視界が、ぐらりと揺れた。  肺腑を握り潰されるような鈍痛が、一拍遅れて全身を走る。石造りの壁に叩きつけられた衝撃で、レストロイカの額からツー、と生温かい液体が伝い落ちた。 「……グッ、がっ……!……ベッッ!!」  口中に満ちた鉄臭い唾を吐き捨て、サンク・マスグラード帝国皇帝レストロイカは、鬱陶しい前髪の隙間から”それ”を睨み据えた。  赤だ。  ただひたすらに、おぞましいほどの赤。  まるで自らの血反吐を塗りたくったかのように全身の毛皮を真紅に染め上げた、異様な巨躯。牛頭人身の魔獣が、砕けた石畳の中央に仁王立ちしている。  帝国の中心たるこの場所に、なぜあのような魔獣が入り込んでいるのか。  レストロイカの脳裏に、ほんの数十分前の記憶がフラッシュバックする。      * * *  ――サンク・マスグラード帝国立高等学校。  新学期の柔らかな陽光が降り注ぐ学び舎は、若者たちの無遠慮な活力と、春めいた浮かれた空気で満ち溢れていた。  レストロイカは始業式の訓示を述べるため、来賓用の控室で退屈な時間を潰していた。  血塗られた粛清者である自分など、この場に最もそぐわない存在だろうな…。そんな自嘲めいたため息をついた、正にその時だった。    「キャアアアアアアアアアアアッッッ!!!」  空気を裂くような、甲高い悲鳴。  それに続く、建材が砕ける轟音と、肉が潰れるひどく湿った音。 「陛下ッ!?」  慌てふためく近衛兵たちを制止するより早く、レストロイカは控室の窓枠を蹴り砕いていた。護衛の追従など待ってはいられない。あの音は、紛れもなく蹂躙の響きだった。  吹き抜けの中庭に降り立ったレストロイカの目に飛び込んできたのは、凄惨という言葉すら生温い地獄絵図だった。  先ほどまで春を謳歌していたであろう若者たち。明るく染め上げた髪、陽光を浴びて健康的に焼けた小麦色の肌。彼らの、あるいは彼女らであった肉の塊が、あちこちに四散し、赤黒い花を咲かせていた。 「……なんだ、これは」  その血溜まりの中心に、そいつはいた。  身の丈をゆうに超える巨大な戦斧を提げた、紅蓮の獣戦士。尋常ならざる憤怒の面持ちで、シュコー、シュコーと荒い鼻息を吐き出している。  その足元で、ただ一人、虫の息で立ち上がろうとする男子生徒がいた。  右腕は肩から先がなく、割れた頭蓋からは脳が零れ落ちそうだ。並の人間ならとうに絶命している致命傷。だが、その生徒はひきつる口元を無理やり持ち上げ、血泡を吹きながら嗤った。 「へっ……こいつ、顔真っ赤じゃんw……」 「待……!」  刹那。  文字通り、瞬きをする間もなかった。  振り下ろされた巨大な戦斧が、少年の体を唐竹割りに両断していた。  ごぼり、と重い音を立てて左右に分かれた肉体から、内臓がどろりと滑り落ちる。 「……狂い牛が」  レストロイカは、顔色一つ変えずに腰の佩剣───血錆の処刑剣に手を掛けた。      * * *  ――そして、現在。  レストロイカは壁を背にしてゆっくりと立ち上がり、額の血を乱暴に拭った。  相対する巨大な牛頭の魔獣は、皇帝の威圧感など意に介する様子もなく、ただひたすらに苛立たしげに地を蹴り、憎悪に満ちた瞳でレストロイカ、いや、レストロイカという『人間』を睨みつけている。 (……この国の中心部に、どうやって魔族が入り込んだ? いや、それよりも)  レストロイカは己の手から離れ、深く壁に突き刺さっている処刑剣にちらりと目をやった。 (弾かれた……しかもこうもあっさりと。