山羊たちを囲いへ戻すころには、山の向こうへ日が沈みかけていた。 「ルキアス、また遅かったね」 家の前で待っていたファイメナが、呆れたように俺の髪についた枯草を摘まむ。 「山羊が一頭、道を外れたんだ」 「あなたは山羊に甘すぎるのよ、山羊に舐められてるんじゃないの?」 この村へ住み込んで何年か経った。山羊を追い、乳を搾り、夜になれば族長から星の読み方や伝統の舞を教わる。血の繋がった家族はいなくとも、俺はここで暮らしていけると思っていた。 ――あの日までは。 村の子供が数人に囲まれているのを見つけたのは、ほんの数日前のことだった。 「やめろ!」 考えるより先に割って入った。 相手の中心にいたのが族長の息子だと気づいたときには遅かった。揉み合いになり、突き飛ばすつもりなどなかったのに、俺の腕を振り払おうとした彼の身体が石垣へぶつかった。 額から血が流れた。 その瞬間の光景が、今も頭から離れない。 幸い傷は深くなかった。そして不思議なことに、彼は族長へ何も言わなかった。 子供へのいじめも、それきり表向きにはなくなった。 だから、終わったのだと思いたかった。 「‥‥ルキアス」 背後から聞こえた声に、足が止まる。 振り返ると、夕暮れの道に彼が立っていた。額には、まだ小さな傷が残っている。 「今日も親父に舞を教わるんだろ?」 「‥‥そうだけど」 彼は笑った。 「お前、親父に気に入られてるもんな」 胸の奥が冷たくなる。 彼は族長に何も言わなかった。 俺が族長の息子に怪我をさせたことも。 あの場で何が起きたのかも。 その代わりに、彼は俺の秘密を一つ手に入れた。 「その前に、ちょっと付き合えよ」 「‥‥何をするんだ」 問い返すと、彼は額の傷を指先でなぞった。 それだけで、俺は何も言えなくなった。 「大丈夫。簡単なことだから」 山の向こうで、最後の光が消えていく。 俺はファイメナの待つ家とも、族長のいる広場とも違う方向へ歩き出した彼の背中を見つめた。 逃げればいい。 断ればいい。 そう思っているのに、足は動かなかった。 「早く来いよ、ルキアス」 振り返った彼の額に残る傷が、薄闇の中でも妙にはっきり見えた。 俺は拳を握りしめる。 そして結局――彼の後を追って、一歩を踏み出した。 村の外れの納屋の戸が閉まると、外の音が急に遠くなった。 乾いた藁と土の匂い。壁板の隙間から差し込む夕暮れの光が、細い筋になって床へ落ちている。 誰もいないことを確かめるように、彼は一度だけ戸口を振り返った。 「そこに立てよ」 言われるまま、俺は足を止めた。 彼は俺の正面まで来ると、額に残った傷をわざと見せつけるように前髪を掻き上げた。 「ねえ。これさ、パパには転んで怪我したって言ったけどさ」 「‥‥‥‥」 「ルキアスお兄ちゃんにやられた、って言ったらどうなるか分かるよね?脅されて本当の事は言えなかったって言えばさ」 喉が詰まった。 あのとき、俺は子供を庇っただけだ。 そう説明すればいい。揉み合いになったのも、怪我をさせるつもりがなかったことも。 けれど――族長が信じてくれる保証なんてない。 俺はこの村の生まれではない。 住み込みの山羊飼いで、族長から舞や星読みまで教えてもらっている余所者だ。 「‥‥言わないでくれ」 ようやく、それだけ絞り出した。 ここから出ていく事になれば、両親への仕送りも出来なくなる。 大事になれば、ただ追い出されるだけでなく、罪人の烙印まで押された上で。 彼の口元が上がった。 「じゃ、僕の言うこと、聞いてね」 思わず顔を上げた。 「それは――」 「嫌なの?」 彼の指が、また額の傷へ触れる。 俺は黙り込んだ。 納屋の外から、遠く山羊の鳴き声が聞こえた。 「ちゃんと言って、ルキアスお兄ちゃん」 「‥‥何を」 「これから僕の言うことを聞きます、って」 胸の奥がざわついた。 ただの言葉だ、ここで言ってしまえば少なくとも今は終わる。 