架空イベント「暑い国から帰ってきたスパイ」 Ev1-1 トリアイナ探検隊(おおよそ)南へ  ――――シザーリオ、もう何もかも知っているな。お前には心の秘密の書物も開いて見せた。そこでだ、いいか、あの人のところへ行ってくれ。断られても門前に立ち続け、お目にかかるまでは足に根が生えても動きませんと言うのだ。――――  砂色をした、水アメのように重たげな水面をボートの舳先がゆるやかに割っていく。  葉ずれの音と息づかい。鳥とも獣ともわからない甲高い鳴き声が、遠く近く、絶え間なくひびく。左右にはどこまでも続く濃い緑の木々。その合間をぬって吹き付ける生ぬるい風は、南国の果実の香りをふくんでいる。  ここは地上最後の秘境。アマゾン大密林。 「行く手に待つのは古代の財宝か、はたまた危険なUMAか、しかし、勇敢なトリアイナ隊長はなにものも恐れはしない。探検隊は見た! 密林の奥にあやしくうごめく……」 「お姉ちゃん、うるさい!」  ディオネはキャビンの窓から首を伸ばして怒鳴った。「そこに立ってたら前が見えないでしょ!」 「ごめんごめーん!」  クルージングボートの舳先に仁王立ちしていたトリアイナはぺろりと舌を出す。そして少しだけ横にずれてまた仁王立ちし、満面の笑顔で密林の風を受けた。「だって、アマゾンだよ。地上最後の秘境、全探検家の憧れだよ! 盛り上がるなって方が無理じゃない!?」 「邪魔にならないところで盛り上がってよね、もう」  ぼやきながらも、ディオネも笑う。確かに南米アマゾンのジャングルといえば、ディオネでも「探検」と連想するほどの土地ではある。思えばディオネがオルカに合流したその時から、トリアイナは「いつかジャングル探検に一緒に行こうね!」と言い続けていた。  しかし実際には、南米の熱帯雨林の大半は鉄虫の支配領域であり、まずは制圧作戦を展開してからでなければのんきに探検などできるものではない。その上なにしろ密林であるから重要な工業インフラがあるわけでもなく、大規模な火力展開もしづらく、さらに地球環境の面からもむやみに開発すべき地域ではないため、制圧の優先度はかぎりなく低かった。何度も要望書や企画書を提出し、時には軍部に協力して水先案内を務めたりして、ようやくある程度安全性の見積もりがとれた上で、偵察を兼ねた探索行の許可が下りたのだ。慣れない書類仕事にも弱音一つ吐かずコツコツ頑張っていた姉の姿を思い出せば、怒る気にもなれない。 「隊長隊長トリアイナ隊長! すっごいの見つけた! 世紀の大発見かも!!」  そして今回は、新しい隊員も加わっている。屋根の上を騒々しい足音が駆け抜けたと思うと、目の前のデッキにひらりと飛び降りたミニスカートは080機関のエージェント、トモだ。 「ピンクよ! ピンク色のイルカ! お酒を飲むと見える幻覚だって聞いてたけど、実在したのよ! 私触ったもん、ほらほら!」 「あはは! それはアマゾンカワイルカっていってね、幻覚じゃないよ。アマゾンに昔からいるイルカなの」 「えー、そうなの!? なーんだ」 「あと、アルコール幻覚として有名なのはピンクの象だよ~」  舷側からのんびりした声が投げられる。もう一人の新人隊員、ドクターはさっきから船べりにいくつもの網やら機械やらを垂らしては、時折引き上げて興味深そうに眺めている。 「それは何してるの?」 「んー、水質とか、微生物とか調べてる」おだやかな、ほとんど眠たげな顔でドクターは答える。「ここんとこ調査やらなにやらで忙しかったからさー、こういうのんびりした仕事したかったんだ。あー、やっぱり水質だいぶよくなってるなあ」 「そうなんだ」 「人間活動がなくなると、やっぱり効くね。北米に比べてPECSの手もそれほど入ってないみたいだし……」試験管の中のうす茶色く濁った水にレーザー光を当てて、ドクターは機械の数値を読み取っている。「あ、この先上流に行くと鉄虫がいるかも」 「水でそんなことまでわかるんだ!?」ディオネは目を丸くした。 「まだ研究中だけどね」ドクターは手元のパネルに何かの数値を打ち込んで、「だから確実じゃないけど、用心はしといてね」 「大丈夫大丈夫! この私がいるからには鉄虫なんて天地無用よ!」  トモがカラカラと笑う。スパイというのはもっと知的でクールなものだと思っていたが、と失礼なことを考えるディオネを尻目に、トモとトリアイナはよほど気が合ったのか二人で船首から船尾へとせわしなく駆け回ってははしゃいでいる。 「みてみてあれ、青いオウム! 熱帯っぽーい!」 「ほんとだ、捕まえて帰ったら幸せになれたりして」 「おっ、スミレコンゴウインコじゃない。絶滅危惧種だったはずだけど、あんなのも復活したんだねー」 「あっワニ、ワニがいるわ! いっぱい泳いでる、すごい目がでっかい!」 「メガネカイマンだね。夜行性だから昼間は大人しいはずだけど、気をつけてね」 「あれ何!? 金ぴかのサナギみたいのが木の枝からいっぱい下がってる! 新種の鉄虫!?」 「トラフトンボマダラっていう蝶の蛹だよ。金属光沢がまわりの色を映して隠れやすくするんだって」 「水の中に納豆みたいなのが浮いてるわ。誰かの食べ残しかな?」 「それたぶんカピバラのうんち」 「ドクターちゃん、何でも知ってるのね!」トリアイナが感心して大きな声を出した。「探検隊の科学担当にならない?」 「へへへー。嬉しいけど、私はもう080機関の科学担当で、オルカの科学顧問も兼ねてるからねー。これ以上の兼任は難しいかな」 「そう、残念……あっ、ほらほらあれは? あの岸辺の変なの」 「んー? あれはオオオニバスの葉」 「それじゃなくて、そこにくっついてる白い、溺れた子供みたいな形したやつ! あれ何?」 「え? うーん、あれは……」  しばらく目をこらしていたドクターが、ぴょんと飛び跳ねる。「溺れた子供だ!」 「ええ!?」  騒然となる船内。ディオネはすぐさまキャビンを飛び出し、救命浮き輪を手にして舷側へ駆けよる。 「お姉ちゃん、舵お願い!」 「危ないよ! ワニがいるのよ!?」 「だったらなおさら急がないとでしょ!」そのまま川へ飛び込んだディオネは、生ぬるい水をかき分けて岸へ泳ぎだした。  ボートに引き上げられたのは、端整な顔立ちの少年だった。少なくとも、そのように見えた。 「いやー、危ないところだったわ。そりゃあ男の子は元気な方がいいけど、夏の水場には気をつけないと……」お姉さんぶって説教をはじめたトモがふと怪訝な顔をする。 「……ん? 男の子?」  トモの疑問に誰かが答える前に、少年が身じろぎし、咳き込んで少しの水を吐いた。 「大丈夫?」 「オ……ル…………カ……」 「!?」 「オルカの……司令官……に……」  それだけ言うと、少年はふたたび意識を失った。 Ev1-2 局長閣下の少年スパイ 「バイオロイドの男の子が救助された!?」 「いえ、それは誤認でした。女性バイオロイドです。ただし、男装の」  思わず立ち上がって大声を出した俺に、レモネードベータが冷静に答えた。 「なんだそうか……男装?」  俺はすとんと腰を下ろし、報告書の続きを読んだ。ディオネが来てからというもの、トリアイナ探検隊の報告書が格段に読みやすくなって助かる。 「ふんふん、大きな怪我はなく疲労と衰弱のみ。重大な発見と判断し、探索を中断してカラカスまで連れ帰ってきた、と……今はどこに?」 「この大統領宮の一階に待機させています」ベータが自分のパネルで情報を確認する。