1999年、まことみらい市。 一見平和なこの街では、4月頃からある風変わりな事件が急増していた。 罪状はすべて窃盗のみ、傷害事件は一つもない。 ただしその手段は様々で、空き巣、置き引き、強盗と幅広い。 目撃された犯人像も一定せず、大柄な男のこともあれば小柄な少女のこともあり、知人そっくりに化けていたなんて証言もちらほらある。 そんなとても同一犯とは思えない窃盗事件が関連付けられるようになったのは、ある特異な共通点が原因だった。 それは、盗まれる物品に金銭的な価値があまり無いケースが多いこと。 使い古した装飾品や道具、子供のおもちゃやぬいぐるみ……特殊な例では持ち込み前の漫画原稿など。 どれも持ち主にとっては大事な品だが、高価とは言えないものがほとんどだ。 しかもこれらの盗品はいつの間にか被害者の元へ返されている場合が多く、犯人の目的が換金でないことは明らかだった。 このなんとも奇妙な一連の事件は、連日テレビのニュース番組で取り上げられ、多くの人々の注目を集めた。 目的のわからない不気味な事件として恐れる者も居れば、人を傷付けず鮮やかな手口で盗み出す様を好意的に捉える者も居る。 いずれにしても、彼らが世紀末に訪れるとされた恐怖の大王と双璧をなす、噂の中心であったことに異論はないだろう。 人々は彼らをこう呼んだ── ──怪盗団ファントム、と。 ──── この世の何処かにある、古びた劇場。 誰もその正確な場所を知らず、招かれざる者は見つけることさえままならない、謎に満ちた建物。 中に客の姿は一人も見えないが、無人の舞台は日夜を問わず煌々と明かりに照らされている── ──世間を騒がす怪盗団のアジトは、そんな場所だった。 「……時間だ」 低く、重く、それでいてよく通る声が劇場内に響き渡る。 同時に奥のボックス席がスポットライトで照らされ、鎧を纏った異形の人影が光の中に浮び上がった。 彼の首から上は帽子と仮面で覆われ、正体は徹底的に包み隠されている。 しかしその威容が発する重厚な雰囲気は、彼こそがこの場所の主であることを明確に示していた。 その名はウソノワール。 怪盗団ファントムの首領である。 「……ニジー」 「はっ!」 彼が手下の名を呼ぶと、今度は舞台が照らし出される。 いつの間にかその中心に立っていた長髪の青年は、客席に向けて深々と頭を垂れた。 「……ご覧くださいウソノワール様。このニジーが集めてきたマコトジュエルを!」 ニジーが大仰な動作でマントを翻すと、その向こうから一脚のテーブルが忽然と現れる。 彼は続けて天板の上に手をかざし、手品師のように優雅に動かして見せた。 すると先ほどまで何もなかったテーブルの上に、小さな花のような形をした色とりどりの宝石が姿を現す。 「おお……!」 思わず感嘆の声を漏らしたボスの様子を見て、ニジーは得意げにほくそ笑む。 「どうですか、この──」 「はいはーい! 次はアタシっしょー!」 彼が何か言おうとした時、突然甲高い声が舞台上に響き渡った。 背後の暗闇からぴょんぴょんとスキップしながら現れたのは、ハイビスカスの髪飾りとサングラスを頭に着けた明るい雰囲気の少女。 「……アゲセーヌ。首尾はどうだ」 「ちょーたいりょー! イェーーイ!!」 「あっ、ちょっと待っ……」 アゲセーヌは握っていた両手をテーブルの上で広げ、手のなかのマコトジュエルを景気よくばら撒いた。 それを見たニジーは口をあんぐりと開けて硬直する。 「すごいっしょ!? ぶちアゲっしょ!?」 「あ……あ……」 「おうおう、やるなぁおめぇら! 俺も負けてらんないぜぇ!!」 続いて舞台に上がったのは、歌舞伎役者のような風体の大男。 「……ゴウエモン」 「ウソノワール様! お望み通り持ってきましたぜぇ、マコトジュエル!」 彼は懐からがまぐちをひとつ取り出すと、テーブルの上で口を開け、ひっくり返して上下に振った。 中に収められていたマコトジュエルが天板の上にばら撒かれ、ころころと転がる。 「いや〜沢山集まったもんだなぁ! はっはっは!」 「……バカなのかい!? 全部混ぜたら誰がいくつ集めてきたのかわからなくなるだろベイビーッ!!」 「「……あ」」 憤慨するニジーに対し、アゲセーヌとゴウエモンは能天気に顔を見合わせる。 「……そういやそうだな。まぁ、たぶん俺のが一番多いだろ!」 「はーぁ!? アタシが一番に決まってるっしょ!?」 「はぁ……とりあえず自己申告でも良いか。何個集めてきたんだい?」 「ん?……ん〜……覚えてねえな!」 「アタシも忘れちったー!」 「……バカでしょ?」 呆れ返ったニジーのひと言を皮切りに、三人の怪盗は舞台上でキャンキャンと言い争いを始める。 ……すると、客席からくすくすという笑い声が響いてきた。 「あらあら、手柄を巡って仲間割れ? 相変わらずねぇあなた達」 三人が声の方を振り返ると、その先にスポットライトが当てられる。 光の中に浮び上がったのは、淡い色の髪を持つ美しい少女。 その胸に抱かれた紫色のぬいぐるみのような妖精──マシュタンは、くすくすと嘲笑を続けている。 「……アルカナシャドウ。お前の成果も見せてみろ」 ウソノワールの重厚な声が響き、舞台の三人は唾を飲み込んで静まり返る。 そんな彼らをよそに、怪盗キュアアルカナシャドウ──森亜るるかは、席を立ってゆっくりと舞台に上がっていった。 彼女は手に持っていた紫色のポーチの蓋を開け、テーブルの上でおもむろに傾ける。 「……!!」 ポーチからじゃらじゃらとこぼれ落ちる光の滝に、三人は思わず息を呑む。 るるかが手を下ろした時には、テーブルの上に築き上げられた宝石の山は先ほどの倍以上の大きさになっていた。 「うわマジ……?」 「す、すげぇ……」 「……チッ」 驚嘆するアゲセーヌとゴウエモン、不愉快そうに顔を歪めるニジー。 そんな彼らには興味がないとばかりに、るるかは振り返ってウソノワールへ視線を向けた。 仮面を挟んで、ふたつの鋭い視線が交錯する。 わずかな静寂の後、ウソノワールは鷹揚に両手を持ち上げると、力強い拍手の音を劇場に響かせた。 「……よくやった、アルカナシャドウ」 「…………」 「ありがたきお言葉ですわ、ウソノワール様」 無言を貫くるるかに代わり、マシュタンはぺこりと頭を下げてみせる。 「約束だ。……褒美をやろう」 ウソノワールは彼女達に向かって右手を差し出すと、軽く握り、すぐに開いた。 するとその手のひらの上に、青いハートを象った宝石が現れる。 その瞬間、無表情だったるるかの目が見開かれ、口元が険しく歪む。 「っ!!」 「……ウソノワール様! それはっ……!」 焦った様子で口を開いたニジーを遮るように、低く重い声が響き渡る。 「アルカナシャドウ。これを砕くことがお前の目的……そう言ったな」 「……!?」 ニジーは意外そうな顔でるるかに視線を向ける。 彼女は辛うじて無表情を取り戻すと、ゆっくり首を縦に振った。 「……ええ。それさえできれば、後は何も要らない」 「……良いだろう。受け取れ」 ウソノワールがそう言うと、手のひらの上に乗っていた宝石が矢のような速さでるるかの方へ飛んでいく。 彼女は瞬きひとつせずにそれを空中で掴み取り、ゆっくりと手を開いて確認した。 「……! ぁ……」 その青いきらめきを間近で見た途端、るるかの喉から小さな声が漏れる。 無表情の仮面は跡形もなく崩れ、わなわなと震える口で独り言のように呟く。 「間違い……ない……これで……やっと……」 「……るるか。もう行きましょう」 マシュタンはそんな彼女の顔を隠すようにふわりと宙に浮かび上がり、そっと肩に手を置いた。 るるかは両手で握り締めた宝石を胸に抱き寄せ、こくりと頷く。 ふたりは舞台袖に向かって静かに歩きだした。 「……それじゃ、さようなら。