その日の私は、とても張り切っていました。 大切に育てていた芍薬の花が、きれいに花をつけたからです。五月のあたたかな陽射しを吸いこんだ淡い紅色の花びらを見たとき、私はついうれしくてその端を指で撫でてしまいました。 ひとつのお花だけを贔屓するのは、いけないことだとはわかっています。けれど去年の花の写真を見せて、トレーナーさんが直に見てみたいなと言ってくれたときから、この花だけはきれいに咲かせたいと想い続けることだけは、どうしてもやめられませんでした。そんな色眼鏡のせいかもしれませんが、今年の花の色は去年のそれよりも、やわらかくて儚く見える気がします。 少しでも早くお部屋に飾りたくて、トレーナーさんがまだ会議に出ている間に形のよいものをいくつか切って、自主練が終わったその足でトレーナー室に向かいました。ところが、トレーナーさんは会議が長引いているらしく、まだお部屋に戻ってきてはいませんでした。 「…どうしましょう。お掃除はしておいたほうがいいかしら…」 せっかくきれいなお花を飾るのですから、花が立つ舞台もきれいなものにしておきたいと、私はふと思い立ったのでした。そして、そう決めたのと同時にもうひとつ、思い出したことがあったのです。 「このお花に合わせるなら、あの花瓶がいいな…」 前にトレーナーさんが買ってくれたかわいらしい白磁の花瓶のことを、私は思い起こしていました。あのなめらかな白い肌には、きっとこの芍薬の薄紅色がよく映えるでしょう。 部屋の埃を払い終え、白磁の花瓶も机の上に出しましたが、いざ活けようと思った時に、私はひどい眠気に襲われました。 日は地平線に沈みかけて、部屋の中は茜色の光で満ちています。思えば、私はトレーニングを終えたあと、シャワーを浴びる以外に休息と呼べるものを取っていなかったのです。 まだ、トレーナーさんは帰ってきません。せっかくならあのひとには、活けるところから見せてあげるというのもいいかもしれない。 視界の端に映ったソファーと、トレーナーさんの仮眠用の毛布を捉えながら、私の頭はそんな思考に支配されていきました。 くすくすと微笑む声が、どこかから聞こえてきた気がしました。 「おはよう。疲れた?」 「…!トレーナーさん…!」 どれだけ眠っていたのでしょう。トレーナーさんはいつの間にか帰ってきていて、私のすぐそばに腰掛けていました。 まだ、寝ぼけているのでしょうか。やわらかく笑うその瞳は、優しさだけではない感情で蕩けているように見える気がします。 「ごめんなさい…!私、すっかり寝てしまって…」 「いいよ。今日のメニューはかなり大変だっただろうし」 そう言って頭を撫でられると、胸の奥のよくわからないところが、ずきずきと疼いてしまいます。でも、どうしてでしょう。トレーナーさんがこんなに大胆なひとだったなんて。 「あの…私、どこか変ですか?」 「ん?なんで?」 「私を見て、笑っていらっしゃる気がしたので…」 やはり、私はおかしいのでしょうか。トレーナーさんはいっそうくすくす笑って、面映ゆげに目を細めて私を見るのです。 「ごめんごめん。全然変じゃないよ。 むしろ、すごく綺麗だなと思ったから。本当の花束みたい」 そう言って、トレーナーさんは私の被っていた毛布をなぞりました。色とりどりの花が織り込まれたそれにすっぽりとくるまって、切ったばかりの芍薬の花を抱えて眠っている私を見て、トレーナーさんはそんなことを考えていたのです。 「だから、まだ寝てていいよ。 もっと見てたい」 私を褒めてくれるトレーナーさんの微笑みは、太陽のように眩しくて。 私の頬はそのたびに、ちりちりと燃えているような気がするのです。 「あー…でも、なんかこっちも眠くなってきちゃったな」 大きく伸びをしたトレーナーさんの表情は、眠たいことがうれしいと言うように楽しそうでした。 「会議、大変だったんですね」 「大変じゃないけど…妙に長くてさ。頑張って走ったブーケに言っちゃいけないかもしれないけど、じっと座ってるのも疲れるんだね」 こてんと首を傾げるトレーナーさんは、床にでも突っ伏して今にも眠ってしまいそうでした。 「…あの…!この毛布を使ってください…!もともとトレーナーさんの仮眠用だったんですから…!」 「いいよいいよ。寒くないし」 「でも…」 やはり、今日のトレーナーさんはどこか不思議です。 こんな、悪戯っぽく笑うひとだなんて、思っていなかったのに。 「…じゃあ、端だけ貸して」 私の隣に寝転んだトレーナーさんのお顔が、とても近くに来ています。その息づかいまで、聞こえてきそうなくらいに。 「…今日はよく寝れそう」 少し幼げな、いつまでも触れていたくなるような、やさしい顔。 「さっきも言ったけどさ。その花も、今日のブーケも、すごく綺麗。 誰にも見せたくないし、渡したくない」 でも、無邪気な子供と言うには、あまりに胸の奥をくすぐられるその寝顔を見ていると、知らない感情が湧いてきます。 「…私も、ですよ。トレーナーさん」 あなたの腕の中のぬくもりは、誰にも渡したくない。 あなただけの花束になりたい、なんて。 「…!」 目を開けると、見知ったトレーナー室の天井がありました。カーテンを閉じていない窓から差す月明りが、部屋の中に冷たくしっとりと降り積もっていきます。 私の隣には、誰もいません。あの優しくて、けれど妖しい微笑みも、眠りに落ちる前に私を抱きしめてくれたぬくもりも、全てが消えています。 「…っ…!」 おかしいとは思っていました。トレーナーさんはいつも優しくて、あんなふうに情欲をくすぐるような笑い方をするひとではなかったのに。あれは全て、そんな微笑みが見たいと願った私の見た夢だったのです。 毛布の中を探しても、トレーナーさんはいるはずもありません。私の隣には、さっき摘んできた芍薬の花が、さみしそうに横たわっているだけでした。 「…トレーナーさん」 眠る前にはかかっていなかったはずの毛布が私を覆っていたから、きっとあんな夢を見たのでしょう。私を夢の世界に誘った微笑みも、もしかすると本当に、トレーナーさんが笑っていたのかもしれません。 「…」 私はもう一度毛布にくるまりました。生まれて初めての不貞寝をするためです。 いくら眠っても、あの夢に戻る入り口が見つからないことくらいわかっています。それでも、私を起こさなかったその優しさが切なくて、いじけて眠るくらいしか、私にはできなかったのです。 「…いじわる」 芍薬の花束は、いくら抱きしめても包み返してはくれません。 あのひとを喜ばせるために咲いたはずの淡い花色が、今はなんだかひどく意地悪に思えるのでした。