人は誰しも、役割というものを持っている。 それは家庭内での立ち位置であったり、仕事上の役職であったり、時と場合によって変化するものだ。 歳を取り、関わる人や集まりが増えるほどに、演じる役割も増えていく。 1996年、ロンドン。 ここに、ある13歳の女の子が居る。 同年代の他の子ども達の役割は、“娘”や、あるいは“姉”か“妹”くらいだろうか。 しかし彼女はそのどれでもなく、課せられたのはとても珍しいひとつの役割──“探偵の助手”だった。 「──いやぁ、今回はありがとうございました。おかげで本当に助かりましたよ」 応接間のソファに腰掛けた人の良さそうなその男は、そう言って深々と頭を下げた。 彼はロンドンに店を構える小さなパティスリーの主人。 そして、先日キュアット探偵事務所に助けを求めて現れた依頼人だった。 「見つけていただいた店員ですが、今は元気で働いてます。念のため病院にも行きましたけど、何事もなかったようで」 「……そうですか。それは何よりです」 彼の対面に座るのは、この事務所の主──には一見すると見えない、小柄な少女。 ややオーバーサイズの衣服は男物で揃えられているが、淡い色の長い髪は小さな背中を腰まで覆い隠している。 人形のように整った顔立ちはまだ幼さを残しているものの、落ち着き払った表情は年齢に不相応な知性をたたえていた。 彼女こそ、期待の新星と名高い若き名探偵──森亜るるかその人だった。 「今日はそのご報告と、改めてお礼をと思いまして」 依頼人の男はにこにこと笑いながら、脇に置いていた鞄から小さなかごを取り出してテーブルに置いた。 かごを覆っていた風呂敷を開けると、チョコレートの甘い香りがふわりと部屋に広がる。 「わぁ……」 「今朝焼いたばかりのエクレアです。彼の得意料理でね、どうしても届けて欲しいと……はは、お口に合うと良いですが」 「……ひとついただいても?」 「どうぞどうぞ!」 大人びた探偵の顔になんとも子供らしい表情が広がるのを見て、依頼人の男は心の底から嬉しそうに目を細める。 るるかは両手で持ったエクレアをリスのようにかじり、頬を緩ませて言った。 「……美味しいです」 「ああ良かった。あ、助手のお嬢さんもどうですか?」 「……えっ?」 そう言って依頼人が目を向けたのは、るるかの脇に控えていたもう一人の少女だ。 傍らの探偵とは対照的に女の子らしいワンピースに身を包んだ彼女は、るるか以上に緩んだ顔でエクレアを見つめていた。 まさか自分に話が振られるとは思っていなかったのだろう、少し驚いた様子で表情を引き締める。 「あ……ありがとうございます。後で事務所の皆と頂きますね」 「そうですか。ゆっくり召し上がってくださいね」 助手の少女──帆羽くれあは、かごを手に取ってにっこりと微笑んだ。 依頼人の男は特に気にする様子もなかったが、るるかはエクレアをもこもこと頬張りながら、何かを考え込むような顔でそれをじっと見つめていた。 「…………」 ───── 依頼人が去った後、彼が持参したエクレアはくれあの淹れた紅茶と共に、改めて事務所の面々へと振る舞われた。 とは言っても、所長は本部の方へ居るため、今この事務所に居る人間はるるかとくれあの二人だけ──あとは妖精たちが居るのみだ。 「シュ! このシュー生地、さくさくで美味しいでシュ!」 「本当、なかなかいけるわねぇ♡」 ふたりのおとも妖精であるシュシュタンとマシュタンは、小さな両手で抱えたエクレアを嬉しそうに頬張っている。 くれあは微笑ましげにそれを眺めながら、自身もひとつ手に取った。 「今度シュークリームも買ってきてあげるね。……私はやっぱり、エクレアが一番好きだけど♡」 彼女は満を持してエクレアにかぶりつき、頬を緩ませる。 隣のるるかは紅茶に口をつけながら、その横顔をじっと見つめていた。 「…………」 「んー♡ 美味しい〜!」 「……くれあ」 「んん? ……どうかしたの?」 