もう会うことも無いでしょう」 「えっ、辞めちまうのかよ……?」 振り返りもせずに告げられた別れに、ゴウエモンは思わず残念そうな声をあげる。 それに応えるように、ウソノワールは普段よりもやや小さな声で言った。 「……構わん。十分働いてくれた」 ゴウエモンはそれを聞くとテーブルの上にちらりと目をやり、納得した様子で微笑んだ。 「そっか……まあ、達者でな」 「…………」 アゲセーヌはべーっと舌を出し、ゴウエモンは笑顔で手を振り、ニジーは無言で睨みつける。 三者三様の別れを背に、アルカナシャドウとそのおとも妖精は舞台袖へと消えていった。 ……ふたりが去ってからしばらくして、ウソノワールは厳かに口を開いた。 「……ニジー」 「は。……わかっています」 ──── 「……やけにあっさりしてたわねぇ。よっぽどご機嫌だったのかしら」 るるかの腕に抱かれたマシュタンは、声を潜めてそう言った。 ふたりは妖精たちの領域からまことみらい市へと戻り、人通りの疎らな平日の街中を歩いていた。 マシュタンはいつものように、微動だにせずぬいぐるみのふりをしている。 るるかも周囲に気取られないよう、小さな声で彼女に答えた。 「そうね。……でも、監視はついているはず」 目線だけを動かし、周囲を窺う。 特に怪しい人影は見当たらないが、変装を得意とする怪盗ならば往来に紛れるなど容易いだろう。 「ま、全部信じてくれるわけないわよねぇ」 「手を出してきたりはしないと思う。本当にジュエルを砕くのか見届けたいんでしょう」 「たぶんニジーかしら? ……なら節度はわきまえてそうだし、あんまり気にしてもしかたないわね」 「うん……まずは、住むところを探さないと」 歩きながら、るるかは道の先に見えてきたとある建物にちらりと目を向けた。 2階建てで庭園付きの洒落た家だが、今は使われている気配がない。 少し前までは咲いていた花壇の花も、すべて撤去されているようだ。 「……あそこはやめといたほうが良いわよぉ」 「……わかってる」 視線を戻し、ふたりは空き家の前を通り過ぎて行く。 るるかの表情は特に変わらなかったが、マシュタンを抱く腕にはいつもより少しだけ力が入っていた。 それを察したのか、マシュタンはやや明るいトーンで声をかける。 「……るるか、色々あって疲れたんじゃない? アイスでも食べていきましょうよ」 「え? でも……」 「ちょっとくらい休んだって良いじゃないの。……もうお仕事は終わったんだから」 「…………」 るるかは逡巡していたが、やがて小さく肯いた。 ……行きよりもずいぶん軽くなった、紫のポーチに目を向けながら。 「……そう、ね。もう……終わったんだ」 ───── 「いらっしゃいませ。……あら」 パティスリーチュチュの扉を開けると、蝶の髪飾りを着けた店員が挨拶をしながら振り返る。 彼女はるるかに気が付くと嬉しそうににっこりと笑い、軽く頭を下げた。 「いつもありがとうございます♪」 「……別に。美味しいから来ているだけ」 よくわからない言い訳を、店員は可笑しそうに笑って聞き流す。 「今日は何にしますか?」 「チョコミントとラズベリー」 「かしこまりました! ちょっと待っててくださいね」 お互いに慣れた様子で注文を済ませ、るるかはテイクアウトを待つためにレジの脇へ移動した。 するとそこに、奥から顔を出した店長が声をかけてくる。 「やあ、いらっしゃい。そうだ、たまには店の中で食べて行きませんか? なかなか乙なものですよ」 「え……?」 意外な提案に少し驚くるるかを、店員は期待を込めた眼差しで見つめる。 るるかはそれを横目で見ながら、申し出を断ろうと口を開き── ──ふと、何かに気が付いたように硬直する。 「……そっか。もう、良いんだ……」 ぽつりと呟いた小さな声は、誰の耳にも届かずに消えていく。 きょとんとした顔の店長に、るるかは改めて答えを返した。 「……そうね。今日はお店のなかでいただいてくわ」 それを聞いて、ふたりの顔がぱっと明るくなる。 「こちらにどうぞ! すぐにご用意しますね!」 やけに嬉しそうな店員に連れられて、るるかは奥のテーブルに腰掛けた。 店員が厨房の方へ消えていくと、入れ替わりに店長が出て来る。 彼はテーブルに小さな座布団を敷くと、にっこりと笑って言った。 「良かったら、その子の席として使ってください」 「……ありがとう」 座布団の上に座らされたマシュタンは、対面するるるかを見て嬉しそうに目を細める。 彼女はその視線から逃れるように、少しうつむいて店員を待つ。 数分後、店員はアイスが載せられた小さな皿を持って帰ってきた。 皿にはアイスのほかに、ハーフサイズのケーキがひとつ添えられている。 磨きあげられたピアノのように艷やかな黒い表面に、小さな金箔が飾り付けられた美しいケーキだ。 「……これは?」 「それはサービスです。オペラっていうケーキなんですけど、最近練習してて……今日は上手くできたので」 店員はほんの少し頬を染めながら言った。 るるかはケーキにフォークを入れ、小さな欠片を口に入れる。 するとその口元がふわりと緩み、伏せられていた瞳に光が煌めく。 「……美味しい……」 「良かったぁ……! 結構難しいんです、このケーキ」 店員はほっとした様子で胸をなで下ろし、朗らかに笑った。 「他にも色々あるんですよ。今後ともごひいきにしてくださいね、えっと……」 「……るるか」 彼女の笑顔を見上げながら、るるかは呟くように言った。 「森亜、るるか。……私の名前」 「……! るるかさん……!」 店員はケーキの味を褒められたときよりも嬉しそうに微笑み、自分の胸に手を当てた。 「私は、帆羽くれあと言います。よろしくお願いしますね、るるかさん!」 それに釣られたように、るるかも口角をわずかに持ち上げる。 「……よろしく。くれあ……さん」 ──── それから少し月日が流れた、ある日のこと。 「いらっしゃ……あ、るるか!」 店に入ってきた友人の姿を見て、くれあは嬉しそうに手を振った。 一方るるかは、他の客の目を少し気にしつつ、はにかみながら小さく手を振り返す。 「ふふ、三日連続だね。新記録♪」 「……もう、からかわないで。私はただ……」 「美味しいから来てるだけ、でしょ? いつもありがとうございます♪」 「……どういたしまして」 くれあは特に確認することもなく、当たり前のように空いているテーブルの椅子を引く。 るるかもそのまま店内に入って流れるように席につき、用意された座布団にマシュタンを座らせる。 それは何度も繰り返しているうちにすっかり染みついた、ふたりのルーティンだった。 「今日は……」 「あっ、待って! 当ててみる!」 「ふーん。どうぞ?」 「ん〜……今日はバニラの気分でしょ。私のきらめきがそう言ってる」 「……半分あたり。バニラと、オペラのハーフサイズで」 「半分はずれかぁ……でも嬉しいな。今日のは自信作なの」 「……ふふ、楽しみ」 「ちょっと待っててね!」 嬉しそうに厨房へ戻っていくくれあを見送りながら、るるかは自然と頬を緩ませた。 ぬいぐるみを演じているマシュタンも、微笑ましそうに目を細める。 すると店の奥から、店長の浅井たいらがにこやかに歩み寄ってきた。 「やぁ、森亜さん。いつも本当にありがとうね」 「いえ……アイスが美味しいので」 「そう言ってもらえると嬉しいな〜。でも、帆羽さんはもっと嬉しいだろうなぁ」 「え……?」 「いやね、森亜さんがテイクアウトだけしてた頃は、あのアイスの子は次いつ来るかな〜って、いつも待ち遠しそうにしててね。……あ、ここだけの話ね?」 「……そう、なんですか」 「だからふたりが仲良くなれて良かったよ。……あ、そうそう! これはマシュちゃんの分ね。試作品なんだけど、良かったら味見していって」 たいらは小さなマシュマロがふたつ載せられた小皿を、テーブルの上に座るマシュタンの前に置いた。 