……どう考えても尋常の魔獣ではない) 「チ……ギュウウウウウゥゥ……ッ」  魔獣の口から、低く漏れる唸り声。  一触即発。血の匂いだけが充満する中庭で、皇帝と魔獣の視線が激しく交錯した。      * * *  血に濡れた戦斧を肩へ担ぎ直し、魔獣は喉の奥で濁った笑い声を漏らした。 「グフ……グフフ。これは当たりだな」  牛の面から発せられたとは思えぬ、妙に流暢な人語だった。  人を虫けらのように叩き潰した直後だというのに、その態度にはこの惨状には場違いとも言えるほどの余裕が漂っている。 「貴様、その仰々しい格好……どうやらこの国の皇帝だな?」  血走った大きな双眸が、レストロイカの身に纏う豪奢な外套と、その奥にある首魁の気配をねめ回す。  折れた肋骨が内臓に擦れるような激痛を奥歯を噛んで耐え伏せ、レストロイカはあえて口の端を吊り上げてみせた。 「……驚いたな、喋るとは。どこかの牧場から逃げ出してきた狂い牛かと思ったが」  虚勢だった。額を割る痛みを隠し、精一杯の皮肉を投げつける。皇帝たるもの、魔獣相手に怯む姿を見せるわけにはいかない。  だが、魔獣は怒るでもなく、醜悪な牛の面を歪めてニタリと笑った。 「チギュギュ…強がるな。そういう声は、何百と聞いてきた」  ずしり、と一歩。石畳が沈む。 「肋が折れている。呼吸も浅い。額の傷で視界も鈍っているな」  レストロイカの喉が鳴る。忌々しい。  ただの力任せの獣ではない。幾多の戦場を渡り歩き、数え切れぬほどの命をその手で摘み取ってきた本物の殺戮者の観察眼だった。 「常闇の支配者、永劫不滅の大魔王にして宇宙の創造主モラレル様のお膝元と言えるこの星で、愚かにも王様ごっこなどに興じる人間ども…。そいつらの生意気な顔を真っ二つに叩き割るのは、悪くないストレス発散になるのだ。冥土の土産に、俺の名を刻んでおけ!」  ズォン! と、戦斧の石突が石畳を砕き、周囲の空気がビリビリと震えた。 「俺は魔王軍、エビルソード軍団の大幹部!魔王モラレル様より名を賜りし猛将───血牛よ!」  高らかに響き渡るその名乗りに、レストロイカは全身の血の気が引くのを覚えた。  ――エビルソード軍。  その名を聞いた瞬間、冷たい汗がどっと背中から噴き出し、豪奢なマントの裏地までをじっとりと湿らせていく。 (……野生のモンスターではないとは分かっていたが…考えうる限りで最悪な名前が出たな)  人類圏を脅かし続ける魔王軍の中でも、狂気的なまでに戦闘力のみを追求した純戦闘集団。四天王最強と謳われるエビルソードが率い、すでに幾つもの人類国を地図から消し去ってきた、実質的な魔王軍の『本体』。  その中でも将軍クラスの大幹部が、なぜこんな帝国のど真ん中、それもただの学校の中庭に単身で現れたというのか。 (……見誤った)  レストロイカはギリッと唇を噛む。  壁に突き刺さったままの愛剣を横目で見やる。先ほどの交刃は、あくまで相手の力量を測るための探りだった。しかし、相手が国一つを滅ぼしかねない大幹部だと知っていれば。 (最初から……身命を賭した必殺の、渾身の致命剣を浴びせておくべきだった……!)  後悔はすでに遅い。  眼前の猛将『血牛』は、すでに狩りの時間を楽しむかのように、血に染まった戦斧をゆっくりと持ち上げていた。      * * * (……時間稼ぎだ。この手の血に飢えた狂獣が乗ってくるとは限らないが)  皇帝という誇り高き立場にありながら、一介の魔族を相手に小細工を弄さねばならない己の不甲斐なさを忌々しく思いながらも、レストロイカは口を開いた。 