そう自分に言い聞かせても、唇が動かなかった。 「早く」 低い声が落ちる。 俺は俯いたまま、拳を握った。 「‥‥これから、お前の言うことを聞く」 「聞こえない」 「お前の言うことを、聞く」 「誰が?」 心臓が嫌な音を立てた。 彼が欲しがっているのは約束じゃない。 俺自身の口から、従うと言わせることなのだ。 「‥‥俺が」 「最初から」 しばらく、声が出なかった。 それでも額の傷が目に入るたび、あの日の鈍い音が蘇った。 俺はとうとう目を伏せた。 「俺、ルキアスは……これから、お前の言うことに従う」 沈黙。 それから彼は満足そうに笑った。 「うん」 たった一言だった。 それなのに、その言葉で何かが決まってしまったような気がした。 彼はそれ以上、何も命じなかった。 ただ納屋の戸を開け、先に外へ出ていく。 俺だけが薄暗い納屋に残された。 まだ何もされていない。 何も始まっていない。 ――なのに、自分の口にした言葉だけが、縄のように身体へ絡みついている気がした。 「それじゃあ、お願い聞いてくれるか確かめるね」 納屋の戸を背にした彼が、俺を見ている。 「服、脱いで」 一瞬、意味が分からなかった。 「‥‥へ?」 「聞こえたでしょ」 冗談を言っている顔ではない。 「なんで、そんなこと」 「ほら」 彼は額の傷を指した。 「もう忘れたの?」 言葉が止まった。 俺は子供を庇った。怪我をさせたのは事故だった。 それでも、族長の息子に怪我をさせた事実だけは消えない。 「別に裸が見たいわけじゃないよ?」 彼は藁束に腰掛けた。 「口だけなのか、確かめたいんだよ」 「‥‥」 「『従う』って言ったよね?」 逃げ道を塞ぐような言葉だった。 俺は納屋の戸を見る。 今なら開けられる。 けれど、その向こうへ出た後、彼が族長に何を話すのか。 それを考えると手が動かなかった。 「早く」 俺は震える指を襟元へかけた。 上着を脱ぐ、床へ置く。 彼は何も言わない。 その沈黙が、次も、と命じていた。 一枚ずつ衣服を外すたび、自分で何かを手放しているような気がした。 最後の一枚に手を掛けたところで、どうしても指が止まった。 「‥‥ここまでじゃ駄目なのか」 彼の目が細くなる。 「駄ー目」 短い返事だった。 「全部」 心臓が激しく鳴っている。 嫌だった。 命令の内容以上に、俺が嫌だと思っていることを承知で、彼がそれを命じていることが。 それでも――俺は最後には従った。 裸になった俺は、とっさに腕で身体を隠した。 「隠さないでよ」 また命令が飛んでくる。 俺は歯を食いしばり、ゆっくり腕を下ろした。 彼はしばらく俺を眺めていた。 嘲笑するでもなく、近寄ってくるでもない。 ただ、本当に命令へ従ったのかを確認するように。 やがて、満足そうに頷いた。 「‥‥へえ。本当にやるんだ」 その一言で分かった。 これは目的ではなかった。 試されたのだ。 どこまで言うことを聞くのか。 弱みをちらつかされれば、俺は自分の意思をどこまで曲げるのか。 彼の視線が俺の身体をゆっくりと這った。 顔から肩へ。胸元から腹へ。 じろじろと、遠慮なく。 俺は思わず身を捩りそうになった。 「‥‥そんなに見るなよ」 「あはは、水浴びでお互い裸は見てるのに、今更?それとも、人前でこうして見られると何か嫌だったりする?」 言い返せなくなる。 彼は納屋の壁にもたれたまま、俺を値踏みするように眺め続けた。 不意に彼が言った。 「男なのに、ずいぶん華奢だね」 「‥‥悪かったな」 「別に?ムキムキだと逆に見てて嫌だし、そういう意味では良いよ」 山羊を追って毎日山を歩いている。力仕事だってしている。 それでも肩幅も狭いし、身体つきも細い。 自分でも分かっていることを、こんな状況で口にされるのがひどく嫌だった。 「腕も細いし」 彼の目がまた動く。 俺は反射的に身体を隠しかけ――途中で止めた。 「そう。