# 玉止め  カタ、と鳴った。  目が覚める。午前二時十三分。スマホの画面が枕元で光って、消えた。  壁の向こう。カタ、カタカタ、カタ。  止まる。……また、カタカタカタカタ。  ミシンの音だ。隣は、じいちゃんの作業部屋。じいちゃんは去年の秋に死んだ。  布団の中で膝を抱える。三度目だった。最初の夜は夢だと思った。二度目の夜、確かめに行った。廊下の電気も点けず、足音を殺して、襖を細く開ける。  誰もいない部屋で、ミシンのはずみ車が回っていた。  針が上下していた。カタカタカタ、と。布もないのに。糸も掛かっていないのに。電源プラグはコンセントから抜かれ、床で埃をかぶったまま。  それでも、縫っていた。  わたしは襖を閉めて、朝まで眠れなかった。  小さい頃、この音は子守唄だった。作業部屋の隣の和室で昼寝をすると、壁越しにカタカタカタ、と規則正しい音がして、それを聞いているうちに眠ってしまうのだった。じいちゃんの縫う音は、走って、ゆるんで、ぴたりと止まって、また走る。歌みたいに拍子があった。  夜中に鳴るあの音にも、同じ拍子がある。  だから怖い。ただの故障なら、まだよかった。  お母さんには言った。言ったけど。 「夢でも見たんでしょう」  二度目に言った時は、心配そうな顔をされた。受験、終わったばかりだものね。疲れてるのよ。無理もないと思う。お母さんがいる時、あのミシンは鳴らない。休みの日の昼間、二人で作業部屋を掃除した時も、ミシンは黒くて重い、ただの機械の顔をしていた。  でも夜になると、縫う。わたしにだけ聞こえる音で。  怖い。正直、怖い。でも。  あれは、じいちゃんのミシンだ。  じいちゃんが五十年、仕立ての仕事で使い続けた道具だ。捨てるとか、お祓いで壊してもらうとか、そういうのは違う気がして、わたしは誰にも相談できないまま、夜の音を数えていた。  そして昨日の夕飯の時、お母さんが言ったのだ。 「あのミシン、そろそろ処分しましょうか」  処分。その言葉が喉に刺さった小骨みたいに残っている。お母さんは悪くない。夜の音を知らないのだから。でも。  鳴りやまない壁の向こうの音を聞きながら、わたしは布団の中でスマホを握りしめる。  明日、行こう。あの噂の店に。 *  放課後の商店街は西日で全部オレンジ色だった。  アーケードを抜けて、シャッターの増えた通りをさらに行く。惣菜屋の揚げ物の匂いと部活帰りの自転車のベルが、だんだん遠くなる。五時のチャイムが鳴り終わる頃には、人通りはほとんどなかった。目指すのは地図アプリにも出ない路地。頼りは教室で拾った噂だけ。  ――壊れた機械のお祓いをしてくれる店があるらしい。  ――隣のクラスの子のお兄さんが、勝手に電源の入るゲーム機を直してもらったって。誰も遊んでないのに、夜中にセーブデータが増えてたんだって。  ――ジャンク使い、っていうんだって。  オカルトだ、と一週間前のわたしなら笑った。今は笑えない。夜中に勝手に縫うミシンと暮らしている人間に、笑う資格はない。  乾物屋と空き店舗のあいだの、細い路地。奥に、小さな灯り。  近づくと、埃っぽいショーウィンドウがあった。並んでいるのは修理を終えたらしいラジオと扇風機。それぞれに値札と、手書きの紙が添えてある。『調整済』。その字の横に、小さなお札が一枚ずつ。  古びた引き戸のガラスには、これも手書きの紙。 『みかげ修理店 修理・調整・その他』  その他、ってなんだろう。  軒先には鈴がひとつ下がっていて、風もないのに、ちりん、と鳴った。  知らない店にひとりで入るのは、それだけで勇気がいる。ましてこんな、路地の奥の、開いてるのか閉まってるのか分からない店に。引き返すなら今だ、と思う。でも家に帰れば夜が来て、夜が来ればあの音が鳴って、そのうちミシンは処分されてしまう。  わたしは深呼吸をひとつして、引き戸に手を掛けた。  戸はからから、と軽く開いた。  油の匂い。それと、お線香みたいな匂いが少しだけ。  