# 星屑航路の口説き屋たち ## 銀河トラブル請負人は、今日も事件と彼女を追いかける ### 第1話 彼女は救難信号で待っている  ポート・オクトの居住リングは、今日も少しだけ酸素が薄い。  少なくともカイ・トバリはそう主張していた。酒場《空気漏れ亭》のカウンターに突っ伏し、空になった合成ビールのグラスを指先で転がしながら、彼は深刻そうな顔で言った。 「この店、また空調ケチってるだろ」 「ケチってるのはあんたの支払いだよ」  カウンターの向こうで、店主のタム婆さんが皿を拭きながら言った。年齢不詳、性別以外はほぼ宇宙港の備品、という女である。 「カイ、ツケが三週間分」 「二週間と六日だ」 「じゃあ明日までに払えば二週間分にまけてやる」 「その理屈、星間法に通る?」 「私の店では通る」  カイは反論をあきらめ、グラスの底を覗いた。何もなかった。宇宙は広大だが、空のグラスほど希望のない空間はそう多くない。  ポート・オクトは、八角形の巨大中継ステーションだ。外から見れば、星間航路の途中に浮かぶ無骨な金属の巣。内側に入れば、安宿、修理ドック、部品屋、税関、密輸屋、食堂、祈祷所、そして酒場が詰まっている。  銀河の真ん中ではない。端でもない。だが、面倒ごとはなぜか必ずここを通る。  そしてカイ・トバリは、その面倒ごとを拾って食っている。  正確には、食えていない。 「カイさん」  背後から声がした。  振り返る前に、カイは背筋を伸ばした。声の主は分かっていた。航路屋ギルド受付のミナ・クローバー。ポート・オクトで、カイの借金額を本人より正確に把握している若き番人である。 「やあミナ。今日も事務処理の女神みたいに輝いてる」 「その褒め言葉、請求書には使えません」 「厳しい」 「厳しいのは現実です」  ミナは薄い端末板をカウンターに置いた。画面には赤い数字が三つ並んでいる。燃料代、係留費、ギルド登録更新料。  カイは一目で視線を逸らした。 「見るだけで船酔いしそうだ」 「船乗りですよね」 「だから陸の数字に弱い」 「ここは宇宙港です」 「なお悪い」  ミナは淡々と端末を指で叩いた。 「カイさんの《ツバメ号》、このままだと四十八時間後に係留ロックがかかります」 「ロック?」 「未払い船舶として差し押さえ予備状態になります」 「俺のツバメに鎖をつける気か」 「鎖じゃなくて電子封鎖です」 「言い方が冷たい」 「支払いも冷たいので」  カイは頭を抱えた。  《ツバメ号》は旧式の小型航路艇だ。最新鋭ではない。広くもない。燃費も悪い。だが、カイにとっては宇宙でただ一つの家であり、相棒だった。少し前まで大手航運企業の制服を着ていた彼が、今も銀河航路にしがみついていられるのは、あの型落ちの船があるからだ。 「仕事は?」  カイは言った。 「何でもいい。危なくなくて、報酬が高くて、依頼人が美人で、できれば前金払い」 「そんな都合のいい仕事があったら、先にギルドが疑います」 「じゃあ危なくてもいい」 「そこを最初に捨てるんですね」  ミナは端末を操作した。依頼一覧が流れる。貨物護衛、保険調査、迷子ペット回収、辺境コロニーの配管修理、航路ブイの点検。  カイは画面を覗き込み、目を細めた。 「配管修理は?」 「資格がありません」 「迷子ペットは?」 「対象が小型竜です」 「宇宙に竜を持ち込むなよ」 「所有者いわく、家族だそうです」 「家族なら首輪つけとけ」  ミナの指が止まった。 「……一件、あります」  その言い方で、カイは顔を上げた。 「いい仕事?」 「安い仕事です」 「帰る」 「危険です」 「帰るって言ったよな?」 「でも、共同受注者の欄にリラ・セイルさんの名前があります」  カイは椅子から半分立ち上がっていた。 「受ける」  ミナはため息をついた。 「報酬欄、見ました?」 「見た」 「危険度、見ました?」 「見た」 「リラさんの名前だけ見てません?」 「見た」 「正直なのは長所ですね」 「だろ」 「借金返済には向きませんけど」  端末に表示された依頼内容は、古い救難信号の調査だった。  