ジャンク祓い 御影こはく 第一話「留守番ラジオ」 鍛治 みちる 自販機の前は、店の中より涼しい。 冷やしているのが中身だけじゃないからだ。二十年落ちのこいつは、庫内から抜いた熱をまるごと背中から吐く。吐かれた熱がブロック塀を炙って上へ逃げ、逃げた分だけ路地の風が下から引っぱられてくる。つまりここには機械が勝手に作った風が吹いている。ただで。だから昼寝に向いている。 三日前に届いた依頼のメールを、あたしはまだ開けていない。開けたら仕事になる。仕事になったら暑いところへ行くことになる。だから開けない。怠慢ではなく季節の問題だ。 「あの」 声がしたので片目だけ開けた。 制服。中学生。汗を吸った襟。両手で提げたスクールバッグ。息を吸って、止めて、それから押し出すみたいに言った。 「ジャンク使いさん、ですよね」 「祓いです」あたしは缶をコンクリに置いた。「祓う方。使ってません。一回も」 「……あ、すみません」 「いいよ。みんな言う」 日陰から出るのが面倒だったので、しゃがんだまま見上げた。相手はあたしより背が高い。手が大きい。指の関節がまだ骨っぽく、これから伸びるほうの手だ。 「どこで聞いた?」 「駅の、掲示板に貼り紙が」 貼った覚えはある。三年前だ。まだ剥がれていないらしい。協会に入っていれば仕事は向こうから回ってくるそうだけれど、あたしは入っていない。入っていないので、色の抜けた貼り紙が入口になる。 「うちの、ラジオが」少女は言った。「鳴るんです」 「壊れてる?」 「鳴らないんじゃなくて、鳴るんです。夜、勝手に」 「放送?」 「違います」そこで声が少し落ちた。「放送じゃない音が」 「どんな」 「雨戸の音とか。やかんが鳴る音とか。……犬の声も」少女は自分の言っていることを自分で疑うような顔をした。「うち、犬いないんですけど」 「おじいさんち、いた?」 顔が上がった。喉が動いて、それから、はい、と小さく返ってきた。 「増えてる?」 「増えてます」即答だった。「最初は雨戸だけでした。三日前から、廊下を歩く音が入るようになって」 あたしは缶を拾って、残りを揺らした。廊下、というのが気に入らない。順番として気に入らない。雨戸は家の外側で、やかんは台所で、廊下は家の中を移動する音だ。外から内へ、点から線へ、順番に増えている。そういう増え方をするやつは、こっちの都合を待ってくれない。 「お母さんには言った?」 「言いました」少女がバッグの持ち手を握り直す。「疲れてるんでしょう、って」 「信じてもらえなかったか」 「……信じるとか信じないの前だと思います」少しだけ考えてから、言い直した。「たぶん、最後まで聞いてもらえてないんです」 そっちのほうが厄介なんだよ、とは言わなかった。言っても仕事が増えるだけだ。 「見積出すよ」あたしは指を折った。「基本料が二万。出張費は距離で変わる。部品代は実費。三級で収まれば締めて六万くらい」 「六万」 固まった顔を見て、あたしは缶を置き直した。中学生から六万取る商売はしていない。取れないだけだけれど。 「おじいさん、工具持ってた?」 「……はい。作業台の下に、箱が」 「じゃあ、それ一つでいい。中身を見て、あたしが選ぶ」 「一つって、道具一個ですか」 「一個。ただしあたしが選ぶ。いいものが入ってたらそれで釣りが出る。しょうもなかったら、まあ、そのときはそのときで」 少女は変な顔をした。それから、たぶん今日はじめて、まっすぐこっちを見た。 「鹿島みおです。二年です」 「御影こはく。祓いのほう」 立ち上がって、つなぎの尻をはたいた。膝の裏に自販機の熱が残っている。 「難儀だねえ」 「え?」 「機械の話。あいつら律儀すぎるんだよ」あたしは親指で自販機を示した。「こいつだって頼まれてもないのに毎日この路地を涼しくしてる。誰も礼を言わないのに、やめない。あんたのラジオもたぶん、頼まれた仕事を律儀にやってる」 「頼んでません、わたし」 「そう思ってるだけかもよ」 みおは眉を寄せた。