水路の泥底を踏み慣れた素足にはひどく滑らかで冷たい。左右には文官・神官・武官が整然と並んで白や生成りや深い赤の衣を纏っている——汗と泥の染みた腰布姿の者は一人もいない。壁際に跪いて待つ列の端に膝を折ると、隣の文官が泥臭さに眉をひそめたのが視界の端に映った。  玉座の傍らに立つ女が粘土板を読み上げている。声は柔らかいが芯が通って、広間の天井に跳ね返ってもなお輪郭を保つ——シドゥリ、祭祀長。王と民を繋ぐ唯一の回路のような存在で、ウルクの行政はこの女の手を経なければ動かない。名を呼ばれた者が玉座の前に進み出て跪き、裁定を受けて退がる繰り返しを壁際から見つめながら、あなたの目は広間の最奥、五段の階段の頂に座る人物から離れなくなっていた。  金——最初に目を打ったのはその色だった。背もたれに彫り込まれた装飾の金、左右に据えた灯りが跳ね返す金、そして玉座に腰を下ろした人物の髪の金。四十歩はある距離を透かして、白い衣と金の髪だけがそこにある全ての光を集めるように浮かび上がっている。  白い衣——だが民の白ではない。薄くしなやかで、光を含むたびに輪郭だけを曖昧にする布が肩から胸、腹へ落ちる線を隠しもせずに覆い、白い肌の上に白い布が置かれてその間に空気が一枚あるだけで、かえって肉体の輪郭が際立つ。胸元と鎖骨に赤い紋様が走り、金の帯と腕輪が灯りの光を返し、長い金髪が玉座の背に流れて、赤い瞳だけが生きた輝きで広間を見下ろしている。体重を片側に預けて肘をつき、臣下の報告にも姿勢を崩さない——報告が終わるたびに片手を短く振って下がらせるだけのその仕草ひとつで、壁際から見ているだけのあなたの膝の裏がじわりと汗ばんでいた。  三人目が退がった間を置かず、シドゥリの声があなたの名を広間に響かせる。壁際の視線が一斉にこちらへ向いた。  立ち上がって広間の中央を歩き出す。素足が石の床を叩くたびに柱の間で音が跳ね返り、左右に並ぶ衣の列が視界の端で揺れている。心臓が肋骨を内側から叩く拍が歩く速度と噛み合わなくなって、手のひらに汗が滲む——二十年間水路の泥底を踏み慣れた足が、磨かれた石の上ではやけに覚束ない。玉座が一歩ごとに近づき、光と影の中にぼんやり沈んでいた白い衣が輪郭を帯び始め、金の髪の流れが見え、その下の顔が——  五段の階段の下に辿り着いたとき、左右から「伏せよ」と声が飛ぶ。廷臣たちが一斉に膝を折って頭を垂れ、反射的にあなたも膝を曲げる。だが一拍だけ遅れた——その一拍の間に赤い瞳と真正面から視線が噛み合い、次の瞬間に膝を折っても、もう遅い。  広間の空気が凍る。左右の列のどこかで衣擦れの音がひとつだけして、無礼を咎めるざわめきに変わる前に、壇上から短い音が落ちてくる。 「ふ」  高くも低くもない、乾いた一音。だがそれだけで場に満ちかけた緊張の種類が変わった。怒りではない。獣が獲物の匂いを確かめるときの、軽い興味に似ている。 「面を上げよ、雑種」  問われぬ限り喋るな、目を上げるな——兵士の忠告が頭を掠めたが、命じたのはその上にいる王だ。ゆっくりと顔を上げると、女王は肘掛けに頬杖をついたまま口元をわずかに持ち上げている。至近ではない——階段五段分の距離を挟んで、それでも赤い瞳の奥に金の粒のような光が沈んでいた。見ているのではなく測っている。肌の色、肩の幅、槍を掴んだ手、息の速さ、逃げない目——その全部を数を数えるより短い時間で値踏みする視線。 「城壁の下で槍を拾った水路掘りがいると聞いた。来てみれば、なるほど。泥の匂いをさせたままここに立ちながら、まだその目をしているか」  声は大きくないのに謁見の間の端まで届くようにできている。 「……恐れていないわけではありません」  返すべきか迷ったのは一瞬で、口は止まらなかった。