No.93「+2」 うちのチャビが帰らない。 茶色いふさふさのしっぽを揺らして散歩に出かけたまま、それきりだ。 ふさふさすべすべの毛に触れようとすると“さわるな……”と拒否されてしまうが、私はあの感触が好きでついつい触って嫌がられていたのもいつもの日々だった。 好奇心が旺盛で3時間ほどすれば悠々と帰ってくるのが常だったから、初めはそれ程心配していなかった。 ところが、1日経っても帰って来ない。 お腹を空かせてるんじゃないか。 凍えてやしないだろうか。 不安の募る時間はただ過ぎ去っていくだけで昼も夜も状況は変わらなかった。 チャビが、いない。 いつものようにドアを開けたまま、玄関脇の折りたたみ式の椅子に腰掛けて本を読んでいればひょっこり帰ってくる───気配はない。 期待感はやがて萎んでいき、焦燥へと変わり果てていくがまだ冬の寒さは続いている。 上着を着込み膝掛けをしていても、吹き込む風のせいで玄関の中は屋外とさして変わらない温度になってしまっていた。 ずっと開けっぱなしにはしていられない。 せめてもとの思いで、あの子の好きなカリカリのフードとお気に入りの毛布を玄関ドアの前の石段脇に配置しておいた。 帰ってきてドアが開いていなくても、ここでドアが開く瞬間まで待っていてくれる事を願いながら仮眠のつもりで短い睡眠をとった。 たまたま月曜に有給を取っていての3連休目だ。 これで見つからなければ既に用意した貼り紙を使わなければならない。    ❇︎ ❇︎ ❇︎ おうちに帰れない。 ───1匹のたぬきが、チビたぬきの手を引きながらトボトボと歩いている。 「ないし……ここにもゴハンないし……」 「キュピィィ……チパチパ……」 親たぬきの落ち込む様子を感じ取ったチビたぬきも残念そうに鳴き、ひもじい思いに耐えきれず繋いでいない方の手をしゃぶり倒している。 ある日、飼い主さんがお買い物をしている間に外で待っていた時に電柱の陰から出てきてヨチヨチと近づいてきたこの子を連れてきてしまった。 お腹にスリスリとほっぺを押しつけてきて、とっても懐いてきたからだった。 こんなにかわいいのに、飼い主さんには元いた所に返してきなさいと拒否されてしまった。 満ち足りた生活の中で、チビだけが欠けたピースだと気がついてしまったので、 “いのちにかえてもそだてますし……!” と熱量たっぷりの説得にかかったのだ。 たぬきの熱い言葉を聞いた飼い主さんは、 “そう” とだけ言ってクルマでドライブに連れて行ってくれた。 いつの間にか眠ってしまっていて気がついたら知らない公園のベンチの上で、飼い主さんの姿は無かった。 よく遊んでいた公園とも違うので、随分遠い所で飼い主さんは迷子になってしまったようだ。 仕方がないので、チビと一緒に探してあげている。 お腹が空いたのでついでにゴハンを探すが、ゴハンが何処にもない。 別の所なら残っているかも、とチビが飢え死にする前にと一念発起して公園を離れたが見つからなかった。 とりあえずその辺の草を噛んで柔らかくしたものを、チビと分け合っている。 この街はたぬきに優しくない。 なんてひどい所なんだろう。 ゴハンは見つからないし、遊び場はにんげんのチビ達が占領してしまっている。 食べられそうなモノが入っている袋を見つけたが、にんげんが持って行ってしまう。 どれほど真摯にお願いしても、袋はクルマに呑み込まれてしまった。 飼い主さんが迷子になってから、もう何回お空が暗くなったかも覚えていない。 ろくに食べ物が得られていない状態で甘えてくるチビの呼吸が弱々しい。 「ピィィ……フキュゥゥゥ……」 「チビ……がんばるし……ん、アレなんだし……」 寒さに耐える為に歩き続けているので、どこか寒さが凌げてゴハンのある所はないか目を配りながら歩いていたたぬきは、見逃さなかった。 ドアの前にゴハンの盛られたお皿と暖かそうな毛布が置いてある一軒家を。    ❇︎ ❇︎ ❇︎ 「このおうちは、たぬきのためにゴハンとねどこをよういしてくれてるし……きっとたぬきのことがスキなんだし……」 「キュウウ?」 