発信源はポート・オクトから跳躍三回分離れた辺境航路。登録名、カペラ支線三七番。今ではほとんど使われていない古い航路だ。信号発信元は小型客船《メリディアン》。三十年前に廃船登録済み。乗員乗客は当時、全員退避済みと記録されている。 「三十年前の廃船から救難信号?」  カイは眉を寄せた。 「よくある幽霊船案件か」 「よくはありません」  ミナが即座に言った。 「ただし、古い航路ではたまにあります。信号遅延、反射、航路歪みによる記録波の再放出。技術的には説明できます」 「つまり?」 「過去の声が、今ごろ届いた可能性があります」  カイは端末の地図を見た。カペラ支線三七番は、星図の端で薄く灰色になっている。航路そのものが老朽化し、定期便から外され、今は緊急時の迂回路としてしか使われていない。 「リラはもう受けてるのか」 「はい。先ほど出航許可を取りました」 「先に行った?」 「たぶん」  カイは立ち上がった。 「どうしてそれを先に言わない」 「報酬欄を見せたかったので」 「受付に人の心はないのか」 「未払い者に言われたくありません」  カイは上着を掴んだ。古びた航路屋ジャケット。袖口には何度も縫い直した跡がある。  店主のタム婆さんが、空のグラスを指で叩いた。 「カイ」 「分かってる。帰ったら払う」 「死んだらツケは船から取る」 「死なない理由が一つ増えた」  カイは酒場の出口へ向かった。  ミナが後ろから声を投げる。 「カイさん」 「ん?」 「リラさんに会いたいからって、無茶しないでくださいね」  カイは片手を上げた。 「無茶しないでリラに会えるなら、とっくに結婚してる」 「その自信がどこから来るのか、今度資料にまとめてください」 「分厚くなるぞ」 「請求書より?」  カイは返事をせず、居住リングの通路へ飛び出した。  ポート・オクトの通路はいつでも騒がしい。貨物ドローンが低空を滑り、船乗りたちが喧嘩し、子供が無重力区画から怒られて戻ってくる。壁面広告では、七大航運企業の一つ、オルフェウス航運が「安全な航路を、すべての星へ」と白々しく笑っていた。  カイはその広告を見ないふりで通り過ぎた。  見ないふりには慣れている。  あの会社の制服を脱いでから、ずっとそうだった。事故報告書には「操縦者の判断ミス」とだけ書かれたが、カイはいまだに認めていない。あの時、自分が読んだ航路は間違っていなかった。少なくとも、そう信じていなければ、今でも宇宙に出る理由がなくなる。  ドック七番。そこに《ツバメ号》はいた。  船体は小さい。外板は何度も張り替えられ、塗装はところどころ剥げている。だが、船首から翼のように伸びる補助推進フィンだけは、今も優雅だった。  カイは船体に手を当てた。 「仕事だ、ツバメ」  乗船ハッチが、二拍遅れて開いた。 『船長、お帰りなさい。朗報です』  船内スピーカーから、旧式AIノヴァの落ち着いた声が響いた。 「言ってみろ」 『まだ差し押さえられていません』 「朗報の基準が低い」 『現状に即した喜びを提供しております』  カイは操縦席に滑り込んだ。革張りのシートは右端が破れていて、そこを銀色の補修テープが押さえている。正面の計器の一つは、たまに叩かないと起きない。 「ノヴァ、出航準備。目的地はカペラ支線三七番。廃船《メリディアン》の救難信号」 『検索中。該当船舶は三十年前に廃船登録済みです。乗員乗客、記録上は全員退避』 「記録上は?」 『記録とは、しばしば現実より礼儀正しいものです』 「詩人みたいなことを言うな」 『旧式AIにも情緒はあります』 「じゃあ、リラの航跡は?」  一秒、間が空いた。 『《ブルームーン》の出航記録を確認。二十二分前にポート・オクトを離脱』 「追えるか」 『理論上は可能です』 「実際は?」 『船長が燃料代を惜しまなければ』  カイは操縦桿を握った。 