左右から視線が突き刺さる——王の言葉に挟むな、と。 「ですが、恐れているからこそ——目を逸らすのは違うと思いました」  沈黙。処刑の宣告なら、この間の長さはちょうどいいと思えるくらい長い。 「ほう」  先ほどまでの乾いた興味とは違う熱が混じった一音。 「誰が目を逸らすなと言った。誰が恐れるなと言った。我の前で勝手に己の形を決めるな、雑種」  言葉は厳しいが怒気ではなく、問いを返された感覚だった。  白い衣が玉座の上で揺れた次の瞬間には、もう階段の一段目に足がかかっている——その間に謁見の間の空気が凝固して、左右の列から衣擦れの音ひとつ聞こえなくなっていた。金の帯が微かに鳴り、五段の階段を下りてくる足音はほとんどしない。一段ごとに金の髪が揺れて灯りの光を弾き、四十歩の距離で見上げるだけだった金色の光が一段降りるたびに肌と骨と熱を持った女の輪郭へ変わっていく。三段目で鎖骨の赤い紋様が見え、四段目で白い衣の下の胸の起伏が分かり、最後の段を離れた素足が石の床を踏んだ瞬間に甘く重い香油の匂いが鼻腔を突いた——乾いた樹脂と花を潰した青い匂い、その下に火のそばで温まった肌の匂いがごく薄く混ざって、水路の泥と汗しか知らない鼻には一息で頭が揺れるほど濃い。  手を伸ばせば届く距離に女王が立ち、頭半分ほど上から赤い瞳が見下ろしている。金の髪が白い衣の上を腰まで流れ、その間から覗く鎖骨に走る赤い紋様が灯りの光で浮き上がっていた。  立ったまま動けずにいるあなたの顎に、白い指が触れる。硬い——指先は女のものらしく整っているのに、触れた力は驚くほど迷いがない。顎先を掴んで顔を上向きに固定され、拒む余地も乱暴さもなく、ただ「この角度で見たいからそうする」という当然さだけがある。至近距離で赤い瞳の奥を覗くと、やはり金が沈んでいた——その虹彩の中心で、赤がかすかに金色へ明滅する。 「……なるほど。卑屈ではない。無知なだけでもない。恐れを知りながら、それを顔から追い出そうとする。未熟だが、醜くはない」  顎を支える指がそのまま横にずれて頬骨の下をなぞった。愛撫にはほど遠い、輪郭を確かめるだけの動きなのに妙に神経に残る——値札を掛ける前に財の表面を確かめている手つきだ。 「お前、自分が何者かをまだ知らぬな」 「……はい」 「だろうな。知っていれば、あの槍を掴んだ後でそんな顔はせぬ」  女王は笑わないまま言う。 「よい。知らぬなら、我が見てやろう。お前が何を持ち、何を持たず、どこまで使えるか。塵の中に埋もれて終わる石か、磨くに値する財か——そのくらいは判じてやる」  女王は顎から指を離し、空いている方の手を虚空に向けて掴んだ。  空気が裂けた——音が先で、光が後。指先の横で金色の波紋が水面のように広がり、その中心に暗い穴が口を開ける。穴の奥は暗いのに、そこに並ぶ無数の金属が自ら光を放って暗闇の中で煮えていた。足が一歩退がりかけて、踏み留まる。前世のどんな知識にも今世のどんな常識にもない現象が目の前で起きていて、理解が追いつかないまま身体だけが竦んでいる——その間に差し入れられた白い手が穴の中から引き抜かれ、指の間に細い金属の光が握られていた。穴が閉じると金色の波紋だけが空中にしばらく揺れて、やがて何事もなかったように消える。  振り向きもせず、女王はあなたに向かってそれを投げた。  考える前に手が動いていた——槍を掴んだときと同じだ。飛来する軌道に手が入り、指が柄を掴み、回転する金属の重心を掌の中心で受け止める。衝撃が手首から肘を走り抜けた瞬間には、もうこの武器の振り方を身体が知っていた。  短剣だった。片刃で、柄に金の細工が施してある。手の中に完璧に収まるこの重さと長さから——突くより引いて薙ぐ刃だと、初めて触れた武器の用途が指の間から全身に流れ込んでくる。  