「治療と身体検査、予備尋問は済んでおり、危険性は低いとのこと。お会いになりますか?」 「ああ、行こう」  報告によれば、そのバイオロイドは俺の名を口にして気を失ったという。合流を希望するどこかの共同体のメンバーだろうか。あるいは、またぞろPECSの仕掛けた罠なのだろうか? いずれにせよ、この目で確かめてみなければ始まらない。俺は立ち上がって執務室を出た。 「で、どうして男装?」 「私にもわかりませんが、シラユリさんが説明して下さると思います。080機関のモデルとのことでしたので」 「ご足労をおかけして申し訳ありません」  とにかくだだっ広いこの大統領宮に無数に存在する、使われていない客間のひとつに入ると、シラユリとニッキーが一礼して俺を出迎えた。部屋のすみにはサディアスが腕を組んで待機している。そして、中央にぽつんと置かれた椅子に「彼女」は座っていた。  白い半袖のシャツに半ズボンとスニーカー。栗色の髪を長く伸ばして、うしろで無造作に束ねている。キリッとした顔立ちは、服装とあわさって確かに男の子にしか見えない。  大きな切れ長の目が、警戒するように俺をじっと見上げている。 「装備は取り上げていますが、あまり近寄らないようお願いします」シラユリは小声でささやいてから、彼女の方へ向き直った。 「こちらが私たちの主人、オルカの司令官様です。ヴァイオラ、もう一度自己紹介を」  ヴァイオラ、と呼ばれたその子は、口をちょっともごもご動かして、何度か咳払いをしてから口を開いた。 「ジャン=ジャック・ヴァイオラ、h307号機。080機関本部所属のエージェントだ……です」  少しハスキーな声も少年っぽい。 「ジャン=ジャックは任務コード、ヴァイオラがモデル名です」シラユリが補足した。「ヴァイオラモデルはご覧の通り、少年に偽装したエージェントです。男子校や男子寮など、女性が入りにくい場所への潜入任務のため開発されました、旧時代にはそれなりの数が出ましたが、滅亡戦争で一機も残らなかったはず……あなたは一体、どこから来たのです? 本部とは?」 「おれ……オレ、あの」  ヴァイオラは一生懸命に言葉を探しているように見える。俺はシラユリと、背後にぴったり付き添っているリリスに目で同意をとると、しゃがみ込んでヴァイオラのすぐ前まで移動し、彼女と視線を合わせた。 「慣れない言葉遣いはしなくていい。俺に会いに来たんだって?」  ヴァイオラはしばらくの間、きょとんとして俺を見つめていた。  それからぶるっと身震いをし、ぎゅっと目をつぶってから、前よりずっとハキハキした声で話し始めた。 「そうだ。オレは080機関の局長命令で、オルカの司令官に会いに来た。局長があんたに会いたがってる。オレと一緒に本部まで来てほしいんだ」 「!?」  シラユリが身体をこわばらせるのがわかった。 「……いきなり言われても、すぐにハイとは言えないな」俺は慎重に答えた。「局長っていうのは、080機関のトップって意味か?」  ヴァイオラが頷く。 「それは、何者なんだ?」 「わからない。オレは一度も会ったことないんだ。ただ命令を伝えてくるだけで」  俺は背後のシラユリに目をやった。彼女も同じく首を振る。 「080機関の局長が何者なのかは、私も知りません。……だからといって、その子の言う局長が本物だとは限りませんが」 「疑うのかよ!」ヴァイオラが声を荒らげた。「局長は本物だ。オレを復元したのも局長なんだ」 「なぜ俺に会いたいんだ?」 「敵がいる」  そこだけは奇妙にしずかな声で、ヴァイオラは言った。「この南米のどこかに、あんた達オルカの敵が眠っていて、もうじき目覚めようとしてる。その話をしたいんだって」 「フワッとした話だな……オルカの敵って、どういう意味だ? 鉄虫はいるけど、奴らは別に眠ってなんかないよ」 「オレは知らない。詳しいことを知ってるのは局長だけだ」 「どうしてその局長が、自分でここへ来て話さないのですか?」 「本部から出られないんだ。前にそう言ってた」 「どうして?」 「わからない」 「私、旧時代からずっとヨコハマ支部にいたんだけど」ニッキーが一歩前へ出た。「滅亡戦争からこっち、本部から連絡があったことなんて一度もないわ。本部と局長が本当に健在なら、今まで何をしていたの?」 「……わからない。オレが復元されたのは三年前だから」 「あれも知らない、これもわからない。それで私達の信用を得られると思っているんですか?」シラユリが冷たい声を出した。「本部所属という割には、インテリジェンスの基本がなっていませんね」 「教えられてないんだよ、本当に」ヴァイオラは強情に言い張った。「あんたみたいな上級エージェントなら、嘘を言ってるかどうかわかるだろ。時には正直に話すのが一番のインテリジェンスだって、オレは習ったぜ」 「ふん」シラユリはそれ以上何も言わなかった。 「もう少し話を聞かせてくれ。君自身はその局長の下で、何をやってたんだ? つまり、今回の命令を受けるより前は」 「いろいろだけど……まあ、情報収集だ。ドローンを飛ばして、集めてきたデータの整理をしてた。鉄虫とか、あんた達とか、レモネード達のな」 「俺たちの? たとえば、どんな情報?」 「レモネードベータがあんた達の傘下に入ったこと。カラカスに来ていたレモネードオメガが、ケス……なんとかいう装備を奪って北米へ逃げ帰ったこと。それにレモネードゼータが絡んでること」 「…………」  俺はシラユリ達と目を見交わした。彼女と、彼女のバックにいる何者かが、こちらの詳細な情報を持っていることは間違いなさそうだ。 「君の言う本部ってのは、どこにあるんだ?」  ヴァイオラは俺の目をまっすぐ見て答えた。 「ジャブローだ」 Ev1-3 今そこにある危機 「問題外だ。私だったら即追い返す」  サディアスはまるで虫を払うように手を振って、きっぱりと言った。  ヴァイオラの要請を検討するため、俺たちはいったん彼女を残して別室に移動した。真っ先に口を開いたのがサディアスだ。 「あの子、嘘はついてないわよ。別室でこっそりエンジェルに見てもらってたもの」 「そういう問題じゃない。本職のアンタがわからんはずないだろう? あのヴァイオラって子供は明らかに最小限の情報しか与えられていない。嘘をつきたくてもつけないよう仕組まれてるんだ、背後にいる何者かに」 「そりゃまあ、そうだわね」サディアスの返答を予期していたように、ニッキー・トレイシーは軽く肩をすくめた。 「だいたい、奴の言う敵ってのはなんなんだ。ベータ、何か心当たりはあるか?」  サディアスのするどい言葉に、ベータは首を振る。 「ですが私たちが把握しているのは南米大陸のごく限られた地域だけです。特に南部についてはほとんど何もわかっていないので、そこに何かある可能性は否定できません」 「PECSでさえ把握していない情報を、080機関は入手できると?」サディアスが今度はシラユリへ目を向ける。 「ありえないとは言えません。本部が本当に動いているならば、ですが……」 「それもどうだかわからないんだろう。結局確かなことは何一つない」 「モジュールを確認したけど、あの子が復元されたのは本人の言う通り3年前。つい最近だよ」ドクターが口を挟むと、サディアスはますます渋面になる。 「つまり、黒幕は少なくともバイオロイドを復元する権限を持っているということだ。容易ならぬ敵と見るべきだ」 「敵だとは限らないじゃない! それはさすがに決めつけが過ぎるわ」 「敵かどうかわからない相手は敵として考える。