分からない、という顔を隠さないのは、この年ではむしろ珍しい。分かったふりを覚えるのは、たいてい家の中でだ。この子はまだ覚えていないか、覚える相手がいない。 「その音、おじいさんちの音でしょ」 「はい」 「じゃあそれ、建ててる」 「……建てる?」 「家を」 * 鹿島家は駅から自転車で十分の建売だった。母親は介護施設の夜勤で、帰りは明け方になるという。玄関の照明が新しくて明るい。階段の手すりも新しい。二階の子ども部屋の前まで来て、あたしは足を止めた。 ドアの下から匂いが出ていた。 「分かる?」 「……えっと、なんか」 「畳と、油と、埃。それから線香」 「線香、うちにないです」 「そうだろうね」 ドアを開けた。六畳。ベッド、勉強机、カラーボックス。壁紙は白のはずだった。 白のはずのところに木目が浮いている。天井の四隅から染みがゆっくり降りてきて、途中で梁の形に固まりかけている。蛍光灯はついているのに光の色がぬるい。裸電球の色だ。空気が重い。夏の夜なのに、この部屋だけ湿った秋の匂いをしている。侵食というのはいつもこうやって、悲鳴も物音も立てずに、内側から静かに置き換わっていく。 机の上にそれはあった。 木のキャビネットに入ったラジオだ。前面は布張り。金色のダイヤル。摘みが二つ。角が丸くなるまで撫でられて、そこだけ木の色が濃い。 「おじいさんの?」 「作ったって言ってました。中身は買ってきたやつだけど、箱は自分で」 「もらったの、いつ」 「お葬式の次の日です。おじいちゃんちを片づけてるときに、お母さんが、これ持っていきなさいって」 手が止まりかけた。止めずに、そのまま聴診子をポケットから出す。母親が渡している。そういう家はたまにある。渡すほうも渡されるほうも、それが何なのか分かっていない。 イヤホンを耳に入れた。素子を側板に当てる。 雨戸だった。 がらがら、と横に走る音。滑りの悪いところで一度つっかえて、それから最後まで走り切る。次に来たのはやかん。沸いてしばらく放っておかれた、蒸気の抜けきった鳴り方。犬。座敷から縁側へ出ていく爪の音。どこかでラジオ体操のピアノ。それから、廊下。 誰かが廊下を歩いている。 素子を離した。イヤホンを外しても、耳の奥に足音の間隔だけが残っている。歩幅が短い。年寄りの歩き方だ。 「おじいちゃんですか」 みおの言い方は慎重だった。期待と、その期待を人前に出す恥ずかしさが半分ずつ入っている。 「たぶんね」あたしは正直に答えた。「こういうのはたいてい、いなくなった人の側から始まる。長く手が乗ってた機械は、その手の形を覚えてるから」 「じゃあ、おじいちゃん、まだ」 「覚えてるのと、いるのは別」 言いながら、あたしもその線で読んでいた。読んでいたから、あとで足元をすくわれた。 「級を測る」 「級?」 「大きさ。三級なら家電が一台で騒いでるだけ。二級で周りを巻き込む。一級は――」 言いながら、回路計に似た箱を出して、赤と黒の測定棒をキャビネットの上下に当てた。針が動く。二の目盛りを越えて、そこで止まると思ったのに、止まらない。じり、と上がっていく。 測っている最中に上がるやつを見るのは久しぶりだった。 「手順を言うよ」あたしは針から目を離さずに言った。「留を探す。緩める。出し切らせる。締め直す。それだけ」 「とめ?」 「留。溜まったものを縛ってる結び目。機械の中で一番古い接点にたいていある」工具袋から六寸を出した。「これで緩める」 みおが目を丸くしたのは、それが手のひらに収まる大きさだったからだ。あたしは柄を握って下に振った。節が三つ、順に噛んで鳴る。六十センチ強の片口レンチになる。伸ばすと重心が先へ寄るので、畳んでいるときの倍は重く感じる。手首で持つ道具じゃない。 「先に言っとくけど、これで殴るのは正しい使い方じゃない。節が歪んだら畳めなくなる。畳めないレンチはただの棒」 「殴ることあるんですか」 「あるから言ってる」 ラジオを両手で回して、裏板をこちらへ向けた。