夜空には、まるで地上を監視するかのように、完璧な円を描く満月がぽっかりと浮かんでいた。雲一つない澄み切った夜空に瞬く無数の星々は、冷たい光を放ちながら、地上の営みを静かに見下ろしている。
聖花学園の敷地内に建つ、荘厳な教会の尖塔が、月の光を浴びて青白く浮かび上がっていた。ステンドグラスは暗く沈み、昼間の穏やかで神聖な空気は影を潜め、代わりに夜の静寂が辺り一帯を重く支配している。

その教会の横、石造りの塀に沿って続く暗い夜道を、一人の男が歩いていた。
男の名は岩本。どこか虚ろな足取りで、一定のペースを保ちながら歩を進めるその背中には、生気というものが感じられない。まるで何者かに操り人形のように動かされているかのような、不気味な足取りだった。

そんな岩本の背中を、一定の距離を保ちながら尾行する二つの影があった。
聖花学園の制服に身を包んだ、谷間ゆりと、珠野ひなぎくだった。二人は石塀の陰に身を隠し、足音を殺しながら、慎重に岩本の動向を窺っていた。

「……あいつが、バケモンと一緒にいたっていうのは本当なんだろうな」

ひなぎくが、前を歩く岩本の背中から視線を外さずに、隣にいるゆりに小声で尋ねた。彼女のグリーンのショートヘアが、夜風に微かに揺れている。その瞳には、強い警戒心と、親友を傷つけられたかもしれないという静かな怒りが宿っていた。

「ええ、一瞬でしたけど。間違いないですわ」

ゆりは、凛とした表情で頷いた。彼女のオレンジ色の長い髪が、月明かりを反射して微かに光る。ゆりの脳裏には、今日の昼間、学園内で岩本の背後に一瞬だけ見えた、あの不気味で異様な影の姿が鮮明に焼き付いていた。それは到底、この人間界に存在するべきものではない、邪悪な気配を纏った異形の姿だった。

「じゃあ、悪魔と関係あるかもしれないってことか」

ひなぎくの言葉に、ゆりはもう一度、力強く頷いた。

「それを調べてみるのですわ」

愛天使としての使命を帯びる彼女たちにとって、悪魔族の暗躍は見過ごせるものではない。もし岩本が悪魔族と結託している、あるいは操られているのだとしたら、一刻も早くその目的を突き止め、阻止しなければならない。それが、ゆりがこの危険な夜の尾行を提案した理由だった。

二人の様子を、ひなぎくの肩の辺りをフワフワと浮遊しながら見守っていたじゃ魔ピーが、不安げな声を上げた。

「ももこちゃまにも知らせた方がいいでちゅ」

じゃ魔ピーの丸い体が、ブルブルと震えている。愛天使のリーダー格であるももこ（ウェディングピーチ）の不在は、じゃ魔ピーにとって大きな不安要素だったのだ。
しかし、ひなぎくはじゃ魔ピーの提案を即座に却下した。

「ももこは昼間倒れたんだし、心配させることないさ」

ひなぎくの言葉には、親友を思いやる深い優しさが込められていた。
今日の昼間、ももこは突然、何の前触れもなく倒れてしまったのだ。顔面を蒼白にし、息を荒らげて崩れ落ちたももこの姿は、ゆりやひなぎくの心に強いショックを与えた。保健室のベッドで眠るももこの弱々しい姿を見て、二人は固く決意したのだ。ももこが回復するまでは、自分たち二人で彼女の分まで戦おうと。

だが、この時、ゆりも、ひなぎくも、そしてじゃ魔ピーでさえも、残酷な真実を知る由もなかった。
ももこが倒れた本当の原因——それは、ゆりが昼間に岩本の背後に見たあの悪魔の影、すなわち悪魔族の刺客である『ソージ鬼』によって、ももこの生命力であり、愛天使の力の源でもある『愛のウェーブ』を奪い取られてしまったからだということを。
敵の真の恐ろしさと、その能力の特性を知らぬまま、ゆりとひなぎくは、自ら危険な罠へと足を踏み入れようとしていたのだった。

「でも……」 「大丈夫だって。オレたち二人でも、何とかなるさ。ほら、行くぞ！」

躊躇うじゃ魔ピーを遮るように、ひなぎくが促す。岩本の姿が、前方の角を曲がって見えなくなりそうになっていた。
ゆりとひなぎくは再び息を潜め、石塀の影から影へと素早く移動し、岩本の追跡を再開した。