捜査の基本だろうが!」 「まあまあ、一つずつ確認していこう」俺は皆をなだめるように手を上げた。 「まず、080機関の局長ってのはどういう人物だったんだ。シラユリも知らないっていうのは本当なのか?」 「本当です。局長の正体は機関の最重要機密の一つでした。私の記憶モジュールにあるかぎりでは、機関のエージェントで局長の正体を知っている者も、会ったことのある者も一人もいません」  俺はニッキーとドクターの方を見る。二人もそろって首を振った。 「人間ではなかったということでしょうか?」ベータが訊ねる。 「それも不明です。ある時期までは人間が務めていたのは確かのようですが……」 「第二次連合戦争が始まった頃にはもう、『無人の局長室』といえば機関の七不思議の一つだったわ。本部の局長室には、いつ行っても誰もいないんですって」 「本部ね……」俺はあごをさすった。「それがジャブローにあるのか? っていうか、ジャブローってどこ?」 「旧ベネズエラとコロンビアの国境近くの密林地帯の名称です。ただ本部というのは……嘘ではありませんが、正確でもありません」 「もともと080機関には、決まった本部はないんだよ」ドクターがあとを続けた。「どこが駄目になっても他の支部で代行できるよう、複数の場所に司令機能を分散させてるの。でもその中でも、特に機能や設備が集中してる大規模拠点がいくつかあって、状況に応じてそのどれかが本部の役割をすることはあった。ジャブローはそういう場所の一つだね」 「……局長はそこから出られないんだと、ヴァイオラは言ってたよな」  すぐ連想したのはマーリンのことだ。ポーツマスで彼女は脳だけを取り出され、プリドゥエンの制御ユニットとして組み込まれていた。 「バイオロイドなんだろうか?」 「AIかもしれません。AGSかも」シラユリが言った。「先ほど言った通り、正体は不明です。本当に080機関の関係者なのかも疑うべきです」 「そんなに疑ってたらキリがないじゃない? 少しは人を信じる心を持たなきゃ」 「エージェントにあるまじき発言ですね」 「アンタはずいぶんあの子が気に入ったようだな?」サディアスが皮肉っぽく眉を吊り上げると、ニッキーもにやりと笑って答えた。 「だって可愛いじゃない? あの子が発見されたっていう岸辺からジャブローまで、ざっと1000kmあるわ。鉄虫もいるし、命がけの旅だったはず。あんな小さな子が、それだけの距離を越えてはるばる私達に会いに来たのよ。グッとこない?」 「ああ、グッとくるとも」サディアスは腕を組んで鼻息を吹いた。「そういう同情を誘うために子供を使う犯罪を、私は山ほど見てきた。容疑者に同情しそうになった時はまず、そのことを思い出すようにしている」 「ああ言えばこう言うんだから!」 「お互い様だ!」 「二人とも、そこまで。俺はジャブローへ行こうと思う」  俺はきっぱりと言った。  ヴァイオラの言うことが真実なら、彼女の頼みを聞かないわけにはいかない。もし嘘でも、バイオロイドを復元する権限と、俺たちに関する知識。そしておそらくそれ以上の何かを持っている相手がジャブローにいるのは間違いない。何者であるにせよ、放っておくことはできない。 「もちろん、罠である可能性は十分に考慮する。鉄虫にも遭遇するはずだし、最小限の人数で十分な戦闘力を持った部隊を選抜してくれ」 「かしこまりました」  数日後、遠征部隊の編制が完了したとシラユリから連絡があった。 「今南米にいる人員だけで編制したので、やや強引ではありますが……」  まず、080機関全員。つまりシラユリ、ニッキー、ドクター、エリー、エイミー、トモ。そしてもちろんヴァイオラ。  戦闘要員として、バミューダチームからエキドナ、ネオディム、ファントム、シェード。バミューダのみんなはカラカスに休暇を過ごしに来ていたところで、急に任務をあてがわれてエキドナは不服顔だったが、 「ジャングルで食べるキャンプ料理は美味しいですよ」 と言ったら二つ返事でついてきたそうだ。  その約束を果たすためにソワン。今回は長旅になる可能性があるが、持っていける物資の量にも限りがある。彼女がいれば何があっても食事の心配だけはない。  俺の護衛としてセレスティア、ブラックワーム、スノーフェザー。みんなグアム島で長く暮らして熱帯の森に慣れているし、息も合っている。おまけにセレスティアは言わずと知れた森と植物のエキスパートだ。この三人がいれば、最悪の場合でも俺一人だけはカラカスへ帰還させられるという想定である。そんな事態にするつもりはないが。  最後に探検隊長としてトリアイナと、付き添いのディオネ。……いや別に探検ではないんだけど、一緒に来ると言って聞かなかった。まあヴァイオラを救助したのは彼女たちだし、いれば役に立つだろう。  総勢17名と1機。決して大部隊とはいえないが、十分な戦闘能力とサバイバビリティを兼ね備えた精鋭ぞろいだ。 「装備と物資をととのえるのに、あと一日ください。明後日には出発できます」 「ありがとう、シラユリ。十分だ。ヴァイオラも、それでいいか?」 「え……あ……うん」  目指すは密林の奥深くに眠る秘境ジャブロー。ジャングルクルーズの始まりだ。 Ev1-4 オリノコの青い流れ  水しぶきとともに、濃い緑のにおいをふくんだ風が吹きつける。  激しいエンジン音が森のざわめきを切り裂き、周囲の木々がめまぐるしい速度で後ろへ流れていく。  森の彼方にはひらたい頂のテーブルマウンテンが遠くかすんでそびえている。その向こうの空は痛いほどに明るい青。時折その空をよぎる鮮やかな色彩は熱帯の鳥だろうか、蝶だろうか。  目指すはジャングルの奥、遙かなるジャブロー。道中に何が待つのか、今はまだ誰も知らない。それでも、俺たちは決して恐れたりはしない。そう俺たちは…… 「司令官、トリアイナみたい」 「えっ!?」トモの言葉に、俺は愕然として振り返った。 「俺、声に出してた?」 「うん。こないだの探検の時のトリアイナとそっくりだった。やっぱりボートの先っぽに立ってさ」 「マジか……」  頭の中のナレーションが漏れていたのも恥ずかしいが、それがトリアイナそっくりだというのが何というか、こう、ショックだ。俺は咳払いをして、ホバークラフトのフォアデッキからとぼとぼ降りた。 「キャプテン、なんか失礼なこと考えてない?」 「いやいや、そんなことないぞ。最高の探検隊長に似てるなんて、嬉しいなあ!」  俺たちは今、二隻のホバークラフトに分乗してオリノコ川を遡っている。  目指すジャブローは鉄虫の支配領域のど真ん中にあり、空路は使えない。となると、川を使うのが一番速い。 「でもやっぱり、ホバークラフトはちょっとロマンに欠けるよねえ」トリアイナが口をとがらせた。 「今回はただ探検に行くわけではないんです。目的のある作戦なのですから、最も速く安全な手段をとるのは当然でしょう」 「この先にはいくつか滝もあります。滝といっても、ちょっと段差のついた急流という程度のものですが、ボートでは通れません。その点、このホバークラフトなら無視して渡ることができます」  実は俺もボート……できればカヌー……を想像していたのは黙っておくことにした。 「司令官様~、喉は渇きませんか?」  通り過ぎていく木々の、壁のように立ち上がる大きな根っこをぼんやり眺めていると、見たこともない真っ赤な果物が横から差し出された。