1999年、7月。 梅雨もそろそろ明けようかという時期の、とある日のこと。 古びた劇場のロビーに、銀髪の少女がひとり座り込んでいた。その傍らには、紫色のぬいぐるみが置かれている。 劇場内は綺麗に掃除が行き届いており、明かりも灯っているが、彼女以外には誰も見当たらない。劇が催されている最中──というわけでもないらしく、建物内はしんと静まり返っていた。 どこか奇妙な光景だが、この場所にとってはそれが日常だった。ここはただの劇場ではなく、誰もその場所を知らない秘密の隠れ家──怪盗団『ファントム』のアジトなのだから。 「──それでね、この帽子も結構古くなってきたでしょう? そろそろ新しいのを買おうかと思うのよね」 静かな劇場内に、少し喧しい印象の声が響く。 銀髪の少女は物憂げに口を閉ざしており、周囲には他に誰も居ない。声の主はその横のぬいぐるみ……のように見える、狐に似た姿の『妖精』だった。 彼女は小さな手足をせわしなく振り回しながら、隣の少女にぺちゃくちゃと語りかける。 「最近暑くなってきたし、紫外線対策もしっかりしなきゃ。どんなデザインが良いと思う?」 「…………」 「……るるか?」 銀髪の少女──森亜るるかの反応が無いことに気付いた妖精は、首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。 るるかはそれでようやく話しかけられていることに気がついたのか、少しぼんやりとした表情を隣に向ける。 「……え? ……何か言ってた?」 「……あらあら、上の空ねぇ」 「……ごめん、マシュタン」 るるかの『おとも妖精』であるマシュタンは、やれやれといった表情で小さな肩をすくめてみせた。 そのおどけた態度とは裏腹に、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳にはわずかな不安の色が混じっている。 「……最近、元気がないんじゃない? るるか」 「……別に。いつも通りよ」 「そう? この前の写真の一件から、あまり眠れてないみたいだけど……」 「……大丈夫よ。少し、疲れてるだけ」 「……そう。ならいいけど」 そう言いながらマシュタンは微笑んでみせたが、やはり心配なのか、大きな両耳は力なく伏せてしまっている。 彼女の言う一件とは、ファントムがとある写真を狙って起こした事件のことだ。 パティシエの浅井たいらが大事にしていたその写真は、例のごとく名探偵の手によって守られ、るるかはマコトジュエルを奪うことができなかった。 るるかの元気がない理由は、任務に失敗してしまったから──なんて、そんな単純な話でないことはマシュタンもよくわかっている。 マシュタンが怪盗ゴウエモンと一緒に名探偵の相手をしている間、るるかが話していた相手……それが答えだろう。 しかしわかっていても、それを口にするほど彼女は無遠慮ではなかった。 一人と一匹の間に流れたわずかな沈黙を、マシュタンの明るい声が唐突に破る。 「……そうだわ! 気分転換に、アイスでも食べに行ったら?」 「ん……そうね。一緒に行きましょうか」 「ううん。そうしたいのはやまやまなんだけど……私はちょっとお出かけする用事があるのよね」 「そうなの? じゃあ、その後アイスを……」 「それが悪いんだけど、ひとりで済ませたい用事なの! だから、るるかもひとりで行ってきてくれる?」 「えっ……」 珍しい要求に困惑するるるかに対して、マシュタンは指先を唇に沿って動かしながら、ぱちんとウィンクをしてみせた。 「ちゃ〜んと、“おしゃれ”していくのよ! わかった?」 「……!」 るるかはハッとした表情でマシュタンを見つめた後、少し恥ずかしそうな、普段よりもどこか幼い印象の笑顔を浮かべた。 ややオーバーな身ぶりでマシュタンが出した“ヒント”は、元天才名探偵には簡単すぎたようだ。 「……わかった、一人で行ってくる」 「うんうん、それが良いわ! 占いによると今日は雨が降りそうだから、それまでには帰ってくるのよ〜!」 