朝、授業の前にトレーナー室に行くと、既にトレーナーさんはデスクに着いていらっしゃいました。ドアを開けるときにそれほど勢いをつけたつもりはなかったのですが、部屋に入ってきた私を見て、トレーナーさんは少し驚いたように硬直していました。 私が昨日机の上に活けておいた紫色のトルコキキョウの花に、指先が伸びたままになっています。 「あぁ、おはよう、ブーケ。 …触ったらまずかったかな」 「おはようございます、トレーナーさん。昨日活けたばかりでまだまだ元気ですから、優しく触れば大丈夫ですよ」 トレーナーさんは悪戯が露呈したように少し申し訳なさそうにしていましたが、私はむしろ少し嬉しく思いました。思わず触れたくなってしまうくらい、その花を綺麗だと思ってくれたということなのですから。 私が見ていると恥ずかしいのか、もう一度指で触れることはしませんでしたが、トレーナーさんの目はずっと机の上のお花に注がれていました。 それがうれしくて、ついお話したくなってしまいます。もうすぐ授業が始まるのですけれど。 「このお花、色の種類がとっても多いんですよ。今度はトレーナーさんの好みの色を用意しますね」 トルコキキョウは花ぶりが大きくて、色も咲き方も様々です。主役にも引き立て役にもなれて、誰の好みにも合わせてくれる素敵なお花なのですが、これがトレーナーさんの好きな色なんだと思いながら活ける花は、きっともっと綺麗になるでしょう。 私がそう言うと、トレーナーさんは穏やかに笑いました。 「ありがとう。どっちかって言うと、薄い赤とか桃色の花が好きだな。 でも、紫色も好きだからさ。今の花にもできるだけ長く咲いていてほしいな」 そう話したトレーナーさんの指は、もう一度愛おしそうに紫色の花びらを撫でていました。 「…ふふふっ。 それなら、もっとたくさん撫でて、大事にしてあげてください。トレーナーさんが好きって言うと、なんだかお花がうれしそうにしてるみたいに見えるんです」 そう見えるのは、本当にお花が綺麗に咲いているからでしょうか。それとも、私の活けるお花を心から好きだと言ってくれる、トレーナーさんのまなざしが好きだからでしょうか。 その答えを出すには、私はまだ子供すぎるようです。 お花が綺麗になっているかどうかはわかりませんが、トレーナーさんが大事にしているお花は、不思議と元気になっている気がします。他のお花より、心なしか長く咲いているのです。 「トレーナーさん」 お花は生き物です。元気に育ってもらうためには、適切な環境とお手入れが大前提であることは言うまでもありません。 けれど生き物だからこそ、目には見えない想いというものも、ほんの少しだけでも感じてくれるのではないかと、私は信じていたいのです。 「この子、冬を越してもう少しで咲きそうなんです。 だから…トレーナーさんに元気を分けていただけませんか」 鉢植えに入ったラナンキュラスは、まだ蕾のまま人前に出るのが恥ずかしいというように、トレーナーさんの前でほんの少し項垂れていました。 ラナンキュラスの鉢植えが出回るのは、春の初めのころです。育てるときはお花屋さんに行って、もう花をつけかけているものを買ってくるのが普通なのですが、この鉢植えのラナンキュラスは今年買ってきたものではありません。 去年育てた子がとても綺麗なお花をつけてくれたので、球根を取って秋から育てていたのです。 いちばん始めから育てるのは初めてだったので、うまくいくか少し不安でした。けれど、たとえ一度枯れてしまっても、種を残してまた春が来ればもう一度綺麗に咲き誇るから、私はお花のことが好きになったのです。 その想いが届いたかどうかはわかりませんが、ラナンキュラスの球根は元気に芽を出して、かわいらしい蕾をつけてくれました。 あと、もうひとがんばりです。だからこそ、トレーナーさんの想いを分けてほしいと思いました。息が苦しくなったときに、トレーナーさんの言葉を思い出すと、もう一度走り出せるのと同じように。 「いつも机の上のお花にそうしているみたいに、撫でてあげてほしいんです」 そう言うと、トレーナーさんはなんだか恥ずかしそうに、指で頬を掻きました。 「責任重大じゃないか。咲くかどうか、最後の正念場だろ?」 「はい。 …だから、トレーナーさんにお願いしたいんです」 でもどんなに謙遜しようと、私にとってあなたは、魔法使いのようなひとなのです。 