尾行は、学園周辺の住宅街を抜け、やがて人けの全くない夜の公園へと至った。
街灯の冷たい光だけが、等間隔に公園の遊歩道を照らし出している。風が木々を揺らすザワザワという音以外、何も聞こえない。
公園の中央には、ドーム型の噴水があった。水は止まっており、静まり返った噴水は、まるで夜の闇に沈む巨大な墓標のようにも見えた。

岩本は、その噴水の前でふと立ち止まった。 そして、不自然なほどゆっくりとした動作で、振り返る。

尾行していたゆりとひなぎくは、ハッとして咄嗟に近くの太い柱の陰に身を隠した。
心臓が早鐘のように打つ。見つかっただろうか。二人は息を殺し、柱の陰からそっと顔を出して、噴水の前の様子を窺った。

「お前たち、そこで何をしているでござるか」

突然、背後からではなく、前方から、金属が擦れ合うような、それでいてどこか間の抜けた異様な声が響き渡った。
ゆりとひなぎくが驚いて前方を見ると、いつの間にか岩本の姿は消え失せ、代わりに噴水の前に、緑色の細長い奇妙な姿をした怪物が立っていた。

頭部には赤いブラシのようなモヒカンが付き、両腕は掃除機のホースのようになっており、手には竹箒を持っている。その大きく見開かれた黄色い目と、ニヤリと笑う巨大な口。間違いない、悪魔族だ。

「出た！」 ひなぎくが叫ぶ。

「こいつですわ！」

ゆりも目を見開いた。昼間、岩本の背後に一瞬だけ見えたあの不気味な影の正体。それが目の前にいるこの悪魔だったのだ。彼女の直感は正しかった。やはり岩本はこの悪魔と何らかの関わりを持っていたのだ。

「夜遊びはいかんでござるよ！」

悪魔——ソージ鬼は、竹箒を構えると、不気味な笑い声を上げながら、ゆりとひなぎくに向かってホース状の腕を突き出した。
ブォォォォン！というけたたましいモーター音と共に、ソージ鬼の腕から強烈な突風と土煙が噴き出した。

「きゃあっ！」 「うわっ！」

凄まじい風圧と目に砂が入るのを防ぐため、二人は腕で顔を覆いながら、たまらず後方へと飛び退いた。二人は公園の脇にある、背の高い植え込みの陰へと逃げ込んだ。
葉が擦れる音の中、土煙が晴れるのを待ちながら、ひなぎくが鋭い視線をゆりに向けた。

「ゆり、ウェディングチェンジだ！」 「ええ！」

迷っている暇はない。相手が明確な敵意を持って襲いかかってきた以上、もはや人間の姿のままでは対処できない。 ゆりは強く頷き、胸元に手をやった。

彼女の胸元で、愛天使の証であるセント・ミロワールが眩い光を放ち始める。

 「ウェディング・グレイスフル・フラワー！」

ゆりは、天に向かってリップスティック型のアイテムを高く掲げた。

まばゆい光の帯が、暗い公園を昼間のように照らし出す。
ゆりの制服が光の粒子となって弾け飛び、代わりに純白のウェディングドレスが彼女の体を包み込んでいく。幾重にも重なるレース、優美なシルエット、そして頭上には百合の花をあしらったティアラ。光が収束すると同時に、そこには愛と美の使者、エンジェルリリィの姿があった。
彼女は目を閉じ、神聖な祈りを捧げるかのように両手を胸の前で組み、静かに目を開いた。その瞳には、もはや一介の女子高生としての怯えはなく、愛を護る戦士としての強い覚悟が満ちていた。

隣では、ひなぎくもまた変身を遂げていた。 

「ウェディング・アトラクティブ・フラワー！」

彼女の腕にあるセント・パンデュールが黄金色の光を放ち、ひなぎくの体を包み込む。元気で活動的な彼女のイメージにふさわしい、鮮やかなイエローのウェディングドレス。頭にはデイジーの花飾り。エンジェルデイジーの誕生である。

植え込みから飛び出した二人の愛天使は、月明かりを背に受けながら、噴水の前に立つソージ鬼の前に優雅に、そして力強く降り立った。

純白とイエローのウェディングドレスが、夜の闇に鮮やかなコントラストを描き出す。
ソージ鬼は、突如現れた二人の愛天使の姿を見て、驚くどころか、その黄色い目を爛々と輝かせた。