それでいい」 その言葉に、ぞっとした。 裸になったことそのものより、俺が恥ずかしがる様子まで見られていることの方が堪えた。 「‥‥もういいだろ」 「それを決めるのは僕でしょ?」 俺は唇を噛んだ。 彼は俺の嫌がる顔を確かめるように、しばらく黙って眺めていた。 やがて、小さく笑う。 「本当に従うんだね」 そこでようやく分かった。 俺がどこまで命令に従うのか。 羞恥に耐えてでも、彼の言葉を優先するのか。 それを確かめるための試金石だったのだ。 その事実が、何より惨めだった。 「今日はそれだけ」 彼は立ち上がった。 「服、着ていいよ」 俺は返事もできず、床の服を拾った。 何もされたわけではない。 彼は俺に触れてすらいない。 それなのに、服を着直しても、さっきまでと同じ自分には戻れない気がした。 彼に知られてしまったのだ。 俺が従うということを。 翌日も、同じように裸にされる。 同じ事をさせてもつまらないんじゃ、なんて考えていた。 外で従わせたら、バレる。 族長を楯にしてるけど、彼だって絶対自分の味方になるなんて思って無い筈。 大っぴらに命令を聞かせているのを知られたら、怪我をさせられたけど脅されて黙ってた、なんてことは言えない。 だから、させる事としても、納屋の中で完結する事だけ。 次第に飽きるだろう、なんて考えるのはあまりに楽観的過ぎた。 「そうだ。ルキアスお兄ちゃんはパパから舞を習ってるんでしょ?」 嫌な予感がした。 「‥‥それが何だよ」 「踊ってみてよ、ここで」 俺は躊躇った。 村の舞は遊びではない。星の巡りに合わせて奉じるものだ。族長は足の運び一つ、指先の向き一つまで厳しく教えてくれた。 こんな納屋で見世物にするようなものじゃない。 「嫌だ」 口から出た瞬間、彼の指が額の傷へ伸びた。 「へえ」 それだけで、俺の抵抗は萎んだ。 「‥‥分かったよ」 俺は習った通りに足を揃えようとした。 「違う」 「何が」 「もっと足、開いて」 言われた通りにする。 「もっと。膝も外に向けてよ。ガニ股で」 「そんなの舞じゃない」 思わず睨むと、彼は楽しそうに笑った。 「だからいいんでしょ?バカバカしくて間抜けだからこそ、遊びがいがあるんじゃん」 胸の奥が熱くなった。 族長に何度も直された立ち姿を、わざと崩させられる。 「その格好で踊って」 俺は歯を食いしばった。 大きく開いた足。外へ向いた膝。 ひどく不格好な姿勢のまま、最初の一歩を踏む。 本来なら静かに重心を移し、夜空を仰ぐように腕を上げるところだった。 けれど足元が崩れているせいで、何もかも滑稽になる。 「ははっ。面白いね」 笑い声が納屋に響いた。 「‥‥お前がやれって言ったんだろ」 「止まれなんて言ってないよ」 俺は黙って続きを踊った。 一歩、もう一歩。 族長の前なら決して間違えない型を、わざと醜く崩したまま。 「もっとちゃんとガニ股にしてね」 俺は言われるたび、足を開いた。 悔しかった、舞を馬鹿にされることも。 こんな命令に従っている自分も。 そして何より、彼が俺をどう脅せば言うことを聞くのか、少しずつ覚えていくことが。 「よし。もういいよ」 その声で、俺はようやく動きを止めた。 息が上がっていた。 不格好に足を開き、族長から教わった舞を台無しにするような格好で踊らされた。 そのうえ、最初からずっと、俺は何一つ身につけていない。 早く服を着たかった。 けれど、彼はまだ許さなかった。 「‥‥ルキアスお兄ちゃん」 妙に含みのある声だった。 「何だよ」 「それ」 彼の視線が下がった。 つられて自分の身体を見て――息が止まった。 「‥‥っ」 ぐぐぐ、と。 耐え難い羞恥と緊張のせいなのか、身体が勝手に反応してしまっていた。 意味なんてない。 望んだわけでもない。 それなのに、よりによって今。 「ち、違う」 咄嗟に隠そうとすると、 「隠すなって言ったでしょ」 俺の腕が止まった。 