「貴様……どうやってこの帝都の中心に現れた? まさか、エビルソードのように……」  ――四天王エビルソード。  かつて、堅牢な結界に守られていたはずの聖都カンラークのど真ん中に突如として出現し、人類最高クラスと謳われた精鋭の聖騎士一千人を単騎で屠り去り、たった三日で国を崩壊させたという、人類の誰もが知る悪夢のような記録。  検討もつかないが、魔王軍には国の結界すら無視して要人の中枢へ転移するような、未知の瞬間移動手段があるのではないか。そして今回もそれを使ったのではないかという、これは純粋な疑問であった。  だが、皇帝の真剣な問いかけに対し、血牛はきょとんとしたように牛の首を傾げた。 「チギュ? まっすぐ来ただけだが……」  そう言って、血牛が血みどろの戦斧の先で無造作に示した方向へと、レストロイカは視線をやった。   「…………」  絶句した。  そこには、帝都の外周を囲むはずの強固な城壁が、まるで飴細工か何かのように無惨に粉砕され、遠方で大きく抉れていた。  そしてその城壁の大穴から、今二人が対峙しているこの学校の中庭に至るまで――一切の迂回もせず、ただ文字通り一直線に、見渡す限りの瓦礫の山と、黒煙を上げる炎の道が続いていたのだ。  遠くから、遅れてやってきたかのように、けたたましい警鐘の音や、逃げ惑う人々の喧騒、騎士団の怒号が風に乗って微かに聞こえてくる。 「バカだ……」  ポツリと、レストロイカの口からそんな言葉がこぼれ落ちた。  馬鹿げている。  ただ、邪魔な壁があったからぶち壊し、邪魔な建物があったから踏み潰し、立ちはだかる騎士団や治安維持部隊を紙屑のように吹き飛ばしながら、ただひたすらに目的地へと直進してきただけ。何の考えもない、ただの短慮。  だが、その子供のような無茶苦茶な理屈を、帝国の防衛網を正面から突破して押し通せるだけの、絶望的なまでにスケールが大きすぎる暴力。  知略や戦術といった、人間が積み上げてきた土台そのものを嘲笑うかのような理不尽な力の差に、レストロイカの喉の奥から、ハハッ、と乾いた笑いが漏れ出そうになった。      * * *  しかし───。   (全く……隙など、ないな)    レストロイカは、顔にへばりつく冷や汗を拭うことすらできず、胸中で苦く吐き捨てた。  眼前の魔獣は、間の抜けた声で喋っていようが、とぼけたような仕草で遠くの惨状に目を向けていようが、その実、一分の隙も晒してはいなかった。    ただそこに立っているだけで、大気を震わせるほどの濃密な殺気が、不可視の刃となってレストロイカの全身の皮膚をチリチリと突き刺してくるのだ。  巨大な肉食獣の顎門へ、自ら踏み込んでしまったようだった。  いつ嚙み砕かれてもおかしくない。  蛇に睨まれた蛙などという生易しいものではない。細胞の底から「動くな」と本能が警鐘を鳴らし続けている。    レストロイカの視界の端には、壁に深々と突き刺さった愛剣――血錆の処刑剣が映っていた。  その距離、わずか数メートル。  鍛え抜かれたレストロイカの脚力ならば、一息で届く。柄を掴み、引き抜き、斬撃へ繋げるまで瞬きほども要らぬ。    だが――できない。  ほんの一瞬。剣に手を伸ばすためにこの狂える獣から意識を逸らし、背を向けたその刹那――あの巨大な戦斧が自らの胴体を両断する光景が、痛いほどの確信を持って脳裏に焼き付く。   (行けば、死ぬ)    あの時、自分の足元で死に絶えた生徒と同じように。  皇帝としての矜持も。  