「現れたな、愛天使ども！ 貴様らの愛のウェーブを頂くでござる！」

ソージ鬼は、掃除機のホースのような腕を打ち鳴らし、下品な笑い声を上げた。その目的が自分たちの『愛のウェーブ』であることを知った二人は、より一層警戒を強めた。

デイジーが、好戦的な笑みを浮かべて前に出る。 
彼女は拳を握り締め、いつでも飛び出せるよう足に力を込めた。

しかし、そのデイジーの肩を、リリィがそっと手で制した。 「待って、デイジー」 「リリィ？」 振り返るデイジーに、リリィは冷静な視線を向けた。

「この悪魔の相手は、わたくしがしますわ。あなたは、岩本を追ってちょうだい。彼がどこへ行ったのか、そしてこの悪魔とどういう関係にあるのか、それを突き止めることが先決ですわ」
「でも、こいつを放っておくわけには……」 「わたくし一人で十分ですわ。さあ、早く！」

リリィの言葉には、有無を言わせぬ強い意志があった。確かに、姿を消した岩本の動向は非常に気がかりだ。敵の目的が分からない以上、手分けをして対処するのは理にかなっている。
デイジーは一瞬躊躇ったものの、すぐにリリィの強さを信じ、頷いた。

「……分かった。ここはリリィに任せる！ 無茶すんなよ！」 「ええ、気をつけて」

デイジーは踵を返し、岩本が消えたと思われる公園の奥の暗がりへと向かって駆け出した。イエローのドレスが夜の闇に吸い込まれていく。

「逃がすか！」

ソージ鬼がデイジーの背中を追って飛び出そうとした。 しかし、その行く手を阻むように、リリィが純白のドレスを翻してソージ鬼の目の前に立ち塞がった。

「あなたのお相手は、わたくしですわ！」

リリィの毅然とした声が、夜の公園に響き渡る。 ソージ鬼は足を止め、忌々しげにリリィを睨みつけた。 「生意気な小娘が！ お前から先に吸い尽くしてやるでござる！」

「それはどうかしら？」 リリィはふっと余裕の笑みを浮かべると、両手を胸の前で交差させた。

「ウェディング・チェンジ！　お色直し！」

リリィの叫びと共に、再び彼女の体を眩い光が包み込む。
ウェディングドレスの長い裾が光の粒子となって解け、より身軽で戦闘に特化した姿へと変化していく。フリルがあしらわれたレオタードに、短いスカート。背中には純白のリボン。
ファイターエンジェルへと再変身を遂げたリリィは、凛としたポーズを決め、高らかに口上を述べた。

「清純と、言われし百合の花言葉。咲かせて愛を、授けます！」

その姿は、夜の闇に咲く一輪の白百合のように気高く、美しかった。 しかし、ソージ鬼はその姿を見ても動じることなく、不気味なノズルをリリィに向けて構えた。

「先手必勝ですわ！」 リリィは間髪入れずに攻撃に転じた。

「セント・リプライナー！」

リリィがリップスティック型のアイテムを空中に投げると、それはピンク色に輝く一本の美しい新体操のリボンへと変化した。リリィはリボンの持ち手をしっかりと握り、流れるような優雅な動作で空中に大きな弧を描いた。

「リリィ・レインボー！」

放たれたリボンは、まるで生き物のようにうねりながら、虹色の光の軌跡を描いてソージ鬼へと向かって飛んでいく。それは敵を縛り上げ、浄化の力を送り込むリリィの得意技であった。
しかし。

「甘いでござる！」

ソージ鬼は、その鈍重そうな見た目に反して、驚くべき俊敏さで横に飛び退いた。 シュルルルッ！
リリィ・レインボーの先端は、ソージ鬼が直前まで立っていた空間を空しく切り裂き、地面を軽く叩くだけに終わった。

「……！」 リリィはわずかに目を見張った。彼女の放ったリボン攻撃が、いとも簡単にかわされてしまったのだ。

「フハハハハ！ その程度のお遊びで、拙者を倒せると思ったでござるか？」 ソージ鬼が嘲笑う。

「ふふ、いい身のこなしですわね。でも、これはかわせませんわ！」

リリィはすぐさま姿勢を立て直し、次の手を打った。一度の攻撃が避けられた程度で動揺する彼女ではない。むしろ、敵の素早さを確認したことで、より強力で広範囲に及ぶ攻撃が必要だと冷静に判断したのだ。