「惜しんでる場合じゃない」 『あとで請求書をご覧になって後悔されると思います』 「リラに会えたら相殺だ」 『恋愛感情による会計処理は、推奨されません』 「うるさい。出るぞ」  係留アームが外れ、《ツバメ号》はドックを離れた。  ポート・オクトの外殻が後方へ流れていく。八角形の巨大な影。無数の灯火。船のエンジン光。遠くには航路標識が青く瞬いている。  カイは息を吸った。  宇宙に出る瞬間だけは、いつも胸が軽くなる。  借金も、過去も、広告の白い笑顔も、少しだけ遠くなる。 「跳躍準備」 『跳躍航路、安定率七十二パーセント』 「十分だ」 『一般的には八十五パーセント以上が推奨されています』 「俺の一般は七十からだ」 『船長の一般は、保険会社に不評です』  星々が線になる。  《ツバメ号》は、古い航路へ飛び込んだ。  カペラ支線三七番は、地図よりも暗かった。  航路標識の光は弱く、星間塵が薄い霧のように漂っている。跳躍から復帰した瞬間、《ツバメ号》の外殻を細かな粒子が叩いた。ぱらぱらと、雨に似た音が船内に響く。 「雨みたいだな」 『実際には微細な金属片と氷粒です。風情を壊してよろしければ、外殻へのダメージを報告します』 「壊すな。あとで聞く」  正面スクリーンの端に、古い客船の影が映った。  《メリディアン》。  三十年前に廃船登録された小型客船は、ゆっくりと回転していた。船体の白い塗装はくすみ、窓は黒く沈んでいる。船尾の片側が裂け、そこからケーブルが髪のように漂っていた。  その傍らに、白銀の船が寄り添っている。  《ブルームーン》。  船体側面には、青い月のマーク。  カイは思わず口元を緩めた。 「いた」 『通信を開きますか』 「開け」  数秒のノイズの後、女の声が入った。 『遅いわね、カイ』  リラ・セイルの声だった。  余裕があり、少し笑っていて、たぶんこちらの反応を先に読んでいる声。  カイは姿勢を正した。 「君が待ってるって知ってたら、光より速く来た」 『はい二点。物理法則に失礼』 「厳しいな」 『でも、来ると思ってた』  その一言で、カイは言葉に詰まった。  ノヴァが小声のような音量で言う。 『船長、心拍数が上昇しています』 「黙ってろ」 『医療補助です』 「恋愛補助は頼んでない」  通信の向こうでリラが笑った。 『相変わらず賑やかな船ね、《ツバメ号》は』 「君の《ブルームーン》が静かすぎるんだ。人が住んでる気配がない」 『余計なものを積まない主義なの』 「俺は積みたいけどな」 『何を?』 「君の私物とか」 『一点』 「下がった」 『発想が急に生々しい』 「反省する」 『反省だけなら無料ね』  《ブルームーン》から小型ドッキングチューブが伸びている。《メリディアン》の側面に接続済みだ。リラは先に中へ入る準備を終えているらしい。  カイは《ツバメ号》を反対側の接続口に寄せた。 「状況は?」 『救難信号は船内中央区画から。電源はほぼ死んでるけど、非常用系統だけが生きてる。生命反応は……微妙』 「微妙?」 『あるような、ないような』 「幽霊か?」 『幽霊なら、報酬を受け取る相手がいなくて困るわね』  カイはヘルメットを手に取った。 「合流する」 『待ってる』  その言い方が軽すぎて、カイはまた少しだけ黙った。  彼女はいつもそうだ。  距離を取っているようで、呼ぶ。呼んだかと思えば、近づいた瞬間に一歩下がる。  追いかけているのは自分なのか、追わされているのか。  カイにはいまだに分からない。  ただ、分からないからこそ追っているのかもしれなかった。  《メリディアン》の船内は、時間が止まった匂いがした。  空気は薄く、金属と古い樹脂のにおいが混ざっている。重力制御は不安定で、通路を歩くたび、靴底が床を離れかけた。  カイはライトを掲げた。  壁の案内表示には、丸みのある古い書体で「展望ラウンジ」「客室ブロック」「避難ポッド」と書かれている。今の船では見ない意匠だ。旅客宇宙船がまだ少し優雅だった時代の名残。  その先、非常灯の赤い光の下に、リラがいた。  