「えっと……その」 るるかは少し遠慮がちに目を伏せ、口ごもって黙り込む。 くれあは紅茶を飲みながら、様子のおかしい相棒を不思議そうに見つめて次の言葉を待った。 やがてるるかは顔を上げると、言葉を選びながら口を開いた。 「くれあは……エクレアが好き、でしょう?」 「うん、大好物だよ」 「……ならどうして、さっき……勧められたときに、すぐ食べなかったのかな、って……」 「えっ? ああ……」 くれあは少し考えてから先ほどの依頼人とのやりとりに思い至り、頬を赤くしながら答えた。 「それは……お客さんの前だし。口を大きく開けるのが、恥ずかしくて」 「え? ……恥ずかしい? どうして?」 その返答は想定外だったのか、るるかは意外そうな顔で問いかける。 くれあはさらに赤くなった顔を伏せ、ぽつりと呟くように答えた。 「……だって……歯が」 「歯?」 きょとんとした顔で聞き直するるかを上目遣いに見つめつつ、くれあは人さし指で紅潮した頬を軽く押してみせた。 吊り上がった口角の端から、白い歯がちらりと覗く。 その歯並びは綺麗なものだったが、普通よりも長めで尖った犬歯が少し目についた。 「……ここ、尖ってて……吸血鬼みたいだから。あんまり見られたくないの」 「…………」 恥ずかしそうに口を閉じるくれあに対し、るるかはきょとんとした表情のまましばらく黙っていた。 しかしやがて、その顔は少しずつ綻んでいく。 「……ふふっ。なんだ、そうだったの」 るるかはどこか安心したように優しく微笑み、くれあの頬に手をそっと添えて言った。 「別に、恥ずかしくないのに」 「え……?」 突然のことに驚いて硬直するくれあの顔をじっと見つめ、無邪気に笑いながら続ける。 「……ワンちゃんみたいで、かわいい」 「……!」 くれあの口は思わず言葉を失い、見開かれた目には光がきらめく。 ふたりはしばらく見つめあっていたが、やがて耐えきれなくなったのかくれあの方が視線を逸らした。 テーブルの向かいで妖精たちがひそひそと何事か話し合っているのにも気付かず、真っ赤な顔を伏せてもじもじと口ごもる。 「あ、そ、そう……かな……」 「……? うん。私は好き」 「……あぅ……」 くれあは困ったような表情で黙り込み、るるかはそれを不思議そうに見つめた。 その顔を横目で見ながら、くれあは彼女の気持ちに想いを巡らせる。 おそらくるるかが気にしていたのは、くれあが彼女に気を遣っているのではないか……ということだろう。 くれあはキュアット探偵事務所に所属しているが、入所のための探偵テストに合格したわけではない。 所長の花咲まふるに将来性を買われ、同時にテストを受けて探偵となったるるかの助手として入所を許された例外的な立場だった。 同期であり同い年の、先に夢を叶えた友人の一歩後ろを着いていく。 そんな微妙な立ち位置の“役割”に、くれあが引け目を感じているのではないか──先ほどの不安そうな態度の理由は、きっとそんなところだ。 「……ふふ。ありがとう、るるか」 くれあは顔を上げて、まだ火照っている頬に微笑みを浮かべる。 ただしそれは、いつも彼女が見せている柔和で上品な笑顔ではなく──口元をにーっと歪めて歯を見せつける、どこか子供っぽい笑顔だった。 長く尖った犬歯が露わになり、可憐な少女の顔に少しだけ獰猛な印象が加わる。 「そう言ってくれるなら、るるかにだけは見せても良いかな」 「……うん」 るるかもわずかに頬を紅潮させながら、笑顔でそれに答えた。 その日以降も、くれあは人前で大きく口を開けることはなかったし、歯を見せて笑うことは滅多になかった。 むしろあどけない少女だった彼女は、より上品に、淑やかな女性に育っていった。 ただ、一人だけ──彼女が助手を務める探偵の前でだけ、時折あの子供っぽい笑顔を見せていることは……二人と妖精たちしか、知るものは居ない。 ────── 時が経ち、環境や立場が変わっていくのに合わせ、人が持つ役割も徐々に変わっていく。 