かつては指折り焦がれたその日のことを、今ではため息とともに思いだす。 夏の暑い盛り。秋の気配はまだ遠く、木々の間を蝉達の求愛の声が通り過ぎている。 森の中に耳を澄ませる。聞こえるはずのない声を求めて。もう蝸牛の中にしかない彼の声。 今よりずっと高く見えた枝の先。天に届くように見えた木の幹の、まくれ上がった皮。 木漏れ日はそこにある樹液を、固まる前にも関わらず――本当の琥珀のように輝かせていた。 そこにいる何匹もの虫たちの、甲殻の艶めいた黒色も、青紫の斑模様も美しかった。 彼は私に目配せをして、その内の一つにひゅん、と網の先を叩きつける。 衝撃にいくら散らされはすれど、残った虫たちは白い落とし穴の中に落ちていって、 獲物を自慢げに見せてくる彼の顔は、同い年だというのに不思議に幼くも思えた。 けれど、物色する横顔は、見とれてしまうほどに美しく、優しい。 夏休みの課題に、標本を作りたい――そんな私のわがままを聞いてくれる、私の騎士様。 冒険から帰った騎士は、王女に戦利品の蝶々を手渡してくれる。おでこへの口付けの代わりに。 函の中の翅は、まだあの時と同じ色をしている。でも、脚は二本取れてしまった。 丁寧に運んでいたつもりなのに。あちらに行き、こちらに行き、住む場所にも困って―― 割れた硝子を補修した、薄っすら黄ばんだ四角の裏側に、ちぎれた脚の片方が張り付いている。 何度も、捨てなさい、と言われた。こんなものを残している余裕はないと、わかってもいる。 どこにでもいるありふれた蝶の、子供の手による雑な標本の、不完全で壊れたもの。 ただもし――彼が、これのことを話題にする時が来たら。その時、手放してしまっていたら。 もう永遠に、あの時望んだ日は来なくなってしまうような気がする。 あの横顔は、ずっと大人びて、もっと素敵で、心の奥底に染み込んでくる憂いがあって。 そしてもう、私のものにはならない。分厚い、見えない壁がそこに立っている。 隣にいる彼女の笑顔と、きっとそれはお似合いなのだ。私だってそう思う。 家が傾いたからといって――許嫁の話を勝手に打ち切って、姿を眩ませた女のことなど、 忘れてくれた方が、お互いのためだ。私だって、せいせいする。 そんな嘘をずっと繰り返していなければ、今にもこの一対の蝶々を、握り潰してしまいそう。 でも、私の指は――未練がましく、硝子のひびの上を、芋虫のように音もなく這う。 雄と雌の色の違い。それは雄が、雌に愛を告げるためなのだろうか。 それとも、雌が雄に――私はここにいると、言葉にせずに伝えるためなのだろうか。 私の翅は、どちらなのだろう。彼の褒めてくれた明るい桃色の髪の色。 これを見て――彼は、何を思ってくれるのだろう。久しぶりだ、と言ってくれたなら―― 額から垂れ落ちた汗でふと、私は今に帰ってきた。まだ木陰を出るには早い。 心の中で弱い自分が囁く。記録的な猛暑なのだから。人が外にいていい気温ではないのだから。 彼の家を訪ねればいいだろう。一夏の避暑を頼めばいいだろう。問うてみればいいだろう。 それはひどく甘美で、とても恐ろしかった。望む通りの答えが与えられたとして、 結局、その根本を、お人好しな彼の際限のない優しさを得る権利を持つのは、私の親友。 彼女とて、心と体に疵を抱えている。雷神の爪痕の残る自分を愛する人などいない、と―― 私だって、いつでも手を差し伸べるつもりでいる。優しい言葉を掛けてあげたい。 友として、彼女が立ち直って欲しいと心から思う。そのために誰かの力が必要なら仕方ない。 でも――それが彼のものであってはほしくなかった。どうして、彼なのか。 言う権利などないのだ。今の私には。彼からどんな冷たい言葉だって甘んじて受けよう。 それを彼はしないと知っているから、こうして自分一人で自分を責めている。 ふと、彼の声が聞こえたような気がして――私は蝉たちの方を振り返る。 鳴くのは雄だけだ。雌に向けての、愛の言葉。俺のところに来てくれ、と声高に叫ぶ声。 私なら本当に飛んでいくのに。古ぼけた手作りの函を持って。