積み上げてきた武の理も。  国を正した自負も。  そのすべてを嘲笑うかのように、逃れようのない死の予感が、レストロイカの両足をその場へ縫い留めていた。  剣を持たぬまま、ただ訪れる終焉を待つことしかできないのか。重苦しい沈黙が、血の匂いと共に中庭を満たしていた。      * * *  だが――逆転の芽が、完全に潰えたわけではない。  胸中で荒れ狂う鼓動を押し殺しながら、レストロイカは意識だけを静めた。  指先一つ動かさず、懐へ縫い込まれた小筒の位置を確かめる。 (審判の針……)  それは、血錆の処刑剣の呪いを介して作り出した、赤錆びた魔法の針である。  これに刺された者は、その魂に刻まれた罪業の重さに応じ、肉体を内側から錆に侵される。  軽罪なら苦痛で済む。重罪なら、全身が朽ちる。  かつて帝国を食い物にした逆臣どもは、例外なく赤錆に食い破られ、断末魔のうちに崩れ落ちた。  罪そのものを裁く、必殺の呪具だ。  だが、問題はそれを『当てられるかどうか』だ。  力のみを信じる愚物であれば容易い。  相手の秘策をあえて受け止め、絶望する顔を眺めて愉しむような三流には、血錆の術はよく通じた。  しかし、目の前に立つ巨獣はどうだ。  圧倒的な暴力の権化でありながら、それでいて驕らず、隙を晒さず、相手の息遣いすら読む。  そんな歴戦の猛将が、正体不明の暗器をわざわざ受けるはずがない。 (隙を……作らなければ)  針を届かせるには、一瞬でいい。視線が逸れ、思考が乱れ、殺意の密度が揺らぐ、その刹那だけでいい。  レストロイカは口を開いた。 「一つ聞かせろ」  声音は静かだった。だが刃のように研がれている。 「なぜ魔王軍が学校など襲う。強者との戦いを望むなら、騎士団の屯所でも軍営でもあったはずだ」  血牛は答えない。  レストロイカはさらに踏み込む。 「非戦闘員を屠ることが、貴様らの武勲か。こんな年端もいかぬ――」  そこで言葉が止まった。  ぞ、と背骨を氷柱で撫でられたような悪寒が走る。 「……ッ」  血牛の纏う気配が、膨れ上がっていた。  否。それは単なる殺気ではない。もっと粘ついた、もっと濁ったもの。  底無しの泥沼から噴き上がるような、どす黒い憎悪だった。  だが異様なのは、その奔流がレストロイカへ向いていないことだった。 「チギュゥゥゥゥア゛ア゛ア゛ア゛……ッ!!」  ギリギリと、牛の剛牙が噛み砕かれんばかりに鳴る。  血走った双眸が見据えていたのは、皇帝ではない。  その背後。中庭に散らばる死骸だった。  明るく染めた髪。砕けた制服。つい先ほど、この魔獣自身が挽肉へ変えた若者たちの亡骸。  血牛の顔に、深々と怒りの皺が刻まれていく。  真紅の体毛が逆立ち、火に炙られたようにちりちりと震えた。 「チギュゥゥ……チ、ギィィィィィィ……!!」  地獄の釜底から響くような唸声。若者たちへ向けられた、理解不能なまでの憎悪。  なぜ、自ら殺した相手へこれほどまでの怒りを燃やすのか。  人の欲も狂気も見慣れてきたレストロイカですら、その理由だけは欠片も読めなかった。      * * * (……チャンスだ)  血牛から立ち昇る異常な感情の揺れを感じ取り、レストロイカは心中でそう確信した。  この魔獣には、この学校や生徒たちに並々ならぬ執着――それも悍ましいほどの憎悪がある。この話題をさらに深く掘り下げて逆撫でしてやれば、必ず理性を失い、冷静さを欠くはずだ。  そこに乗じて、あの太い首筋に針を突き立ててやる。 