それが同じ人間相手であっても、同僚が友人に変わるように──あるいは友人が敵に変わるように、人と人の関係は常に移り変わっていくものだ。 1998年、日本。 まことみらい市にあるキュアット探偵事務所の支部に派遣されてきたるるかとくれあの関係も、2年前とは少し変わっていた。 探偵と、その助手──肩書きこそ変わらないものの、二人の間はより私的なものになっていた。 日本に渡り、そこにある“真の地”を探す──そしてその過程で怪盗団ファントムと衝突する使命を負ったのは、プリキュアとして戦う力を持つるるかのみだ。 くれあは彼女が個人的に雇い入れるという形で受け入れられたに過ぎない。 2年という月日を経ても未だに探偵という夢を叶えられない彼女が、本部でテストを受ける機会を逸してまでるるかに同行したのは何故なのか── ──その行動の真意は、くれあ本人にしかわからない。 「……ふう。ロンドンに提出する報告書、まとめ終わったよ」 くれあはペンを机に置くと、書き上げたばかりの書類を手に取ってとんとんと端を揃えた。 少し離れた机で資料や地図の山と向き合っていたるるかは、顔を上げて彼女に笑いかける。 「いつもありがとう、くれあ」 「ふふ、どういたしまして。はい、マシュタンお願いね」 「まかせてちょうだい!」 マシュタンは受け取った書類を丁寧に畳んで封筒に仕舞うと、ハートがあしらわれた可愛らしいシーリングスタンプを重そうに持ち上げた。 「……マシュっ!!」 掛け声とともにスタンプを振り下ろし、封筒に押し付ける。 するとスタンプの隙間から光が漏れ出し、緑色の封蝋になって固まった。 これは妖精の力を使って作られた特殊なスタンプで、こうしてシーリングに使うことでとある妖精を呼び寄せる力を持っている。 程なくして事務所の扉がノックされ、彼は気の抜ける鳴き声と共に現れた。 「ヤギメ〜ル!」 「いつもお疲れ様でシュ。この封筒をロンドンまでお願いしまシュ」 「はいどうも。それでは……ヤギメ〜ル」 ヤギメールさんは封筒を受け取って鞄に入れると、事務所から出て行った。 それを見送ると、るるかは本を閉じて軽く伸びをした。 「んん……さて、今日はそろそろ終わりにしましょうか」 「うん、そうだね。みんなお疲れ様」 「シュシュ〜」 「お疲れ様ね」 主であるるるかが声をかけると、事務所の面々はそれぞれ店仕舞いを始める。 シュシュタンとマシュタンが共用の作業机を整理しているのを横目で見ながら、くれあは席を立ってるるかに話しかけた。 「ねぇ、るるか」 「ん、なに?」 「……今日は先にお風呂入っても良い?」 「……!」 特に何と言うこともない会話の中で、るるかは一瞬言葉に詰まる。 彼女の視線の先で、くれあはいつものように笑顔を浮かべていた。 しかしそれは、普段の上品な微笑みではない。 口角をにーっと吊り上げて白い歯を剥き出しにした、いたずらっぽい笑顔だった。 獣の牙を思わせる長く尖った犬歯が、桜色の唇の下できらりと光る。 「……うん。いいよ」 「ありがとう。ご飯作ってくるね」 くれあは口を閉じて普段通りの表情に戻ると、満足そうににっこりと笑った。 そしてどこか上機嫌な様子で、奥の台所へと歩いていく。 「ましゅ……」 大きな耳だけを向けてそのやり取りを聞いていたマシュタンは、手を止めてわずかに目を細めた。 「シュ? どうかしたんでシュか?」 「別に、なんでもないわ。……それよりシュシュタン? 今日は一緒に寝ない? たまには夜更かししてゲームでもしましょ♡」 「え! いいんでシュ!? 今日は1時間以上遊んでもいいんでシュ!?」 「良いのよ……♡ お菓子も持ち寄りましょ!」 「やったでシュ! マシュタンとパジャマパーティーでシュ!」 シュシュタンは嬉しそうに跳び上がると、そのままふわふわと進んでマシュタンの尻尾の付け根に巻き付いた。 いつもくれあの手首に巻き付いている彼女にとっては、それが親愛の証なのだろう。 