「セント・サムシングブルー！」

リリィの呼びかけに応え、彼女の胸元から眩い青の光を放つ宝石型のアイテムが出現した。愛天使の強力な浄化武器である。
リリィはそのアイテムを高く掲げ、全身の愛のウェーブを集中させた。周囲の空気が、彼女が放つ神聖な力によってビリビリと震える。夜の闇を払うほどの、圧倒的な光の奔流。

「セント・シュトラール・スターダスト！」

リリィの叫びと共に、青いアイテムから無数の光の弾丸が解き放たれた。
それはまるで、夜空から無数の星々が降り注ぐかのような、圧倒的で息を呑むほど美しい光景だった。一つ一つの光の弾が、強力な愛のウェーブの塊であり、悪魔の邪気を浄化する力を持っている。
これほどの広範囲に、これほど高密度の攻撃を放てば、先ほどのような俊敏な回避は不可能だ。リリィは、自身の放った光の雨の向こう側で、悪魔が浄化の光に包まれて消滅する姿を疑わなかった。勝利を確信した余裕の笑みが、彼女の口元に浮かぶ。

しかし、その直後、リリィの視界に信じられない光景が飛び込んできた。

「待っていたでござるよぉぉ！」

ソージ鬼は逃げるどころか、怯む様子さえ一切見せず、むしろ歓喜の声を上げて、自身の両腕——巨大な掃除機の吸い込み口を、真正面に向けて構えたのだ。

ギュオォォォォォォォォン！！！

凄まじい轟音が公園に響き渡った。 ソージ鬼の吸い込み口の奥で、どす黒い渦が巻き起こる。それは、周囲の空間ごと全てを飲み込もうとする、悪魔の強力な吸引力だった。
リリィが放った、美しく輝く無数の星の雨——セント・シュトラール・スターダストの光の弾丸は、ソージ鬼に届く直前でその軌道を不自然に曲げられ、次々とその暗い吸い込み口の中へと吸い込まれていった。

「な、なんですって！？」

リリィの余裕の笑みは、瞬時に凍りつき、驚愕の色へと染まった。
彼女が全力を込めて放った必殺の愛のウェーブが、傷一つ与えることなく、ただのチリや埃のように悪魔に飲み込まれていく。光の粒子が、真っ黒な吸引口の奥へと吸い込まれて消えるたび、リリィの心に得体の知れない恐怖が湧き上がってきた。

「フハハハハ！ 極上の愛のウェーブ、ごちそうさまでござる！」

リリィの攻撃を全て吸い尽くしたソージ鬼は、満足げに腹をさすり、いやらしい笑みを浮かべた。その黄色い目が、今度は獲物を定めるように、一直線にリリィを捉える。

「さあ、今度は直接、貴様の本体から愛のウェーブを吸い尽くしてやるでござる！」

ソージ鬼は、リリィに向けて再び吸い込み口を突き出した。 ギュオォォォォォォォォン！！！ 先ほどよりもさらに強力な、鼓膜を劈くような吸引音が響き渡る。

「あっ……！」

次の瞬間、リリィは自分の体から、何かが強制的に引き剥がされるような、おぞましい感覚に襲われた。
それは物理的な風圧ではない。彼女の魂の根源、人を愛し、慈しむ心、そして愛天使としての力の源泉である『愛のウェーブ』が、目に見えない強大な力によって、体外へと引きずり出されていく感覚だった。

「いやぁぁぁぁぁっ！！」

リリィの口から、悲痛な叫び声が上がった。
彼女の体から、淡いピンク色の光の粒子——愛のウェーブが、まるで煙のように立ち上り、ソージ鬼の吸い込み口へと次々と吸い込まれていく。
抵抗しようにも、体に力が入らない。手足の感覚が麻痺し、立っていることすら困難になっていく。愛のウェーブを奪われるということは、自らの生命力を直接削り取られることに等しい。

「う、ううっ……！」

リリィはその場に崩れ落ちるように両膝をついた。
息が苦しい。視界がぼやける。胸の奥が、氷のように冷たく、虚ろになっていく。愛の記憶が、温かい感情が、掃除機に吸い込まれるゴミのように奪われていく絶望感。