白い航路服に、短いジャケット。腰には工具と小型ブラスター。肩までの髪がヘルメットの内側でふわりと揺れている。  彼女は振り向き、カイを見て、目だけで笑った。 「転ばずに来られた?」 「君の前では格好よく登場する主義なんだ」 「今、足元のケーブルに引っかかりかけてたけど」 「演出だ」 「古典的ね」 「懐かしいだろ」 「嫌いじゃないわ」  カイは言葉に詰まりかけた。 「……それ、俺のこと?」 「ケーブルの話」 「知ってた」  船内放送が突然、鳴った。 『お客様にお知らせいたします。当船は現在、緊急減速中です。乗員の指示に従い、落ち着いて避難してください』  ひどく古い合成音声だった。明るく、丁寧で、だからこそ無人の船内では不気味に響く。  カイは天井を見た。 「三十年前の放送か」 「記録再生ね。事故時の非常手順がループしてる」 「救難信号もそれか?」 「半分は」 「半分?」  リラは通路の奥をライトで照らした。 「信号自体は古い。でも発信機を再起動させた何かがある」 「誰かがいる?」 「それを確かめに来たんでしょう、航路屋さん」  彼女は先に歩き出した。  カイは横に並ぶ。 「リラ」 「何?」 「君、これを受けた理由は?」 「報酬」 「安いぞ」 「あなたも受けたじゃない」 「俺は君の名前を見た」 「正直ね」 「君は?」  リラは答えなかった。  その沈黙は、船の古さより気になった。  二人は中央区画へ向かった。途中の客室には誰もいない。荷物も少ない。三十年前の退避は、記録通り行われたように見える。  ただ、すべてが少しだけ整いすぎていた。  通路に散らばるはずの私物がない。非常時に乱れた痕跡が少ない。客船が事故を起こしたなら、もっと何かが残る。破れたバッグ、落ちた靴、置き去りの玩具。そういう、慌てた人間の痕跡が。 「妙だな」  カイは言った。 「避難したにしては、きれいすぎる」 「ええ」 「三十年前の記録では全員退避?」 「そう」 「でも救難信号は出た」 「出るはずだった信号が、出なかった」  リラが端末をかざした。古い配線図が浮かぶ。 「事故当時、この船の非常通信は一度遮断されてる。外部への救難信号は発信前に止まった。なのに三十年経った今、航路歪みの影響で記録波だけが跳ね返ってきた」 「過去の叫びが遅れて届いたってことか」 「この航路、そういう声をたまに吐き出すの。忘れ物みたいにね」 「詩的に言えば」 「君は言わない?」 「言うと高くつくわ」 「いくら?」 「あなたの全財産では足りない」 「今なら安いぞ」 「でしょうね」  中央区画の扉は半分開いていた。  カイが手で押すと、重い金属音を立てて開いた。中は小さなホールになっている。かつては乗客が集まるラウンジだったのだろう。壁には色褪せた星図。床には固定式の椅子。正面には古い案内カウンター。  そして奥に、閉じた隔壁があった。  隔壁の上には、青白いランプが弱く点滅している。 『お客様にお知らせいたします。避難ポッドへの移動は、乗員の指示に従ってください』  放送がまた流れた。  カイは端末を隔壁に接続した。 「この先は?」  リラが答える。 「医療区画。小型の冷凍睡眠ポッドがある」 「生命反応はそこか」 「たぶん」  端末に警告が出た。隔壁の向こうは気圧が不安定。さらに、船体の回転に合わせて構造材が軋んでいる。 『カイ』  ノヴァの声が通信に割り込んだ。 『《メリディアン》船尾部の亀裂が拡大しています。推定二十分以内に中央区画が分離する可能性があります』 「二十分か」 『楽観的推定です』 「悲観的には?」 『すでに帰りたいです』  リラがカイを見た。 「開ける?」 「開けない選択肢は?」 「帰って報告。救難信号は過去のもの。生命反応は誤検知。誰も責めない」 「君はそれでいいのか」 「私は、あなたに聞いてる」  カイは隔壁を見た。  奥に誰かがいるかもしれない。  いないかもしれない。  誤検知かもしれない。  ただの古い機械の夢かもしれない。  