四隅の木ネジを確認する。プラス、四本。頭は一度も潰れていない。丁寧な人の仕事だ。 右下に鉛筆の字があった。 あたしは一度だけそれを見て、指を離した。 「みおちゃん」 「はい」 「この部屋、あと二晩でおじいさんちになる」 みおは壁を見た。木目はさっきより増えている。天井の梁は、もう形が決まりかけている。 「なったら、どうなるんですか」 「あんたが留守番になる」 「……留守番」 「家には留守番が要るから、中にいた人間が使われる。出られなくなるって意味。本人は気づかない。ずっと誰かの帰りを待ってる」 「わたし、待ってました」 「え」 「毎晩。……あ、違う。そういう意味じゃなくて」みおは言い直そうとして、うまくいかなかったらしく、途中でやめた。 あたしは針を見た。目盛りが一つ上がっていた。 みおが黙った。息を吸って、止めた。それから、まだ言葉にならないという顔のまま、こっちを見た。 「今からやるよ」 「今からですか。お母さん、まだ帰って」 「明日じゃ遅い」あたしは袖をまくった。「留守番の口が、もう開いてる」 * 木ネジは古いと頭が舐める。ドライバーを垂直に立てて、回すより先に押す。押す力が七で、回す力が三。一本目、二本目、三本目。四本目だけ少し粘って、それから抜けた。 裏板を外すと中身が見えた。基板は買ってきたキットの類で、配線は素人の仕事だ。半田は多い。多いけれど、いもにはなっていない。線の束ね方に癖があって、同じ癖の人間が何年か置きに何度も手を入れているのが分かる。断線したところを継いだ跡が三箇所。継ぎ方が三回とも違う。三回とも、その時どきで一番いいと思う方法でやっている。 「留は、たいてい一番古いところにある」 指で辿った。アース端子の締めネジで止まる。頭の溝だけ白い。何度も回された跡だ。 聴診子をもう一度当てて、六寸の口をネジに合わせる。手首だけで力を入れる。 「緩めるよ」 四分の一回転。 耳の中で雨戸が止まった。 代わりに入ってきたのは、女の子の声だった。 「――おじいちゃん、今日ね」 あたしは手を止めた。声が続く。重なる。同じ声が何十も、何百も、層になって同時に鳴っている。夏の声、秋の声、風邪をひいている声。だんだん低くなっていく声。 探していたのは年寄りの声だった。歩幅の短い足音の主が、層のどこかで何か言っているはずだと思っていた。聞こえない。上から順に剥がしても、下から順に掘っても、いない。 「これ、あんたの声」 みおの顔が、ゆっくり白くなった。 「……独り言のつもりでした」 「毎晩?」 「……毎晩です」 「半年」 みおは答えなかった。答えないことが答えだった。 「機械はね、捨てないんだよ」あたしは言った。「受け取ったら溜める。ラジオは聞く機械だから、聞いた分だけ溜まる。半年ぶん、全部ここにある」 「じゃあ」みおの声が細くなった。「じゃあ、わたしのせいですか」 針が振り切れた。 壁紙が消えた。土壁。天井が下がる。梁。足の下が固くなって、次に柔らかくなる。畳。カラーボックスの角が溶けて、そこに柱が立つ。座敷。廊下。奥に玄関。 音がひとつ増えた。ガラス戸を引く音。 みおが動いた。玄関のほうへ。何もない板張りの上でしゃがんで、靴に手をかけた。履いていない靴に。 「脱ぐな!」 襟をつかんで引き戻す。軽い。中学生ってこんなに軽かったかと思っているうちに、二人でカラーボックスの残骸みたいなものにぶつかった。 みおの目は、あたしを見ていなかった。玄関を見ている。何もない板張りの、床より少し高いところを。上がり框の高さが分かる目だ。もう見えている。 指を鳴らした。二回。みおのまばたきが戻った。 「みおちゃん、聞いて。あんたのせいじゃない」 「だって、わたしが」 「話を溜めた機械が悪いわけでもない。誰も悪くない。悪意なんてどこにも入ってない」 規格票を出して正面に貼った。〈使用停止〉。貼った端から浮いて、糊が乾いていく。効きが薄い。