好き勝手のたまいながら、クンクンと嗅いで一応の安全を確かめるが、久々の食事の前に慎重さは消え失せていた。 ヨダレを垂らすチビをみっともないと嗜めようとする自らも口の端からヨダレがはみ出している。 「ほうら、チビ……いただきますするし……このゴハンもチビにたべてほしいって、いってるし……」 「キュキュウ〜♪ガツガツ……」 たぬきはゴハンの山に顔を突っ込むチビを優しく見守りながら、ふかふかの布を広げて自分とチビを覆うように被せた。 柔らかい手触りがもたらしてくれる多幸感を覚えながら、たぬきは見ず知らずの誰かに感謝していた。 「ぬくぬくのオフトンもあるし……いたれりつくせりだし……チビ、あわてなくていいし……ふふっし……」    ❇︎ ❇︎ ❇︎ 玄関に取り付けてある監視カメラに映っている何かが、餌皿の前で蠢いていた。 「チャビ?」 寝ぼけ眼を瞬かせながら、やっとこの無益な時間から解放される安堵を胸に玄関へと向かう足取りは早かった。 こちらがドアを開ける音に反応して、餌皿の前でうずくまっていた何かが顔を上げる。 防犯用のセンサーライトによって照らし出されたのはたぬきだった。 大きいのと、小さいのが1匹ずつ。 落胆した様子でドアから身を出すと、大きい方は立ち上がって薄汚い顔を向けてくる。 小さい方は手も使わずにいくらか減っているフードの山に顔を突っ込み、がつがつと貪り続けている。 知性というものを、おおよそ感じさせない格好だった。 置いてあった毛布に2匹で勝手に包まって、ゆっくり食事をしていたようだ。 元々落胆の色を隠すつもりはなかったが、ため息が自然と漏れてしまっていた。 「あっ……にんげんさんだし……こんばんはだし……」 まだ17時にもなっていないが真冬の空は薄暗い。 たぬきにとって明るければ朝、暗ければ夜という認識なのかそれとも単にそれしか挨拶を知らないだけか。 どっちでもいいか。   臭い。 冬であっても独特の獣臭は薄れないようだった。 生ゴミとかそんなのを食べているからだろうか。 しっぽなんて、地面に擦れてガビガビじゃないか。 あのボロボロの毛皮にもノミとかいるだろうし、絶対触りたくないな。 家に入られないよう素早くドアを閉めて、自分の体で塞いだ。 大きいたぬきは口元にフードの食べカスが残ったままなのに気がついて、慌てて拭ったりしていた。 「あのね」 「たぬきたちは、まいごたぬきなんだし……」 「聞いてくれる?」 「おそとはとってもさむくて……とってもションボリだったし……」 聞いてもいない身の上話をべらべらと喋り続けるたぬきの、こちらの困惑など意に介さず発した言葉がコイツらの運命を決めた。 「ここはたぬきのコトがスキなおうちとおみうけしましたし……どうかかわいそうなチビといっしょに、いれてもらえたらうれしいし……」 よくもまぁ、べらべらと。 そこにあるのはお前達の為に用意したものではないのだけれど。 礼も謝罪も無いという態度が余計に決断を加速させた。 ふーっと長く息を吐き、この状況を一刻も早く終わらせる為にスマホを手に取り連絡する。 「ごめんね。ウチでは飼えないから」 なんでし?と間抜けな顔を晒すたぬき親子を無視して毛布を回収する。 新しいの買ってくるのが面倒だけど、捨てるしかない。 どんな雑菌が繁殖しているかわからないのだ。 「あっ……し……」 「ギュイイイ!」 ガッカリした様子の大きい方と対照的に小さい方がジタバタと手足を振り回し、駄々をこねる。 多分寒いのに勝手に持っていくなとかそういう文句を垂れているのだろう。 うるさい。 「代わりにたぬきを保護してくれる施設に連絡したから」 ぽかんと口を開けていた親たぬきだったが、しばらく言葉の意味を咀嚼してようやく理解に及んだのかワナワナと体を震わせ始めた。 「よ……よがっだじっ!チビ、これでさむいさむいしなくてもよくなるじっ……!」 「キュ〜?キュッキュウ!」 感動にむせび泣き始めながら、薄汚れた小さな個体と抱き合っている。 そっか。 危機感とかないんだ。 まぁ、別にいいけど。    ❇︎ ❇︎ ❇︎ ゴハンをたべたらノドがかわきましたし……とのたまったので、ペットボトルに汲んできた水道水をもう二度と素手で触れる事は無いエサ皿に注いでおいた。 幼体から絞った血を親たぬきに飲ませてもいいのだけれど、わざわざ連絡して呼んだ人に搾りカスを渡す訳にもいかない。 「ペロペロし……」 「レロレロ……」 と呟きながら子供と共に一心不乱に水を舐めているたぬき親子を無感動に見つめていたら、ニィィと甘える声が聞こえてきた。 茶色いしっぽをくねらせて、しなやかな動きの猫がこちらを見つめていた。 猫は傍らのたぬき達に一瞥をくれてやると、すぐに興味をなくしたらしくドアに爪を立ててカリカリと音を奏でる。 おや、今ごろお帰りですか。 いい気なものですね。 まぁ、いいけど。 振り回される事が日常茶飯事だと自覚しつつも、やはり胸にあたたかいものが灯る実感と共に丸一日半のお散歩から帰ってきた我が家の一員を嫌がるのも構わず抱き上げていると、門扉の前に車が停まる。 車から出てきた男性の作業服にも、車にも市の名前が入っている。 電話で聞いた名前を再び名乗った事を確認してから招き入れると、折りたたみ式の台車を車のバックドアから取り出し、ダンボール箱を載せてやってきた。 会釈の後、まだ水道水に夢中なたぬき親子を見遣る。 子供が催して糞とかおしっこをする前に、早く連れて行って欲しい。 「ご連絡をいただきましたのは、こちらのたぬきでよろしかったですか?」 「わざわざすみません。お願いします」 軍手を付けた職員がたぬきを両脇から抱えてダンボール箱に入れる。 小さい方は大きい方の足が宙に浮く寸前お腹に抱きついたので、一回持ち上げるだけで済んだ。 驚いた大きい方が持ち上げられて箱に着地するまでの短い間ジタバタと足を振り乱したのが、職員の人は煩わしそうだった。 「それでは失礼致します」 「お疲れ様です。よろしくお願いします」 「にんげんさん、ばいばいだし……たぬき、このごおんはわすれないし……」 「キュキュ……」 市の職員が押す台車に載せられたダンボールごと、たぬき親子が連れられていく。 親子ともども手を振りながら神妙な面持ちで何事か鳴いていたが、別にどうでもいいので聞き逃した。 チャビと遊ぼうっと。    ❇︎ ❇︎ ❇︎ ダンボールごとすっぽり収まる巨大なケージが、車の後部に設置されていた。 そのまま格納されたたぬき親子は発車してから特に騒ぎもせずに揺られていた。 このままじっとしていればいい。 この“にんげんさん”が、たぬきを大切にしてくれる場所に運んでくれるのだと信じていたからだった。 しばらく経って、ダンボールごと運びされた先で見上げた白い建物は先ほどのおうちよりも大きく、たぬきの脳内に豪華な暮らしを予感させていた。 「ここではどんなゴハンがたべられるかたのしみだし……チビ、おまえもりっぱにおおきくなるし……」 「キュウ〜♪キュウキュウ♪」 消毒液の匂いがツンと漂う、何も無い廊下を台車が往く。 視界に映る白い壁が流れていく様に、落ち着かない様子でキョロキョロと頭を巡らせるチビたぬきを、親たぬきは愛おしそうに撫でていた。 台車を押す人間は、そのような様子さえ気にせずまっすぐ目的地を見据えていた。 「さぁ、ここに入りなさい」 最低限のやり取りしかしたくないらしい職員はそれだけ告げて後は沈黙を貫いた。 たぬき親子は特にいぶかしむ様子もなく頷いた。 チビたぬきは訳もわからず両手を挙げてご機嫌な様子だった。 「わかったし……」 「キュウッ♪」 開けられた白いドアを潜り、たぬき親子がトボトボと歩いていく。 ずるずると引きずられたチビの小さなしっぽが完全に室内に収まってから、扉は閉じられた。 ガチャン、と施錠される音が廊下に響く。 それきり、扉が開く事はなかった。    ❇︎ ❇︎ ❇︎ ───白い建物の外には、鶯色の外枠に黒いディスプレイが嵌め込まれた電光掲示板が備え付けられていた。 46と刻まれたカウンターが、48に切り替わる。 カウンターの上には『今月の野良たぬき駆除数』と表示されていた。 オワリ