玉座の上で、赤い瞳がわずかに見開かれた——が、すぐに元の弧に戻る。 「持っていけ、雑種。それは我の財のひとつだ」  声が降ってくる。退屈は完全に消えていて、代わりに混じったものが何なのかは読めない。 「壊すな。汚すな。次に呼ばれたとき、我の前でそれを振ってみせよ」  シドゥリの落ち着いた声に退がるよう促されて、短剣を握ったまま後ずさった。背を向けていいのか分からない——そもそも膝折りすら果たしていない。壁際まで戻って振り返ると、玉座の上のあの目がまだこちらを追っている。拾い上げた石が本当に光るかどうか、掌の中で重さを確かめるような眼差しだった。  回廊の冷えた空気に戻っても、顎に残った指の感触は消えなかった。滑らかで、硬くて、一切の迷いがない力——この短剣を握って投げたのと同じ手が、あなたの顔を好きな角度に向けた。柄の金細工が灯りの光を吸って鈍く輝き、刃は暗い回廊の中で鋭い一線を引いている。握っている限り、この武器が持つ無数の軌道が腕を通って頭の中で渦を巻いて止まらない。  大階段を降りて夜の通りに出ると、昼間の熱気の名残が地面から素足にぬるく伝わり、頭上のジッグラトの頂に灯が揺れている——あの灯の向こうに、さっきまであなたの顎を掴んでいた白い指がある。赤い瞳が、まだ目の奥に焼きついて消えない。  右手に握りしめた短剣の柄の金細工だけが、あの瞳と同じ熱で——掌の真ん中に、いつまでも残っている。 ### Part 4  翌朝、枕元に転がっていた短剣の柄に右手が触れて目が覚めた。握ったまま眠りに落ちて、寝返りのどこかで手を離したらしい。天井の亀裂から差す薄明りの中で金細工だけが鈍く光を返していて、手に取り直すと昨夜と同じ刃の軌道が右腕から肩を伝って頭の中に流れ込んでくる。一晩眠っても、この身体は短剣が持つ情報を何ひとつ手放していない。  腰布を巻いて鋤を担ぎ、短剣は寝台の下の窪みに布を被せて隠す。戸口を出ると通りはもういつもの朝で、壺を頭に載せた女が城壁の影を辿り、角の花売りが葦籠に蓮を積んでいる。向かいの戸口からダガンが手を上げかけて——あなたの顔を見た途端にその手が止まり、女王に呼ばれて帰ってきた翌朝の水路掘りをどう扱えばいいのか測りかねている目がそこにあった。普段通りに手を上げ返すとダガンはわずかに遅れて頷き、それきり戸口の奥に引っ込んでいく。  水路に下りて鋤を握った途端に、右手が昨日までとは別の記憶を帯びているのが分かる——柄の太さも重心の位置も、指が短剣と比べてしまう。粘土を押し込む動作に昨夜の手触りが重なって、いつの間にか鋤が止まっていた。 「——手が止まっているぞ」  ナブーの声が水の中から飛んできて、友人は丸顔をこちらに向け、一度だけあなたの右手に目を落としてから何も言わずに視線を粘土に戻した。昼の休憩で土手に上がるまでナブーはいつもより口数が少なく、平焼きを千切りながらようやく切り出す。 「昨日、宮殿に行ったんだろう」  頷くと、ナブーは壺から掌に麦酒を注いで一口啜り、ユーフラテスから吹く風に目を細めた。 「ダガンから聞いた。兵士が二人迎えに来たと。——で、帰ったということは首は繋がっている」 「繋がっている」 「それだけか」 「……今のところは」  嘘ではないが全部でもない。ナブーは棗を口に放り込んでしばらく噛み、川面に目を落としたまま呟く。 「お前は時々、ここにいてここにいない顔をするな」  以前と同じ言葉だった。けれど今日は、その言葉が刺さる場所が前と違う。ナブーは何も詮索せず、いつものように壺を差し出した。 「飲め。生きてるなら、まあ何とかなる」  日が暮れると短剣を寝台の下から取り出して、家の裏手の日干し煉瓦に囲まれた狭い空き地に立つ。