セレスティアがにこにこ微笑んでいる。 「ご主人様、虫除けを塗りなおす時間です」  反対側ではブラックワームが、つんとくる臭いの薬瓶を手にしている。俺は果物を受け取って一口かじった。甘酸っぱい、ヨーグルトのような味がする。 「その薬なら朝塗ったよ。行く前に予防接種も受けたし、大げさじゃない?」 「大げさではありません。私達バイオロイドは遺伝子デザインでほとんどの感染症を回避していますが、ご主人様はそうではないのです。ここのような熱帯では特に、ご自身が特別な存在なのだということをお忘れにならないでください。リリスお姉さまからも厳命されています」 「わかった、気を付けるよ」  俺は大人しく両腕と首筋を差し出し、ブラックワームが薬を塗るにまかせた。 「熱帯経験者の二人からみて、アマゾンはどうだい?」 「大きいです」首筋に薬をすり込んでくれながら、ブラックワームがちょっと困ったような顔で言った。「広さも高さも、まるでスケールが違って……私たちの経験が役に立つのかどうか、すこし不安になっています」 「グアムにはこんなに大きな川も、湿地もありませんでしたからね~。これが作戦でなければ、少し降りて散歩をしたいくらいです」 「少しならまあ、いいんじゃないか?」  スースーする首筋を回して、ふと二号艇の方へ目をやると、ネオディムとエキドナが舷側から身を乗り出して、何やら大きな網のようなものを引っぱっていた。 「重い……」 「がんばって引くのよ。もっと、もっと、ほら!」  かけ声とともに水面が割れて、灰色っぽい色をしたとんでもなく巨大な魚が姿を現す。どうやら二人して磁力で金網を作り、漁をしていたらしい。エキドナの背丈より大きな魚が甲板でドタンバタン暴れるのを、二人ともどうしたらいいかわからずオロオロしている。 「あら、ピラルクですか」  キャビンから上がってきたソワンが、二号艇の方をちらりと見た。「あれだけ大きければ、夕食のメインにちょうどよさそうですわね」 「食べられるのか、あれ」 「淡泊で美味しいですわ。エキドナさん、今行きますからそのまま押さえていて下さいまし」  ソワンが包丁を取り出して、ひらりと跳んで向こうの艇へ移る。包丁が一瞬ひらめいたと思うと、何をしたのか暴れる巨大魚がピタリと動かなくなった。さすがだ。  向こうの艇のリーダーであるシラユリとニッキーに、ネオディムが嬉しそうに何ごとか話している。シラユリは見るからに聞き流しているが、ニッキーは笑いながら船尾の方へ歩いていき、ダイビング用のデッキからぶら下がってコートの袖を川へ突っ込んだ。  途端、バチッというものすごい音がして、青白いスパークが四方八方へ川面を走り抜ける。水面が一瞬燃えるように波立ち、そのあとから大小さまざまな魚がぷっかりと浮かんできた。  ケタケタ笑うニッキーの頭をシラユリが張り倒す。船倉に待機していたらしいシェードが浮いた魚をひろいに出動し、ネオディムもあとに続く。 「見てくださいな、こんなに大きなタガメがいましたわ!」 「きゃーっ!?」  こっちの艇でも、エリーが水面から何やら巨大な虫をひろい上げて、ヴァイオラに悲鳴を上げさせたりしている。エリー、意外とおてんばだからな……。 「俺もなんか捕った方がいいのかなあ」 「計器が駄目になっちゃったよ! ニッキーお姉ちゃんのバカ!」  さっきまでこっちの艇の舷側で何か測定していたドクターが、ぷんぷん怒りながら船首まで上がってきた。「お兄ちゃん、ワニでも捕る? ハープーン・ガンくらいなら、すぐ作ってあげるけど」 「いや、そういうのはまた明日にしよう」俺は苦笑いをする。「何を調べてたんだ?」 「水質分析の研究を、ちょっとね。たぶんだけど、このあたりは鉄虫があんまりいないみたい」 「そんなことがわかるのか、すごいな」俺は素直に驚いた。「でも確かに、鉄虫の支配領域に入るんだからもう少し出くわすと思ってたな」 「元々人間があんまり住んでなかった地域だからね」測定機器を点検しながら、ドクターはふと目を上げて水面の向こうの森を眺めた。「知ってる? 旧時代の終わり頃、アマゾンの熱帯雨林は開発が進みすぎて、酸素より二酸化炭素を多く吐き出してたんだ。人間が滅亡して50年くらいたった頃、ようやく収支がトントンに戻ったの」 「へえ……」  アマゾンはその膨大な植物量で大量の酸素を生み出し「地球の肺」と呼ばれている……くらいのことは本で読んで知っていたが、旧時代にはそんなことになっていたのか。 「じゃあ、このへんはそんなに急いで鉄虫を追い払う必要はないのかもな」 「そうかもね。でも、ほっといて鉄の塔みたいのを作られたら、それはそれで問題だし」点検を終えたドクターが立ち上がって背筋をのばす。「あ、フェザーお姉ちゃん達が帰ってきた」  見上げると抜けるような空から、フェザーと、彼女に抱きかかえられたファントムが舞い降りてくる。ファントムは大きな籠を抱えているようだ。 「周辺に鉄虫は見られませんでした。ただ3kmほど上流の、川が曲がっているところに金属反応があったので、そこで戦闘になるかもしれません」 「食べられそうな果実を目に付いただけ採ってきたが、食料の足しになるだろうか」 「あら、ありがとうございます」いつのまにか戻ってきていたソワンが、ひょいと籠の中身を確認する。「ふむ、半分ほどは使えそうですわ。残りも潰して焼けば何かになるでしょう。あとはキノコが少し欲しいのですが、さすがに未知の土地では……セレスティアさん、さっき森歩きをしたいと仰っていましたわね。お願いできまして?」 「あら! お任せください~。美味しいキノコをいっぱい増やしちゃいますよ~」  夜には、川幅が広くて流れの落ち着いたところへ停泊する。二隻のホバークラフトを横に並べ、あいだに板を何枚も渡して即席の宴会場を作って、みんなで晩ご飯だ。 「ピラルクの塩蒸し、ブラジル風ですわ。ふかしたヤムイモと一緒にピメンタ・ソースでお召し上がり下さい。それからこちらは川魚と森の幸のアクアパッツァ。ア・ラ・フードル(稲妻風)とでも名付けましょうか」 「おおお、いただきます!」  やっぱりソワンに来てもらってよかった。野趣あふれる大皿料理をみんなでつつきながら、涼しくなってきた川風を浴びると、見知らぬ土地にいるのだという気持ちがひしひしと湧き起こってくる。  オルカ号に乗っていた頃は、あの艦だけが俺の故郷だった。どこへ上陸してもそこは知らない土地で、目的を果たした後はオルカへ戻った。  今はヨーロッパがある。南米もある。俺たちは見知らぬ土地へ出かけて、見知った土地へ戻っていく。俺たちは旅ができるようになったのだ。 「それ、食べないの? もらっていい?」  感慨にふけっている俺の皿へ、口いっぱいに料理を頬張ったエキドナが手を伸ばしてくる。ソワンに睨まれて、あわてて引っ込めた。俺は笑って、自分の皿の料理をすこし、エキドナとネオディムに分けてあげた。  明日もこんな風に平和に終わるとは限らない。だからこそ、今夜を楽しみたかった。 Ev1-5 ヴァイオラ・アイデンティティ  ――ジャン=ジャック!  ――ジャン=ジャック、昼休みだ、サッカーしようぜ!  ――裏山へ虫取りに行こうよ、ジャン=ジャック!  本当は。  本当は、サッカーも虫取りもそんなに好きじゃない。本を読んだり、編み物をしている方がいい。  ――ジャン=ジャック、隣のクラスのやつらとケンカだ! お前が来てくれれば怖いものなしだぜ!  本当はケンカなんて怖い。