店の中は思ったより広くて、思ったより変だった。壁一面の棚にラジオ、扇風機、ゲーム機、炊飯器。値札の隣に、お札が貼ってある。天井の梁からは小さな鈴がいくつも下がって、レジの横には盛り塩まであった。作業机では分解されたラジカセが部品ごとにトレーに並べられていて、そのトレーの隣に、木の数珠が無造作に置かれている。修理屋なのか神社なのか、分からない。  カウンターに、人が突っ伏していた。  小柄な人だ。灰みがかった金色の髪に、編み込みがひと筋。頭のてっぺんで一本だけ跳ねた毛が、寝息に合わせてゆらゆら揺れている。 「……あの」  返事がない。 「あのっ、すみません」 「…………営業時間外」 「表に、開店中って札が」 「……あー……」  その人はのそりと顔を上げ、大きく伸びをした。それから、わたしを見た。  琥珀色の目。歳はわたしより少し上、高校生くらいに見える。頭にはゴーグルを乗せて、首には朱色のスカーフ。炭色のワークジャケットの袖が、ちょっと余っている。スカートに巻いた工具ベルトには、ドライバーやスプレー缶に交じって、木のお札と鈴がぶら下がっていた。片脚は膝上までの黒いソックスで、もう片脚はくるぶし丈。左右で違う。寝癖なのか、わざとなのか。 「お客? 修理?」 「修理、というか。その」  わたしは口ごもった。なんて言えばいいんだろう。夜中に勝手に動くミシンをどうにかしてください? 声に出したら、すごくばかみたいだ。 「あなたが、その……ジャンク使いさん、ですか」 「祓い」 「え?」 「ジャンク祓い。使いって何。便利屋みたいに言わないでくれる」  その人はカウンターに頬杖をついて、じと、とした目でわたしを見た。 「御影こはく。ここの店番で、ジャンク祓い。……で?」  わたしは話した。仕立て屋だったじいちゃんのこと。去年の秋に死んだこと。形見のミシンが夜中にひとりでに動くこと。電源が抜いてあること。お母さんには信じてもらえないこと。処分される、かもしれないこと。  こはくさんは頬杖のまま聞いていた。相槌は「ふうん」だけ。一度だけ、質問をされた。 「じいさん、最後に何か言ってた? 遺言とか、気がかりとか」 「……何も。仕事場で倒れて、救急車で運ばれて、そのままでした」 「そ」  こはくさんは短くそう言って、続きを促した。全部話し終わると、面倒くさそうに首の後ろを掻いた。 「電気屋とかメーカーには?」 「電源が抜いてあるのに動くんです、って言うんですか。笑われるだけです」 「だろうね。世間はジャンク化なんて信じてない。信じてないから、うちみたいな店が細々やってける」 「じゃんく、か」 「そ。あんたの家で起きてるやつの名前」  こはくさんはあくび交じりに言って、それから「そのミシン、持ち込みできる?」と続けた。 「む、無理です。すごく重いし、お母さんに見つかるし」 「出張かあ……。うち、出張は割増なんだけど」  言われた金額に、わたしは凍りついた。財布の中身はお年玉の残りの――  固まったわたしの顔を、こはくさんはしばらく眺めた。値踏みというより、レントゲンみたいな見方だった。 「……いくら持ってんの」 「ご、五千円、ちょっと」  こはくさんは天井を仰いだ。長いため息。 「家、遠い?」 「歩いて十五分くらい、です」 「なら出張費はまける。基本料金だけ。それ以上はまけない、あたしはプロなんで」 「あ、ありがとうございます……!」 「礼はいい。それより」  こはくさんはカウンターの下から飴を出して、口に放り込んだ。 「あんたさ、それ、幽霊だと思ってるでしょ」 「ち、違うんですか」 「違う。……半分は」 「半分?」  こはくさんは頬杖を外して、指を一本立てた。 「機械はね、手を覚えるの」 「手?」 「使い手の手。何十年も同じ人間に使われた機械には、その人の癖が染みる。油の回り方、金属の減り方、ネジの締まり具合。ぜんぶ、その人の手の形に育つ。職人の道具なら、なおさら」  からん、と飴が歯に当たる音がした。 「で、たまーに、それが濃すぎる子がいる。