1999年空から恐怖の大王が来る予言も当たらずとも遠からず、世界の形は変わってしまった。 「また一つ増えた」 朝日が差し込む窓辺で、私は自分の手の甲を見つめていた。血管のように浮かび上がった青白い光の線。初めて見つけたときは驚いたものだが、今では見慣れた光景だ。 「華子、朝ごはんよ」 母の声が階段下から聞こえる。返事をして、急いで制服に着替えた。鏡に映る自分の姿を見ると、首筋にも同じような光の模様が走っている。もう隠す必要もない。周囲を見回せば誰かしら体の一部にこの痕跡があるのだから。  居間に入ると、父が新聞を広げていた。テレビからは今日も「境界警備隊」の活動報告が流れている。 「また北区の境界が薄くなってるみたいね」母が食卓に座りながら言った。 「ああ、昨夜は霧が濃かったからな。これくらいの頻度なら問題ないだろう」 私はトーストを齧りながらニュースを見つめた。画面には昨夜確認された境界の揺らぎが示されている。20年前なら考えるだけで恐ろしかった地図上の赤い点々が、今や日常風景の一部になっていた。 「華子、学校では変なものを見つけたらすぐ先生に言うんだぞ」 父の忠告にうなずきながらも、玄関を出ると、夏の朝の陽射しが容赦なく降り注いでいる。隣家の庭では神社庁の佐藤さんが境界結界の点検作業をしていた。 「おはようございます」 「おはようございます、佐藤さん。今日もお勤めご苦労様です」 「昨晩はうるさくして、ごめんなさいね」 彼女の背後には補強したらしい結界。周囲の電柱の並びにはお札が貼り付けられ、朝日に煌めいている。境界の維持作業は今や地域住民の重要な役割の一つだった。 通学路を歩けば、様々な怪異混じりの同級生たちとすれ違う。頭上に小さな羽根を持つ小林君、肌に鱗の模様がある田中さん。そして私のように血管のような光の線を持つ子供たち。 教室のドアを開けると、いつもの騒がしい声が迎えてくれた。友人の真希が手を振っている。 「華子!おはよう!」 「おはよう!真希」 私は笑顔で答えた。 世界は確かに変わった。しかし同時に、変わらないものもあった。 「ねえ、最近の怪異混じりってすごいよね」 昼休み、屋上で弁当を食べながら真希が話しかけてきた。 「そう?」私はオムライスを口に運びながら聞き返す。 「だってほら、ニュースでやってたじゃん。三重県の『海坊主』に混じった漁師さん。海中の酸素量とか水温とか全部わかるようになったって」 「ああ……あれね」  確かに近年になって、怪異混じりの人々の活躍は目覚ましい。境界の崩壊以降、世界各地で生まれた異能者たちは、様々な分野で驚異的な成果を上げ始めていた。 「駅前のアイスクリーム屋さんは『雪女』混じりの店長さんが作るアイスが評判だし、病院では『アマエビさん』が混じったお医者さんの診断はピカイチだって話だし」 真希の言う通りだ。忌み嫌われていた怪異混じりも、今やすっかり社会に馴染んだ存在となっている。 「それに比べて私の能力はね……」私は苦笑しながら自分の手の甲を見つめた 青白い血管のような模様が脈打っている。私の怪異は『トイレの花子さん』。一度訪れたことのあるトイレに瞬間移動できるという、なんとも微妙なものだった。 「でも便利じゃない?体育の授業中に急にトイレ行きたくなったときとか」 「そんな時に限って近くのトイレが全部埋まってたりするんだよ」 実際に先週の体育の授業中、その事態に陥ったばかりだ。校舎内を必死に探し回り、結局は校舎の一番端にある古いトイレを使わざるを得なかった。 「そっか……まあ、でもさ」 真希は慰めるように微笑んだ。 「どんな能力も使い方次第だと思うよ」 「そうだね」私も笑顔で応えた。 実際、この能力のおかげで助けられたこともある。寝坊した朝など一瞬で学校のトイレに移動して、遅刻を免れることができるのだ。まあ、そのあと急いで教室に向かう途中で担任の先生に見つかって怒られたんだけど…… 「ねえ、今度さ」真希が突然声をひそめた。 「市立図書館の地下資料庫、一緒に行ってみない?」 「え?あの噂の……」 「そう!なんか境界崩壊直後の写真とか、昔の都市伝説の記録とか、すごいのがあるらしいんだって」 真希の目が輝いている。好奇心旺盛な彼女のことだ、きっと何としても見てみたいのだろう。 「でも危なくないの?古い場所って何かが潜んでることもあるんでしょ?」 「だから華子に付いてきてほしいんだよ。もし何かあったら、華子の瞬間移動で逃げられるじゃん?」 なるほど、そういう計算だったのか。 「……考えておくよ」私が答えると、真希は嬉しそうに頷いた。 午後の授業が始まり、私はぼんやりと窓の外を見つめていた。青空の向こうに見える山々。その向こう側にあるはずの境界。 20年前、世界は大きく変わった。でも人は適応していく生き物なのだ。どんな環境であろうと、私たちは新しい日常を作り上げていく。 ただ時々思う。あの時、もし境界が崩壊しなかったら、私たちは今どうなっていたんだろう? その答えを探すために、真希と一緒に市立図書館に行くのも悪くないかもしれない。 「華子!考えてくれた?」 「……わかった。明日行ってみよう」  私は観念して答えた。 「本当!?ありがとう!」 真希は飛び跳ねるように喜んだ。 「でも条件がある」 私は人差し指を立てて言った。 「危険だと思ったらすぐに引き返すこと。それから……」 「トイレの場所はちゃんと把握しておくこと!」 二人は顔を見合わせて笑った。 この日常が続く限り、私たちは私たちなりの方法で生きていける。恐怖の大王は来なかったけれど、彼が残した種は芽吹いてしまったのだから。