でも、 「任せとけ! ぶちのめしてやらあ!」  わたしは男の子。元気で生意気な、皆のリーダー。誰もにそう思われていなくてはいけない。弱い自分なんて、決して見せるわけにはいかない。本当の自分なんて、いらない。  ――自分の名前を言えるかね。  暗闇の中で、誰かが問いかけてきた。まだうまく動かない口で、わたしは答える。「ヴァイオラ……ジャン=ジャック・ヴァイオラ……です」  ――一番最近の記憶は?  まだうまく動かない頭で、わたしは考える。「走って……森の中を……傷ついて、逃げています……帰ろう……帰らなくては…………に……」  ――けっこう。無理に思い出そうとしなくていい。  ――仕事はたくさんある。おそらく、復元できるバイオロイドは君が最後になるだろう。  ――ジャン=ジャック・ヴァイオラ。オルカに向かえ。  ――君一人で行くのだ。誰も手助けはしてやれない。もはや我々には、飛ばせるドローンの一台もない。君が080機関最後のエージェントだ。  ――頼んだぞ、ジャン=ジャック・ヴァイオラ。……私のシザーリオ。 「…………あ……」 「気がついたかい」  火のそばに寝かせていたヴァイオラが、小さく身じろぎをした。  もうとっぷりと日は落ちている。俺は焚き火に枝をすこし足してから声をかけた。 「司令官……?」ぼんやりとこちらを見てから、ヴァイオラはがばっと飛び起きた。 「お、わ、オレ何を……ここ、どこ!?」 「落ち着いてくれ」俺は慌てて手を振って彼女をなだめた。「覚えてないか? 鉄虫の大群に襲撃を受けたんだ」 「え……? あ……!」ヴァイオラは額をおさえて、さっと青ざめる。 「そうだった……ホバークラフトがひっくり返って、オレ、溺れて……」  だんだん思い出してきたようだ。俺は頷いて、先を続けた。 「意識を失った君を拾い上げたけど、みんな散り散りに逃げるしかなかった。ここには俺と君だけだ」 「そんな……」  ヴァイオラは不安げに周囲を見回す。ここは背の高いパンヤノキの根元だ。巨大な板根を壁がわりにして、防水シートで簡単なキャンプを作っている。とりあえずは安全だろうが、焚き火の明かりが届く距離から先は塗り込めたような闇だ。 「夜動くのは危ない。明日、明るくなったらみんなを探す。魚を獲ったんだ、食べるかい?」  俺は枝に刺して焼いていた名前も知らない川魚をとって、ヴァイオラの方へ差し出した。とまどいながらも立ち上がった彼女の身体から、かけてあったアルミブランケットがすべり落ちる。 「あ」 「きゃあっ!?」  白い肌をつつむ、レースとリボンのついた可愛らしいミントグリーンの下着。びっくりするくらい可愛い声を上げて、ヴァイオラはしゃがみ込んでしまった。 「ごめん、忘れてた。濡れたままじゃ体に悪いから脱がしたんだ」俺は火の向こうに吊してあったシャツとズボン、靴と靴下をとって放る。「もう乾いてるから」 「…………」  ヴァイオラはいそいで服を身につけ、ひったくるように魚を取ってかぶりつく。俺も自分の枝を取り、しばらく二人で黙ったまま黙々と魚を食べた。 「熱っ……うま」 「塩ふって焼いただけでも、結構うまいもんだよな」  骨までしゃぶるようにして食べ終えてから、俺はポーチから粉末飲料のスティックを出す。「コーヒーとココア、どっちがいい?」 「コー……」言いかけて、ヴァイオラは口ごもった。「ココア」 「オッケー」  アルミのマグを手にして、しばらく無言の時間が過ぎる。  栗色の髪が、焚き火の明かりに照らされてきらめいている。澄んだ瞳をふちどる睫毛が長い。少年のようにふるまっていても、やはり女の子なんだな、と感じる。 「……おかしいだろ」俺の視線に気づいたのか、ヴァイオラがぽつりと言った。 「何が?」 「オレみたいなのが……あんな女の子っぽい下着でさ」 「ああ、それか。別におかしくないよ、可愛いじゃない」 「か、かわ!?」白い頬が一瞬で、耳まで赤く染まる。  実をいうとちょっと意外に感じたのは確かだが、それを今この流れで口にするほど俺も無神経ではない。 「オルカに下着のドレスコードはないからね。誰がどんな下着を着てようと、文句をつけるやつはいない。むしろ君のなんて、ものすごくちゃんとしてる方さ」  こっちは偽らざる本心だ。何しろオルカには、それはもう想像を絶するような下着を着けていたり、着けていなかったりする子がゴロゴロしている。それに比べたらミントグリーンのレースの下着なんて、どこに着ていっても恥ずかしくないどフォーマルと言うべきである。 「……ふふっ」  握りこぶしまで作って力説する俺の顔がおかしかったのか、ヴァイオラはふいに笑った。 「オレさ……」 「うん?」  ヴァイオラはそこで言葉を止めた。だまって待っていると、ヴァイオラは立ち上がって焚き火の向かいから、俺の隣へやってきた。 「……ね、すこし話、していいかな」 「もちろん。いくらでも」  またしばらく黙ってから、ヴァイオラはもう一度口を開いた。 「オレ……オレ達、ヴァイオラモデルってさ、男の子に化けるのが役目なんだ」 「ああ、そうだってね」  バイオロイドは女性しかいない、というのが常識となっていた時代。男だけの環境では「ここにはバイオロイドはいない」という思い込みからの油断を、警察や軍関係者でさえ侵すことがあったという。その裏をかくために開発されたヴァイオラはかなりの成果を上げたそうだ。 〈子供の姿なのは、それが成長の限界だからです〉シラユリはこうも言っていた。〈バイオロイドの肉体は女性的身体特徴が過剰に発現しやすいので、第二次性徴前の年齢でないと男装はできませんでした〉 「すごかったんだぜ、オレ達。大人をスパイして、国家機密を盗んだり、クラスメイトをテロから守ったりしてさ。まあ、オレはモジュールの知識で知ってるだけなんだけど」 「大変だったろうな」 「そりゃもう、命がけさ」 「そうじゃなくて、いやそれもだけど。男のフリをするってことがさ」 「えっ?」  ヴァイオラは意表を突かれた顔で俺を見た。  エイミーやシラユリからも、潜入任務の話を聞いたことはある。彼女達は慣れた仕事のように言っていたが、本来の自分と異なる性格を演じる……それも常に演じ続けるというのは、かなりのストレスがかかることのように俺には思えた。アルファがデルタに化けたときだってそうだ。日常的に違う性別になりすますなどというのはどれだけの心労だろう。 「普段の暮らしが相当、しんどかったんじゃないか?」 「…………」  ヴァイオラはなんだかもじもじと、何度も俺を見たり、視線を落としたりしてから言った。「…………うん。あのさ。オレ、本当はさ」 「うん」  沈黙が落ちた。俺は焚き火の炎を見ながら、ひたすらじっと待った。 「ほんとは……可愛い服とか、お人形とか…………好きでさ」 「うん。いいじゃん」 「…………いいのかな?」 「何も悪いことなんかないだろ」  俺は乾いた葉っぱを拾って、焚き火へ投げ込んだ。ぱっと鮮やかな炎が立つ。  実のところ、なんとなく予想はついていた。虫が苦手だったり、毛先を気にしたり、エリーのドレスをうらやましそうに見ていたり。彼女のちょっとした仕草を見ていて、 (この子は本当は、とても女の子らしい性格なんじゃないか?) とは、ずっと思っていたのだ。 「ブラインドプリンセスって知ってる?」 「え、もちろん!」ヴァイオラは勢いよくうなずいた。「そうだ、オルカにいるって聞いた! カラカスにいたの?」 