カタリナ・イーネの本性――とにかくちやほやされたいがために全力を尽くして善行を働く――を知れば、多くの人はこう考える。 カタリナは、たとえばクリストのような天然で人に讃えられる性質を持つタイプの人間に腹の底から嫉妬するのではないかと。 嫉妬心で聖女の仮面が剥がれ、その顔面が歪むのではないかと。 だが、結論から言えばそれは完全な誤り、全くの的外れである。 なぜなら彼女が渇望するのは自分がちやほやされることであり――他の誰かより目立つことでも、他の誰かよりちやほやされることでもないからだ。 では、他の誰かがカタリナが本来受けるべき称賛を奪う形で讃えられていたらどうか? カタリナはこう考える。私のセルフプロモーションが足りていなかった、と。 そもそもちやほやされるためだけに使い魔の監視網を使って最適なタイミングを測り、 日夜練習している聖女らしい振る舞いと言葉遣いで、独自の魔術と自作の薬を使って奇跡を演出し、 その様子を使い魔のサクラに広めさせる、といった努力を怠らない彼女にとって、 評判とは善行を成せば自然と上がるものではなく、演出してアピールして話題として広めなければ上がらないものなのである。 ゆえに、自分の実績を奪われて他人の評判に利用されるのは、理不尽ではなく自分の努力不足。怒るべきことではなく恥ずべきことなのだ。 では、そんなカタリナにとって善行を尽くしながらもその称賛がクリストに流れてしまうイザベラのことはどう映るのか? 称賛される努力を怠る姿に怒りを覚えるのか? 否、そこまで節穴ではない。自分がちやほやされるという目的のために、常に使い魔の監視網で他人を観察している彼女である。 当然、イザベラが称賛や名誉を強く求めていないことも知っている。ゆえにあえて称賛される努力をカットし、その分を善行に回しているのだと解釈している。 だからこそ、カタリナにはイザベラが理解できない。善行を働いておいて称賛どころかお礼さえ求めないだなんて、商品を売ってお代を求めないようなものだからだ。 それも一度や二度、あるいは友達だからとかでもなく、常に。彼女は何のために人を助けているのだろう。カタリナにとっては大きな疑問だ。 それで言うなら、イザベラの功績を奪ってしまっていることに罪悪感を覚えている、クリストの方がまだ理解できる。 と言っても、自分自身の功績であっても「勇者」と称えられることは避けたがるという部分は全く理解できないのだが。 だが、もしもそんなカタリナにとって嫉妬や怒りに足ることがあったなら、その時こそ表情が歪むのではないか? これもない。ありえない。なぜなら彼女にとって表情とは感情の発露ではなく、見せるものだからである――すなわち演出のひとつだ。 彼女が怒りに拳を震わせ、表情を歪めるのは無辜の人々が傷つけられた時である。 なぜか?当然、無辜の人々が傷つけられたことに腹を立てる聖女は、皆から好かれるからである。 日夜聖女らしい振る舞い、表情の鍛錬を怠らない彼女は、自身の表情を完全に支配下に置いている。 どころか視線や手先足先の癖、声の調子、果ては顔の紅潮や青ざめ、発汗さえも思いのままだ。当然、いつでもどこでも涙を流せる。 感情が無いわけでも薄いわけでもない。感情のコントロールに長けているわけでもない。 感情と関係なく自身の表情を自在に操れるのだ。乱暴に言ってしまえばポーカーフェイスの達人である。 もしもカタリナが生きる場所が舞台であったなら――伝説的な女優として讃えられたかもしれない。 それこそ、彼女が求めて止まない「ちやほや」も望むがままだっただろう。 だが、彼女は薬草魔女の一族として生まれ、偽聖女の道を選んだ。 あるいはそう。台本を演じる女優ではなく自らの理想を演じる偽聖女の道を選んだからこそ、ここまで徹底的に努力出来ているのかもしれない。 偽聖女カタリナ・イーネ。聖女と呼ぶには利己的過ぎる。俗物と呼ぶにはストイック過ぎる。 その本性は単純だからこそ、全容を捉えるのが難しい。