「じゃ、ごゆっくり」 「……ありがとうございます」 彼が奥に帰っていったのを確認すると、マシュタンは少し慄きながら小声でるるかに話しかける。 「……あの店長、何か勘付いてるのかしら……!?」 「……ううん、あれはたぶん……かわいいものが好きなだけ」 それを聞くと、マシュタンは素早くマシュマロを手に取りながらほっとした様子で呟いた。 「あらあら、私がかわいいばっかりに……あ、美味しい♡」 上機嫌なマシュタンを見て、るるかは顔を綻ばせる。 そうこうしているうちに、ケーキとアイスを持ったくれあが席に戻ってきた。 「お待たせしました。バニラアイスとオペラです」 「…………」 皿をテーブルに並べる手を、るるかはなぜかじっと見つめている。 そのことにくれあは気付く様子もなく、いつものようにるるかに話しかけた。 「ねぇるるか。実は私……」 「……今日は午前中で仕事が終わり、でしょう?」 言葉の続きを事もなげに先取りされ、くれあは驚きと共に目を輝かせる。 「そう! 流石るるかね……どうしてわかったの?」 「……制服の袖で隠れる腕にも、日焼け止めを塗ってたから。日が高いうちに帰る予定なんでしょう」 「はぁ……相変わらずすごい観察力だね。ホームズみたい!」 「……別に、これくらい普通」 照れ隠しに俯くるるかを見て、くれあは少し可笑しそうに笑った。 「……じゃあ、私が何を言いたいのかもるるかにはお見通しかな?」 「…………」 るるかは少しの間口をつぐんでいたが、やがてくれあの顔を上目遣いに見上げながら、若干憮然とした表情で言った。 「……ダージリンティーも追加で。……仕事が終わるまで待ってる」 「ふふっ……かしこまりました♪」 ──── その日の夕方、るるかは買い物袋を提げた手で自宅の扉を開いた。 そこはまことみらい市のやや外れにある小さなマンションで、少し古いがよく手入れが行き届いた建物だった。 所有者は探偵時代のとある依頼人と縁がある人物で、高校生の一人暮らしを快く受け入れてくれている。 家賃も、場所や広さからするとかなり格安だ──といっても、るるかがこれまで探偵として築いてきた貯蓄は、家賃を切り詰める必要など全くないほどの金額なのだが。 後ろ手に扉を閉めると、腕に抱かれていたマシュタンがふわりと宙に舞い上がる。 「……どうだった? 久し振りのデート♡」 からかうような言い方にるるかは少し困ったような表情をしたものの、相手がマシュタンだからなのか、至って素直な答えを返す。 「……楽しかった。あの頃……みたいで」 「そうねぇ。私も昔を思い出しちゃった」 マシュタンは廊下をふわふわと進み、リビングへ入っていく。 るるかもそれに続きながら、買い物袋の口を広げて中を覗き込む。 「マコトジュエルをなくして、記憶を失っても……ひとって案外、変わらないものなのねぇ」 「……うん。そうね」 るるかは買い物袋から、白いリボンの付いたカチューシャを取り出した。 それはるるかが昔着けていたものによく似たデザインだったが……彼女自身が買ったものではない。 慈しむようにカチューシャを指でなぞりながら、るるかは呟くように言った。 「……くれあは、くれあだった」 るるかはそれを再び買い物袋に仕舞い、ソファに置いた。 そして部屋の中心に立ち、首から下げているペンダントに手をかざす。 「……!」 マシュタンの顔に緊張が走る。 るるかは眩い紫色の光と共に真の姿を取り戻した彼女の武器──ティアアルカナロッドを片手に持ち、もう片方の手でポケットの中を探った。 取り出されたのは、ハートを象った青い宝石。 「るるか……」 「…………」 るるかは宝石を床に置き、ロッドを両手で構えた。 石突を床の宝石に向け、狙いを定めながらゆっくりとロッドを持ち上げる。 妖精の力で創り上げられた神秘の武器と、探偵として鍛え上げられた彼女の腕力。 真実の力を秘めた不思議な石といえど、破壊するのには十分な条件だ。 あとはそれを振り下ろす覚悟があれば……青い宝石は粉々に砕け散るだろう。 「……っ」 しかし、るるかは振り上げた杖をなかなか下ろそうとしなかった。 眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、骨が軋むほどの強さでロッドを握り締める。 それでも、彼女の腕は動かない。 マシュタンが固唾を飲んで見守る中、るるかはしばらく葛藤を続けていた。 「……くっ! ……はぁっ、はぁっ……」 ……それからどれくらい時間が経ったのだろう。 るるかは崩れ落ちるように膝をつき、荒い息をついた。 ティアアルカナロッドは彼女の力が抜けるのと同時に元のペンダントに戻り、胸元で揺れている。 るるかは震える手で宝石を拾い、胸元に引き寄せて握り締めた。 涙が床にこぼれ落ち、喉からは嗚咽の声が漏れる。 「……無理しなくて良いわ、るるか」 マシュタンはそっとるるかの肩に触れて言った。 「まだ時間はあるんだもの。もっと思い出を作ってからでも遅くないと思う」 泣き続けるるるかの背中を撫でながら、辛そうに口元を歪める。 それが本心なのか、彼女自身もわからないまま……マシュタンは続けた。 「……いつか、昔のことなんて気にしなくなるくらい……今が楽しい時が、きっと来るから……」 祈るようなその言葉に、返事は無く。 まことみらいの夜は、静かに更けていった。 ───── ある休日のこと。 るるかはベンチに腰を掛け、ぼんやりと時を過ごしていた。 その視線は穏やかな日の差す空でも、目の前のにぎやかな往来でもなく、自分の膝の上に向けられている。 そこには、親友である帆羽くれあの頭が乗せられていた。 彼女はるるかの膝を枕にして、ぐったりとベンチに横たわっている。 その表情は虚ろで、目は焦点が合わず、普段の溌剌とした彼女は見る影もない。 「…………」 ふと、るるかは彼女の頬に手を触れてみた。 それでも、くれあは何の反応も示さない。 ただ、だらしなく開いた口からうわ言のように同じ言葉を繰り返している。 「……せかいがまわってます〜……」 るるかはため息をひとつついて、ベンチのすぐそばにある建物を見上げた。 それはまことみらい市の遊園地、セイントワールドが誇る最大のジェットコースター。 老若男女問わず人気がある、この施設の目玉のひとつ。 ……そして、今くれあがダウンしている原因である。 るるかが膝の上に視線を戻すと、彼女はまだぐるぐると目を回していた。 「いつになったら戻るのかしら……」 「……せかいがまわってます〜……」 なんとなくその頭を撫でながら、るるかはもうひとつため息をついた。 ───── 話は数日前に遡る。 いつものようにパティスリーチュチュを訪れたるるかは、いつになく真剣な表情のくれあに詰め寄られていた。 「……るるか。次の休日、空いてる?」 るるかは口の中のアイスをごくりと飲み込み、若干気圧され気味に返事をする。 「え、ええ……空いてるけど」 「良かった! じゃあ、ここ……! 一緒に行ってくれない!?」 そう言いながらくれあが取り出して見せたのは、巨大な観覧車の遠景写真の上に“セイントワールド”と大きく書かれた一枚のチラシ。 最近移転してリニューアルオープンしたばかりの、まことみらい市にある遊園地の広告だった。 「移転のニュースを見てからずっと気になってて……でも、私こういう所に行ったことないの」 「ふーん……」 「でも、一人だと怖くて……だからお願い! 一緒に行ってくれる?」 「まぁ……別に良いけど」 「! ……ありがとう!」 ぱっと表情を明るくするくれあに対し、るるかは少し拍子抜けしたように息をつく。 「……そんなに肩肘張るようなこと? 遊びに行くだけでしょう?」 「それが噂によると、結構怖いらしいの。