「でも、これは‥‥!」 「へえ」 彼が笑う。 「そんなに恥ずかしかったの?」 「違う!」 声が裏返った。 顔が焼ける、耳まで熱い。 「じゃあ何でそうなってるの?」 「知らない! 俺だって知らない!」 身体の反応と気持ちが同じものではないことくらい、分かっている。 けれど彼は、そんな理屈を聞く気などないらしい。 「ガニ股で踊らされて、そんなになったの?」 「やめろ‥‥」 「僕にじろじろ見られたから?」 「やめろって!」 笑い声が納屋の中に響いた。 逃げたかった。 服を拾って、戸を開けて、ファイメナの所まで走って帰りたかった。 けれど身体を隠すことすら許されず、俺はその場に立ち尽くすしかない。 「顔、真っ赤だね」 声にならなかった。 違う、と何度言っても、言えば言うほど意識してしまう。 意識すればするほど、惨めになる。 さっき踊らされた時よりもずっと酷かった。 あの舞は命令されたからやった。 足を開いたのも、馬鹿みたいな格好をしたのも、全部彼の命令だった。 けれどこれは違う。 自分の身体が、自分の意思とは関係なく俺を裏切っている。 その事実を、彼に見つけられた。 「‥‥見るなよ」 とうとう、それしか言えなくなった。 彼は少し黙った。 それから、わざと俺の顔を覗き込む。 「なんで?」 「頼むから‥‥」 「『僕の言うことに従う』って言ったよね?」 俺は唇を噛んだ。 目の奥まで熱くなった。 「だったら、勝手に隠さないでよ」 俺は動けなかった。 彼はそんな俺を、またじろじろと眺めた。 最初とは違う。 今度は、俺がどれほど恥ずかしがっているのかまで含めて眺めている。 「面白いね」 その一言が胸に刺さった。 俺は俯くことしかできなかった。 殴られたわけでもない。 触れられたわけですらない。 なのに――今まで味わったどんな恥ずかしさよりも、逃げ出したくなるほど惨めだった。 息を切らしながら彼を見ると、彼は満足そうだった。 まるで舞を見終えたのではなく――俺がまた一つ命令に従ったことを確かめ終えたように。 それは、その日だけでは終わらなかった。 次の日も、その次の日も。 夕方になると、彼は俺を納屋へ呼び出した。 「脱いで」 いつしか説明すらなくなった。 俺は戸口でしばらく立ち尽くし、それでも最後には衣服へ手を掛ける。 そして、裸のまま舞を踊らされる。 族長から教わった美しい足運びではない。 「もっと足開いてよ」 「‥‥これ以上は踊りにくい」 「いいから。こけたらそれはそれで面白いし」 わざと不格好な姿勢にさせられ、彼の前を行ったり来たりする。 彼は笑った。 俺は俯きながら踊った。 毎日、同じだった。 それ以上のことは特に命じてもこない。 それだけは――救いだった。 耐えればいい、彼が飽きるまで。 そう思うようにしていた。 「今日は終わり」 その言葉を聞くたび、全身から力が抜けた。 彼は俺より先に納屋を出ていく。 戸が閉まって、俺は一人になる。 「‥‥くそ」 床に落とした衣服へ手を伸ばす。 けれど、すぐには着られないことがあった。 あれほど見られて。 笑われて。 恥ずかしい姿を取らされて。 嫌でたまらないはずなのに、極度の緊張や羞恥に身体だけが勝手な反応を残してしまう。 それが何より惨めだった。 「違うのに……」 誰もいない納屋で呟く。 俺が望んだことではない。 嬉しかったわけでもない。 頭では分かっている。 それでも身体に残った反応だけは、言い聞かせても消えてくれない。 結局、俺は一人きりでそれを手で鎮めるしかなかった。 藁の匂いの中で手を前後に動かし、早く元に戻れ、と祈るように。 床に吐き出した物を掃除した後、しばらくしてようやく服を着る。 何事もなかった顔を作って、家へ帰る。 「遅かったね、ルキアス」 ファイメナはいつも通り迎えてくれた。 「‥‥山羊の世話が長引いた」 嘘をつくのも、少しずつ上手くなった。 