「おとなしく地べたを這い回ってやがれ、この芋虫野郎!」 一際大きな打撃音と共に、重たく硬い何かの倒れる音が、猥雑な夜をほんの一瞬かき混ぜる。 だがすぐに音は絶え――怒気を孕んだ乱暴な何人もの足音さえ、跡に何も残さない。 街は死んだように静かだ。無論通り一つ先の大通りには媚びたような女の声と男たちの笑い声、 それごと轢き殺さん勢いで車道を走り抜けていく何台もの車の音があるのだが。 影はしばらく闇の中をごろごろと転がるように落ち着く場所を探していた。 だが2mを超える巨体が意識を失うには、その裏路地はあまりに狭すぎた。 そしてまた、彼の全身には傷らしき傷もないのだった――今にも弾けそうな胸筋、 引き締まりながらも、無駄を削がれ却って大きく膨らんだ上腕筋、大腿筋。 ただ男は呻きながら、椰子の葉のごとくに広い手で己の顔を覆いながらゆっくり起き上がる。 のしかかるように突き出した無数の窓、そこから釣り出された薄汚い下着、剥がれかけの壁。 それらはそのまま、今の彼の精神性を象徴していた――狭く、湿り、袋小路に向かっている。 その大きな身体がふらふらとよろめきながら落ち着く場所を探しているのだから、 そのたびに、がつん、どすん、と音がして、ひびの入った硝子戸は軋むのである。 男の歯列を無意識の呼吸以外の息の通ったのは、それからしばらくしてようやくである。 薄暗い路地の更に奥底、鍵をかけ忘れたかのように口を開いたどこかの部屋に、 転がり込むように倒れて――やはり戸に引っ掛かった身体を無理やり奥に投げ入れる。 しんとした夜の湿気の溜まったその中は、ちょうど暗野の葉の裏のようであった。 普段なら不快なはずの冷たさも、今の彼の心身にはちょうどいいくらいのもので、 肺腑に滑り込む埃臭い風を、男は噛みたばこでも味わうように反芻していた。 「どなた?」 人の気配のない室内の、確かに女の声のした方向に視線が躍る。 けれど彼が容易にその正体を掴めなかったのは、単に夜目に慣れていなかっただけではない。 部屋の端に無数のごみ袋と共に掃き捨てられていたベッドのその上の、 薄汚れて床との区別も付かなくなったシーツのその内側に、 呼吸による上下すらほとんど起こさないような小さな膨らみが、どうして人と見なせよう。 ただ、あまりに静かな夜が――囁くようなその声を隠しきれなかったというだけだ。 男はその声に応えなかった。するとまた、同じか細い声が彼に問うた。 「そこにいるのは、芋虫さん?」 芋虫――その言葉に男はぐっと息を呑んだ。音は叫ぶよりも饒舌に、彼の心境を表していた。 「あら、ごめんなさいね――さっき、外から聞こえてきたものだから」 やはり男は無言のまま、ゆっくりと頭を振る――そう呼ばれたくはない、だが。 立ち上がるだけの気力もなく、三角座りの体勢を取った彼は、声の方向に向き直る。 「ねぇ、少しだけ…いいかしら」 沈黙にて肯んじ、男はただ女の次の言葉を待った。耳をそばだてるまでもなかった。 「あなたも、こんなところにいるのだから、きっと、傷付いているのよね」 「私ね…昔は、それなりに幸せだったの。お母様と二人、素敵な人との結婚も目前で」 「でもお嫁入りするその日に、私の身体が――」 男は初めてぶんぶんと、岩のように大きく頑丈な頭を振り回した。聞いてどうなるというのか。 縁談が破談になった――自棄になった母が娘に当たり、家を飛び出した娘は―― 病に蝕まれ死期にある娼婦の、そんなつまらないありきたりの来歴など。 「――で?神への恨み言で締めるつもりか」 ようやく彼の唇を抜けた言葉は、不幸ぶった女への悪意に満ちている。 「とんでもない、私は神様を恨んだことなんて一度もないわ」 振り上げた拳を下ろし損ねて、思わず男は前のめる。不意に、彼は己をそこに見たのである。 「だってそうでしょう?神は全てを見ておられるわ――こんなところでも」 「…」 「私ごときが何を言ったって、それは神様がお決めになったことに反するだけ」 「なら――お前は自分を蝕む病さえも受け入れるというのか」 「それも含めて、私に与えられたものじゃない?」 言い終わるのを待たずに女は咳き込む。腐った血の臭いが幽かに香る。 「ねぇ、最後に――もう一つだけ、願いを聞いてくださらない?芋虫さん」 男は努めてぶっきらぼうに応えた――しかし声色に籠る情までは消しきれなかった。 「そこの棚の一番上、右の引き出しに――お母様からの手紙があるの」 ごみごみとした部屋の中にはいくつもの棚が乱雑に置かれていたが、 彼の視線はまるで見えないものに導かれるように、自然と一つの白い棚に吸い込まれた。 ゆっくりと立ち上がる。ずっと彼を縛り付けてきた倦怠感はもう残っていなかった。 「きっと怒ってらっしゃると思って――読まずにおいたの。でも、もう、ほら…目が、ね」 封印を割る乾いた音が部屋に響いた。窓から差す淡い光に紙をかざしながら、 男は差出人の乱れた心の表れた踊る文字を、指先でなぞって追っていく。 許して――二人で――会いたい――また――迎えに――私の大切な―― 「…怒っていたさ」 「そう、やっぱり」 男は手の中で潰れゆく手紙の立てるかさかさした音ごと握り潰そうとしたが、できなかった。 「ありがとう、芋虫、さ――」 言葉の最後を継ぐための呼吸は、そのまま永遠に帰ることはなかった。 男の目にも、シーツの山が少しだけ膨らんだのが見えた。ほんの微かに。 窓を開け放つ。男の背からは、左右に分かれたマントのような広い影がばさりと伸びて、 全てを吹き飛ばすように、力強く打った――小さな嵐が、ぐるんと部屋をひっくり返す。 そしてそのまま、夜の闇の中に蝶は飛んでいった。暴風の止むのを待たずして。 ベッドからこぼれた白い何かの欠片が落ちる音と共に、また路地は静寂に包まれた。