# 第0話 灰の窓辺  窓の外で、雀が鳴いていた。  修道院の高窓は格子で切り取られていて、見えるのはくすんだ春の空と、それを横切る黒い影だけだ。あれは雀だろうか、それとも別の鳥か。判別できない。視界がもう、ずいぶん前から濁っている。  アルディウス・ヴァン・ロウェルは、薄い毛布の下で身じろぎした。骨と皮しか残っていない体は、自分のものとは思えないほど軽い。十八歳の冬を迎えた頃にはまだ、剣の柄を握る重みも、馬の手綱を絞る感触も覚えていた。それが半年で、こうだ。  もっとも、半年というのは正確な数え方ではないのかもしれない。最後に時間を意識したのは、卒業パーティの夜だった。 「——アルディウス・ヴァン・ロウェル」  あの夜、王太子セレスティンが大広間の中央で告げた声を、まだ覚えている。 「貴殿の犯した罪は、もはや見過ごせるものではない」  冷たい大理石の上に膝をついた感触も。  婚約者だったイリーナの、顔色を失った横顔も。  彼女が何かを言いかけて、唇を半分開いたまま、止まったことも。  あの唇の先にあった言葉を、俺はずっと考えていた。修道院に運び込まれてから、寝台に縛り付けられるしかなくなってから、ずっと。  言葉は——イリーナは、何を言おうとしていたのだろう。婚約者だった俺を弁護するつもりだったのか。それとも、別の何かか。  あの場で唇を閉じた彼女は、その後、家格の都合で東部のリーゲルト辺境伯家に嫁がされたと聞いた。結婚の三年目に、病死したという報せを、修道院で受け取った。  もう、聞けない。  答えは、出ない。  代わりに、別のものが見えるようになった。  目を閉じると、瞼の裏に流れ込んでくる景色がある。十四歳の春、入学式の朝。十五歳の夏、はじめての剣術試合。十六歳の秋、幼馴染のノエルが突然「もう、お前とは話したくない」と言って、視線をそらして去っていったあの日。  あのとき、俺はなんと答えただろう。 「勝手にしろ」  それだけだった。理由を問うこともしなかった。引き止めもしなかった。ノエルが何を言いたかったのか、聞きすらしなかった。  翌年、彼は決闘で死んだ。相手は爵位の低い男爵家の三男で、本来ならノエルが負ける道理はなかったはずだった。だが彼は剣を、抜かなかったらしい。  その話を、俺は彼の死後に届いた一通の手紙で知った。  ——アルディウス。  手紙の冒頭は、そう書かれていた。  懐かしい、子供の頃の呼び方だった。学園に上がってからは「ロウェル様」と呼ばれるようになっていたから、もう何年も聞いていなかった呼び名。  封筒には、ノエルの死の三日前の日付が押されていた。  ——お前は、最後まで気づかなかったね。  俺は手紙を読み終える前に、それを灰皿に放り込んだ。今でも、その続きを読まなかったことを、後悔している。あの手紙には、ノエルが本当に伝えたかったことが書かれていたはずだった。それを俺は、灰にした。  灰になった言葉を、修道院の寝台で何度も拾い直そうとした。だが、もう遅い。  遅い、というのは、嘘だ。  遅いのではなくて、届かないのだ。  届かない者は、ノエルだけではなかった。  卒業パーティの大広間で、人垣の隙間から俺を見ていた顔がいくつもあった。  俺が嘲笑った、爵位の低い同級生。  俺が見下した、教師。  俺が「邪魔だ」と切り捨てた、名前も覚えていない平民の従僕。  全員、断罪の場で俺を見ていた。怒っている顔も、嘲笑う顔も、戸惑っている顔もあった。だが共通していたのは、誰一人として、俺に向かって声を上げなかったということだ。  声を上げる価値もない人間として、俺はその場に膝をついていた。  その日、家格の差ゆえに弁護も叶わなかったイリーナだけが、唇を半分開いたまま、何かを言おうとしてくれていた。