マシュタンはシュシュタンを尻尾に巻き付けたまま、ホホホと笑いながら飛び去って行く。 「……ふぅ」 一人書斎に残されたるるかは、マシュタンの背中を見送りながら小さなため息をついた。 そして右手を顔の前にかざし、しばらくの間──じっとその指先を見つめていた。 ────── 「……入って」 遠慮がちなノックの音に対してるるかがそう答えると、薄く開いたドアの隙間から滑り込むようにして、くれあは彼女の自室に足を踏み入れた。 「…………」 ドアをノックした時も、部屋に入ってきた後も、くれあは一言も喋らなかった。 朗らかでよく喋る普段の彼女とはまるで別人のように、ただ熱っぽい視線をるるかに向けたまま、黙って次の言葉を待っている。 「こっちに来て」 るるかはベッドに腰掛けたまま、淡々とした調子で言った。 その表情は柔らかいが、どこか素っ気ない命令口調はあまり二人の関係には似つかわしくない。 しかしくれあはそれを気にする様子もなく、後ろ手に部屋の鍵を閉めてからるるかの方へと歩み寄る。 「座って」 部屋には椅子がひとつ用意されていたし、るるかと並んでベッドに腰掛けることもできただろう。 しかしくれあは、迷うことなくその場で床に座り込んだ。 背を丸めて両手を床につき、目の前のるるかを上目遣いに見上げる。 るるかはそんな彼女をしばらくじっと見つめていたが、やがて優しく微笑むと、膝の上に置いていた両手を軽く広げた。 「……おいで」 くれあはその言葉を待っていたというように、素早く身を起こしてるるかの膝に飛びついた。 その拍子に、袖を通さず羽織っていた水色のカーディガンが床に落ちる。 彼女がその下に着ているのは短めのネグリジェだけで、覆うものが無くなった白い肩と首筋が露わになる。 るるかは膝の上に乗り上がってきた彼女の頭を左手で優しく撫でながら、右手は頬や喉元をくすぐるように沿わせた。 少し緊張した面持ちだったくれあの顔はみるみるうちにほぐれ、うっとりとした表情でされるがままになっている。 ゆるゆるに緩んだ口からは笑いとも声ともつかない音が漏れ、同時に長く尖った犬歯がちらちらと覗く。 「ふふ……いいこ、いいこ」 るるかは楽しそうにくれあの頭を撫で回していたが、やがて右手を彼女の喉元から離すと、軽く指を伸ばして目の前に差し出した。 するとくれあは自然な動きで舌を出し、その指先をぺろぺろと舐め始める。 最初はまるでアイスを舐めるように、爪や指の腹に軽く舌を這わせ、その次はキャンディを味わうように、指先を口に含んで舌の上でゆっくりと転がす。 そして最後はエクレアにかぶりつく時のように、大きく口を開けて──るるかの人差し指と中指を根元まで口に頬張り、甘噛みしながら上目遣いに彼女の顔を見上げた。 「……っ」 るるかは舌が指先を這うぞわぞわとした感覚と、時折犬歯の先が肌を突くかすかな痛みを堪能しながら、思わず身を震わせた。 空いた左手をくれあの顎に添えて少し持ち上げ、彼女の蕩けた顔を覗き込む。 「口、開けて」 命令に従い素直に開かれた口から、唾液でどろどろになった指をゆっくりと引き抜く。 その有様を見て流石に羞恥を感じたのか、彼女の頬は先ほどよりも紅潮している。 るるかはその頬を指で軽く引っ張り、露わになった長い犬歯をじっと見つめた。 目を細め、昼間話していた時と同じように優しく微笑む。 「……かわいい。大好きよ、くれあ」 くれあの特徴的な金色の瞳がくらくらと揺れ、開いたままの口が何かを言いたげに震える。 だが突然ささやかれた愛に対していくら返事をしたくても、彼女は今言葉を発することはできない。 まだ、口を閉じて良いとは言われていないのだから。 「……ぁ」 くれあの喉から漏れた小さな声を聞いて、るるかは満足そうにふっと笑った。 「舌、出して」 差し出されたそれを口に含むようにして、るるかはゆっくりと唇を重ねる。 先程までのどこか嗜虐的な態度とは裏腹に、彼女は優しく緩やかに舌を動かした。 