特にジェットコースターって乗り物が、すごい速さで上がったり下がったり、ぐるぐる回ったりするんだとか……もしかしたら目が回って動けなくなっちゃうかも」 「……たぶん、そんなに大したことはないと思うけど……」 くれあはもう16歳で、遊園地に行ったことが一度もないというのは珍しい。 きっと初めてのことで過剰に不安がっているのだろう。 そう考えたるるかは、薄く微笑んで言った。 「安心して。もしあなたが目を回したら、私が介抱してあげる」 それを聞いて、くれあは嬉しそうに顔を綻ばせる。 「……うん! お願いね、るるか!」 ──── そして現在。 「……まさか、本当にそうなるとは思わないじゃない」 るるかは膝の上で未だに目を回しているくれあの顔を見つめながら、小さな声で独り言ちる。 くれあは会話もできない状態らしく、それに答えを返す者はない。 るるかにしては珍しいことだったが、近くにはマシュタンの姿も無かった。 アトラクションの多くはぬいぐるみを手に持ったまま乗ることができないため、自宅で留守番をしているのだ。 「今日は水入らずで楽しんでらっしゃい♡ うふ♡」 出かける時にかけられた言葉を、るるかはぼんやりと思い出す。 そしてふと膝の上に視線を戻すと、いつの間にかくれあの表情に変化が起きていた。 特徴的な金色の瞳はしっかりと前を向き、半開きだった口はちゃんと閉じられている。 顔色もさっきまでに比べるとだいぶ良いようだ。 「……るるか……?」 「あ、起きた?」 彼女は不思議そうな表情でるるかの顔を見上げ、目をぱちくりとさせる。 そして段々自分の置かれている状況を理解してきたのか、少しずつその頬が朱に染まって行く。 「ご、ごめんね! 迷惑かけちゃって……」 「気にしないで、そういう約束だし。もう少し休んでたら?」 「え……」 優しく微笑むるるかに頭を撫でられ、くれあは一瞬起き上がるのを躊躇したものの、すぐに思い直して跳ねるように上体を持ち上げる。 「……だ、大丈夫! もう平気だから!」 「そう? ……じゃあ、他の所も回る?」 「うん。せっかく来たんだしね!」 ふたりはベンチから離れ、並んで人混みの中を歩き始める。 「……といっても、もう目を回しそうな乗り物には乗らない方が良いよね……」 「そうね、あの回転ブランコとかはやめておいた方が良いかも」 「もっと小さいもの……あのコーヒーカップとかは……」 「絶対やめたほうが良いわね」 「……メリーゴーランドもやめとこうかな」 「それくらいなら大丈夫そうだけど……不安ならやめといたら」 周囲に立ち並ぶ様々なアトラクションを横目に見ながら、ひとつひとつ検討していく。 しかしどれもこれも三半規管には優しくなさそうで、くれあは思わずため息をついた。 「はぁ……遊園地って、回転するものばっかりなのね……」 「……言われてみればそうね」 「回らないものって言うと……あ、あそこお化け屋敷だって! あれはどうかな?」 そう言いながら歩いて行こうとしたくれあの袖を、るるかはがっちりと掴まえてその場に立ち止まる。 梃子でも動きそうにないその様子に、くれあはおずおずと問いかけた。 「……もしかして、おばけ苦手?」 「苦手じゃない。……論理的に説明できないものが嫌いなだけ」 「へぇ……そうなんだ」 少し可笑しそうに目を細めるくれあに対し、るるかは気まずそうに顔を背ける。 そしてそれ以上の追及を避けたかったからなのか、あるいはお化け屋敷に行くのを断ったのが申し訳なかったからなのか──彼女は話題を逸らすように、別の選択肢を提案する。 「……回転してても、ゆっくり動くものなら大丈夫なんじゃない?」 「え? ゆっくり回る……?」 ピンときていないくれあに、るるかはアトラクションを直接指差して答えを示す。 それは園内のどこからでも見上げることができる、この施設を代表する巨大な建造物。 28年後の未来でも変わらずそびえ立つ、“時計”の名を冠する街のシンボル。 「……あの観覧車。乗ってみる?」 ───── 「わぁ……結構高くなってきたね」 窓に張り付いて外を見下ろすくれあに、るるかは少し心配そうに声をかける。 「……大丈夫? 怖くない?」 「うん、高いのは平気みたい。むしろ好きかな」 「……そう」 楽しそうな声色を聞いて安心したのか、彼女は友人の背中を眺めながら小さく微笑む。 ふたりは横並びに座っていて、対面の座席には荷物だけが置かれていた。 「わざわざ隣に座ってきたから、高いのも苦手なんだと思ってた」 「……不安ではあったの。こんな高い乗り物に乗るの、初めてだったから」 くれあは隣に座るるるかを振り返り、恥ずかしそうに笑った。 「もし高いのが苦手で、さっきみたいに倒れたらどうしようって思って……ごめんね、自分のことなのによくわかってなくて」 「……初めてのことがわからないのは、普通でしょ。私だって、今日初めて乗った」 「……えっ? そうなの?」 「うん。ジェットコースターに乗ったのも初めて」 くれあは思わずぽかんと口を開け、目をぱちぱちさせながらるるかの顔を見つめた。 「……全然平気そうにしてるから、経験があるのかと思ってた」 「別に、試しに乗ってみたらたまたま平気だっただけ。今のあなたと同じ」 「それはそうだけど……」 「……小さい頃は、ロンドンに住んでいたの。少し特殊な家庭だったから、あまりこういう場所に来る機会が無くて」 それを聞いて、くれあは再び驚愕の表情を浮かべる。 ただし今度はほんの少し、寂しさのような感情も混じっていた。 「……そうなんだ。私と同じ……私もロンドンに住んでたことがあるみたいなの」 「……みたい?」 「えっと……実は私、昔の記憶がね……所々あいまいなの。向こうでどんなふうに過ごしてたのか、どうして日本に来たのか、よく思い出せなくて」 「……そう」 「だから、観覧車だって本当は乗ったことがあるのかも。でも、思い出せないから……わからない。自分のことなのにね」 先ほどと同じ言葉を繰り返して、くれあは自嘲するように小さく笑った。 るるかはそんな彼女をじっと見つめながら、静かに次の言葉を待つ。 ポケットの中に入れた手を、骨が軋むほど強く握り締めて。 「……ずっと、ぼんやり不安だった。店長のおかげでそんなに不自由はなかったけど、でも……私には、自分の“本当”がわからない。真実だって言い切れるのは、心のきらめきだけ……」 「…………」 「……でも今は、ちょっと違う。るるかに出会えたから」 そう言うと、くれあは顔を上げて微笑んだ。 「るるかと一緒に居ると、いつも新しい答えが見つかるの。今日だってそう。私はジェットコースターが苦手だけど、観覧車は好きだってわかったでしょ?」 その表情には不安も迷いも、嘘もない。 心の底から幸せそうな、純粋で透き通った笑顔だった。 「……昔の私は違ったかもしれない。“本当”はジェットコースターが大好きで、観覧車が苦手だったのかも。……でもそんなのもう良いの。るるかと見つけたこの答えが、私は好きだから。今の私が、私の真実なの」 るるかの手から、ゆっくりと力が抜けていく。 「……そうね。私の答えも同じ」 その時、るるかは初めて──パティスリーチュチュで“今の”くれあと出会ってから、初めて──満面の笑顔を、彼女に見せた。 まるで真っ白な百合のように、無垢で美しい笑顔を。 「私も……今のあなたが、本当のくれあだと思う」 「!……ありがとう、るるか!」 ふたりはしばらくの間、無邪気に笑いあっていた。 その間もゴンドラはゆっくりと上昇しており、そろそろ頂上に差し掛かろうとしている。 「……それにしても、あんまり驚かないのね」 「? ……何が?」 「私の記憶があいまいだってこと。他の人はみんな驚くんだけど……ひょっとして、るるかは気付いてたの?」 「……どうしてそう思うの?」 