「なぜ答えぬ」  レストロイカは静かに追い打った。 「そんなにその死体が気に食わないか? 彼らが貴様に何を――」  その時だった。 「チギュッ……チギュッ……チギュッチギュッ」  先ほどまでの怨念に満ちた唸り声が、突如として、粘り気のある嘲笑いの色に変わったのだ。  レストロイカの眉がわずかに動く。 「……なに?」 「チギュ……若いなァ……人間の皇帝」  血牛は戦斧の柄に顎を乗せ、まるで無知な子供をたしなめるような、ひどく冷ややかな目でレストロイカを見下ろした。怒りに我を忘れているなどという様子は、微塵もなかった。 「時間稼ぎなど、できていると思っていたか?」 「……ッ」 「むしろ逆だ。よぉく貴様を観察させてもらったぞ……。」  血牛の鼻が鳴る。 「さっきから、不自然に懐を気にしていたな」  心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような悪寒が走った。  ほんの微細な視線の動き、筋肉の緊張、息遣い。自覚すらなかったそれらのサインから、自分が暗器を隠し持っていることなどとうに見透かされていたのだ。 「王族や貴人の得物なんぞ、どれもこれも同じだ」  血牛は肩をすくめた。 「魔術やら呪いやら、神の力やら…あれこれ施しおって。触れれば終わり――そんな玩具をありがたがる」  壁へ突き刺さった処刑剣を一瞥し、続ける。 「貴様のあの剣も。懐に隠した得物も。どうせ当たれば死ぬ類だろう」  図星だった。  血牛は愉快そうに牛の鼻面を歪め、シュコー、と熱い息を吐き出す。 「だがな」  一歩踏み出す。石畳が軋む。 「そいつらの多くは能力の発動を第一に考えるあまり……剣自体の冴えが鈍る」  また一歩。 「蜂が毒針に酔い、刺すことしか頭になくなるようにな」  また一歩。 「軌道は単調。間合いは浅い。殺意は見え見えだ」  レストロイカは後退れないまま、その巨躯を見上げるしかなかった。 「俺は――そういう甘い人間を、数え切れぬほど殺してきた」  ドン! と血牛が胸を叩くと、その分厚い筋肉が鋼のように鳴った。 「致命の力など、己の肉体ひとつに宿っていればいい」  双眸が細まる。 「最初の一撃でこの俺を殺せなかった……」  血牛の口元が裂けるように笑った。 「その時点で──貴様の負けよ」  その言葉は、死刑宣告のように重く、中庭に響き渡った。 (……実戦経験の差か。完全に、格下扱いされている……!)  レストロイカは奥歯を強く噛み締めた。  将軍とは、軍を率いる者の称号だ。どんなに人外の膂力を誇ろうとも、知能と戦術眼がなければ、数多の荒くれ者を束ねて一軍を率いる将にはなれない。  この『血牛』という魔獣は、単なる力だけのバカなどではない。  戦場で積み上げた勘。冷徹な観察眼。敵の心理すら玩ぶ老獪さ。  ──圧倒的な戦闘巧者だったのだ。      * * * 「さぁて──そろそろ死ぬか、人間の皇帝」  ずしり、と。  血牛が一歩、レストロイカへと歩み寄った。それだけで地が呻き、砕けた石畳の破片が跳ねる。周囲の空気すら重みに軋んだ。 「お前のその首を献上すれば、さぞモラレル様もお喜びになるだろう……」  牛面が歪む。 「そうすれば、手柄の対価として新たな名も……チギュッ、チギュギュギュッ……!」  血牛の喉の奥から、下品で、しかし異様なほどに執着に満ちた笑い声が漏れた。  新たな名。それが彼にとってどれほどの意味を持つのか、レストロイカには知る由もなかったが、魔獣の濁った瞳に浮かんでいるのは、もはや自分を殺した後の青写真だけだ。