いたわり、慈しむように──時間をかけて丁寧に口内を愛撫する。 そうしているうちに、くれあは少しずつ身を起こし、るるかの膝の上に乗り上がっていった。 唇の隙間から吐息が漏れる度、るるかの頭は彼女に押される形で少しずつ後ろに下がっていく。 そしてくれあの膝がベッドの上に乗り上げた時、るるかは彼女から顔を離して一度息をついた。 尖った歯の先から唾液の糸が繋がる口で、最後の命令をそっとささやく。 「……来て」 くれあの両手がるるかの肩を掴み、乱暴にベッドに押し倒す。 ついさっきまでのそれとはかけ離れた激しいキスと共に、くれあはるるかの華奢な体をベッドに押さえつけた。 しかし不意に、その手足から力が抜ける。 「……──っ!!」 脱力した身体がるるかにのしかかり、二人の汗ばんだ肌が密着する。 るるかの右手はその間に挟まり、くれあの下腹部へと伸びていた。 その指先から滴る粘液は、彼女がつけた唾液だけではないだろう。 それがぴちゃぴちゃと音を立てる度に、くれあの細い肢体はるるかの上で痙攣と弛緩を繰り返した。 それに対して手を緩めることも、まして止めることもなく。 るるかは愛おしそうにくれあをなぶり続ける。 「……好き。大好き……」 くれあは耳元でささやかれ続けるその言葉に嬌声で答えながら、るるかの体を折れそうなほど強く抱き締めた。 そして絶え間なく与えられる快楽に耐えようとするかのように、彼女の首筋に牙を突き立てる。 「んっ……ふふ……」 息苦しさと共に小さく鋭い痛みが走ると、るるかは初めて恍惚とした表情を浮かべた。 首元を甘噛みしているくれあの頭を左手で優しく撫で、一方右手ではさらに激しく責め立てる。 彼女の喉の奥から悲鳴にも似た声が漏れ、るるかはそれに被せるようにして言った。 「……我慢したらだめ」 その言葉に図星を突かれたのか、くれあの肩がびくっと跳ねる。 赤くなった耳に口を近付け、るるかは彼女の外れかかった箍をくすぐるようにそっとささやく。 「いいよ。……痕が残っても」 「……っ!!」 同時に、奥まで入り込んだ右手の指先が彼女の一番脆い部分をそっと突き崩し──残っていたなけなしの理性にとどめを刺す。 くれあはるるかの体を強く抱き締め、再びその首筋に噛みついた。 ただし今度は甘噛みではなく、2本の鋭い犬歯が肌の奥まで食い込んでいく。 「ん……っ」 鋭い痛みが首に走り、るるかの喉から思わず苦しそうな声が漏れる。 くれあはそれでも力を緩めず、しばらくの間脈打つように身体を震わせていた。 るるかはそれを全身で感じながら、満たされた表情で彼女の頭を撫でる。 「……そう。良い子ね……」 やがてくれあの腕から力が抜けると、るるかはぐったりと弛緩した彼女の体を優しくベッドに横たえて立ち上がった。 腹から股間にかけてびっしょりと湿ったパジャマと下着を脱ぎ、隅に置かれていた洗濯かごに入れる。 「……あ」 その時、パジャマの襟に小さな赤い染みができていることにるるかは気付いた。 胸のあたりを見ると、首の方から血の雫がゆっくりと垂れてきている。 彼女の首筋にはくっきりと歯型が残されており、なかでも犬歯が当たっていた2か所は血の滴る穴が開いていた。 るるかはどこか嬉しそうな表情で血を拭うと、ベッドへ戻ってくれあの隣に座り込んだ。 すると彼女は小さな声で、ぽつりと呟く。 「……ごめんね……」 くれあは胸を上下させて息をしながら、今にも泣き出しそうな顔でるるかを見上げていた。 相手に噛み付かなければ絶頂できない悪癖が彼女にあることは、既にふたりともよく知っている。 しかしそのせいで血が流れたのは、今夜が初めてのことだった。 「…………」 大丈夫、気にしていない──そう声をかけて慰めるのは簡単なことだ。 しかしるるかはあえて何も言わずに、微笑みながらくれあをじっと見つめた。 今の彼女の役割は、傷付いた相手を言葉で優しく慰めてあげるような、“探偵”でも……“親友”でもないからだ。 