笑顔を浮かべたまま、るるかはほんの少し目を細める。 くれあは試すような視線に戸惑いながらも、彼女なりの考えを素直に話すことにした。 「だって、るるかはすごい観察力を持ってるでしょ? まるで小説の中の名探偵みたいに。……だから、私が不安に思ってることに気付いて、そんな私を助けるために、仲良くなってくれたんじゃないかって……」 言いながら段々気恥ずかしくなってきたのか、くれあは赤くなった顔を伏せて言葉を濁した。 「……な、なんてね。ちょっとそんなことを思ったりしただけで……」 「……ふふ。そんなふうに思ってたんだ」 「……う、うん……」 「残念ね、全部はずれ」 「う……ごめん、忘れて……」 容赦のない一言に、くれあはさらに顔を赤くする。 両手で顔を覆う彼女を可笑しそうに見つめながら、るるかは言葉を続けた。 「私は名探偵じゃないし、あなたを助けようと思って仲良くなったわけでもない」 「そうだよね……」 「私があなたに近付いたのは、あなたのことが好きだから。ただそれだけ」 「…………えっ?」 くれあは思わず顔を上げ、目を見開いてるるかを見た。 彼女はいつも通りの表情で、何か特別なことを言った後のようにはとても見えない。 くれあはそれを見て、少し安心したように表情を緩ませる。 「……えっと、それって……」 友達としてだよね、と続く言葉を遮るように。 るるかは片手を伸ばし、くれあの頬にそっと触れた。 「……こういう時、日本語って不便」 その言葉の意味を考える暇もなく、るるかの顔が近付き、唇に柔らかい感触が触れる。 「……!」 そうしていた時間はほんの僅かで、るるかはすぐに顔を離した。 くれあははじめ驚いた表情で固まっていたが、やがて少しずつ緊張が解けていく。 口は何か言いたげに開いたまま小さく震え、見開いていた目はゆっくりと細められる。 まだ紅潮して火照っている頬を、左目から零れ落ちた一筋の涙が伝っていった。 「……がっかりした?」 るるかの問いに、くれあは首を横に振って返す。 その勢いで散った涙が、宝石の欠片のように宙を舞って消える。 「……ううん。嬉しい」 くれあは隣に座るるるかにもたれかかるようにして体を預け、彼女の胸元に顔を埋めた。 るるかは食い込んだ爪の痕がまだじんじんと痛む手のひらで、華奢な背中を優しく抱き寄せる。 ふたりを乗せたゴンドラは、いつのまにか頂点を通り過ぎ、静かに下降を始めていた。 ────── まことみらい市から電車で1時間ほどの場所には、昔から有名な温泉街がある。 通り沿いには老舗の旅館から新しいホテルまで様々な宿が立ち並び、連日多くの観光客で賑わっていた。 その中でも比較的人通りの少ない場所にある、小さな温泉旅館。 地元の人々は皆知っているが観光客はほとんど利用することがない隠れ家的なこの旅館には、ある古い言い伝えがあった。 この地にはかつて妖精が訪れたことがあり、一宿一飯の恩義を返すために温泉を汲み出す機械の設計図を残していった……というものだ。 多くの人にとってそれはただの伝説に過ぎないが、その旅館の創業者一族は未だに妖精の存在を深く信仰しており、妖精専用の小さな浴場まで設置しているらしい。 そんななんとも個性的なこの旅館は、その屋号も伝説の妖精の名にあやかり── ──慈英の湯、と名付けられている。 「……ってワケで、ここは妖精でも利用できる温泉なのよ」 そう言うと、マシュタンは少し古いガイドブックをるるかに手渡した。 「ふーん……今度の休み、ここに行こうってこと?」 「そ。たまには羽を休めたいじゃない? せっかく連休だし、1泊くらいしていきたいわねぇ」 「……いいね、楽しそう」 ガイドブックを見ながら無邪気に微笑むるるかに、マシュタンはニヤリと笑いながら耳打ちする。 「もちろん、おともだちを連れてっても良いわよぉ……♡」 「……! もう……!」 るるかはガイドブックで顔を隠しながら、横目でじろりとマシュタンを睨んだ。 マシュタンは悪びれる様子もなく、おほほと笑いながら宙を舞う。 「…………」 るるかはしばらく逡巡していたが、やがて意を決して立ち上がり、固定電話に手を伸ばした。 ──── 街の観光、名物料理のランチ、お土産屋でのショッピング、旅館での夕食。 ……そして何より、露天風呂付きの天然温泉。 温泉街での1日を存分に楽しんだるるかとくれあは、部屋に戻ってくつろいでいた。 るるかは布団の上で木製のパズルを組み合わせ、くれあはそれを横から眺めている。 迷いのない動きでピースを動かし、最後のお題まで難なく完成させたるるかは、顔を上げてつまらなそうにため息をついた。 「……これで終わり? 簡単過ぎる……」 「え、もう終わらせちゃったの? さすがだね」 数分足らずで役目を終えたパズルを箱にしまい、るるかは布団の上で軽く伸びをした。 「ん……旅館の夜って、結構暇なのね。また卓球でもしに行こうかしら」 「もう、子供みたいなこと言って……だめよ、せっかく汗流したのにまた……」 言いかけた言葉が不自然に途切れ、くれあはそのまま黙り込む。 るるかはそれに目ざとく反応し、にじり寄って心配そうに顔を覗き込んだ。 「……どうかした?」 「え? べ、別に……? なんでもないよ?」 「うそ。……お風呂に入ったあとから、ちょっと変だった」 「そ、そんなこと……」 「のぼせたの? それとも疲れた?」 「あ……えっと……」 さらに顔を近づけられ、くれあは逃げるように顔を背ける。 その耳が真っ赤に染まっていることに気が付くと、るるかはふと思い立ったように自分の体へ目をやった。 「……あ」 先ほど伸びをした時だろうか、浴衣の胸元が少しはだけてしまっている。 「……ふーん……」 るるかは襟を引っ張って肌を隠しながら、それを横目でちらちらと見ているくれあを軽く睨みつけた。 「……えっち」 「ち、違うよ!? そうじゃないからね!?」 両手を振って必死に否定するくれあを見て、るるかはからかうようににやにやと笑う。 「へぇ、何が違うの?」 「いや、だって、肌が出てたらつい見ちゃうというか……」 「やっぱり見てたんじゃない」 「……見てたけど! いつもこうじゃないの……!」 くれあは熱くなった頬に手のひらを当てて冷ましつつ、抗議するようにるるかを睨む。 「普通は、は、裸をみたって、なんとも思わないけど……るるかは、その……特別でしょう……」 「……ふーん?」 るるかはその答えに満足したのか、嬉しそうに目を細めた。 襟を引っ張っていた手を離し、両手を床について猫のように這い寄っていく。 緩んだ浴衣と肌の隙間から辛うじて目を逸らしながら、くれあは小さな声で言った。 「浴衣……直さないの?」 「別にいい。なんならもっと脱ぐ?」 「へっ?」 「良いわよ、あなたが見たいなら」 「……っ!」 るるかはくれあの太ももに跨って腰を下ろすと、上体を持ち上げて浴衣の裾を乱雑に引いた。 華奢な白い肩が露わになり、その下に続くなだらかな曲線が小さく揺れる。 「だいたい、こんな薄くてすぐにずれる布一枚だけでうろうろするなんてどうかしてる……」 「海外から来た人みたいなこと言う……」 「海外から来た人なのよ。あなたもでしょ」 「そうだけど……あっ」 るるかの手がくれあの肩を掴み、そのままあっけなく押し倒す。 見た目の細さからは想像もつかない力で押さえつけられ、 くれあは思わず息を呑む。 しかしるるかを見つめる目に恐怖や嫌悪の色はなく、むしろ何かを期待するように、きらきらと輝いて揺れていた。 「……可愛い」 るるかの小さな呟きに、くれあは何か答えようとして口を開く。 しかしその舌は言葉を作る前に押さえつけられ、わずかな水音を立てながら黙り込んだ。 古い旅館の一室が静けさに包まれる。 しばらくの間、唇の隙間から漏れる吐息と浴衣が擦れ合う音だけが、部屋に響いていた。 