それだけが、あの場で俺に向けられた、たったひとつの——、  いや、やめよう。  彼女のあれを「愛情」だと解釈するのは、たぶん、俺の都合の良い解釈だ。  武門の家に生まれて、感情を顔に出さない訓練を子供の頃から受けてきた令嬢。俺はずっと、彼女を「冷たい」と思っていた。婚約者なのに笑顔ひとつ見せない、退屈な相手だと。  その俺の認識が、どれほど浅かったか。  彼女は、笑わなかったんじゃない。笑い方を、知らなかったんだ。  それに気づいたのは、彼女が病死したと聞いた後だった。彼女がたまに、こちらを見ていた目。あれは、たぶん——、  息が、浅くなる。  修道女が枕元で何か言っている。聞こえないふりをした。あと数刻もすれば、自分はこの世から消える。それは分かっていた。十六歳の冬から続いていた咳が、いよいよ最後の段階に入っている。生まれつきの病弱を、断罪後の劣悪な環境で押し殺すことなどできるはずもなかった。  俺は、目を閉じた。  走馬灯、というのは本当にあるものらしい。  灰になっていく、読まなかった手紙。  イリーナの、何かを言いかけて閉じた唇。  リーリャ・ハートの、王太子の腕の中で揺れていた茶色の髪。  俺が「邪魔だ」と切り捨てた、名前も覚えていない人々。  俺が嘲笑った、爵位の低い同級生。  俺が見下した、教師。  俺が、傷つけた——。  全員の顔が、瞼の裏を通り過ぎていく。  誰一人として、俺を恨んでいなかった、とは言わない。きっと半分は俺を呪っていたはずだ。だが残りの半分は、ただ困惑していた。なぜ俺がそんなふうに振る舞うのか、彼らには分からなかったのだ。  俺自身にも、分からなかった。  公爵家の次男として育てられ、長兄の影で「家のためだけに使える駒」として扱われ、誰にも本心を見せられないまま、傲慢な仮面だけが分厚くなっていった。仮面の下に何があるのか、十八年経っても俺自身が知らなかった。  だから、断罪されたとき、ほっとした部分すらあった。  もう、誰も傷つけずに済む、と。  馬鹿げている。  断罪の代わりに、俺が傷つけた人々は今も生きていて、たぶんこれからも、俺がした傷を抱えて生きていく。俺がいなくなろうと、消えるのは俺だけだ。  そして、消えてはいけなかった人もいる。  ノエルは——彼は、俺がいなくなることなんて、望んでいなかったかもしれない。  手紙の続きを、読まなかったから。  息が、止まりそうになる。  遠くで、修道女が鐘を鳴らした。死者を送る鐘だった。俺のための鐘だ。  奇妙な笑いがこみ上げてきた。生きているうちに自分の弔鐘を聞ける貴族など、王国の歴史にもそう多くはあるまい。  ——もう一度。  息の合間に、声にならない声が漏れた。  ——もう一度、やり直せるなら。  今度こそ、聞く。  ノエルの手紙の、続きを。  イリーナが言いかけて閉じた、唇の先を。  名前も覚えていない人々の、本当の顔を。  遅い。  遅すぎる。  だが、もし、本当にもし——。  視界が、白く——  ——溶けた。     *  目を開けた。  窓の外で、雀が鳴いていた。  高い天井。見覚えがある。十年以上見上げてきた、ロウェル公爵家本邸、次男に与えられた寝室の天井だった。  体に重みが戻っている。  毛布の重さが、ずしりと胸の上にある。  心臓が、確かに動いていた。  ふと、枕元の卓上時計が目に入った。緻密な金細工の振り子時計。一年生のとき、母から贈られたものだ。断罪の少し前に、酒の席で叩き壊したはずの、あの時計が。  動いていた。  針は、午前六時を指していた。  壁の暦に視線を走らせる。  第二月、十五日。  ——入学式の、朝。  声にならない呼吸が、喉の奥で詰まった。  窓の外、春の浅い光の中で、雀が、まだ鳴いている。