「今はヨーロッパの方にいるんだ。会いたい? この作戦が終わったらこっちへ呼ぼうか」 「いいの!? うわあ、本物のプリンセスに会えるなんて夢みたいだ!」 「彼女だってさ、普段はダルンダルンのTシャツ着て、寝そべってビール飲んでるんだぜ。知ってた?」 「え……へえ…………そうなんだ」  ……あれ? オルカでは誰もが好きな服を着ていい、という事例のつもりだったのだが。幻滅させてしまっただろうか。 「と、とにかく! この事件が片付いたら、一度オルカをゆっくり見て回ってくれ。みんな着たい服を着たり、やりたいことをやってる。もちろん不自由なこともまだまだあるけど、少なくとも誰かに押しつけられたりはしてないよ」 「そっか。……そうだな。行ってみたいな。オルカ」  ヴァイオラの小さな頭が、俺の腕によりかかってきた。俺は反対側の手で、やわらかい栗色の髪をそっと撫でた。  それから俺たちは色々な話をした。今回の作戦に関係のあることも、ないことも。大事なことも、そうでないこともとりまぜて、本当に色々な話を。  ヴァイオラは……h307はラズベリー味のアイスが好きだということ。目覚めたときには自分しかおらず、本部直属のエージェントはもう他に残っていないと言われたこと。男装というヴァイオラの特徴は、バイオロイドだけの今の世界ではかえって目立ってしまい、潜入任務にはまるで役に立たないため、目覚めてしばらくの間おもな仕事は本部施設内の掃除だったこと。暇な時間にはこっそり本部のライブラリから詩集を探して読んでいたこと。 「『無人の局長室』って知ってる? 本当に部屋の真ん中に机があるだけで、誰も使った形跡がないんだ。どこにいるんだろうな、局長って」 「へえー。ちょっと怖いなあ」  愛用のスパイグッズ、ピストル内蔵腕時計と加速装置付きシューズは、局長が彼女専用に作ってくれたものであること。オルカにも何度かドローンを送り込んでいるが、しょっちゅう阻止されてあまり情報は手に入っていないこと。本当はぬいぐるみとか、ペンダントとか、もう少し可愛いスパイグッズが欲しかったこと。過去の記憶が曖昧なこと。 「曖昧……?」 「オレ、別のヴァイオラの記憶モジュールを引き継いでるらしいんだけど。その中身がはっきりわからなくて、昔のこと覚えてないんだ」 「へえ……どうしてなのかは、わかってるの?」 「ううん。無理に思い出さなくていいって言われてる」 「そうか」  ヴァイオラの話を聞くかぎり、局長は彼女のことをちゃんと大事にしているように思える。少なくとも旧時代の人間のように、道具として使い捨てるような態度ではない。もちろん、だからって信頼できるとは限らないが……。 「これ一枚しかなくてな。悪いけど」 「ううん、いいよ。……ぜんぜん、いい」  やがて話し疲れて眠くなった俺たちは、一枚のアルミブランケットに背中合わせでくるまった。焚き火がとろとろと消えかけている。 「司令官、オレ……わたしね」  見えない背中で、ヴァイオラが小さくつぶやいた。 「うん?」 「……なんでもない」  やがて、おだやかな寝息が聞こえてきた。彼女がぐっすり眠っているのを確認した俺はちょっとだけ首を伸ばし、茂みの向こうへ軽くうなずいてみせてから、目を閉じた。 Ev1-6 シークレット・アイズ  密生した巨木の隙間をぬって差し込んでくるわずかな朝の光が、立ちこめる霧をカーテンのように白く輝かせる。気持ちのいい朝だ。 「ふあ~あ……」  こんな密林の真ん中で虫に食われることもなく快眠できるのは、ドクター特製の虫除け軟膏のおかげだ。もそもそとブランケットから抜け出すと、後ろでヴァイオラも身じろぎした。いや、とっくに目を覚まして俺が起きるのを待っていたのかもしれない。 「朝飯にしようか、食べたら出発しよう」 「うん……あの」ヴァイオラは遠慮がちに言って、背後にちらりと目をやった。 「よかったらさ、あの人たちも」 「あ……気づいてた?」 「ゆうべは気がつかなかった」ヴァイオラは恥ずかしそうに微笑んだ。「今朝目を覚ましたら、気配がして……」  さすがは080機関のエージェントだ。俺は苦笑いをして、手を叩いて声を上げた。 「みんな、もういいよ」  すると木立の向こうから、決まり悪そうな顔でブラックワームがのそのそと出てきた。その後ろからセレスティアが顔を出し。最後に頭上からスノーフェザーが降りてくる。 「お早うございます、司令官様、ヴァイオラさん」 「あはは……おはようございます」  そう、俺はヴァイオラに嘘をついていた。  予定していた上陸地点の近くで鉄虫の大群に遭遇し、ホバークラフトが一隻破壊されてしまった。川に投げ出されて意識を失ったヴァイオラを背負った俺たちは、散り散りに逃げることになった。そこまでは事実だ。  だが、セレスティアたち護衛チームは俺とはぐれたりはせず、しっかりとついてきてくれていた。一旦腰を落ち着けて野営の準備をはじめたところで、ふと思いついたのだ。 「なあ、一晩だけ俺とヴァイオラを二人にしてみてくれないか?」 「えっ……!?」  スノーフェザーが蒼白な顔で俺を見た。いや違うよ!? 違うからね!? 「どうもこの子、ずっと無理してるように見えるんだ。この数日間、080のみんなに話を聞いてもらうようにしたけど、いまいち心を開くまでは行ってないみたいだから、俺が試してみたらどうかなって」 「確かに人間様と親しく会話するというのは、普通のバイオロイドにとっては得がたい機会です。ましてそれがご主人様であれば、とは思いますが……」ブラックワームが眉をひそめる。フェザーも不安げに、 「危険ではありませんか?」 「いちおう俺に対する害意はないようだって、シラユリからもお墨付きが出たし……」 「わかりました」セレスティアが真面目な顔でうなずいた。「でも、少し離れたところで私たちが警護を続けることはお許し下さい」 「それはもちろん、よろしく頼む」  というわけで、ヴァイオラの本音を引き出すために一芝居打ったのだ。  晩飯に食べた木の実や魚も、実をいうとみんなが捕ってきてくれたものだ。毛布を持ってきたのはフェザー、火を起こしてくれたのはブラックワームで、俺は魚を焼いた以外ほとんど何もしていない。そのことを正直に白状すると、ヴァイオラはおかしそうに笑った。 「頼りにならない司令官で、すまないな」 「ううん。すっごく頼もしかったよ」 「あ、そうだ。君の服を脱がせたのも俺じゃないからね。フェザーに頼んだから、そこは安心して」 「え?……あ、そう、なんだ……」  脱がせたのが同性だとわかった方が安心するかと思ったのだが、なぜだかヴァイオラはちょっとがっかりしたような顔をした。あれ? 「ご主人様……」  なぜだかフェザーまでが、ちょっと失望したような顔で俺の方を見た。あれ? 「そ、それじゃ、朝飯を食べたらみんなを探そうか!」 「司令官様、ご無事で何よりです」 「ああ、みんなのおかげでね」  他のメンバーとはすぐに連絡がついて合流できた。というか、俺たち以外は全員昨日のうちに再合流していた。ファントムとシェードが夜通し森中を駆け回って、全員をピックアップしてくれていたのだ。 「司令官のキャンプも発見していたのですが、何やら特殊なミッションを遂行中の陣形に見えましたのでコンタクトは控えました」  さすがはシェード、空気の読める奴。 「そっちも怪我はない?」 「全員無事です。物資を多少損失しましたが、任務には支障ありません」 「……」  ぺこりと頭を下げたヴァイオラを、シラユリはちらりと見て目を細めた。 