こんな私を、私が誇れるくらい立派に、咲かせてくれたのですから。 「この花、去年の球根から育てたんだよね。 だったら、俺はまだ見てないってことか」 「…そうですね。去年咲いたお花は、トレーナーさんにはお見せしていませんでした。 とっても綺麗だったんです。お見せしなかったのを、今でも少し後悔するくらい」 あのときは出会ったばかりで、トレーナーさんがお花を好きかどうかもわからず、この花は見せていなかったのでした。 でも、だからこそ、私は思うのです。 「…見せてくれないか。今年こそさ。 ブーケが大事にしてる花なら、きっと綺麗に咲くよ」 ──もう一度綺麗に咲いたこの花を、あなたと寄り添って見ていたいと。 優しく蕾を撫でるトレーナーさんを見て、私は確信しました。 「…この花が咲いたら、いちばん最初にトレーナーさんにお見せします。 だから、そのときはきっと、褒めてあげてくださいね」 このひとの笑顔のためなら、きっとなんだってできるだろう、と。 「トレーナーさん…!」 ある日の朝、私は息せききってトレーナー室の扉を開きました。 トレーナーさんははじめ少し驚いていましたが、やがてその表情が希望に綻んでいくのがわかります。 「ブーケ!もしかして…」 「はい…!とっても元気に咲いたんです…! トレーナーさんにも早く見てほしくて、一輪だけ持ってきました」 薄桃色の花びらをドレスのように纏って、摘んだばかりのラナンキュラスは誇らしげに咲いていました。 「…綺麗だな、本当に」 「はい。トレーナーさんのお陰、ですね」 私も、同じ気持ちです。 あなたとの約束を守ることができて、こんなに綺麗なものをあなたに見せてあげることができて、心からうれしいのです。 笑っているトレーナーさんと目が合いました。何も言わなくても、ただ両手でお花を捧げ持つだけで十分でした。頑張って冬を越えたこの子を、きっとトレーナーさんは優しく褒めてくださるのでしょう。 けれど、伸びたトレーナーさんの手は、思いもかけないところに着地したのです。 「え…トレーナーさん…!」 頭の上がやわらかく押されて、髪をやさしくなぞる手の感触は本当に心地よくて、毎日撫でてもらっていたお花が、少し羨ましくなってしまうくらいでした。けれど初めは驚きのほうが勝って、つい声を出してしまいました。 それを聞いてトレーナーさんは優しい笑顔を申し訳なさそうに歪ませて、頭を撫でる手を止めました。 「ごめん、嫌だったか? ブーケが一番頑張ったと思ったら、つい…」 身を焦がすほど何かをほしいと思ったことは、今までになかったのですけれど。 たとえどれほど恥ずかしくても、この手だけは放してほしくありませんでした。 「…大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけですから。 …あの、続きを、お願いしてもいいですか?トレーナーさんが嫌でなければ、ですけれど」 そのあとのことは、よく覚えていません。 覚えているのは、ゆっくりと頭を撫でてくれた手がただ心地よかったこと。頭を撫でられる度に、まるで心臓も撫でられているみたいに、鼓動が早くなっていったことだけでした。 「本当にごめんな。急に触って、びっくりしたろ」 トレーナーさんはひどく恥ずかしそうに顔を赤らめて、所在なげに私の隣に座っています。きっとさっきまでの私も、同じくらいに真っ赤な顔をしていたのでしょう。 なんだか、それがうれしいのです。どんな気持ちであれ、このひとと同じ想いでいられることが、今の私にはなによりも幸福でした。 「お花が綺麗に咲いたら、トレーナーさんは撫でてくださいますよね」 「え?ああ、つい嬉しくてそうしちゃうんだけど」 だから、きっと私が咲けるのは、あなたの隣なのでしょう。 「…もし、私が綺麗に咲けたら。 そのときはどんなお花よりも、たくさん撫でてくれますか?」 「…うん。いっぱい撫でて、誰よりも褒めるよ。 ブーケはいつだって、誰よりも頑張ってるんだから」 花たちが鮮やかに咲き誇るとき、いちばん最初に綺麗に咲いたねと言うのは、きっとあたたかな春風が、花びらを撫でるときなのでしょう。 だから、どうかそのときは、誰よりも早く私を見つけてください。 ──私だけの、春風さん。