帝国を統べる皇帝の命すら、こいつにとっては己の欲求を満たすためのトロフィーに過ぎない。 「行くぞォ!」  吼えると共に、血牛はその丸太のような剛腕で、巨大な戦斧を頭上で旋回させ始めた。  ――ゴォォォォォォォォォォッ!!  初動からして、生物の域を逸脱した速度だった。  瞬く間に超高速回転へと至った戦斧は、まるで一枚の鋼の円盤のようにブレて見え、竜巻にも似た凄まじい暴風を巻き起こす。  バキバキと中庭の石畳が剥がれ飛び、周囲の木々が根こそぎへし折られる。レストロイカは強烈な風圧に吹き飛ばされまいと、必死に足を踏み張るのが精一杯だった。 (……しまった。これでは!)  絶望が、レストロイカの胸を冷たく満たしていく。  あのような暴風の壁を展開されては、懐に忍ばせた審判の針など、放った瞬間に吹き飛ばされてしまう。  小手先の暗器など、圧倒的な物理の暴力の前では何の意味も為さない。完全に、打つ手を塞がれた。  防ぐ術はない。避ける隙もない。  死だけが、迫ってくる。  風圧に顔をしかめながら、レストロイカはふと、背後にある校舎の割れ残った窓ガラスへ視線を走らせた。  そこに、己の姿が映っている。  豪奢なマントを翻し、壁際で立ち尽くす皇帝の姿。  ――首が、ない。 (……幻覚、か。いや、違う)  直後、自分がどうなるかを、武人としての本能が正確に予測して脳裏に叩き込んできたのだ。  いわば、これは死相。  ほんの数秒後には、自分の首は胴体を離れ、あの魔獣の手の中で血を滴らせているだろう。 「死ねい、皇帝ェェェェェッ!!」  血牛の咆哮が炸裂した。  超高速で回転する戦斧が、必殺のギロチンとなって、レストロイカの首すじ目掛けて真横に薙ぎ払われる。  空気が悲鳴を上げ、視界のすべてが死の刃に塗り潰された。 「くっ……!!」  レストロイカは、ただ無力に、迫り来る圧倒的な死の暴風を前に目を細めることしかできなかった。      * * *  ──だが。  空気を裂き、皇帝の首を刈り取るはずだった必殺の戦斧の切っ先は、寸前で止まっていた。  レストロイカの首筋の薄皮一枚を切り裂き、一筋の血が流れる、まさにその数ミリ手前で。 「……な、に?」  何が起こったのか。痛みがこないことに気づき、レストロイカが薄く目を開けると、そこには信じ難い光景が広がっていた。 「チギュ!? チ、チギュウウウウウゥゥゥゥッ!?」  先ほどまで暴風と殺気の中心にいた血牛が、空中で硬直していた。  まるで見えざる巨鎖に全身を縛り上げられたかのように。  隆起した筋肉が膨れ上がり、血管が浮き、歯が砕けんばかりに軋む。それでも、一歩たりとも動けない。  振り抜かれるはずだった戦斧も、中途で止められたままだ。  よく見れば、血牛の腕、胴、脚、戦斧の柄へ、白い靄のようなものが幾重にも絡みついていた。 「幻術か? いや、これは……」  レストロイカは魔力を目に集め、魔力視の霊圧を一気に引き上げた。  人間の肉眼には見えない霊的な波動を捉えた瞬間、靄の正体が鮮明な像を結んでレストロイカの網膜を打つ。 『うぇーいwwwチー牛マジギレしてんじゃーんwww』 『チー牛顔真っ赤すぎてウケるーw』 『ヤバっ、今の顔チェキりてぇ~www』 「な……!?」  皇帝の口から、驚愕の息が漏れた。  靄の正体。それは、半透明の姿をした若者たちの群れだった。  明るく染め上げた髪、着崩した制服。