けれど、救難信号は届いた。  三十年遅れでも、届いた。 「開ける」  リラの口元が、わずかに緩んだ。 「そう言うと思った」 「採点は?」 「まだ」 「厳しい」 「生きて戻ったら考える」  二人は手動ハンドルに取りついた。古い隔壁は抵抗し、金属の悲鳴を上げた。カイが力を込め、リラがロックを解除する。三つ目のロックが外れた瞬間、隔壁の隙間から白い霜が噴き出した。  医療区画は凍っていた。  壁も床も薄い氷に覆われ、機器はほとんど死んでいる。ただ一つ、奥の冷凍睡眠ポッドだけが、弱い青色の光を放っていた。  カイは近づき、覗き込んだ。  中に子供がいた。  十歳くらいに見える。髪は白く霜をまとい、目は閉じている。胸元に古い乗客タグが貼られていた。  名前は、エリオ・サージ。 「生きてるのか」  リラがポッドの表示を確認する。いつもの手つきより、ほんの少しだけ急いていた。 「生命維持、ぎりぎり。けど……おかしい」 「おかしい?」 「この型のポッドは、非常電源でも十年が限界。三十年はもたない。誰かが、少しずつ電力を食わせ続けてる」 「誰かって、船内には誰もいないぞ」 「ええ。だから嫌なの」  リラの声が、一瞬だけ低くなった。 「置いていかれた子供が、機械の都合で生かされ続けるなんて、趣味が悪いわ」 「リラ?」 「今は運ぶ。理由はあと」 「起こせる?」 「ここでは無理。ポッドごと運ぶ」 『船長』  ノヴァの声が硬くなった。 『船体亀裂の進行が早まっています。中央区画分離まで、推定九分』 「さっき二十分って言っただろ」 『古い船は予定を守りません』 「お前が言うと説得力あるな」  カイはポッドの固定具を外しにかかった。リラも反対側に回る。  だが三十年前の固定具は固着していた。工具が滑り、火花が散る。 「カイ、右を押さえて」 「押さえてる」 「もっと優しく」 「機械にも言うのか、それ」 「あなたより聞き分けがいいもの」 「傷つくな」 「生きて戻ったら慰めてあげる」 「何点分?」 「一点」 「安い」  最後の固定具が外れた。  その瞬間、船全体が大きく揺れた。医療区画の天井から氷片が降り、照明が一つ消える。遠くで金属が裂ける音がした。 『中央区画、構造限界接近』  ノヴァが言う。 『急いでください。できれば、とても』  カイとリラはポッドを浮上キャリアに乗せ、通路へ押し出した。重力制御が乱れ、ポッドが壁にぶつかりかける。カイが体で押さえ、肩を打った。 「痛っ」 「大丈夫?」 「君が心配してくれたから治った」 「じゃあもう一回ぶつけても平気ね」 「鬼か」 「航路屋よ」  ラウンジを抜ける。非常放送が乱れた音で繰り返される。 『お客様に……お知らせ……避難……落ち着いて……』  船体がまた揺れた。  前方の通路で、天井パネルが落ちた。出口までの道が半分塞がれる。 「まずい」  カイは周囲を見た。 「リラ、別ルートは?」 「ある。けど遠い」 「時間は?」 『中央区画分離まで四分』  ノヴァが即答した。  カイは塞がれた通路を見る。ポッドを通すには狭い。手でどかす時間はない。 「ツバメをこっちに寄せる」 『船長、この船の外殻に接近するのは危険です』 「いつものことだ」 『いつもより危険です』 「じゃあ、いつもより丁寧にやれ」 『了解。雑な命令を丁寧に実行します』  リラがカイを見た。 「《ブルームーン》で引く」 「君の船は反対側だ」 「回り込める」 「間に合わない」 「やってみなきゃ分からない」 「リラ」  カイは短く言った。 「俺の航路だ」  リラの目が、一瞬だけ細くなった。  航路屋としてのカイを、彼女が評価している時の目だった。 「……分かった。任せる」  カイは通信を開いた。 「ノヴァ、船体裂け目の外側に回れ。医療区画側の非常ハッチを焼き切る」 『非常ハッチの位置は船体損傷部の近くです』 「だから近道だ」 『近道とは、しばしば死への別名です』 「詩人になるなって言ったろ」  外で《ツバメ号》が動く気配がした。