「ゆっくり休めましたか?」  その視線をヴァイオラはまっすぐ受け止めた。「うん」 「結構。より一層の働きを期待します」 「もう、カタいわねシラユリは! 司令官との一夜、どうだった?」 「いちッ……!?」ニッキーの言葉に、ヴァイオラは途端に真っ赤になった。「へ、変な言い方すんな!」 「あら可愛らしい反応。まあそりゃそうよね、司令官子供には手を出さないし」 「誤解を招く言い方はよしてくれ、本当に……」俺は額を押さえて皆の顔を見回す。 「あれ、トリアイナとディオネは?」 「残ったホバークラフトの警護に戻ってもらいました。鉄虫の攻撃を持ちこたえられない時は岸を離れて、下流に移動していいと伝えてあります」 「鉄虫といえばお兄ちゃん、報告があるんだ。これ見て」  ドクターが俺を引っぱっていった先には、黒っぽい金属の残骸が山をなしていた。どう見ても鉄虫のものだ。  奴らは基本的に、活動を停止すると紫色の粘っこいガスのようなものになって消滅する。消えずに残るのは侵食されきらなかったAGSの部品くらいのものだ。 「こんなにあるのは珍しいな。寄生が浅かったのかな?」 「それが違うんだよ。これ、鉄虫に偽装したAGSなんだ」 「偽装!?」  俺は驚いて残骸の山を見返す。鉄虫をAGSに? 誰が、何のためにそんなことを? 「それは不明です。ただ……」 「中枢回路がぜんぶ焼け焦げて、ダメになってるんだよね。内容も読み出せない」ドクターが眉根を寄せた。「その焼け焦げ方がね、080機関が使ってる機密保持装置のものにそっくりなんだ」 「……これは、あくまで仮説ですが」シラユリが言った。「鉄虫は寄主となったAGSのメモリー内容を部分的に参照できることがわかっています。『人間を排除せよ』という命令と、味方の指揮誘導を主眼においた戦術プログラムを組み込んだ偽装AGSを鉄虫集団に紛れ込ませれば、擬似的な連結体に似た役割を果たせるかもしれません。寄生されるまでは指揮官機のように振る舞えますし、寄生されてからも通常の鉄虫よりは高度な戦術行動をとれる可能性がありますからね。どうなろうと結局人間を攻撃するわけですから、露見する心配もほぼありません」」 「つまり、それは……」  二人の話を合わせれば、080機関にかかわる何者かが、人間を排除するために……もしくは、俺たちを妨害するために、こんなものを仕組んだということか。俺の無言の問いかけに、シラユリとドクターはだまって頷いた。 「これ、本部のAGSだ」  しゃがみ込んで残骸を調べていたヴァイオラが、ふいに言った。  破片の一つを取り上げてひっくり返すと、裏側にごく小さな傷のようなものがついているのが見える。よく目をこらすと、かすれて消えかけた数字のようだ。 「消し残しの刻印だ。ほらここ、数字の7の右上がちょっと欠けてるだろ。本部の工廠で製造したパーツがこうなんだ」 「やっぱり、そうかあ」ドクターがぎゅっと眉根を寄せた。 「本部に誰も近寄らせない……鉄虫を利用してでも、ってことだね」 「でもでも、私たち呼ばれて来たんだよ?」いつの間にか来ていたトモが大きな声を出す。「なんでこんなことされなきゃいけないのよ」 「ただでは来させない、ということでしょうか。私たちを試しているのかも」エイミーが肩をすくめる。 「不遜ですね」シラユリが短く言い捨てた。 「なんでこんなことしてるのか、わかんねえけどさ」  ヴァイオラが、手にした部品を握りしめて俺の方を見た。 「ボスがオレごとやっちまおうって思ってるなら、上等だ。絶対に、あんた達を本部まで連れてってやるよ」 Ev1-7 ジャブローの要塞  当たり前だが、同じアマゾンでも船に乗ってのんびり川を行くのと、自分の足で地面を歩くのとではまるで勝手が違う。 「そこ、滑るから気を付けて」 「うおっとと」 「根っこが張り出してるとこはできるだけ踏むなよ。樹皮が剥けたりブーツの泥が残ったりすると、それが目印になって発見されるから」 「わ、わかった」  上陸二日目。俺たちはヴァイオラの先導で、ドローン監視網の死角をぬって本部を目指していた。一歩踏み出すごとにツタやら木の根やら水たまりやらに足を取られまくり、普通に歩ける地面がろくにない。もたつく俺たちとは対照的に、ヴァイオラはすいすい進んでいく。 「こっちだ。そこの木の下を通ると、上をドローンが飛んでても発見されない」 「詳しいなあ」 「このあたりは訓練でさんざん走り回ったからな」ヴァイオラは自慢げに鼻をこすった。「木の枝の一本まで知ってる。絶対に見つからないよ」  ヴァイオラは見違えるように頼もしく、積極的に俺たちを導いてくれている。タガメに悲鳴を上げていた子と同一人物とは思えない……とか言ったら怒るだろうな。 「彼女、生き生きしていますね」エイミーが愉快げにささやいた。「司令官様、本当に何もなさらなかったんですか?」 「当たり前だよ!」 「足がつかれた……飛んじゃ駄目?」 「駄目! 見つかるだろ!」 「ヴァイオラh307」  俺の前、ヴァイオラのすぐ後ろについていたシラユリが、さすがに汗をにじませながら話しかけた。 「あなたのボス……局長のいう『敵』について、心当たりはありませんか」 「前にも言ったろ、ないよ」ヴァイオラは振り返らずに答える。 「あなた自身の意見は? どんなものなのか、想像もつきませんか?」 「わからないけど……オレは中米とか、ブラジルよりこっち側の情報をメインに担当してた。オレが全然知らないってことは、たぶん『敵』は大陸の南側にいるんだと思う」 「ふむ……」  南米大陸の南半分は、ベータもほとんど把握できていないといっていた地域だ。確かにつじつまは合う。 「それと……ボスはいつも命令するばかりで、肝心なことは何も教えてくれない。でも、嘘はつかない。誠実って意味じゃなくてさ、つまり……」 「わかります。言質を取られるような嘘は言わない、ということでしょう?」 「そう、それ」ヴァイオラは今度は振り返って、こっくりと頷いた。「そのボスが珍しく、はっきり言ったんだ。オルカの敵が目覚めようとしてる。それを知らせないといけないって。だから、それは本当なんだと思う」  ゆうべヴァイオラから聞いた限りでは、局長は少なくともヴァイオラ自身のことはかなり大事にしているように思えた。その彼女を命がけの危険な旅に送り出してまで、俺たちに危機を知らせたかった。その危機とはなんだ? そして、なぜ今それを知らせた?  解けない謎をかかえたまま、ひどく曲がりくねったルートを進むこと、さらに丸一日。 「おお……」  俺たちは一つのテーブルマウンテンのふもとにたどり着いていた。  大地をそこだけ切り抜いて持ち上げたような、山でも丘でもない奇怪な隆起。川や雨の浸食によって周囲の地形が削り取られ、固い岩盤だけが残ったものだという。麓からはまったく見えないが、上部は平らになっていて、そこには独立した生態系が存在するとか。本や映像で見たことはあるが、実物を見るのは初めてだ。目の前にあると崖というか、壁というか……なんだか自然が作った巨大な神殿の前にいるような気分がする。 「ここに本部が?」 「地下にあるんだ。シェルターになってる」  ヴァイオラが木の根元にしゃがみ込んで何かをいじると、そばにあった茂みの奥で何か重い音がした。トモが真っ先に覗き込む。 「穴があいてる! 奥で何か光ってるよ」  灌木に隠された岩の隙間が、深くてせまい洞穴になっている。