「そう」 「うん」 温かな明かりの下へ戻る。 ファイメナの声を聞けば、少しだけ安心できた。 けれど翌日の夕方になれば、また彼が待っている。 あの納屋はもう、俺の日常を壊し始めていたのだ。 手遅れだと気付いたのは、いつだっただろうか。 最初のうちは、納屋に一人残される時間が嫌で仕方なかった。 身体に残った反応を自分で鎮めなければならないことが、惨めだった。 それなのに。 何日目からだったのだろう。 「今日は終わり」 彼がそう告げた瞬間、胸の奥で安堵とは少し違うものがほどけるようになった。 戸が閉まり、足音が遠ざかる‥‥一人になる。 身体に残った、どうしようもない反応。 以前なら顔を覆いたくなった。 けれど今は、その先に待っている感覚を、俺う知ってしまっていた。 張り詰め続けた緊張がほどけていく。 恥ずかしさも、悔しさも、何もかもが一瞬だけ遠ざかる。 甘く痺れるような感覚が、少しずつ身体へ染み込んでいく。 その時間だけは、彼の視線も命令もない。 一人だけのものだった。 だからいつしか――その時間を待つようになっていた。 気づいた瞬間、背筋が冷えた。 「違う‥‥」 誰に言い訳するでもなく呟く。 あいつに裸にされることを望んでいるわけじゃない。 笑われたいわけでもない。 あんな舞を踊りたいはずもない。 それなのに、夕方が近づくと、頭の片隅に納屋が浮かぶ。 今日も呼ばれるのだろうか。 今日も同じように終わるのだろうか。 そして、その後には――。 「‥‥最低だ」 自分自身へ吐き捨てる。 けれど、一度覚えてしまった甘い痺れは消えてくれなかった。 嫌悪と安堵、羞恥と慰め。 本来なら決して隣り合わないはずのものが、毎日の繰り返しの中で少しずつ結びついていく。 それが何より怖かった。 彼に従わされることよりも。 裸を見られることよりも。 いつか俺自身が、この時間を心待ちにしていることを否定できなくなるのではないか。 そのことが、たまらなく怖かった。 ある日、舞が終わっても、彼は納屋から出ていかなかった。 「今日は‥‥終わりじゃないのか?」 俺が尋ねると、彼は壁に背を預けたまま言った。 「ルキアスお兄さんさ。僕が帰った後、しばらくここにいるでしょ」 心臓が跳ねた。 「何してるの?」 「‥‥別に」 「嘘つき」 額の傷に指が触れる。 もう、それだけで俺には十分だった。 「言ってよ」 長い沈黙の末、俺は観念した。 「‥‥その‥‥鎮めてる」 「何を?」 分かっているくせに。 「‥‥身体が、勝手に反応するから。それを‥‥自分で」 声がどんどん小さくなる。 彼はしばらく黙っていた。 やがて、口元を歪めた。 「へえ。毎日?」 顔から火が出そうだった。 自分一人だけの秘密だった。 散々見世物にされたあと、たった一つだけ残されていた、自分だけの時間。 それまで奪われるとは思わなかった。 「じゃあ今日は、僕がいるところでやってよ」 息が止まった。 「‥‥嫌だ」 反射的に答えていた。 「でも、僕の言うことを聞く。嫌なのとやるかどうかは別なの、もう分かってるよね?」 彼は淡々と言った。 「そう約束したよね」 逃げたかった。 裸で踊ることよりも嫌だった。 あれはまだ、舞だと言い聞かせることができた。 けれど、これは違う。 「‥‥頼むから」 「駄目」 短い拒絶の言葉だった。 俺は立ち尽くし、彼は急かさなかった。 ただ、待っていた。 俺が自分から折れるのを。 やがて、俺は俯いて震える手を動かす。 詳しいことなど考えたくなかった。 ただ早く終われ、と願いながら、自分を鎮めるためのいつもの行為を始める。 彼は何もしてこない。 触れもしない、ただ見ているだけ。 それが耐え難かった。 「‥‥見るな」 「見せて貰わないと、ここでさせてる意味が無いじゃん」 声が震えた。 しかも最悪なことに、身体は覚えていた。 毎日の終わりに染み込んでしまった、あの甘く痺れるような安堵を。 