代わりに、るるかはくれあの身体に覆い被さると──彼女の口の端についていた血を、そっと舐め取った。 ────── 人が持つ役割は、成長と共に絶えず変化していく。 関わる相手が増えるたびに役割も増えていき、一方で失われていく役割もある。 しかしそんな人生のなかで、いつまでも変わらない役割もあるものだ。 1999年、日本。 まことみらい市のキュアット探偵事務所に勤める帆羽くれあに課せられた役割は、この数ヶ月の間に大きく変化した。 彼女はついに探偵となり、同時にプリキュアとなった。 事務所ではふたりの小さな先輩の背中を追う後輩でもあり、もうひとつの勤め先ではパティシエでもある。 そして彼女は──“探偵の助手”ではなくなった。 「読み終わった……! ついに読み終わったよー、くれあさん……!」 事務所のソファに腰掛けたくれあの先輩──小林みくるは、興奮した様子でそう言った。 その両手に掲げられている本は、探偵エリーの事件簿シリーズの最新刊、エクレアの秘密。 その愛読者のひとりであるくれあは、向かいのソファから身を乗り出して目を輝かせる。 「……どうだった!?」 「……すっごく面白かった……!」 「先の展開、聞かなくて良かったでしょ!?」 みくるのツインテールが上下に激しく揺れる。 先に読了していたくれあに軽い気持ちでネタバレを頼んだことへの後悔、そしてそれをきっぱりと拒絶してくれた彼女への感謝……それらがないまぜになった感情が、その無言の肯定によく現れていた。 「くれあさんはどの時点でわかったんですか? 犯人……!」 「そうね、エリーが猫と格闘して川に落ちたあたりからかな」 「えっ、その時点でもう!? 私はエクレアが3回焼き上がったあたりでようやくって感じで〜」 「……でも、その先のどんでん返しは最後まで読めなかったの。まさか亀がね……」 「そう! それ! ここで最初の伏線が活きるんだ〜!って!」 「あそこは感動するよね〜! ……ふふ、やっと話せて嬉しいなぁ」 「あはは、確かに。他のみんなはあんまり読まないからなぁ、探偵小説。エリザさんは原作者だし……」 「シュシュタンはまだ2巻を読んでる所なのよね……シュシュになってる間は読めなかったから」 シュシュタンが珍しくくれあの手首から離れているのは、きっとネタバレを聞きたくなかったからなのだろう。 彼女は代わりにマシュタンの尻尾に巻き付き、今は2階でジェット先輩の手伝いをしている。 そしてみくるの言う探偵小説を読まない“他のみんな”──明智あんなと森亜るるかは、少し離れた場所で何やら話し込んでいた。 「……探偵にとって大切なのは、何よりも観察力。あなたは経験や知識こそ足りないけど、直感と観察力だけは生まれつき優れてる。だから、磨くならそこ」 「なんだか褒められてるような貶されてるような……喜んで良いのかな?」 「そういう時は喜んでおきなさい」 「そっか! わーい!」 るるかは無邪気に喜ぶあんなを無表情な顔で眺めながら、くれあ特製のブルーベリーアイスを口に運んだ。 それは元々あんなの為に用意されたものだったが、探偵としての実力を伸ばしたい彼女が、先輩であるるるかの教えを請うための代償として半分差し出したのだった。 「でも、観察力って具体的にどう伸ばせば良いものなんですか?」 「普段から、とにかく色んなものに意識して目を配る。ただ見るだけじゃなくて、それが何なのか、いつから、どうしてそこにあるのかを考える」 「なるほど。……うう、だけど何もかもじっくり観察してたら目が回っちゃいそう……」 「それなら、最初は見るものを絞って、慣れてきたら広げていけばいい。あなたの場合は……まず人から」 「人……?」 「服装や立ち振る舞い、行動の癖から、その人の色んなことがわかる。職業とか出身地、経済状況も」 「あ、みくるもそんなこと言ってた。靴がどうとか……」 「それ以外にも、見るべき所は色々ある。……そうね、試しに私を観察してみたら?」 