持ち場の書き換えが通らないほど、こいつは自分の仕事を信じている。 二枚目を貼る。〈点検中〉。こっちは端が持った。音が数秒だけ薄くなって、それから戻る。 番線を出した。スピーカーとキャビネットをまとめて縛る。番線の役目は止めることじゃない。動ける範囲を切ることだ。締める。締めた先から線が伸びる。締め直す。手応えが返ってこない。 畳が広がった。座敷が奥へ伸びる。伸びた分だけ玄関が近づいてくる。 柱が伸びた。梁が下りてくる。土壁が両側から寄って、部屋が廊下になろうとする。 六寸を伸ばした。節が三つ、順に噛む。 柱を殴った。 振り抜いた先にあったのは木じゃない。手に返ってきたのは木の鈍さではなく、金属の芯だ。展開していても実体はここにある。あたしが殴っていたのはラジオの側板だった。 音が跳ねた。跳ねた拍子に、耳の中の層がほどけた。 「――おじいちゃん、聞いてる?」 聞いてる? 聞いてる? ねえ、聞いてる? 半年間、いちばん多く言われた一文が、他の全部を押しのけて浮かび上がった。 あたしは六寸を下ろした。 「こいつ、襲ってない」 「え」 「返事しようとしてる」 みおが顔を上げた。土壁の色がその頬に映っている。 「聞いてる? って半年言われて、こいつは全部聞いてた。でも答えられない。ラジオは音を出す機械だけど、自分の言葉は持ってない」あたしは伸びかけの柱を見た。梁を見た。畳を見た。「だから、答えてくれる場所を作ろうとしてる。おじいさんが返事してくれる場所を」 みおの口が動いた。声にはならなかった。 「押さえるの、やめる」 「え」 「全部、出させる」 「出したら、どうなるんですか」 「うるさくなる」 番線を切った。規格票を剥がした。留に六寸を当て直して、さらに半回転緩める。 そのとき、階下で鍵の回る音がした。 * 階段を上がってくる足音は速かった。名前を呼んでいる。みお、と一度、それからもう一度。 ドアが開いた。 そこに立った人は、部屋を見た。見てから、そのまま動かなくなった。 四十代。介護施設の制服の上にカーディガン。髪は結んだところがほつれている。この人が白い壁紙の部屋を期待してドアを開けたことは、ノブにかかったままの手の位置で分かった。 ラジオが鳴りはじめた。 最初は小さく、それから普通の音量になって、そこで止まった。壊れたやかんみたいに際限なく大きくなるものだと思っていたので、あたしは少し拍子抜けした。夜だから夜の音量で鳴っている。こいつは本当に律儀だ。 「おじいちゃん、今日ね、テストだった。四十八点」 「おじいちゃん、雨。傘、忘れた」 「おじいちゃん、お母さん今日も遅い」 「おじいちゃん、ごめん、昨日ちょっと寝ちゃった」 「おじいちゃん、あのね」 みおの声だった。半年分が、順番に、こぼれるでもなく溢れるでもなく、ただ律儀に一本ずつ出てくる。夏に録られた声から始まって、少しずつ日が短くなっていく。冬の声は鼻が詰まっている。春の声には、ときどき長い沈黙が挟まる。 「聞いてる?」 「ねえ、聞いてる?」 「おじいちゃん、聞いてる?」 みおの母親がドアの枠に手をついた。それから膝を折って、その場にしゃがみこんだ。制服のスカートが埃をかぶるのも構わずに。 「みお」 「……ごめん」 「なんで謝るの」 そこで声が途切れた。母親のほうが先に途切れた。 そのあいだに、ひとつだけ古い音が混ざった。 「おい、綾子」 低い声だった。呼んだだけの声で、続きはない。用があって娘の名前を呼んで、それきりの声だ。台所で何かが煮えている音といっしょに、三十年か四十年か前から、この箱の底のほうに沈んでいた。 未練じゃない。ただ古いだけの音だ。それはあたしが保証する。この仕事をしていれば、思いの残った音と、ただ残った音の区別くらいはつく。 それでも、その人は口を押さえた。 みおが息を吸った。 止めた。 止めずに、そのまま言った。 