「大丈夫、すぐ済ませるから」 立ち上がって劇場の出口へ歩き出しながら、るるかは小さな声で呟いた。 「……もう、お節介なんだから」 そんな相棒の背中を見送るマシュタンは、両耳をピンと立ててにっこりと笑う。 ……と、ちょうどその時。ロビーに大柄な和装の男──怪盗ゴウエモンが現れた。 彼は出ていこうとする後輩を見つけると、爽やかに笑いながら言った。 「お、新人はこれからどっか出かけるのか? どれ、ここは先輩としてアイスのひとつでもおごってやるか!」 「バッ……!! やめなさい!! 何考えてるの!!」 るるかに着いていこうとしたゴウエモンをマシュタンは慌てて引き留め、小さな手でポカポカと殴りつける。 「なっ!? いや、新人が最近しょぼくれてるからよ、元気付けてやろうと……」 「余計なお世話なのよ、もう! ほら、あなたは私についてきて!」 「はぁ? なんで俺が……」 「これから新しい帽子買いに行くのよ。私一人じゃ出歩けないでしょう?」 「それなら新人と行けば良いじゃねえか」 「うるさいわね! 早く来なさい!」 「お、おう……」 そうして喧しい妖精たちの声を背に、森亜るるかは街へと繰り出していった。 ──── その日のまことみらい市は気温こそ然程高くないものの、湿度の高いじめじめとした空気が街全体をどんよりと覆っていた。 別れ際にマシュタンが言った占いのことを思い出しながら、傘を持っていないるるかは足早に街を歩いていく。 彼女の目的地は、31種類のフレーバーから選べて8段重ねにも対応可能な行きつけのアイスクリーム専門店……ではなく、小さいながらも小洒落た店構えの洋菓子店。 『パティスリーチュチュ』と書かれた看板が見えてくると、るるかは周囲を見渡して人目がないことを確認し、物陰に素早く隠れた。 「……オープン。プリキットグロス」 彼女が小さなキーホルダーを手にしてそう呟くと、それは不思議な光と共に可愛らしいリップグロスへと変化する。るるかは慣れた手つきでキャップを開け、唇にグロスをさっと一塗りした。 その瞬間、るるかの全身が光で覆われる。みるみるうちに身長が縮み、衣服は光と溶け合うようにして形を変え、髪型まで別のものになっていく。 そうして数秒後には、彼女は先ほどまでとはまるで別人になっていた。顔立ちや髪の色が大きく変わったわけではないものの、普段よりも明らかに幼い。 るるかは現在16歳だが、今はそれより2〜3歳若い、中学生くらいの年齢に見える。 髪はお団子にまとめ、服装はいつもよりもやや活発な印象になっており、いずれもるるかのイメージとはだいぶかけ離れていた。 「……こんなものかしら。なんだか見覚えのある感じになっちゃったけど……ま、いいか」 手足を持ち上げたり、服をつまんだりして、自分の恰好を確認しながら独り言ちる。 「……マシュタンに見られたら、ダサいって言われちゃうかな……」 変装したるるかは周囲を確認しつつ物陰から出ると、目的地へ向けて歩いていった。 ──── 「いらっしゃいませ!」  パティスリーチュチュの扉を開けると、元気の良い挨拶が店内に響き渡った。 赤いベレー帽を被った店員がるるかを出迎え、朗らかな笑顔と共にぺこりと頭を下げる。 るるかは視線を落とし、エプロンの前で組まれた彼女の手のあたりを見つめながら、小さな声で返事をした。 「どうも……」 「……あら? もしかして初めてのお客さんですか?」 「……ええ、まあ」 「私はパティシエの帆羽くれあです。あなたのお名前は?」 「えっ?」 意外な言葉に驚いたるるかは、思わず視線を上げてくれあの顔を見た。その表情はいつも通り、普段と何ら変わらない柔和な笑顔を浮かべていて、特におかしな点は見られない。 自分の正体に勘付いたわけではなさそうなことに安堵しながらも、るるかは少々困惑していた。初来店の客にいきなり名前を聞いてくる店員なんて、そうは居まい。 しかし黙っているのも怪しいので、るるかは辛うじて平静を保ちながら、絞り出すように答えた。 「る……る、な……です」 「るるなちゃん! 