やがてるるかが身を起こすと、くれあは力の入らない腕を辛うじて持ち上げ、手で口元を隠した。 荒い呼吸が胸を上下させ、潤んだ瞳がぼんやりとるるかを見つめている。 「……特別って、こういうこと?」 「…………」 喋る余裕もないのか、くれあからの返事はない。 るるかはくすっと笑うと、くれあの浴衣の帯に手をかけた。 「あ……」 「私にとっては、あなたが特別なの。……良いでしょう?」 今度は返事を待たずに帯を解き、浴衣の隙間から手を差し込む。 しなやかな指先が腰から背中にかけてのラインをなぞり、くれあは思わず身を捩らせる。 「っ……!」 反射的に閉じようとした足の間にはるるかの右足が置かれており、くれあの太腿は彼女のそれを挟むようにして閉じきらずに止まった。 同時にるるかの膝が股間に押し当てられ、軽い衝撃が内臓に響く。 「……?」 「……お風呂の時も思ったけど、綺麗な体ね。手足が長くて、余計な肉がついていなくて」 「あっ、ちょっと……」 るるかは抵抗を無視して浴衣をはだけ、くれあの全身を露わにした。 その緩やかな曲線にゆっくりと、芸術品を愛でるような手つきで指を這わせる。 「……さっきえっちとか言ってきたくせに」 「私がそうじゃないとは言ってない」 「もう……っ! あぅ……」 肌の上を滑る指先が胸のあたりでわずかな引っかかりを通り過ぎると同時に、くれあの体はびくんと大きく跳ねる。 しかしるるかはすぐに同じ場所を触るようなことはせず、慈しむように──あるいは弄ぶように、全身を隈無く愛撫し続けた。 そのうちくれあは、るるかの指先が体のどこに触れているのかを目を閉じて注意深く感じ取るようになっていった。 そして体が強く反応する場所に指が差し掛かるたび、無意識に身構えるようになっていく。 しかし彼女のなだらかな胸の上を数回目に通り過ぎようとしたとき──るるかの指先はそのいじらしい期待を裏切って、ふと体から離れていった。 「え……」 思わず声を漏らして目を開けると、彼女の視界の端で色素の薄い髪が揺れるのが見えた。 その状況を理解するより前に、るるかの唇が肌に触れる。 前歯の先が鋭敏になった感覚を刺激し、くれあの中に電気が流れるような快感が走った。 「───っ!!」 声にならない声と共に、くれあの体が布団の上で大きく跳ねる。 るるかは彼女の体が離れないように、両手で抱きしめるように引き寄せた。 逃げ場のない体勢の中、るるかが舌で味わうように転がしたり、気まぐれに前歯を立てたりする度に、くれあは首筋を反らして嬌声を上げる。 そうしているうちに、くれあは自分の下腹部の奥の方で何かがちりちりと揺らめいているのを感じた。 それは彼女の体が悶えたり跳ねたりするたびに、押し付けられたるるかの膝から伝わるわずかな衝撃が、鈍い快感となって溜まっていったものだったのだろう。 最初は気付かないほどに小さかったそれが明確に感じ取れるほどになった時、るるかはゆっくりと体を離し、布団の上にくれあを横たえる。 そして彼女のへその下辺りに指の背を当て──優しく、しかし容赦なく、それを押し込んだ。 「ぁ……」 頭の中が真っ白に染まり、視界にきらきらとした光が舞う。 くれあは波のように連続して押し寄せる快楽のなかで、しばらく何も考えられずにいた。 一方、るるかは体勢を変えるために起き上がり、布団の上で小さく伸びをする。 その右膝が透明な糸を引いているのを見て、るるかは思い出したように声をかけた。 「……あ、今更だけど、下着も脱いだ方が良いわね」 「…………」 「動けそうにないなら私が脱がせようか? まだ続けるでしょう? ……くれあ?」 「……はい〜?」 るるかが顔を覗き込むと、くれあは目を回して倒れた時のように、焦点の定まらない目でぼんやりと天井を見上げていた。 だらしなく半開きになった口からは意味のある言葉が出ることはなく、普段の大人びたお姉さんといった印象は欠片も残っていない。 るるかはそんな彼女を見てくすりと微笑むと、傍らに座り込んで優しく頭を撫でた。 「……少し休む?」 「……そうします〜……」 ───── それから何度かダウンと休憩を繰り返し、さすがにくれあが音を上げてから、10分ほど後のこと。 るるかはぐったりと横たわるくれあの側に寝そべり、その横顔をじっと見つめていた。 そして彼女の呼吸が段々と緩やかになっていくのを確認すると、少し遠慮ぎみに声をかける。 「……大丈夫? 落ち着いた?」 「……うん。なんとか」 こちらに顔を向けたくれあが微笑んでいるのを見て、るるかはほっとしたように頬を緩めた。 「……どうだった?」 「聞かなくてもわかってるくせに……」 「ふふ……」 るるかはくれあの前髪を慈しむように撫でる。 その表情をぼんやりと眺めながら、くれあはふと口を開いた。 「……るるか」 「うん?」 「私って……るるかの前の恋人に似てる?」 るるかの手がぴたりと止まり、表情が凍り付く。 くれあはその様子にハッと気が付くと、少し慌てた様子で手を振った。 「あっ、違うの。別に気にしてるわけじゃなくて……でも、初めてじゃないんだなって……少し思っただけ」 「…………」 それでなぜ“似ている”という言葉になったのか、彼女自身にも説明はできないのだろう。 彼女が生来持っている鋭い直感が、きっとその根拠なのだから。 るるかはくれあを自分の胸にそっと抱き寄せると、その耳元で呟くように言った。 「……そうね。よく似てる」 「…………」 「でも……一番愛してるのはあなた。それは絶対に嘘じゃない」 「……うん」 くれあはるるかの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。 るるかはそんな彼女の頭を優しく撫でながら、小さな声で──今度はくれあの耳にも届かないほど、小さな声で呟く。 「……だから、もう忘れないとね」 ───── 老舗旅館、“慈英の湯”の名物のひとつ──妖精の湯。 そこは通常の浴場から少し離れた場所にあり、一回り小さな洗い場と湯船が用意されている。 小さいとはいえそれらは問題なく使うことができるように作られており、設備は他の浴場と遜色ない。 昼間は宿泊客ができるよう開放されているが、夜は決して入ってはいけないと言われていた。 経営者曰く、夜は妖精が湯浴みをする時間だから──とのことで。 「はぁ〜……やっぱり効くわねぇ〜……」 石造りの小さな露天風呂に肩まで浸かりながら、マシュタンはなんとも気持ちよさそうに声をあげた。 その湯船はなんとジェットバスになっており、勢いよく噴出する水流が彼女の凝り固まった背中を心地よくほぐしていく。 マシュタンは大きな両目を糸のように細めて温泉を堪能していたが、ふと、その片目がぱっちりと開かれる。 それと同時に、洗い場のサイズに似つかわしくない図体の青年が茂みの中から音もなく現れた。 「……ずいぶん長風呂だね、ベイビー」 「キャーッ!! このヘンタイッ!!」 「えっ、はっ? あ痛っ!」 マシュタンが投げた風呂桶が額にクリーンヒットし、ニジーはやや大げさに仰け反ってみせた。 ただ痛かったのは確からしく、目の端に涙を滲ませて激しく抗議する。 「いきなり何するんだいっ!」 「あ〜らやだ、開き直っちゃって。覗きは立派な犯罪なのよぉ?」 「キミはいつも裸じゃないか……っ!!」 「……ま、冗談よ♡」 「冗談で本当に投げるなよ……」 ニジーは転がった桶を几帳面に置き場へ戻しながら、呆れたように言った。 マシュタンはぺろりと舌を出してそれに応える。 「……で? キミがわざわざこの温泉に来たってことは、ボクに何か話があったんだろ?」 「あら、話が早いわねぇ。ゴウエモンとは大違い」 「ふん。ここは妖精達にとって一種の緩衝地帯だからね。