月明かりの下で初めて刃を振った——右手首を返すと身体が勝手に次の動きを選んでいて、弧を描いた刃の終点で手の中の重心が移動し、そのまま突きに入り、突きから手首をひねって逆手に持ち替え、引いて薙ぐ。七つのときに路地で枝を振って隣の子供を泣かせた、あの身体の確信が短剣という形を得て桁違いの密度で蘇る。腕が覚え、肩が続き、足の踏み替えが追いつく。三日目の夜には目を閉じても刃先から柄尻までの重量配分を手が正確に知っていて、五日目には考えるより先に腕が動きを選ぶようになっていた。  五日目の夜、型を終えて顔を上げると、月の位置がほとんど変わっていなかった。三つの構えと七つの受けを覚えるのに一刻もかかっていない。城壁の上で一年かけて訓練している兵士たちの横で、水路掘りが五晩で同じ場所に立とうとしている——その不均衡が、月明かりの下で刃を見つめる手の甲に冷たく落ちてくる。  刃を返す反動が腕から肩を走り、その通り道でこの短剣が求める使い方が身体へ染みていく。手首の角度ひとつで軌道が変わり、相手の間合いの内側へ滑り込む——懐に入ってからが、この刃の本領だった。使い方がひとつ解ると次の線が開いて、その先にまた新しい動きが待っている。七日目の夜には足が先に動いて手が従い、刃が空気を最も鋭く切る道筋を身体が勝手に見つけていた。鋤は粘土に力を押し込む道具だが、この短剣は手首の力を抜いた瞬間にいちばん速い——その違いが腕に沁みると、月が空を半分渡りきるまで柄を手放せなくなる。  ある夜、振りの途中でふいに右手が動かなくなって、刃を追っていた意識の底から別の感触が浮き上がる——手のひらの下の金細工の凹凸が、あの謁見の間で顎先に触れた指の圧に重なっていた。振り払うようにもう一度刃を振り抜くが、一度重なった感触は振っても振っても剥がれない。  水路掘りの日々は変わらず続いていても、夕暮れにジッグラトの頂を見上げるときの目がもう同じではなかった。一週間前まではただ遠い金色の光だったものに、白い衣と赤い瞳の輪郭が重なる。あの灯りの向こうに座っている女王の姿を手触りごと知ってしまったこの身体は、知る前には戻れない。水路の泥に膝を浸しながらも手のひらには常に短剣の柄の記憶があって、頂の金色が夕日に燃えるたびに胸の奥が引き攣るように熱い。  あの女王はまだ値踏みの途中で、磨くに値する財か塵に埋もれて終わる石かの判定は下っていない。——次に呼ばれたとき、我の前でそれを振ってみせよ。あの声が、夜ごと短剣を握るたびに頭蓋の内側で響いている。低くて、壁と柱に跳ね返っても芯の崩れない声。  十日目の夜、最後の一振りを終えて壁にもたれていると、路地の向こうからナブーの足音が近づいてきた。友人は空き地の入口で足を止め、あなたの手の中で月明かりを弾く短剣に目をやって——柄の金細工を確かめるように目を細めてから、何も言わずに壺を差し出す。 「麦酒。余った」  受け取って掌に注ぎ、啜る。ぬるくて薄い、二十年飲み慣れた味。ナブーは壁に背を預けてジッグラトの頂に揺れる灯を見上げ、しばらく眺めてから口を開いた。 「お前が何を抱えているかは聞かん。聞いてもお前は言わんだろう」  友人はそれだけ言ってあなたの肩を一度叩き、路地の暗がりへ消えていく。  空き地にひとり残り、刃に映った月を見下ろす。もう一度柄を握り直すと、十の夜をかけて身体に刻んだ全ての線が指先から背筋まで一斉に目を覚ました。この刃を握っていれば、あの女王の前にもう一度立って振ってみせられる。  召喚はまだ来ない。だが手の中の金属は夜ごとに確かさを増していて、あの赤い瞳にもう一度見据えられたとき膝を折るのか、それとも立ったまま見返してしまうのか——その問いに頭はまだ答えを出せずにいるのに、短剣を握ったこの右手だけは、もう迷う素振りもなかった。