どうやらその奥に秘密の入り口があって、いまの操作でそれが開いた、ということのようだ。 「シェードさんとエキドナさんは、ここに残って周辺警戒に当たって下さい。よろしいですね、司令官」  シェードのボディではこの洞穴は通れないし、エキドナの使役する鋼鉄蛇シュシュも広い場所の方が力を発揮する。妥当な判断だ。俺はうなずいて承認すると、岩の奥へ体をもぐりこませた。  洞窟は緩い下り坂になっており、十メートルほど行ったところに小さなランプがついていて、そこが金属製のドアになっていた。ドアを開けると、それまでとは別世界のような、無機質な廊下が現れた。  しんがりを務めるエイミーがそのドアをくぐり、通路に足をおろした途端、 《ようこそ、オルカの皆さん》  電子音声が通路に響きわたった。  即座にフェザー達が俺の周囲を固める。 「080機関の局長か?」 《いかにも。ヴァイオラ、任務ご苦労だった。よい旅ができたかね》 「……」何も言わず、俺の方へすこしだけ身を寄せて天井をにらむヴァイオラ。 《ハッハッハ、実りは多かったようだ。結構結構。さて、遠路はるばるお越しいただいた客人をもてなすべきなのだが……その前にまだ少々、試させてもらいたいことがある》 「試すですって?」 《なに、軽いゲームさ。皆さんなら造作もなくクリアしてくれると信じているよ》  声とともに、廊下の左右に並んだシャッターが一斉に開く。そこに格納されていたAGSが起動し、俺たちに向かってきた。 「ボス!?」  ヴァイオラが声を上げるが、返事はない。 「舐めてくれたものですね……」シラユリが怒りに目を細めて弓を構える。「司令官、下がってください。指揮をお願いします」  俺は頷いて、戦闘指揮用バイザーを装着した。 Ev1-8 ジャブローの亡霊 《……驚いたね。もちろん、君達なら勝てるだろうと思ってはいたが、こうもあっさりと》  AGSは数こそ多かったが性能は標準的で、うちの精鋭たちの敵ではなかった。局長を名乗る合成音声は、器用なことに驚きを声ににじませていた。 《しかも全機とも、武装と駆動系を潰されただけで中枢回路は無傷だ。余裕の表れかね?》 「そっちが言ったんだろ、これは軽いゲームだって」俺はバイザーを上げて汗をぬぐった。「ゲームで相手を傷つけたりしないさ」  しばらくの沈黙があってから、局長は急に笑い出した。 《ハハ、ハハハハハ! これは完敗だ。予想以上だよ、オルカの司令官》 「まだテストを続けるか?」 《いや、もう十分だ。奥へ進んでくれたまえ。これ以上無駄な時間はとらせない》 「お断りします」シラユリが前へ進み出た。「突然こんな物騒なテストを仕掛けてくる相手を信じて、安全の保証もなく地下深くへ下りていけと?」  ヴァイオラが何か言いたそうな目を向けるが、シラユリは無視している。 《私は立場からいうと君の上官にあたるのだがね、シラユリ》 「私はオルカのシラユリです。司令官以外の誰にも従いませんし、根拠なく信用もしません」 「それに局長だっていうなら、いま自分が信用してもらえるシチュエーションかどうかくらいわかりそうなものよね?」ニッキーもコートの襟を立てて言う。「もう少し、出すものを出してもらわないとねえ」 《出すものを出す、か。仕方ない、これではどうかな》局長の言葉と同時に、俺の持っている情報パネルが振動した。何らかのデータを受信したしるしだ。 《このジャブロー支部の施設管理アカウントコードをそちらに送った。ドクターがいるなら、それを使ってここの全容を把握できるはずだ》 「ハッキングは専門じゃないんだけどなー。スカディーお姉ちゃん連れてくればよかったよ」  ドクターがさっそく自分のパネルを取り出し、俺のパネルと接続して何ごとか操作し始める。「あーなるほど。こうで、こうで、それなら多分、こうかな?」  ドクターがパネルを叩くと、廊下の先にあるさっきAGSが出てきたシャッターが全部いきなり閉まり、そしてまた開いた。 「!?」  もう一度閉まる。ほんの少し開いてまた閉まり、そして一斉に開く。それを何度も繰り返す。唖然としていたが、しばらく聞いていてわかった。これは「We Will Rock You」のリズムだ。 「遊ぶなよ」 「えへへー」  ドクターはいたずらっぽく笑う。「オッケー、この建物全体を掌握できたよ。全体マップがこれね」  ドクターが見せてくれたパネルには、テーブルマウンテンの地下に十数階層にわたって広がる、巨大な地下施設が表示されていた。施設というより、ほとんど地下迷宮のようだ。 「少なくともこれで、閉じ込められることは絶対ないよ。それから、ここにいるAGSはさっき出てきたので全部だね。戦力になりそうなものはもう何も残ってない」 《おっと、バレてしまった》 「もちろん、局長さんが爆弾でも用意していれば別ですけどね」エイミーが天井を見上げて皮肉っぽく言った。 「その時はわたくしがすぐ解除いたしますわ!」エリーが傘をくるりと回して誇らしげに胸を叩く。 「局長室はどこなの?」 「オレ、知ってる。ここだよ」ヴァイオラが手を伸ばし、ドクターのパネルに表示された地図の最下層近くにある小さな部屋を指さした。 《ああ、そこだ。そこに私はいる》  廊下を進み、エレベーターで下り、また廊下を進む。その突き当たりに、目指す部屋はあった。他の部屋とはまったく意味合いの違う場所であることが一目でわかる。ドアが木製なのだ。  ノブを回すと、かるい軋み音とともにそれは開いた。 「ここが……」  立派なドアのわりには、中はさして広くはない。それでも、金がかかっていることは一目でわかる部屋だった。床はツヤのある黒い樹脂張り。部屋の中央にいかにも偉い人物が座りそうな大きなデスクがでんと据えられ、右側の壁は天井まで届く本棚、左側の壁にはサイドボードがしつらえられている。正面の壁は真っ白で、どうやら全面ディスプレイになっているらしい。  そして、部屋の中にあるのはそれだけだった。バイオロイドも、もちろん人間も、誰もいない。 「無人の局長室……」ニッキーがぽつりと呟いた。 《ようこそ、オルカの司令官》  デスクから声がした。スピーカーが仕込まれているのだろう。《お初にお目にかかる》 「お目にかかってないようだが」俺はデスクと、その向こうの空っぽの椅子をまっすぐ見て言った。「無駄な時間はとらせないんじゃなかったのか? いるならさっさと出てきてもらいたいな」 《私は君の目の前にいる。見えないわけはなかろう?》  俺はもういちどデスクを見た。 「まさか……」  進み出て、デスクの天板に手を置いた。同意するように、卓上ライトがチカチカと点滅した。 「机!? この机が、080機関の局長だっていうのか!?」 「ご名答」スピーカーが……いや、局長が、愉快そうな声を出した。 「あらためて、初めまして司令官。個体名は設定されていないが、自分では『ノーワン』と名乗ることにしている。何しろこの部屋はずっと『無人(ノーワン)の局長室』と呼ばれていたのでね」 「局長って、AGSだったの!?」トモが大きな声を出した。 「種別としてはそうだ。とはいえ、AGSシステムがデスクに内蔵されているだけのこの状態を、いわゆるAGSと呼ぶかどうかは人それぞれだろう。さて、自己紹介が済んだところで本題だが」  デスク……局長、いやノーワンはまた卓上ランプを点滅させた。 「司令官。『コロニア・ディビニダ』という名前を聞いたことは?」