人間界で温泉を利用できるこの貴重な場所で争いはご法度……探偵も怪盗も関係なく、平和に話ができる場所……」 「……だからここに来れば、隠れて監視しているあなたも出て来てくれると考えた。大正解よ♪」 マシュタンは小さな指でさらに小さな丸を形作り、ニジーに示して見せた。 「それともうひとつ、長い間頑張ってるあなたに対する、労いの意味もあったけどね♡」 「ふぅ……労ってるならさ、早くあのジュエルを砕いてくれないかな。そうしたらボクの仕事も終わるんだけど」 「……そうね。そのためにあなたを呼んだのよ」 マシュタンは声のトーンを落として、話を続ける。 「ウソノワール様の力をちょっとだけお借りしたいの。だからあなたに取り次いでほしくてね」 「……ほー。大きな口叩いておいて、アルカナシャドウは結局覚悟が決まらなかったのかい?」 「……バカねぇ。あの子を嘘で覆ったりするわけないじゃない。そんなことしなくても、あの子はきっとやり通せるわ」 マシュタンは湯船に視線を落とし、ゆらゆらと揺れる水面に映る自分の顔をじっと見つめた。 「……覚悟を決めないといけないのは、私のほう」 ニジーはその表情を見てふんっと鼻を鳴らしたが、いつものように嫌味は言わなかった。 「……時間はいつ頃が良い?」 「そうねぇ、明日まことみらい市に帰るから、その後……9時くらいかしら」 「わかった。それじゃまた明日、ベイビー」 手を優雅に振りつつ去っていこうとするニジーの背中に、マシュタンはいつもの調子で声をかける。 「せっかく来たのに入っていかないの?」 「……レディと混浴する趣味はないよ。キミが上がったらいただいてくさ」 「あ〜ら紳士的♡ それじゃあね♪」 ニジーはそれ以上の軽口は叩かず、来たときと同じように音もなく消えていった。 マシュタンは彼が去ったあと再び湯船に浸かり、月を見上げながら小さな声で呟く。 「……るるか……」 ───── るるかとマシュタンが暮らしているマンションの屋上は、入居者が自由に入れるようになっている。 その夜も、るるかは屋上の柵に背中を預けてひとり考えに耽っていた。 彼女の視線の先には、手のひらに載せられた青い宝石。 そして、ティアアルカナロッドのペンダント。 少しずつ期限が迫っているその宿題を前に、元名探偵は静かに思考を巡らせる。 「……ここに居たのね、るるか」 るるかが顔を上げると、そこには彼女のおとも妖精がふわふわと浮いていた。 張り詰めた表情をほんの少し和らげながら、るるかは彼女の名前を呼ぶ。 「……マシュタン。ごめんね、声かければ良かった」 「良いのよ。……あの子は、今日泊まっていくの?」 「うん。先に寝ちゃったからここに来たの」 「あら、そういうこと」 るるかの部屋の寝室では今、彼女の恋人であるくれあが眠っている。 時折寝つきが悪くなるるるかには、彼女の安眠を邪魔せずに一人になれる場所として、この屋上がちょうど良かったのだろう。 「……まぁ、おかげでちょうど良かったわ」 「? どういうこと?」 「ましゅしゅ……それはね……」 マシュタンはいたずらっぽく笑うと、小さなお尻を振ってふわふわの尻尾をるるかに見せつけた。 その根元には、普段は着けられていないとあるアクセサリーが巻かれている。 「じゃじゃ〜ん。どぉ? なかなか似合ってるでしょう?」 「……! マシュタン、それ……」 マシュタンの尻尾に着けられていたのは、爽やかな水色がなんとも可愛らしいシュシュだった。 それはくれあが普段から愛用しているもので、おそらく眠っている間にくすねてきたのだろう。 しかし、マシュタンがそのシュシュを盗ってきたということは──ただの泥棒以上の、大きな意味があった。 そのシュシュには、持ち主のくれあも知らないある秘密が隠されているからだ。 「……心配しなくても、シュシュタンは起きないわよ。今は深い眠りについているから」 「……どういうこと?」 「ウソノワールの力をちょっとだけ借りたのよ。しばらくは嘘に覆われて目を覚まさないわ」 マシュタンが着けている青いシュシュには、よく見ると小さな紫色のバッジが取り付けられていた。 バッジからはウソノワールが操る、“嘘で覆う力”の禍々しいオーラがわずかに立ち昇っている。 彼女はそのバッジに込められた力で、今はシュシュに姿を変えている知識の妖精──シュシュタンの意識を封印したのだろう。 しかし“どうやったのか”ということは、今はそれほど問題ではない。 るるかが本当に知りたいのは、“なぜ”そんなことをしたのか、なのだ。 「……まさか。マシュタン、あなた……」 「……そう。この子は私が連れて行くわ。るるかとあの子の人生にとっては、邪魔にしかならないもの」 「……!!」 それは、あまりにも明快な正論だった。 くれあの中に眠る“キュアエクレール”の力──その一端を隠し持っているであろうおとも妖精のシュシュタンは、くれあの平穏な暮らしを脅かす危険因子に他ならない。 しかしそれは、別れの挨拶でもある。 「……どうして、マシュタンが? ニジーにでも預ければ良いでしょう?」 「そうねぇ……それはるるかが一番よくわかってるんじゃない?」 「……!」 「ふふ。私だって、これでも名探偵のおとも妖精なのよ? あなたが何を考えているかくらい、お見通しなんだから」 マシュタンはふわふわと宙を舞い、るるかに近寄っていった。 そしてその小さな指で、彼女の胸をピッと指差す。 「キュアエクレールのマコトジュエルを砕くため。あなたの中の未練を断ち切るため。あの子を守り抜くため。……あなたが何をするべきなのか。もうとっくにわかってるんでしょう?」 「……マシュタン」 「そしてそのために、一番邪魔になるのが……この私。そうでしょう?」 「やめて! マシュタンっ!」 るるかは宙に浮かぶマシュタンを捕まえると、力強く抱き締めた。 マシュタンはるるかの頭を優しく撫でながら、静かに言葉を続ける。 「……るるか。よく聞いて。……あなたはもう、十分頑張ったのよ。名探偵としてたっくさんの謎を解いて、答えを出して、敵と戦ってきた」 マシュタンの大きな瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。 「だから、もういいの。もうあなたは戦わなくていい。名探偵なんて、怪盗なんて、もうやめちゃいなさい。……あなたが幸せに笑えない世界なんて、そんなの嘘だわ」 「……マシュタン……!」 マシュタンは子供のように泣きじゃくるるるかの背中を、ぽんぽんと優しく叩いて言った。 「……胸を張りなさい、るるか。あなたは間違いなく、世界一の名探偵だった。……あなたは私の誇りよ」 「……!!」 るるかの腕が緩み、マシュタンはその隙間からするりと抜け出して宙に浮び上がった。 月と夜空を背に、占いの妖精──キュアアルカナシャドウのおとも妖精マシュタンは、彼女の相棒に最後の別れを告げる。 美しく、優雅な一礼と共に。 「さようなら。キュアアルカナ、森亜るるか。……あなたのことは、片時も忘れないわ」 るるかは袖で涙を乱雑に拭い、一度マシュタンの顔を見上げてから、深々と頭を下げた。 「さようなら。マシュタン。……今まで、本当にありがとう」 マシュタンはそれを見てにっこりと微笑むと、空高く舞い上がっていった。 その小さな背中が夜の闇に溶けて消えていったあとも、るるかはしばらくの間、空を見上げ続けていた。 そしてやがて、ゆっくりと目を閉じて── ──胸に下がっていたペンダントを掴み、首紐を引き千切って正面に突き出す。 「オープン。ティアアルカナロッド……!」 その言葉と共に真の姿を現した紫色の杖に、自らの胸から現れたハート型のマコトジュエルを素早く嵌め込む。 「シャッフル! ……リバース!」 ロッドにセットされたカードを回転させ、石突を床に突き立てる。 