素敵なお名前ね♪」 「え、あ……ありがとう……?」 「うちはケーキがメインだけど、焼き菓子やアイスもありますよ。ゆっくり見ていってくださいね!」 「……はい」 店に入って店内を見回すと、るるかの他に客は見当たらなかった。店長である浅井たいらの姿も見えない。 周囲を気にする彼女の姿を見て何かを察したのか、くれあは少し申し訳なさそうに声をかける。 「あ……今日は店長が居なくて、私一人なんです」 「……そうなんですか」 「でも、安心してください。私も腕には自信がありますから!」 細い腕を張り、なんとも可愛らしいガッツポーズを取るくれあを見て、るるかは思わず頬を緩ませた。 「ふふ……楽しみにしてますね」 「はい! ……ふふっ♪」 2人の間に、和やかな空気が流れる。 るるかはすっかり暗記してしまったメニュー表にゆっくりと目を通しながら、しばらく2人だけの時間に身を委ねていた。 しかしそんな温かい静寂も、やがて終わりを迎える。 「……アイスをふたつ。テイクアウトで」 「はい! 味はどうしますか?」 「チョコミントと、ラズベリー」 「かしこまりました。ちょっと待っててくださいね!」 「ええ……」 厨房の方へ歩いていくくれあを、るるかは静かに見守る。その視線は温かく、しかし少しだけ寂寥感を帯びていた。 彼女がアイスを持ってくれば、かけがえのない2人の時間ももう終わり── ──その時、店の外で不意に雷鳴が轟く。 「! ……あ……」 続いて店の屋根と窓を雨粒が叩く音が聞こえはじめ、それはすぐに激しさを増していった。 「あら……貸出用の傘、まだあったかな……」 「……大丈夫です。 家はそんなに遠くないし……」 「そういうわけには……あ、そうだ!」 くれあは水滴の流れる窓を見て困ったような表情をしていたが、すぐに笑顔を取り戻してるるかを振り返った。 「もし時間があれば、店内で食べていきませんか? 雨宿りも兼ねて」 「えっ……あ……」 るるかはくれあと窓を交互に見てしばらく逡巡したが、やがて観念したように呟いた。 「……じゃあ、お言葉に甘えて」 「ふふ、どうぞごゆっくり♪ アイス、すぐに用意しますね!」 「ええ……」 厨房に消えていくくれあを見送った後、るるかは小さくため息をつきながら席についた。 その頬を、ほんの少しだけ緩ませながら。 ──── 「……雨、なかなか止まないですね」 アイスの皿を片付けながら、くれあは窓の外を見て呟くように言った。 「……ごめんなさい。 長居してしまって」 「あ、良いんですよ。 今日は他に誰も居ないし、るるなちゃんの貸し切りだから。 いくらでも休んでいってね」 「……はい」 るるかは流石に少し気まずくなってきたのか、自分の膝に視線を落とした。 普段ならそこにマシュタンが乗っているが、今日は誰も居ない。虚空を抱くようにして両腕を組み、寂しさをこらえるように、軽く目を閉じる。 そうしてしばらくの間雨音に聴き入っていると、ふと温かい物が肩に触れた。 「……!」 「体、冷えてませんか? 雨で気温が下がってきたから」 ……いつの間に後ろに来ていたのだろうか。優しく微笑むくれあを見上げながら、るるかは肩に掛けてもらった青いケープの端を、思わずぎゅっと握った。 アイスを食べたせいで冷えていた体に、じわりと温かさが拡がっていく。 「……あ、ありがとう……」 「ふふ。 ……そうだ、奥の方にはソファがあるんです。そっちで休んでいきませんか?」 「え? あ……」 くれあの手が、不意にるるかの背に触れる。 ケープの中で、小さな肩がびくっと跳ねた。 「さ、どうぞ」 「…………」 るるかは言われるままに立ち上がり、店の奥へと入っていった。 厨房へ続くドアとの間には店員用の小さな休憩スペースがあり、テレビやテーブルなどが置かれていた。テレビの対面にはくれあの言う通り、大きめのソファがひとつ据えられている。 ソファに腰掛けると、想像以上に柔らかな座面がるるかを包み込む。店内の椅子も硬いわけではなかったが、こちらは格別だった。 「……ふかふか……」 「でしょう? 