それは紛れもなく、先ほどこの魔獣の狂刃によって四散し、無惨な肉塊へと成り果てたはずの生徒たち――そう、あの陽気な男女の霊魂であった。  本来ならば、凄惨な死を遂げた者の魂は怨霊となる。恨み、悲嘆、呪詛。そうした負の情念を撒き散らすものだ。  だが、彼らにはそのどれも無かった。  恐怖もない。無念もない。復讐心すらない。  あるのはただ――悪ノリだけだった。  腹を抱えて笑いながら、血牛の腕へぶら下がる者。角へよじ登り自撮りする者。戦斧へ何人もがまとわりつき、霊体そのものを鎖へ変えて拘束する者。  幾重にも重なったその霊魂が、強固な霊鎖となって魔王軍大幹部を縫い留めていた。  自分たちを惨殺した怪物を。顔を真っ赤にして怒り狂うその様を。  死んだ後ですら、ただ面白がっていた。 「ええい離せ! 離れろ下等生物どもがあっ!!」  己の腕に群がる不可視の亡霊たちに向かって、血牛は唾を飛ばしながら激怒の咆哮を上げる。だが、その怒号さえも、彼らにとっては格好の笑いのネタでしかないらしい。 『うわっ、唾飛んできたwww必死すぎてマジキモいんだけどwww』 『てかチギュって何?www新しい挨拶?wwwチギュッスwww』 『やべーウケるwwwチギュッスwww』 「チ……チギュゥゥゥゥッ!!!」  屈辱に顔を歪め、魔王軍大幹部のプライドを粉々に砕かれながら悶え苦しむ血牛。  その光景を見て、レストロイカは一つの真理に到達した。 (……聞いたことがある、ある戦士たちの名を…まさか、彼らは)  彼らは、仲間から下に見られることを何よりも恐れる。  どんな恐怖の対象であろうと、決してビビることを良しとしない。恐怖に屈することは、彼らのコミュニティにおいて「死」よりも重い社会的抹殺を意味するからだ。  だからこそ彼らは、どれほど絶望的な状況下であっても、己の命が消え去った後でさえも、決して敵をからかう態度を崩さない。  敵を嘲笑い、マウントを取ることに文字通り「命を懸け」、それを誉れとする、ある種狂気じみた蛮族の如き戦士たちだったのだ。 「そうか……! 彼らは───陽キャ! その霊魂……ッ!」  皇帝の戦慄を含んだ呟きを置き去りにして、陽キャたちの霊魂による容赦のないいじりは、止まることなく延々と続いていた。      * * * 「往ね! 陽キャどもォォォォッ!!」  血牛の巨大な顎が大きく開かれたかと思うと、その喉の奥から、周囲の空気を一瞬にして凍らせるほどの極寒の魔力波が放たれた。  ――ゴアァァァァァァァッ!!  物理攻撃が通じぬスピリットに対する、魔王軍大幹部としての最適解。『凍てつく波動』のブレスが、中庭を白く染め上げる。  その氷結の波に触れた瞬間、血牛に纏わりついていた半透明の生徒たちは、「うぇっ!?」「さむっwww」などとふざけた声を上げながら、次々と霧散してこの世から消え去っていった。  あっという間に霊鎖は解かれ、戦斧の重みが血牛の腕に戻る。  だが、その冷気の嵐の中で、最後までへばりついていた一人の男子生徒──生前最後まで血牛を嘲笑っていた彼の霊が、完全に消滅するその刹那、にやりと笑った。 『てかw 必死すぎて周りなんも見えてねーしwww』 「──!!」  その嘲りの言葉に、血牛の全身をかつてない悪寒が突き抜けた。  ハッとして、慌てて視線をレストロイカのいた壁際へと向ける。  人間風情が何をしようと、この『血牛』の肉体を貫けるはずがない。そう高を括っていたはずの猛将の顔に、初めて明確な焦燥が浮かんだ。  ──遅い。  霊たちが稼いでくれた数秒。  