古い船体が廃客船の外側へ回り込む。カイのヘルメット表示に、ノヴァから送られた外部映像が出た。《メリディアン》の船体亀裂は大きく開き、星間塵がそこへ吸い込まれるように流れている。  リラはポッドの固定ベルトを締め直した。 「カイ」 「ん?」 「今の、少し格好よかったわ」 「何点?」 「五点」 「おお」 「百点満点で」 「刻むね」 「生きて戻ったら加点してあげる」  非常ハッチが赤く光った。《ツバメ号》の外部レーザーが焼き切っている。古い金属が溶け、縁が崩れた。 『開口部確保。ただし船体分離まで百二十秒』 「十分だ」 『一般的には不足です』 「俺の一般は」 『存じています。七十からですね』  カイとリラはポッドを押した。  通路の先、焼き切られた非常ハッチの向こうに宇宙が見えた。黒く、深く、何もない。その先に《ツバメ号》のドッキングアームが伸びている。  船体が裂けた。  床が傾く。  ポッドが滑る。  カイは腕を伸ばし、ベルトを掴んだ。リラが反対側から支える。二人の靴底が床を削り、火花が散った。 「押せ!」 「言われなくても!」  ポッドがハッチを越えた。  《ツバメ号》のアームが受け止める。磁気ロックがかかる。 『ポッド固定』 「よし、次は俺たちだ」  その瞬間、背後の通路が崩れた。  空気が一気に抜ける。警告音。視界が回る。カイの体がハッチの外へ引っ張られた。リラの手が彼の腕を掴む。 「カイ!」 「大丈夫、今のは演出だ!」 「古典的すぎる!」  リラが腰の射出フックを撃った。フックは《ツバメ号》の外部アームに刺さり、二人の体を引き寄せる。カイはリラを先に押し込んだ。 「乗れ!」 「あなたが先!」 「女性優先」 「今それ言うと減点!」 「じゃあ惚れた女優先!」  リラが一瞬、目を見開いた。  次の瞬間、彼女はカイの襟を掴んで引き寄せた。 「馬鹿」  二人は《ツバメ号》のエアロックに転がり込んだ。  ハッチが閉じる。  外で《メリディアン》の中央区画が裂けた。古い客船はゆっくりと二つに割れ、片方が暗い航路の底へ沈むように遠ざかっていく。  カイは床に仰向けになり、息を吐いた。 「ノヴァ」 『はい、船長』 「まだ爆発してないか」 『朗報です。まだ爆発していません』 「よし」  隣でリラが笑った。  ヘルメット越しの笑い声は少しこもっていたが、確かにそこにあった。 「ひどい船ね」 「いい船だろ」 「ひどくて、いい船」 「褒め言葉として受け取る」  カイは体を起こした。 「子供は?」 『ポッド生命維持、継続中。医療処置を急ぐ必要があります』 「ポート・オクトへ戻る」 『燃料残量が心細いです』 「俺もだ」  リラが立ち上がり、ヘルメットを外した。髪がふわりと落ちる。彼女は医療ポッドの中を覗き込んだ。  その顔から、笑みが消えた。  カイは気づいた。  リラの視線は、子供ではなく、ポッドの側面に向いている。  そこに、小さな紋章が刻まれていた。  青い月。  《ブルームーン》の船体に描かれたものと、よく似た形。  カイの胸の奥で、何かが小さく引っかかった。  見たことがある。  どこで、と考えた瞬間、白い会議室、事故報告書の端、署名欄を隠すように押された青い印影――そんな断片だけが浮かび、すぐに消えた。 「リラ?」  彼女は指先でその紋章に触れた。手袋越しでも分かるほど、指先がかすかに震えていた。  ほんの一瞬、カイの知らない顔をした。  迷子になった子供のような顔。あるいは、ずっと探していたものに見つかってしまった人間の顔。 「それ、何だ」  カイが尋ねる。  リラはすぐに笑みを戻した。いつもの、少し余裕のある笑みだった。 「昔のマークよ」 「昔の知り合い?」 「昔の迷子」 「探してるのか」 「いいえ」  リラはカイを見た。 「向こうが、たまに私を見つけるの」  それ以上は答えなかった。  カイも、それ以上は聞けなかった。  ポート・オクトへ戻ると、医療班と航路庁の職員が待っていた。  