「わたし、毎晩、おじいちゃんに話してた」 「……うん」 「お母さんには言えないことばっかり」 「……うん」 「聞いてほしかった」 綾子さんは何も言わなかった。何も言わずに、最後まで聞いた。途中で分かったことにしない。あたしが見たかぎり、それはたぶん半年ぶりだった。 「……あのラジオ」しばらくして、綾子さんが言った。「持たせたの、わたしなの」 「知ってる」 「なんで持たせたのか、自分でもよく分からなかった。ただ、うちに置いておくのが」 そこで言葉が切れた。切れたところは埋まらなかった。埋めないままにしておくのが、たぶんこの人にできる精一杯だ。 音が尽きた。 土壁が薄くなる。梁が上がっていく。柱が細くなって、最後にカラーボックスの角に戻る。壁紙が白に戻るとき、木目は消えるのではなくて、白の下に沈んでいくように見えた。 全部抜くのは、たぶんできる。やったことはないけれど、やり方の見当はつく。ただ、抜いたあとに残るのはラジオじゃない。ラジオの形をした箱だ。 あたしは六寸をネジに当てて、留を締めた。 締めすぎない。手に当たりが出たところから半回転戻す。締め切ると、次に緩めるときにネジ山を殺す。この機械は、たぶんまた誰かが開ける。 裏板を合わせて、木ネジを対角に二本だけ仮止めした。本締めは最後にする。木の箱は鳴っているあいだ膨らむから、冷めてから締めたほうが長持ちする。 ラジオが鳴った。深夜放送だった。交通情報を読む声の後ろで、ときどき砂みたいなノイズが混ざる。 「時々混ざるよ」あたしは言った。「全部は抜けない。それは寿命まで付き合ってあげて」 綾子さんが顔を上げた。何か言おうとして、言葉を探して、見つからなかったらしく、代わりに頭を下げた。 「請求書は送ります」あたしは言った。「工賃は現物でもらう約束なので、金額はゼロです。書類だけ出します。うちも一応、記録は残すので」 「……そういうものなんですか」 「そういうものです」 * 作業台の下から出てきたのは木の道具箱だった。蓋を開けると油の匂いがした。 中身を並べてもらった。ドライバーが六本。ペンチ。ラジオペンチ。ニッパー。半田ごてが二本。スパナが何本か。どれも柄が汚れているのに、刃も口も傷んでいない。使う前に拭いて、使ったあとも拭く人の箱だ。 みおが一本ずつ持ち上げては、これは何、と聞いた。あたしは全部答えた。答えながら、この子は明日には忘れるだろうと思った。忘れていい。道具の名前を覚えることと、それが誰のものだったかを覚えていることは、別の話だ。 あたしが選んだのは両口スパナの十三と十四だった。柄の真ん中が痩せている。持つところだけ細くなるまで使い込まれた工具は、持ち主の指の形をそのまま残す。 「それでいいんですか」 「いい。釣りが出るくらい」 みおはそれを渡すとき、両手で持った。 帰る前に、もう一度だけ裏板を見た。 右下。鉛筆。 〈みかげ電機〉 その下に日付。三十年前の六月。 あたしは裏板を押さえて、木ネジを四本、本締めした。押す力が七で、回す力が三。 外に出ると、風が生ぬるかった。六寸を畳む。節が三つ、順に落ちる。引っかかりはない。今日は歪まなかった。 「ジャンク使いさん!」 門のところで振り返ると、みおが立っていた。玄関の明かりを背負っているので、顔はよく見えない。 「祓いです」 「……ありがとうございました」 「どういたしまして」 自転車を押して坂を降りた。二階の窓の明かりは、まだ消えていなかった。あの家では、たぶんこれから面倒な話が始まる。半年ぶんの話は半年では終わらないし、あの母親が明日から人の話を最後まで聞くようになるとも思わない。 それはあたしの仕事じゃない。あたしの仕事は、留を緩めて、出し切らせて、締め直すところまでだ。 もらったスパナを胸のポケットに入れると、歩くたびに肋骨の上で鳴った。十三と十四。使い道はいくらでもある。 三日寝かせたメールは、まだ開けていない。 次のは、もう少し早く開けようと思う。 思うだけは、した。 (了) ──────── 本文 約7,988字