恥ずかしい、嫌だ、見られたくない。 そう思っているのに、張り詰めていた感覚だけは少しずつほどけていく。 「‥‥っ」 俺は目を閉じた。 せめて彼の顔だけは見ないようにした。 けれど、視線の存在は消えない。 それまで俺に残されていた最後の逃げ場所まで、とうとう彼に見つけられてしまった。 そして何より恐ろしかったのは―― 耐え難い羞恥のただ中でも、身体だけはいつもよりも興奮し、快楽を貪っていた。 そして。 羞恥を煽る為に裸にする為の行為だった物が、一度性的な色を帯びてしまうと。 エスカレートするのは早かった。 最初は見られるだけだったのが、次は彼の物を握らされた。 性的にこちらを見ている、というよりも、単純に玩具にしている玩具として。 手の次は口、そして当然―― 「ちゃんと綺麗にして来たよね?」 そう言いながら、壁に手を付いた俺の尻の穴をじっくりと撫で回す。 「‥‥ああ」 「ふふ、偉い偉い。汚いのに入れるのとか嫌だし。アレも持ってきたよね?」 俺は、山羊の腸から作った避妊具を渡した。 山羊を捌いたときに使わない部分を再利用した物だ。 用意してこい、と言われた時、何をされるか分かり抗議をした‥‥けども。 結局、彼に逆らう事は出来なかった。 だからこそ、今こうなっているのだから。 彼はそれを受け取ると、満足そうに微笑んだ。 「やっぱりそのまま入れるとか嫌だしね、僕的には」 そう思っているなら、そのまま辞めてくれればいいのに。 彼の指が入り口を探り、そして宛がわれる。 「‥‥っ」 「力を入れるなよ、痛い思いしたいなら別だけど」 俺は息を吸って、ゆっくり吐き出した。 ゆっくりと、異物が入ってくる。 痛みに備えたのに、予想外の感覚にびくりと身体が跳ねた。 ぐにぐにと、異物感が蠢く。 自分の意志を無視して、下半身が跳ねた。 「おもしろい」 俺の反応を楽しみながら、彼は俺の中をかき乱す。 逃げ出したくなるような感覚。 身体の内側がぞわぞわと痺れるようだった。 「やめ‥‥て」 「なんで?辞める必要があるの?」 「頼む、から‥‥」 懇願は届かない。 何かに擦れる感覚がして、腰を逃がしたら、容赦なく追いかけられる。 それどころか、奥までねじ込まれた。 「ほら」 ぐり、と押し付けられ、そこから逃げようとする。 このままでは、と思っているのは、致命的な何かから逃れる為。 そして、抵抗空しく視界が白く弾けた。 身体の奥が震え、力が抜ける。 自分が達したのだと気付くのに時間がかかった。 「ふぅん、こうなるんだ」 彼は反応を弄ぶように、何度も繰り返す。 その度に、俺の身体が跳ねた。 快楽とも、苦痛とも言えない感覚に翻弄される。 ただ、俺を人形のように弄ぶ。 自分の物を挿入しているけれど、彼自身が性的な興奮を余りしていないのが分かってしまう。 逃げようとして壁に手を突き直すたび、爪が木板を削った。 羽根を毟った虫の反応を楽しむがごとく、俺が男に犯されて屈辱のまま果てる様子、その反応をただ愉しんでいた。 そして、そんな動きに翻弄され、何度も果てる自身に怒りとも呆れとも判別出来ない感情を抱く。 何回果てたかも分からない頃、彼はようやく満足したようで、避妊具の中に欲望を吐き出した。 「ふぅ」 そう言いながら、避妊具を投げ捨て、処理を押し付けてくる。 そして、そのまま納屋を出て行った。 俺は納屋に残される。 荒い呼吸を整えながら、俺は座り込む。 身体に残った感覚に、吐き気がした。 これで終わりじゃないんだろう。 今日みたいに、俺の身体を玩具にすることもあるだろう。 これが常態化して、恐らくこのままだと、どんどん壊れて。 こちらの事を何とも思ってないような相手に、次第に媚びるようになって‥‥都合よく扱われて。 だけど、何度も果てて汚れた床を見て。 もうその未来から逃れられない事を理解した。 逃げ出せるのならば、もうとっくに逃げ出してるんだから。