主がいなくなったのに、覚えた手の通りに動こうとする。あたしらはそれを、ジャンク化って呼んでる」 「じゃあ、じいちゃんの霊、とかじゃ……」 「ない。あんたのじいさんは化けて出てない。ミシンが、じいさんの手を覚えてるだけ」  覚えてるだけ、という言い方が、なんだか優しく聞こえて、わたしは泣きそうになった。 「祓うって……壊すんですか、ミシンを」 「壊すのは祓いって言わない。ただの破壊」  こはくさんは飴を頬の内側に寄せて、初めてちゃんとこっちを向いた。 「祓いってのは、機械の言い分を聞いて、狂った拍子を締め直してやること。まあ、行ってみないと分かんないけど」 「なんで、夜中に動くんでしょう」 「じいさん、夜なべの人だったんじゃないの」  あ、と思った。そうだ。じいちゃんの仕事場の灯りは、いつも夜遅くまで点いていた。 「動く時間、決まってる?」 「二時すぎ、です。だいたい」 「律儀だねえ。……よし、段取り決めよ」 *  次の日の夕方、こはくさんはうちに来た。お母さんが仕事から帰る前の時間を狙って。店には『外回り中』の札を下げてきたらしい。こはくさんは学校帰りの友達の気軽さで「おじゃまーす」と靴を脱いだ。  じいちゃんの作業部屋は、あの日のまま。裁ち台、糸の棚、トルソー、大きな裁ち鋏。壁のカレンダーは去年の十月のまま。針山には待ち針が刺さったまま。埃と、ミシン油の匂い。  部屋の真ん中に、それはいる。黒い鉄の塊みたいな、職業用のミシン。 「へえ」  こはくさんは目を細めた。 「この型か。懐かしいな。出た当時、評判良かったんだよね」 「出た当時って……これ、五十年くらい前のだと思いますけど」 「ん? そうだよ?」  ……この人、いくつなんだろう。 「触るよ」  こはくさんはゴーグルを目に下ろすと、ミシンの周りをゆっくり一周した。プラグが抜けているのを確かめ、はずみ車に手を添えて、そっと回す。カタ、と針が一度だけ上下する。台に耳を当て、匂いを嗅ぎ、指先で送り歯をなぞる。それから釜の蓋を開けて、下糸のボビンケースを覗き込んだ。 「じいさんの名前は?」 「え?」 「ミシンじゃなくて、じいさんの」 「宮下、達夫です」 「達夫さんね。覚えた」  名前が要るんですか、と訊いたら、挨拶に決まってんでしょ、と返された。誰の手の機械か知らずに触るのは失礼なんだそうだ。 「油はじいさんが差してたんだ。手入れがいい。この頃の鉄は目が詰まってて、当たりだよ」  ひとりごとの調子で言って、蓋を閉める。 「よく使い込んでる。……いい手だ」  それは機械にというより、じいちゃんに言ったように聞こえた。 「今夜、動く時間にまた来る。あんた、家の人に気づかれずに、あたしを入れられる?」 「か、勝手口なら。お母さんが寝てから」 「ん。それまでミシンには触らないこと。あと、あんたも寝とくこと。夜は長いよ」 *  午前一時半。お母さんの寝室の灯りが消えて三十分待ってから、わたしは勝手口の鍵を開けた。  こはくさんは夜に溶けるみたいに立っていた。炭色のジャケット、腰の工具ベルト。歩くたび、ベルトに下がった小さな鈴とお札の束が、ちり、と鳴る。 「どうも。……お、緊張してる?」 「し、してます、そりゃ」 「あたしはしてない。眠いだけ」  作業部屋に入ると、こはくさんは床にあぐらをかいた。常夜灯のオレンジの光。埃の匂い。柱時計の秒針だけが、こち、こち、と動いている。  わたしは膝を抱えて、ミシンを見ていた。黒い鉄の塊はただの機械の顔で黙っている。 「……来なかったら、どうしましょう」 「来るよ」  こはくさんは携帯ゲーム機をいじりながら、あくびをした。 「三晩続けて鳴ったんでしょ。染みが濃い証拠。……それに」  ぱちん、とゲーム機を閉じる。 「今夜は、ちゃんと聞く気のある人間がそろってるから」 「こはくさんは、怖くないんですか。こういうの」 「機械は嘘をつかないからね。人間よりよっぽど楽」  どういう意味ですか、と訊く前に。  カタ、と鳴った。  