魔将の意識が完全に自分から逸れた、その永遠にも等しい隙を。  レストロイカが見逃すはずがなかった。 「……彼らの手向けだ」  音もなく間合いを詰め、魔獣の死角へともぐり込んでいたレストロイカの腕が、鞭のようにしなった。  指先から弾き出された、一本の小さな、赤錆びた魔法の針。  ――ドスッ!! 「チギュ……ッ!?」  鈍い音とともに、《審判の針》は血牛の大きく見開かれた左眼へ突き立った。  眼球を貫き。  根元まで、深々と。      * * * ――ジクジク、ジクジクジク……。  血牛の頭蓋の奥で、己の肉が変質していくような、禍々しくも悍ましい音が鳴り響いた。  それは傷の痛みではない。細胞の一つ一つが、不可逆の赤錆へ変換されていく音。  同時に、濃密な鉄臭と腐れた錆の臭気が噴き上がる。 「チイッ!……チュギュアアアアッッッ!!」  その瞬間。  猛将たる血牛の判断は常軌を逸するほどに早かった。  痛みに悶える暇などない。彼は己の太い指を無造作に顔面へと突き立てると、針の刺さった左目ごと、顔の左半分の肉を豪快に抉り取ったのだ。  ベシャッ、と無残な肉塊が石畳に叩きつけられる。  転がった眼球は、次の瞬間にはぶくぶくと泡立ち、赤錆びた金属塊へ変貌した。  やがてぼろぼろと崩れ、赤土のように砕け散る。 「グフゥ~~~……グフゥ~~~~……」  眼窩から滝のように血を流しながら、血牛は荒い息を吐く。  一歩間違えれば、あの赤錆が脳漿を食い破り、全身を侵食して絶命していたはずだ。  己の肉体を削ぎ落とすという、歴戦の狂戦士ゆえの躊躇なき決断が、彼を『審判の針』の死の呪縛から間一髪で救い出したのである。  到底、致命傷には至っていない。  血牛は血走った残る右目でレストロイカを睨み据え、再び巨大な戦斧を両手で構え直した。  だが――その隙もまた、皇帝は逃さない。  血牛が己の顔を抉っていた一瞬。  その刹那にレストロイカは壁際へ走り、深々と刺さっていた愛剣の柄を掴んでいた。  引き抜かれた『血錆の処刑剣』が、陽光を浴びて不吉な赤黒い光を放っている。 『皇帝あんま絡みなかったけどガンバw』 『ヴァルハラで会ったら魔INE交換ヨロ〜w』  レストロイカの周囲を力なくフワフワと漂っていた、最後まで残っていた陽キャギャル二人(Lカップ、Mカップ)の霊が、能天気な笑い声を残して、今度こそ完全に霧散していった。  (……ヴァルハラ、か。ふっ)  陽キャ特有の意味不明な単語もあったが、その言葉には確かに、自国を護る者へのエールが込められていた。  ならば。  己の民から応援されたのであれば、それに命を懸けて応えるのが、このサンク・マスグラード帝国を統べる皇帝の務めである。  レストロイカの目から、恐怖も、後悔も、焦りも、すべての雑念が綺麗に消え去っていた。  ただ氷のように冷徹に、そして静かなる怒りを秘めて、眼前の魔獣を見据える。  血に濡れた処刑剣の切っ先を、真っ直ぐに血牛の喉元へと向けた。 「さあ来いw 駄牛w 屠殺の時間だw」  あえて。  先ほど散っていった若者たちの軽薄な口調を借りて、皇帝は挑発した。 「チギュアアアアアアアアアアア!!! ほざくな若造がァァァァァッ!!!」  己の誇りを完膚なきまでに傷つけられた大幹部の咆哮が、帝都の空を揺るがした。  血を振り乱しながら猛進する紅蓮の魔獣と、血錆の剣を構え静かに迎え撃つ若き皇帝。    ――激突の火蓋は、今、切られたばかりである。 帝国戦史「チー牛煽ったら顔真っ赤になった件についてw」より抜粋