店長のこだわりなの。腰に来る仕事だからって」 そう言うと、くれあは当たり前のようにるるかの隣に腰を掛けた。 驚いたるるかが顔を上げると、にこにこと無邪気に笑うくれあと視線が合う。裏表も無ければ警戒心もない、どこまでも純粋で汚れのない笑顔。 るるかは思わず見惚れていたが、やがて頬をわずかに赤らめながら視線を落とした。 その先にあるくれあの手はパティシエとして日々働いているとは思えないほど綺麗で、あと少し動けばるるかの膝に触れそうな場所に無造作に置かれていた。 「……くれあ……さん」 「どうしたんですか?」 「その……いつも、やってるの? こういうこと……」 「えっ?」 少し睨むような視線を向けるるるかに、くれあはきょとんとした表情を返す。 「……ああ、今日は店長が居ないからこっそり使ってるけど、普段はお客さんが入ったらダメなんですよ。ここ」 「違う……! そうじゃなくて……」 困り顔のくれあを今度はしっかりと睨みながら、るるかは少し言いにくそうに続けた。 「距離が、近い……です。さっきから」 「きょり……?」 「簡単に、体に触ったりとか。今も……ちょっと近過ぎ」 「え? ……あっ、ごめんなさい!」 くれあはるるかの視線がソファの座面に向けられていることに気付くと、慌てて少し離れた場所に座り直した。 「気付かなくて……その、触られたりするの、嫌でした?」 「あ、いえ……私は、嫌じゃないけど……」 ちょっと悲しげな表情で覗き込んでくるくれあから逃れるように、るるかは自分の膝に視線を落とした。 「……心配、です」 「え? 心配……? 何が?」 「……あなたが」 「……? どうして?」 るるかは一度ため息をつくと、再びきょとんとしているくれあの顔を真っ直ぐに見つめた。 その目にはどこか冷たい色が混じっていて、くれあは小さく息を呑む。 「……近付かれたり、触られたりすると、人は気を許してしまう。……勘違いしてしまう。自分も近付いていいと。……触れていいと」 「私は、人に触られるのも嫌いじゃないけど……」 「それが善良な人ならそうでしょうね。 でも悪意を持った人だったら?」 「えっ……」 「……あなたも知ってるでしょう。 平和そうに見えるこの街にだって、悪い人はたくさん居る」 そう言いながら、るるかは再び自分の膝に視線を落とした。 「……聞いたわ。怪盗が、来たんでしょう。このお店に」 「……!」 「人から大切なものを奪い取る、悪い人が……普通の客の顔をして。何度も来ていたんでしょう」 「…………」 「……そんな人達に、気を許しちゃダメ。……触れたらダメ。……わかるでしょ」 2人の間に、重苦しい沈黙が流れる。 窓の外からはまだ、激しい雨音が聞こえていた。 「……心配してくれてありがとう。るるなちゃん」 先に沈黙を破ったのは、くれあの方だった。 その声は透き通っていて、ひとかけらの怯えも、怒りもない。 「でも大丈夫よ。誰が良い人で、誰が悪い人なのか……私の心のきらめきが、それを知ってるから」 「……っ!」 るるかが思わず顔を上げると、彼女を見つめるくれあと目が合った。 るるかはほんの一瞬だけ、苦しそうに顔を歪めた。しかしすぐにそれを押し込めて、無表情を取り戻す。 そして今度はゆっくりと、嘲るように、その口角を吊り上げていった。 「……ふっ。ふふ……ふふふっ。くっくっ……」 「……るるなちゃん?」 「……ダメね。やっぱり全然わかってない。せっかく忠告してあげたのに……」 るるかは無防備に置かれたくれあの手に視線を落とすと、自分の手をその上に重ねた。 「えっ……」 「……そんなんじゃ、今に痛い目を見るわよ。……こんな風に」 るるかはくれあの片手を押さえたままにじり寄り、覆いかぶさるように膝の上へ乗り上がった。 空いた手でくれあの頬に触れ、きめ細やかな肌をゆっくりと撫でながら、その手を下へ下へと下ろしていく。 首筋を伝って鎖骨を撫で、さらにその下へ。るるかはニヤニヤと笑いながら、緩やかな丸みを帯びた体をじっくりと堪能するように、指を這わせていく。 