「おはよう。今日は随分重装備だね」 首に大きな一眼レフカメラをぶら下げた私を見て、トレーナーさんは穏やかに笑いました。慣れない大きなカメラの重みに振り回される姿はさぞ滑稽なのでしょうが、私にも意地があります。お花のことであれば、少しも妥協したくないのです。 「校内新聞に春のお花の特集を組ませていただくことになりまして。少しでも綺麗に撮ってあげたかったから、クロノさんにお借りしたんです」 花はいつ見ても人の心を和ませてくれるものと信じていますが、道行く人の足を止めさせる美しさを持つのは、やはり春の盛りのころでしょう。花たちがいちばん美しく咲く瞬間を切り取ることができると思うと、カメラの重みも忘れてしまいそうです。 そんな私を見て、トレーナーさんはやわらかく微笑みました。 「どうか…なさったのですか?」 「ううん。なんでも。 好きなものに囲まれてるときがいちばん幸せなんだろうなって、思っただけだから」 頬が熱るのが自分でもわかります。考えたことがそれほど顔に出やすい人間だとは、思っていなかったから。 あなたのことをどう思っているかも、顔に出てしまっているのでしょうか。 春の色と問われたとき、ひとはどんな色を思い浮かべるのでしょう。 多くのひとはやはり、桜の薄桃色と答えるのでしょうか。けれど、ラナンキュラスの上品な紫色も、目の覚めるようなミモザの黄色も、私にとっては大切な春の色です。 色とりどりの花を机の上に活けて、日常の風景に被せてみると、いつも変わり映えのしない景色に季節の風が吹き込んでくる。そんなささやかな幸せを、みなさんにも感じてほしい。 数枚撮って終わりにするはずだった写真が、そんなことを思いながら角度や構図に凝るうちに、何十枚にもなっていました。 「ブーケ」 「あ…!はい、なんでしょう」 トレーナーさんはずっと、そんな私を見つめていました。親に微笑ましい目で見守られる、おもちゃの前ではしゃぐ子供になったような気分で、少しだけ気恥ずかしくなってしまいます。 そう。このひとと一緒にいると、自分がまだ子供なのだといつも実感してしまうのです。もう少し背伸びをして、綺麗だって思われたいのに。 「せっかくだから、入れ物も変えてみたら?おしゃれさせてあげたら、花も喜ぶかもしれないよ」 あなたがどこまでも、私をやさしく包み込んでくれるから。 この花たちが収まる、美しい花籠のように。 授業やトレーニングをこなしながら、折々に花の写真を撮っているうち、いつの間にか太陽は西の空に傾いていました。ふと机の上を見やると、穏やかな春の宵の風に揺られた一輪のスイートピーが、その紫色の花弁の上で茜色の夕陽をやわらかく転がしています。 すっかり一端のカメラマン気取りになっていた私は、シャッターチャンスを逃すまいとすかさず机と窓の間に入って、カメラを構えました。 日が沈みきってしまう前に、この一瞬を写真に収めようとシャッターボタンに指をかけたのですが、その指がそれ以上曲がることはありませんでした。 「…!」 夕陽に照らされたスイートピーの花弁の先に、ソファーに座るトレーナーさんがいたからです。 何かトレーニングにまつわる本を読んでいるのでしょうか。一心に本のページに視線を注ぐその横顔は真剣そのもので、声をかけることも、目を離すこともできませんでした。 私の心は、このひとから離れられない。そんな想いを抱いたのは、このひとが初めてでした。 ファインダー越しに覗くあなたは、現実よりずっと遠く思えて仕方がありません。花にピントを合わせればぼやけてしまうあなたの表情を、私は必死で瞳に焼き付けようとしています。 結局、私の指は一度もシャッターボタンを押すことなく、カメラから離れてゆきました。 ファインダーから目を離すと、レンズに切り取られた狭い世界が一気に色を帯びていきます。私の視線に気づいて、優しい笑顔で手を振るあなたに、もう一度私の瞳は釘付けになりました。 「あ、ごめん。写真の邪魔だったかな」 「いえ。大丈夫ですよ。 …この景色は、写真には撮れませんから」 あなたがいるこの景色は、私の心の中だけにしまっておきましょう。 この景色をうつくしいと思えるのは、私だけなのですから。 花の影あなたへ伸びてゆく夕べ