息が止まった。  はずみ車が、回っている。ゆっくり。それから、速く。針が上下を始める。カタカタカタカタ。天秤が揺れる。糸もないのに、布もないのに、押さえの下の送り歯が、何もない空気を後ろへ後ろへ送っていく。  電源プラグは、床の上。  部屋の温度が下がった気がした。わたしは動けない。声も出ない。  こはくさんは、立ち上がった。  怖がっていなかった。ゴーグルを下ろし、動くミシンに顔を近づける。じっと見る。針の上下を。空回りする送りを。 「……空縫いだ」 「から、ぬい?」 「布のないまま、縫う動作だけしてる。針が布を探してるんだよ」  こはくさんはミシンから目を離さずに言った。 「こいつ、まだ縫いたいんだ。縫いかけの何かがある」  こっちを見る。琥珀の目が常夜灯の色を映した。 「あんた、探して。じいさんの棚。この子が縫うはずだったもの、どこかに残ってるはず」  わたしは弾かれたように立って、棚を漁った。糸の箱、ボタンの缶、型紙の筒。震える手で引き出しを開けていく。一番下の、深い引き出し。風呂敷の包み。  解くと、畳まれた布が出てきた。淡い浅葱色の生地。裁断が済んで、しつけ糸がところどころに打ってある。一緒に、鉛筆書きのメモ。 『結 高校祝い 三月納め』  わたしの名前と、採寸の数字。  ――高校に受かったらな、一着仕立ててやる。  ――えー。じいちゃんの服で写真撮るの、もう子供っぽいよ。  ――なら、大人のを作ってやる。とびきりのを。  こたつでみかんを剥きながらの、去年の約束。じいちゃんはそれから二か月で、いなくなった。  カタカタカタ、とミシンが鳴って、わたしは我に返った。 「こはくさん、これ」 「……上等」  こはくさんは布を受け取り、メモを見て、小さく笑った。 「じゃ、仕上げてもらおうか」 「え?」 「その前に、この子を少し黙らせる。暴れすぎ。糸調子も送りも、悲しいくらい狂ってる」  こはくさんは腰の後ろに手を回した。折りたたまれた、金属の塊。手首のスナップひとつで、それが展開する。柄が伸び、頭のレンチが起き上がり、がしゃん、と噛み合ってロックされた。柄には赤い房と鈴、貼られた護符。工具と呼ぶには長すぎて、槍と呼ぶには罰当たりな、変な道具。 「雷錆。あたしの商売道具」  動いているミシンに、こはくさんは手を入れた。ひっ、と喉が鳴る。上下する針のすぐそばで、レンチの先が糸調子のダイヤルを掴んで回る。それからはずみ車に手のひらを当てて、力ずくで、止めた。 「そんなに焦んな。手が乱れてるよ、職人さん」  止まった一瞬のあいだに、こはくさんは糸を掛けた。糸立てから、糸調子へ、天秤へ、針へ。下糸のボビンを収めて、蓋を閉める。浅葱の布を押さえの下に滑り込ませ、位置を合わせる。 「ん。……いいよ」  手を離した。  ミシンが、縫い始めた。  誰も踏んでいないのに。誰も手を添えていないのに。浅葱色の布がまっすぐに送られていく。縫い目が伸びていく。細かくて、揃っていて、きれいな縫い目。 「見な」  こはくさんが小さく言った。 「これが、あんたのじいさんの手だ」  走って、ゆるんで、ぴたりと止まって、また走る。あの拍子だ。昼寝のわたしを眠らせた、あの歌みたいな縫い方だ。  わたしは泣きながら見ていた。ミシンはわき目もふらず縫った。袖を、身頃を、裾を。下糸が尽きた時だけ、ボビンの交換をこはくさんが手伝った。それ以外は、何も。床に膝をついて、職人の仕事を横取りしない弟子みたいな顔で、ただ控えていた。柱時計が三時を打っても、ミシンはまだ縫っていた。  やがて、最後の縫い目が終わった。  なのに、針は止まらなかった。同じ場所で上下し続ける。かた、かた、かた。糸がもつれて、絡まりそうになる。 「こはくさん、止まらない……!」 「…………そっか」  こはくさんは、ふ、と息を吐いた。 「あんた、玉止めができないんだ」 「たま、どめ?」 「縫い終わりの、糸の始末。ミシンは縫えるけど、結べない。糸の始末は人の手の仕事なんだよ。