やがてその細い腰に手を回すと、るるかはくれあの体を抱き寄せて、顔を彼女の耳に近付けた。 まだ幼さが残る柔らかい頬がこすれ合い、垂れた前髪から香る汗とシャンプーの交じった仄かな匂いが鼻をくすぐる。 「ほら……触られるのって、嫌でしょう?」 るるかはケープに包まれた肩がじっとりと汗ばんでいくのを感じながら、くれあの耳元でささやくように言った。 ──その時、天才と呼ばれた元名探偵はどのような結末を予想していたのだろう。 くれあに突き飛ばされ、恐怖と嫌悪の表情を向けられ、罵声を浴びせられる。雨の中、一人怪盗団のアジトへ逃げ帰っていく。 ……そして明日以降、くれあはもう少し慎重に人と接するようになる。 そんなところだろうか。 しかし、彼女が出した答えは── 「……嫌じゃないよ」 驚いたるるかが顔を離すと、くれあはソファに置いた自分の手に視線を向けていた。 その上には、るるかの手が重ねられている。 「私、どんなケーキを作るか考える時、こうやってお客さんの手に触れるの。そうして目を閉じると、その人のことを深く理解できて……心のきらめきを、感じられるような気がして」 「は……? な、何を……」 「……あなたの言う通り、この店には怪盗さんが来たわ。私その人に、名前も知らないのにって言われちゃった。……その時初めて、その人のことを全然知らなかったって、気がついたの」 「……っ!」 「だから……その時手を差し出してみたの。こうやって……手を重ねて欲しかったから。もっと、あの人のことを知りたくて……でも、触れてくれなかった」 るるかの手から、少しずつ力が抜けていく。 くれあは自由になった指を動かして、一本ずつるるかの指に絡めていった。 その手が、もう離れていかないように。 「……るるなちゃんが心配しなくても、きっとあの人はもう……この店には来ないわ。でも、私はもっと見たかったな。あの幸せそうにアイスを食べる横顔……」 「……や、め」 「もっと早く、名前を聞けば良かった。もっと触って、話せば良かった。もっとあの人のことを知りたかった。そう、後悔してるから……だから私は、もっと人と触れ合いたい」 「……やめてっ!!」 くれあが顔を上げると、ちょうどるるかと目が合った。 その両目からは、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちている。 それはくれあにとっても予想外の反応だったのか、彼女は少し焦った様子で声をかける。 「あ、ご、ごめんね……そんなに嫌だった?」 「違う! 違うの……!」 「え? わっ……」 るるかは首を横に振りながら、くれあの胸に顔を押し付けた。 片手をしっかりと握っていた2人は体重を支えきれず、ずるずるとソファに倒れ込む。 るるかはくれあの体に覆い被さり、ソファに押さえつけながら顔を上げた。 「私も……! 私もくれあに触れたかった! 私ももっと……!」 「え……!? どうしたのるる……」 るるなちゃん、と言いかけた口を、るるかの唇が塞ぐ。 しばらくの間、部屋に静寂が訪れた。 「……っ」 やがて2人の顔が離れると、くれあは目を見開いて呆然とるるかを見つめた。 咄嗟のことだったのか、るるかも少しぼんやりとした表情で彼女の顔を見下ろしている。 「くれあ……私……」 るるかが何か言おうとしたちょうどその時、お団子にまとめていた彼女の髪が解け、顔の横に垂れ下がった。 その毛先から落ちた小さなヘアゴムが、ソファの上で光の粒子となって消えていく。 「えっ……? あ、まさか……!」 るるかが慌てて体を見渡すと、彼女の着ている服は所々が光に覆われはじめていた。スカートの一部は変形し、徐々に元の丈に戻ってきている。 思わず指先で触れた唇には、さっきまで薄い黒色のグロスが塗られていた。……今はどれだけ残っているのだろう? 彼女の正体を隠す妖精の魔法は──皮肉にもおとぎ話のセオリー通り──王子様のキスで、今にも消えかかっていた。 「る、るるなちゃん……?」 「……っ!」 