その動きに合わせて彼女の全身は光に包まれ、黒衣を纏った金髪の戦士へと変貌していく。 「神秘と秘密で包み込む、キュアアルカナシャドウ。さあ──迷宮へ誘いましょう」 まるで自分自身に向けた覚悟の証のように、キュアアルカナシャドウは孤独な名乗りを終える。 そして彼女は青いマコトジュエルを取り出すと、それを屋上の床に置いて数歩離れた。 ロッドを両手に構え、一度深呼吸をした後、静かに攻撃を宣言する。 「……アルカナスターレイン」 その瞬間、アルカナシャドウの周囲に光の魔法陣が展開される。 間を置かずにその外周から、幾本もの光の筋が空に向かって放たれていく。 アルカナシャドウはその光を見送ると、床に置かれた青いマコトジュエルに杖の先端を向け── ──そのまま放り投げた。 「……さようなら、キュアエクレール。キュアアルカナ」 ティアアルカナロッドは屋上の床の上をカラカラと音を立てて転がっていき、マコトジュエルのすぐ隣で動きを止めた。 ロッドの先端にはめ込まれた濃い紫色の宝石が、青い宝石と軽くぶつかって澄んだ音を立てる。 そしてふたつの宝石を目掛け、上空でターンしたアルカナスターレインが降り注ぐ。 キュアアルカナシャドウは、光の束がマコトジュエルに突き刺さるその瞬間──神秘的な微笑みを浮かべていた。 「これで全ては、迷宮入り……」 その言葉を最後に、たったふたりの名探偵プリキュアは── ──この世から永遠に、姿を消した。 ───── 「──るるか!!」 屋上へと繋がる扉を蹴破らんばかりの勢いで開き、くれあはるるかの元へと駆け寄った。 彼女は気を失っているのか、屋上の床でひとり倒れ伏している。 「るるか! 大丈夫!? るるか!!」 くれあが抱き起こして揺さぶると、るるかは顔をしかめてゆっくりと目を開く。 「……くれあ……?」 「……るるか! 良かった……!」 くれあは涙を目に浮かべながら、るるかの体を抱き締める。 一方るるかは、寝起きのようにぼんやりとした表情で眉をひそめた。 「どうしたの? 何かあった……?」 「それを聞きたいのはこっちだよ……! 急に胸騒ぎがして目が覚めたと思ったら、窓からすごい光が差して……私のきらめきが、あなたに何かあったんじゃないかって……!」 「……何を言ってるの? ここ、屋上……? なんでこんな所に……」 るるかは訝しげな顔できょろきょろと辺りを見回す。 くれあはその様子を見て目を見開き、思わず息を呑む。 「……もしかして、覚えてないの?」 「え? ……うん。どうしてここに来たんだろう。何か……やらなきゃいけないようなことが……あった、ような」 るるかはくれあの腕の中から起き上がると、周囲を見ながら屋上を歩き回った。 そして地面に転がっていた紫色の棒を拾い上げ、じっと観察する。 「折れた……杖……?」 「るるか……それ、何か知ってるの?」 「……ううん、わからない」 「……じゃあ、どうして泣いてるの?」 「……え?」 くれあに言われて初めて、るるかは自分の両目から涙が溢れ出していることに気が付いた。 不思議そうに両手を濡らす雫を見つめながら、るるかはうわ言のように呟く。 「わからない……わからない……もう……この謎は、解けない……」 くれあは彼女に駆け寄ると、その小さな体を強く抱き締めた。 「……大丈夫。わからなくても……私がついてるから」 「……くれあ……」 るるかの手から、折れた杖がするりと抜け落ちて屋上の床に転がる。 彼女は両手をくれあの背中に回し、しっかりと抱き返す。 「私がずっと、側に居るからね……」 「……うん」 ───── るるかのマンションから遠く離れたビルの屋上で、ニジーはオペラグラスを持つ手をゆっくりと下ろした。 その表情は半分が仮面に、もう半分が長い前髪に隠れ、窺い知ることはできない。 「……これで、本当にお別れか」 彼はマンションの方角にふいっと背を向けると、片手をひらひらと振って最後の挨拶を告げる。 「せいぜいお幸せに。ベイビーたち」 そして、気障な怪盗は舞い散る赤いバラの花びらと共に──夜の闇の中へと、姿を消した。 ───── 「──1枚目。恋人の正位置」 初夏の日差しが差し込む部屋の中で、るるかは机の上に並べたカードを1枚めくった。 真剣な眼差しでそれをじっと眺めた後、彼女は次のカードに手を触れる。 「2枚目。星の逆位置」 彼女の周囲に、もし占い師が居たのなら。 彼女がめくるカードが指し示す意味を正しく伝え、手を取って導いてくれたのかもしれない。 しかしそんな存在は、もう居ない。 「3枚目──」 だから彼女は、たったひとりでカードをめくる。 そのカードが何を示していようとも── ──立ち向かうしかないのだから。 「──るるかー!」 めくったカードを見ようとしたその時、ドアを開ける音と共に朗らかな声が部屋の中に飛び込んでくる。 「く、くれあ!? わわわっ……」 驚いたるるかの手からカードが落ち、床の上をするすると滑っていく。 その先に現れた声の主──彼女の同居人であるくれあは、何の気なしにカードを拾い上げてるるかに差し出した。 「はい。……これなんて言うカードなの?」 「……運命の輪……の、正位置もしくは逆位置……」 るるかはカードを受け取りながら、少し恥ずかしそうにに言った。 「へー。るるかって本当に占い好きなのね」 「あう……まあ、うん」 「ふふっ。別に恥ずかしがらなくたって良いのに」 「……だって、全然当たらないから……」 ぶつぶつ言いながらもカードを切り直するるかを見て、くれあは柔らかに微笑む。 「完璧なるるかにも、苦手なものがあるんだね〜」 「……だからこそ、やめられないの」 「負けず嫌いなんだから……でも、そういう所も好きよ」 「……ありがとう。私も大好き」 顔を赤くしてニヤけるるるかに対し、くれあは可笑しそうにくすくすと笑う。 彼女はるるかの隣に座ると、手に提げていた小さなクーラーバッグを机の上に置いた。 「はい、そんな素敵な彼女からプレゼント」 「え、アイス!? 嬉しい……」 るるかは目を輝かせながらバッグを開けて、しかし訝しげに眉をひそめる。 「……でもどうして? 今日は午前終わりでしょう、残り物は貰えないんじゃ……」 「店長のサービス。私と住み始めてからすっかり店に来なくなったから、店長も寂しいのよきっと」 「……そうかしら。例の幻のぬいぐるみが恋しいんじゃないの? どこに行ったかわからないって言ってるのに……」 取り出したアイスを舐めながら、るるかはくれあにもたれかかった。 肩に頭を預け、幸せそうに頬を緩ませる。 「アイスもおいしいけど、あの店の一番の魅力はくれあだから。どっちもここにあるんだもの、わざわざ出かける気になんかならないわ」 「あはは……店長には言わないでおくね……」 そんな態度を鬱陶しがることもなく、くれあは愛おしそうに彼女の肩を抱いた。 ──くれあは知っている。 ある時忽然と消えたあの紫色のぬいぐるみを、昔のるるかがどれほど大事にしていたのかを。 そしてその記憶を全て失ってしまった、彼女の心に潜む不安の大きさを。 自分と同じ苦しみを抱えてしまった愛する人の側に寄り添い、支えになること。 それが今のくれあの、“心のきらめき”だった。 「ねぇ、くれあ」 「ん? なぁに?」 「今日は外暑いし、ずっとここでダラダラしてよう……」 「……そうね。たまにはそういう日があっても良いかな」 「……やった」 わからない。 あの日るるかが言ったその言葉は、今もふたりのなかで不安の影を落とし続けている。 しかし、お互いが側に居れば、それは決して不幸な人生ではないのだろう。 いつか、新しい答えを見つけることができるのかもしれない。 その日まで、彼女達はふたり並んで歩き続ける。 謎も答えもない、この世界を。 終わり