あんたのじいさんも、最後の糸留めは自分の指でやってたはずだ」  こはくさんは裁ち台の上の小さな糸切り鋏を取って、わたしに差し出した。じいちゃんの鋏だ。 「ここから先は、機械の仕事じゃない。……あんたの仕事だよ、依頼人さん」 「わ、わたし? できな――」 「あんたの名前、『結ぶ』って書くんでしょ」  メモを、指で差された。  わたしは鋏を受け取った。上下し続ける針のそばで、糸を切る。ミシンが、止まる。祈るみたいに糸の端を撚って、指に巻いて、結んだ。不格好で、大きすぎる玉止め。じいちゃんなら、絶対やり直すやつ。  でも。  ミシンのはずみ車が、ひと呼吸ぶんだけゆるく回って――止まった。  しん、とした。  柱時計の秒針の音が戻ってくる。埃の匂い。常夜灯のオレンジ。ミシンはもう、ただの黒い機械の顔をして、そこにいた。  こはくさんがその頭をぽんと撫でた。 「お疲れさん。……いい仕事だった」 *  日曜日、わたしは菓子折りを提げて、みかげ修理店の戸を開けた。  こはくさんはこの前と同じ姿勢でカウンターに突っ伏していて、わたしが基本料金の入った封筒と蒸しパンの箱を置くと、蒸しパンのほうを先に開けた。 「ん。確かに」 「領収書とか、あるんですか」 「いる?」 「……いらないです」 「賢明」  こはくさんは二個目の蒸しパンに手を伸ばした。 「あのね、こはくさん。聞いてください」  ワンピースは、できていた。あの夜のまま、じいちゃんの作業部屋に。わたしはそれをお母さんに見せた。作業部屋で見つけた作りかけを、自分で最後まで縫った――半分だけ本当のことを言って。  お母さんは縫い目をひと目見て、黙った。  娘だから、分かるんだと思う。その縫い目が、誰の手のものか。  長いこと黙って、ワンピースを胸に当てて、窓の光にかざして。それから袖口の裏の不格好な結び目を指でなでて、笑った。 「玉止めだけ、下手ねえ」  笑いながら、泣いていた。  ミシンを処分する話は、それきり出ない。夜の音も、あれから一度も聞こえない。ミシンは作業部屋の窓の光を浴びて、静かにしている。 「――という、ご報告でした」 「ん」  こはくさんは蒸しパンを頬張ったまま頷いた。他人事の顔。でも、わたしは見た。口の端がちょっとだけ上がっていたのを。 「こはくさんは、本当にすごい人です」 「んぐ」 「あの夜のこはくさん、ほんとにかっこよかった。命の恩人っていうか、ミシンの恩人っていうか。わたし、一生忘れません」 「~~っ」  こはくさんは蒸しパンを喉に詰まらせかけた。耳まで赤い。頭のアホ毛が、ぴん、と立つ。 「べっ、別に! 仕事! 仕事だし!」 「ふふ」 「笑うな! ……次からあんた、割増料金にするからね」  じと目で睨まれた。ぜんぜん怖くなかった。 「あと、これ。うちのお母さんから」  わたしはもうひとつ、小さな包みを出した。お礼です、詳しくは聞かないけど、って。こはくさんは包みとわたしの顔を見比べて、できた母親じゃん、と受け取った。 「また来て、いいですか」 「……壊れた機械持って来なよ。ないなら、茶菓子持参で」  言ってから、こはくさんは思い出したように付け足した。 「あと、ミシン。使ってあげな。機械は、使われてるのがいちばん静かなんだ」 *  四月。  桜の下で、わたしは浅葱色のワンピースを着て立っている。袖丈も、肩の幅も、あつらえたみたいにぴったりだ。あつらえだから、当たり前なんだけど。  お母さんがスマホを構えて、もうちょっと右、なんて言っている。その声が少し湿っている。  家を出る前、作業部屋に寄ってきた。ミシンの頭をぽんと撫でて、行ってきます、って。こはくさんの真似だ。  袖に手を通した時、裏地の隅の結び目が指先に触れた。下手くそな、大きな玉止め。じいちゃんなら、絶対やり直すやつ。  でもこれは、わたしとじいちゃんの結び目だから、ほどけないくらいでちょうどいい。 「じいちゃん、行ってきます」  シャッター音がして、桜がひとひら、肩に落ちた。 玉止め(了)