「えっ? ……るるかさんを?」 るるかは空になった皿とスプーンをテーブルに置き、椅子から立ち上がってあんなの前に歩み寄った。 アイス0.5個でそこまで付き合ってくれるとは思っていなかったのか、あんなは少し驚いた様子でるるかを見上げる。 「私のことはある程度知ってるはず。でもあなたが知らないこともまだたくさんある。私を観察して、それを何かひとつ見つけ出してみなさい。……もちろん、ミラールーペを使うのは禁止」 「えー、いきなり難しいなぁ……でも、私も力をつけなきゃだし。よーし、やってみます!」 勢い込んで立ち上がるあんなを見て、るるかはほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。 あんなはるるかの周りをゆっくりと回りながら、言われた通りその服装や体に目を配る。 るるかはその間特に恥ずかしがることもなく、自然体のままぼんやりと佇んでいた。 「……どう? 何かわかった?」 「う、えーっと……び、美人ですねぇ……?」 「今更気が付いたの? もっと真面目にやって」 「あ、はい……」 眉ひとつ動かさずにそう返され、あんなは肩を落としてしょげながら観察に戻る。 そうしてしばらく続けているうちに、彼女はふと立ち止まって視線を留めた。 「……あ。そこ、首の付け根のところ……小さい傷痕がある」 「……!」 「穴みたいな痕がふたつ並んでて……これは……動物に噛まれた痕……?」 「……へぇ」 るるかは口角を吊り上げ、純粋な驚きと嬉しさの入り混じった目であんなを見つめた。 「こんなに目立たない傷によく気付いたわね。噛まれた痕という推理も当たり。あなた、やっぱり見所がある」 「え、やった! はなまるうれしい!」 珍しく惜しみのない称賛を贈るるるかに対し、あんなは無邪気に喜んでみせる。 しかし首という致命的な位置に残された傷痕の存在に不穏なものを感じたのか、その表情はすぐに陰ってしまった。 「あ……でも、ごめんなさい。怖い思い出ですよね、そんなところを噛まれるなんて……」 「……それははずれ。別に触れられたくない傷じゃないから、安心して」 「え、そうなんですか?」 「ええ。……これは、昔犬に噛まれたの」 るるかはブラウスの襟を少し引き、首をかしげて傷痕をよく見えるようにしながら言った。 「犬……飼い犬ですか?」 「そう。よくなついてて、とてもいい子なの。じゃれついて甘噛みしてきた時に、少し加減を間違ってつけちゃった傷。だから全然痛くないし、怖くもなかった」 彼女は傷痕を愛おしそうに指先でなぞり、優しく微笑んだ。 普段はあまり見ることのない先輩の表情に、あんなは少し息を呑む。 「……むしろ、幸せな思い出なの。この傷を触ると、いつでもかわいいあの子の顔を思い出せるから」 「へぇー……なんか良いですね。今はロンドンに居るんですか?」 「さぁ? そこまでは教えられないわ。あの子のかわいさは私だけのもの」 「えー! 良いなー、私も撫でたりしたいなー、るるかさんの犬。 ……きっとはなまるかわいいんだろうなー」 羨ましがるあんなを見てくすくすと笑いながら、るるかは振り返ってくれあの方へ視線を向けた。 彼女もちょうど振り返り、るるかに抗議するような目を向けてじっとりと睨んでいる。 しかしその口元は──にーっと口角を吊り上げて歯を見せつける、どこか子供っぽい印象の笑顔を浮かべていた。 るるかは嬉しそうに目を細め、にっこりと笑ってそれに返す。 そしてふと右手を持ち上げると、その指先をじっと見つめた。 「……ん? なんで爪を気にしてるんですか? るるかさん」 「……あなた本当に見所がある。その鋭い直感は優れた資質ね」 「え! ……えへへ、そこまで言われると流石に照れますよ〜」 「そのうち、知らないほうが良いことにまで気が付いちゃいそう」 「……え? ……それ喜んで良いんですか?」 「喜んでおきなさい」 「わーい!」 終わり