冷凍睡眠ポッドから救出された少年エリオ・サージは、生命維持こそぎりぎりだったが、生きていた。三十年前の事故で、避難確認から漏れ、医療区画に閉じ込められていたらしい。  記録上は、全員退避。  現実には、一人だけ残されていた。  さらに、ポッドの非常電源は二十二年前に尽きているはずだった。医療班の解析では、船内のどこにもない外部補助系統から、ごく微量の電力が断続的に流れ込んでいたという。 「つまり?」とカイが聞くと、担当医は嫌そうな顔で言った。 「誰かが、あの子を忘れないようにしていた。あるいは、死なせないまま保存していた」  救助できたことへの安堵とは別の冷たさが、カイの背筋を撫でた。  礼儀正しい記録は、やはり現実より少し嘘つきだった。  カイは報告書に署名し、報酬額を見て、短く唸った。 「命の値段としては安くないか」  ミナが端末を受け取りながら言った。 「依頼は信号調査です。救助活動は追加査定になります」 「追加?」 「申請が通れば」 「いつ?」 「早くて三週間後」 「俺の係留ロックは?」 「四十六時間後です」 「宇宙は冷たい」 「請求書はもっと冷たいです」  タム婆さんが、カウンターから声を投げた。 「生きて帰ったね、カイ」 「ツケは?」 「増えたよ」 「なぜ」 「帰還祝いの一杯を、あんたの名前でつけといた」 「俺、まだ飲んでない」 「今から飲むだろ」  カイは反論しようとして、やめた。  疲れていた。  だが悪い疲れではなかった。  酒場の隅では、リラが一人でグラスを傾けている。彼女は窓の外、ドックに停泊する《ブルームーン》を見ていた。  カイは隣の席に座った。 「奢ってくれる?」 「あなたが?」 「俺に?」 「発想が自由ね」 「じゃあ割り勘」 「あなたの分はツケでしょう」 「詳しいな」 「ポート・オクトで、あなたの支払い事情を知らない女はいないわ」 「有名人だ」 「悪い意味で」  カイは苦笑した。  しばらく、二人は何も言わなかった。  酒場の古いスピーカーから、宇宙歌謡が流れている。誰かが昔の恋を星に例えて歌っていた。時代遅れで、少し甘くて、今のポート・オクトには妙に似合っていた。 「リラ」 「何?」 「今日の俺、最終的に何点?」  リラはグラスの縁を指でなぞった。 「救助は八十点」 「高い」 「口説き文句は三点」 「命懸けで上げたのに?」 「命懸けだったからよ。重い男は減点」 「じゃあどうすれば満点になる」 「さあ」  彼女は立ち上がった。 「満点を取ったら、考えてあげる」 「何を?」 「逃げ方」 「逃げるのかよ」 「追うんでしょう?」  リラは笑った。  それから、ほんの少しだけ真面目な声で言った。 「カイ」 「ん?」 「今日は、ありがとう」  彼女は返事を待たずに歩き出した。  カイはその背中を見送った。  追いかければ、軽口でかわされる。問い詰めれば、笑って逃げる。きっとそうなる。  それでも、あの青い月の紋章を見た時の彼女の顔が、頭から離れなかった。  そして、紋章を見た瞬間に自分の中で走った、あの薄い痛みも。  ポート・オクトの窓の外で、《ブルームーン》の航行灯が青く瞬いた。  カイの端末に、短いメッセージが届いた。 > 次の依頼で会いましょう。 > それまでに、もう少し気の利いた口説き文句を考えておいて。  差出人はリラ。  カイは笑った。 「ノヴァ」  胸元の通信機に呼びかける。 『はい、船長』 「次の依頼、探しとけ」 『条件は?』 「リラがいそうなやつ」 『検索範囲が広すぎます』 「じゃあ、青い月の紋章も入れろ」 『検索範囲が不穏になりました』 「銀河は広いからな」 『燃料費は狭いです』 「うるさい」  カイは端末を閉じた。  銀河の厄介ごとは、だいたい向こうからやってくる。  彼女の本心だけは、いつも少し先を飛んでいる。  なら、追うしかない。  古い船で。借金まみれで。三点の口説き文句を抱えて。  星屑航路は、今日もどこかで救難信号を鳴らしている。