「フハハハハ！ 素晴らしい！ これほど純粋で強力な愛のウェーブ、たまらんでござる！」

苦しむリリィを見下ろし、ソージ鬼は狂喜の声を上げた。悪魔にとって、愛天使の愛のウェーブは最高のご馳走であり、自らの力を増幅させる最高のエネルギー源なのだ。

愛のウェーブが急速に失われていくにつれ、リリィの体に異変が起き始めた。
ファイターエンジェルとしての戦闘形態を維持するためのエネルギーが枯渇し始めたのだ。彼女を包んでいたレオタード姿が、ノイズが走るように明滅を始める。

「あ、ああ……力が……抜けていく……」

リリィは霞む視界の中で、自分の体が光に包まれるのを見た。しかしそれは変身の時の神聖な光ではなく、力が逆流し、形態を保てなくなったことによる強制的な解除の光だった。
光が収まると、リリィの姿は、戦闘用のファイターエンジェルから、元の重々しい純白のウェディングドレス姿へと戻っていた。 お色直しが解けてしまったのだ。

「そんな……お色直しが……！」

ドレス姿に戻ったリリィは、絶望的な声を出した。
ウェディングドレス姿は、防御力こそ高いものの、機動力に欠け、攻撃手段も限られている。ファイターエンジェルでさえ通じなかった相手に、この姿でどうやって戦えばいいのか。
いや、そもそも戦う力など、今の彼女には残されていなかった。

ソージ鬼の容赦ない吸引は止まらない。 ギュオォォォォォォォォン！！！

「や、やめて……もう……」

リリィの体から、最後の愛のウェーブの光が絞り出されるように吸い込まれていく。
純白のウェディングドレスが、まるで幻影のように薄れ始めた。愛のウェーブが完全に尽きようとしているのだ。天使としての姿を保つことすら、もはや限界だった。

シュウゥゥゥ……。 静かな音と共に、ウェディングドレスが完全に消失した。
地面に倒れ伏していたのは、もはや愛天使エンジェルリリィではなく、聖花学園の制服を着た、ただの一人の少女、谷間ゆりだった。

「はぁ……はぁ……」

ゆりは冷たい石畳の上に倒れ込み、荒い息を吐いていた。
全身の筋肉が鉛のように重く、指一本動かすこともできない。意識は辛うじて保っているものの、目の前が真っ暗になり、耳鳴りが酷い。魂の半分を削り取られたような、圧倒的な喪失感と虚脱感が彼女を支配していた。

「クケケケケ！ 哀れな姿でござるな！」

ソージ鬼が、倒れ伏すゆりを見下ろして下劣な笑い声を上げた。

「たった一人で拙者に立ち向かえると思ったか、愚かな愛天使よ！ 貴様の愛のウェーブは、全てこのソージ鬼様が美味しくいただいたでござる！」

ゆりは、朦朧とする意識の中で、その嘲笑を聞いていた。
悔しい。仲間を助けるために、自分が囮になって戦ったはずなのに、相手の能力を見誤り、こんなにあっさりと敗北してしまうなんて。
デイジーはどうなっただろうか。岩本は見つかっただろうか。 自分がここで倒れてしまったら、誰がデイジーを、ももこを助けるのか。

「さあて、極上のデザートはいただいたことだし、次はメインディッシュのもう一人の愛天使をいただきに行くとしようか！」

ソージ鬼は満足げにホースの腕を振り回すと、標的をデイジーへと変更した。
「待っていろよ、黄色い小娘。今すぐ拙者が、貴様の愛のウェーブも骨の髄まで吸い尽くしてやるでござる！」

ソージ鬼の体が、黒い霧に包まれていく。そして、薄気味悪い笑い声を夜風に残し、その姿は完全に夜の闇へと溶け込むように消え去った。

後には、静寂を取り戻した夜の公園と、冷たい石畳の上に倒れ伏す、ゆりの姿だけが残された。 月明かりが、彼女の青白い顔を静かに照らしている。
ゆりは、消えゆく意識の中で、公園の奥の暗闇に向かって、かすかな声で呟いた。

「デイジー……逃げて……」

その声は誰に届くこともなく、夜風に掻き消されていった。
愛天使の一人、エンジェルリリィの完全なる敗北。それは、これから始まる悪魔族との過酷な戦いの、ほんの序章に過ぎなかった。
深く、冷たい夜の闇が、意識を失っていくゆりを、優しく、そして残酷に包み込んでいった。