るるかは消えていくヘアゴムと混乱しているくれあの顔を交互に見て、少しの間逡巡した。 幸い肩に掛けられたケープのおかげで、変身が解けかかっている衣服はまだ彼女に見られていない。 ……さすがに今正体を明かすわけにはいかないという理性が勝ち、るるかはソファの上で身を起こした。 「……私、もう行かないと……」 「え? ちょ、ちょっと待って……!」 「……ごめんなさい」 るるかはくれあの手を振りほどくと、素早くケープを脱ぎ捨てた。 ひらりと宙を舞うケープがくれあの視界を覆い隠し、るるかはその隙に店の外へ向かって駆け出していく。 くれあがケープを受け止めて立ち上がった時には、既にるるかの姿は店内の何処にもなかった。 店の扉は開け放たれており、扉がきいきいと音を立てて揺れている。 「るるなちゃん!!」 くれあは諦めきれずに店の外へ出て周囲を見回したが、やはり彼女の姿はどこにも見つけることはできなかった。 雨はいつの間にかすっかり止んでいて、雲の切れ間から光が差し込んでいる。 「…………」 くれあは光の中で立ち尽くしながら、中指の先で下唇を軽く拭った。 指先にはグロスの油分とラメの粒子がわずかに残り、鼻に近付けると──どこか懐かしい香りがした。 しかしそれはあまりにも微かで、遠い記憶を呼び起こすほどの力は、もう残っていない。 彼女はふと思い立ち、その中指を口に含んでみた。 ……ラズベリーの甘酸っぱい味がほのかに口の中に広がり、すぐに消えていく。 「……ふふ。もう……はじめてだったのになぁ」 くれあは紅潮した頬を緩ませながら振り返ると、独り言ちながら店へと戻っていった。 「……たぶん、だけど」 ──── パティスリーチュチュからだいぶ離れたところで、るるかは息を整えながら立ち止まった。 彼女は来た道を振り返ったが、もう看板の影さえ視界には映らない。 それでも、るるかはパティスリーがある方をじっと見つめたまま、しばらくその場に留まっていた。 「…………」 走りながら何度か噛んだ唇には、すでにグロスは残っていない。 彼女の姿はいつも通りの、黒い服に身を包んだ銀髪の少女──森亜るるかに戻っていた。 るるかは前を向きながら、下唇を舐めてみた。 汗の塩味と、かすかな鉄の味が口の中に広がる。 彼女は皮肉めいた笑みを浮かべて、小さな声で呟いた。 「……ダサいわね」 やがてその笑みも消え、るるかは再びいつもの無表情へと戻る。 そうして、るるかは雑踏の中へ溶け込むように消えていった。 その行先は、きっと誰もその場所を知らない──あの古びた劇場なのだろう。 彼女が本当に帰るべき場所を見つけるのは、まだ先の話だった。 ──── 「マ〜シュマシュマシュマシュ……マシュ〜〜!!」 呪文らしき謎の言葉を高らかに唱えながら、マシュタンは水晶玉の前で体を大きく仰け反らせた。 その対面にはるるかが座り込み、いつも通りのポーカーフェイスで占いの結果を待ちわびている。 「見えたわっ!! ……次は学校で何かが起こるみたいね!」 「おお〜……」 内容に興味があるのかないのか、その表情から彼女の考えを読み取るのは難しい。 しかしそのどこか楽しげな声色を聞いて、マシュタンは少し安心したように目を細めた。 「どうする? るるか。私たちも行ってみる?」 「うーん……その時の状況次第かな。……ところで、マシュタン」 「なぁに?」 「それ……どうしたの?」 るるかはマシュタンの頭、正確にはその上に載せられた帽子を指さして言った。 それはいつものとんがり帽子ではなく、なぜか──彼女の雰囲気にはどう見てもそぐわない──小さな麦わら帽子だった。 「ああ……これ? ……ダッサい人からのプレゼントよ」 「……そうなんだ。珍しいね」 やれやれと肩をすくめるマシュタンを見て、るるかはかすかに微笑みながら言葉を続ける。 「……でも、可愛い」 「あらそう? ま……たまにはこういうのも、ね」 麦わら帽子のささくれだったつばを指でなぞりながら、マシュタンは嬉しいのかそうでもないのか何ともいえない──曖昧な笑みを返したのだった。 終わり